映画「タイトル、拒絶」を観た。
紳士淑女が決して表に出さない裏の顔がある。性衝動と暴力衝動だ。聖書にこう書かれている「『汝姦淫するなかれ』と言われているが、私はあなた方に言う。情欲を抱いて女を見る者は、心の中で既に姦淫している」(マタイによる福音書第5章)。心の中で云々はともかく、聖書が書かれた紀元1~2世紀頃には既に姦淫が罪だと考えられていたことがわかる。
聖書には姦淫についてもうひとつの興味深い記述がある。ヨハネによる福音書第8章には次のような一節がある。───イエスがオリブ山で話しているときにパリサイ人や律法学者が女を連れてきて「この女は姦淫をした。モーゼの律法にはこういう女は石で打ち殺せと書かれてある。あなたはどう思うか」とイエスに聞くと、イエスは「あなた方の中で罪のない者がまずこの女に石を投げつけるがいい」と答えた。石を投げつける者はおらず、女を残してみんな去っていった。そしてイエスは女に「私もあなたを罰しない。家に帰りなさい」と言った。
姦淫は陰茎を膣に挿入する行為のことだから、本番NGのデリヘル嬢の商売は厳密に言えば姦淫に当たらない。売春にも当たらない。従って売春防止法に抵触しないから罰せられることもない。雇っている側は本番NGを客も含めて厳格に周知することで違法スレスレの商売を成り立たせている。だから本作品の女の子たちもかろうじて捕まらずに済んでいるのだ。
紳士淑女の対極にある登場人物たちは、飾りを捨てて本音をぶつけ合う。彼らに共通する思いは、自分たちの仕事は社会から必要とされているが、世間の評価は最低だということである。中には最低の自分たちを買う客の容貌や振る舞いを嗤う者もいる。目くそ鼻くそを笑うという喩えみたいで見苦しいが、折れそうになる心をなんとか保つのに必死なのだ。中には恨みや妬みや憎悪や軽蔑をノートに書きつけることで精神的な立場を別の世界に置こうとする者もいる。歳だからと割り切って淡々と仕事をこなす者もいる。
そういう中に社会の底辺を経験していない平凡な女の子が入ったらどう変わるのか、きれいごとを排除して現実的に想定したのが、伊藤沙莉演じるカノウである。デリヘルの面接にリクルートスーツで来た場面は、本人と状況のギャップに笑える。
ぬるま湯の中で生きてきたカノウにとって、原始的な仕事で大金を稼ぐ彼女たちや脅しと暴力で管理する店長がとても怖いが、就職活動を悉く失敗した彼女には行き場所がない。取り敢えずはここにいるしかないのだ。そしてデリヘル嬢たちや店長の振る舞いを見る。異常な世界だが、これも現実だ。
ナンバーワンのマヒルを演じた恒松祐里がとてもいい。ずっと笑っている姿が逆にずっと泣いているように見えた。マヒルは泣くかわりに笑うのだ。誰も信じない。何も信じない。少しだけ信じられるものがあるとしたら、それはお金だ。
妹役のモトーラ世理奈との会話でマヒルの悲しみが分かる。クズの子供を妊娠。病院に行く。そして妹に会い、無心されるままにカネを渡す。実は私は人殺しでもう二人殺していると言ってみる。嘘だよとすぐに否定しながら笑う姿に、報われない女の哀しみがある。妹は姉に何が起きたかを悟るが、慰めたりはしない。「ご愁傷さま」と言って去っていく。
特殊な世界を描いた作品に見えるが、実はそんなことはない。紳士ヅラ、淑女ヅラしている人々も、一枚仮面を剥がしたら似たようなものだ。性欲があり物欲がある。欲望と打算しかないみたいな世界でも、純粋に男に惚れる女もいる。いいことも悪いこともひっくるめて、世界の縮図のようなデリヘル事務所。面白い作品だった。