三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」

2022年05月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」を観た。
ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス|映画|マーベル公式

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス|映画|マーベル公式

2022年5月4日(水・祝)劇場公開『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』公式サイト。『ドクター・ストレンジ』続編作品の予告動画や最新情報を紹介。無...

マーベル公式

 ベネディクト・カンバーバッチは繊細な演技のできる名優である。アカデミー賞にノミネートされた「パワー・オブ・ザ・ドッグ」では高い演技力を発揮していたが、あまり目立たなかった映画「クーリエ:最高機密の運び屋」の演技も凄かった。このふたつの作品ですっかり気に入ってしまった。
 前作の「ドクター・ストレンジ」はまあまあ面白かったし、引き続きカンバーバッチ主演ということで鑑賞することにした。

 期待外れというほどではなかったが、どこまでいってもMARVELであり、そしてディズニーだ。つまり家族第一主義で恋愛至上主義だ。そこには子供の保護者に対する配慮があると思うが、当方はこういう映画は逆に子供に悪影響を及ぼすと考えている。

 世界の問題は悪役が起こしているという設定は、必然的に勧善懲悪の二元論に行き着く。悪役さえ倒せば平和を取り戻せるという単純な理屈は子供たちに受け入れられやすい。
 もちろん実際は世界の問題は人間が引き起こしている。現実は複雑だ。子供たちの多くはそれを感じている。大人が思う以上に子供たちはいろんなことを理解しているのだ。しかし複雑さを言葉で表現できない。その結果、二元論に飛びついてしまう子供もいる。
 善か悪かの二元論は魅力的である。それ以上考えなくていい。実は子供よりも大人の方が二元論に陥りやすい。プーチンが悪でゼレンスキーが善だと思っている人は多いと思う。実際のウクライナ戦争の状況と経緯はそんなに単純ではない。

 二元論はともかく、本作品は家族第一主義が悪の原因となるところがユニークだ。しかし殺せる敵を殺さないというドクター・ストレンジのドクターらしさが封じられてしまった。パラレルワールドは使い古し感があるし、観ていてワクワク感がない。カンバーバッチは好きだが、このシリーズは次の続編があっても多分観ないと思う。

映画「死刑にいたる病」

2022年05月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「死刑にいたる病」を観た。
映画『死刑にいたる病』オフィシャルサイト

映画『死刑にいたる病』オフィシャルサイト

史上最悪の連続殺人鬼(シリアルキラー)からの依頼は、たった1件の冤罪証明だった―/阿部サダヲ 岡田健史/監督:白石和彌/脚本:高田亮

映画『死刑にいたる病』オフィシャルサイト

 阿部サダヲを見ると大島渚監督の映画「愛のコリーダ」を思い出し、どうしてこんな芸名を付けたのだろうと訝る。しかしすぐに忘れてしまい、次に阿部サダヲを見ると、また同じことを思うのである。因果な名前だが、忘れ難い名前でもある。
 名前といえば岡田健史が演じた筧井雅也の名字は珍しい。普通、筧は一文字で「かけい」と読む。更に井をつけると「かけいい」になる訳で、それを強引に「かけい」と読ませる。こんな名字があるのかという疑問がずっと頭から消えない。

 さて本作品はそのタイトルでほとんどの人が、哲学者のキルケゴールの著書「死に至る病」を思い浮かべると思う。そしてルサンチマンという概念を思い出す。犯人はどのような自尊心があり、どのようなルサンチマンによって犯行を犯したのか。
 テーマが壮大な割には、物語の牽引力が弱い気がした。狂言回しが阿部サダヲ演じる榛原大和ではなく、岡田健史の筧井雅也(マーくん)にしてしまったから、榛原のルサンチマンを掘り下げるのではなく、榛原の心の闇に触れたという体になってしまった。
 起訴されたうちの9番目の殺人事件の犯人探しという一点だけでは、映画に対する興味を持続するのは難しい。榛原の告白は説明的に過ぎて、実感が伴わない。榛原のルサンチマンが伝わってこないのだ。
 ルサンチマンは怒りであり、憎悪である。しかしシリアルキラーの動機は概ね快楽殺人だ。明らかに矛盾している。本作品にルサンチマンは無関係なのか。キルケゴールの死に至る病とは絶望のことだ。人は未来に何の希望も持てなくなると容易に死を選ぶ。
 太宰治は、夏に着る着物をもらったから、夏まで生きていようと思った、と書いた。もらった着物をその季節に着るのは、ひとつの希望である。何かを希望と思うことが希望なのだ。明日の晩の会食が楽しみであれば、人は簡単には死なない。未来の予定を楽しみに思わないことを絶望と呼ぶ。

 どうやら、本作品はキルケゴールをだしに使って、快楽殺人者の異常心理を死刑に至る病として描いているようだ。榛原の様子は希望に満ちている。死に至る病が絶望なら、死刑に至る病は希望なのだ。榛原の希望は死刑台にある。
 しかしたったひとつ、やり残したことがある。それはマーくんを操ることだ。それが榛原の希望であり、本作品で紹介されたのは死刑に至る病のひとつの事例なのだ。そう考えるとようやく、タイトルと中身の整合性が取れる。随分ややこしい話だ。

 榛原は恐らく躁病だ。鬱病ばかりが問題にされる現代だが、躁病の患者もたしかにいる。そして積極的に社会に出るから病気だと思われていない。アベシンゾウの自己愛性人格障害は有名だが、プーチンもトランプも、病気としか思えない非常識ぶりである。
 榛原は一般庶民だから死刑になるが、政治家だったり大金持ちだったりすると、他人を追い詰めて人生を台無しにしても罪に問われない。国民を不幸にしても逮捕されないのだ。榛原の存在をそういう国家主義の連中の象徴として見るなら、更に奥深い作品となる。考えるほどに難解さが増してくる不思議な作品だ。