映画「Mothering Sunday」(邦題「帰らない日曜日」)を観た。
孤児院育ちのメイドである主人公ジェイン・フェアチャイルドは「私もメイドの子供かもしれない」と言う。言っている相手は名家の子息であるポール・シェリンガムである。ふたりの格差はこのシーンに集約されている。
ジェインは両親の名前さえわからない根無し草だ。しかし恋の相手は家柄正しきエスタブリッシュメントである。釣り合う相手ではない。ポールは親から決められた結婚を当然として、ジェインを親友だと呼ぶ。ジェインにとっては悲恋だが、ポールにとっては楽しい思い出だ。しかしポールも単なる能天気なお坊ちゃんではない。笑顔で「グッバイ、ジェイン」と言った最期の言葉の真の意味は、誰にもわからない。
ジェインが黒人青年ドナルドに語った、作家になった三つのきっかけのうち、ふたつはジェインの口から語られる。生まれてきたこと、それにタイプライターをもらったことだ。三つ目は秘密だというと、哲学者のドナルドは完璧な答えだと感嘆する。しかし本当はドナルドも三つ目を知りたかったに違いない。
映画は格差の悲劇を描いている訳ではない。むしろ女性の自立を描いている。それが明らかになるのが、ジェインが裸でシェリンガム家を探検するシーンである。巨大な屋敷は権威の象徴である。対するジェインは何も持たない素っ裸である。つまり、ひとりの女性が、その人間力だけで世の中に対峙する様子を象徴しているのだ。ゆっくりと屋敷を見て回る裸のジェインの姿は、堂々として屋敷の威容に負けてはいない。
この体験と、時刻を同じくして起きた悲劇が、ジェインに大きな喪失感と、強い決意をもたらす。ジェインは文字を紡ぎ、心の中の穴を埋めていく。そうするしか、彼女には生きる術がなかったのだ。三つ目のきっかけはつまり、本作品そのものである。
ビバルディの「夏」が効果的に使われる。夏は若者にとって遊びの季節だ。しかし夏はいつか終わる。若者はいつの間にか若者でなくなる。だから「夏」はどこか淋しげなメロディに満ちている。「四季」は素晴らしい曲だ。最近の映画では「冬」が使われていることが多い。
ジェインの青春は辛い時代だった。燃えるような朱夏の体験は、恋の喜びと肉欲の充足をくれた。忘れ難い肉体の悦び。そして喪失。その後は、おそらく孤独で充実した白秋の時期があったに違いない。書いても書いても埋め尽くせない心の穴は、ジェインをタイプライターの前から動かさない。そしてジェインは玄冬の時季を迎えた。小説をたくさん書いた。少しは心の穴を埋められた気がする。ジェインはようやく、青春と朱夏の季節を肯定できるようになったのだ。