映画「辻占恋慕」を観た。
ヒロインの芸名が「月見ゆべし」とはケッサクである。「ゆべし」は全国的にバリエーションのある菓子だが、知名度は団子よりもはるかに下だ。団子は月見の際に供えることで有名なのに対し、ゆべしに有名なシチュエーションはない。つまり、月見団子は誰でも知っているが、月見ゆべしは聞いたことがない。どこまでもマイナーなのだ。
月見と言えば月見草が連想され、山崎ハコの「織江の唄」を思い出す。映画「青春の門」の主題歌となった歌だ。次の歌詞がある。
月見草 いいえそげんな花じゃなか
あれは セイタカアワダチソウ
作曲は山崎ハコだが、作詞は「青春の門」の原作者の五木寛之さんである。月見草とセイタカアワダチソウは花ひとつを見れば似ても似つかぬ花だが、黄色く群生するところが似ていて、遠くから見ればセイタカアワダチソウと見紛うこともある。本作品のヒロイン月見ゆべしは、遠くから見たら月見草に見えたが、実はセイタカアワダチソウだった。
映画としての高評価は難しい。登場人物同士のマウンティングに終始しているだけで世界観が欠如しているから、物語に深みがない。月見ゆべしは売れたいのか売れたくないのか、売れるということはどういうことなのか、もし売れることが妥協することなら、それは幸せなことなのか、そういった掘り下げが欲しかった。
歌唱のシーンが沢山あるが、どの歌も音域が狭く、失礼な言い方だがお経みたいな歌ばかりで、歌のシーンになるたびに、早く終われと願ってしまった。ひとつでもメロディにインパクトのある歌があったら、全く違った映画になったと思う。
ラストシーンは評価が分かれるところだろう。ただ、信ちゃんの主張が論理的に破綻していることは誰でもわかると思う。ラジオで紹介されたからコンサートに来たという行動が否定されるなら、ほとんどの文化は否定されることになる。文化を支えているのはそれにお金を出す人間であり、何にお金を出すかを決めるきっかけになるのが、ある種のつながりだからである。信ちゃんの論理では、芥川龍之介を読んでいる人が、その師が夏目漱石だと知って漱石の本を買って読むという行動が否定されることになる。
誰でも生まれたばかりの頃は何も知らない。何かのきっかけで文化に触れるのだ。つまり「きっかけ」を否定することは、人が文化に触れることを否定することである。だから信ちゃんの論理は文化の全否定なのだ。信ちゃんはマウンティングばかりしてきたから、論理的な思考ができない。そしてそれを自覚していない。
もしかするとそういう上滑りしている若者の幼稚な精神性を描きたかったのかもしれないが、本作品はマウンティングのシーンばかりで、真情を吐露するようなシーンがひとつもなかったから、登場人物の誰にも感情移入できなかった。