三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「My Salinger Year」(邦題「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」)

2022年05月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「My Salinger Year」(邦題「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」)を観た。
映画『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』オフィシャルサイト

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 何のエッセイか忘れたが、大江健三郎が、数年に一度はドストエフスキーを読み耽ることがあって、それは幸福な時間だという意味のことを書いていた記憶がある。ドストエフスキーを読んだことがある人ならご存知だと思うが、作品の多くは会話によって成り立っている。話し手が自分の魂を取り出して見せるような会話である。あるいは人の心の奥を覗き込んで囁きかけるような会話である。そんな会話で溢れたドストエフスキーの小説は、一度読みはじめると止まらない。ドストエフスキーとの濃密な時間を過ごすことになる。

 本作品の原題は「My Salinger year」である。ヒロインのジョアンナは、とても気に入って長期滞在することにしたニューヨークで、J・D・サリンジャーという生きる伝説にまつわる濃密な時間を過ごす。
 サリンジャーを読んだこともないジョアンナだが、サリンジャー本人からの電話を受けて勇気づけられる。そして同居相手が留守をしている間に、サリンジャーを読み耽る。それは大江健三郎がドストエフスキーを読んで過ごした濃密な時間と同じで、優れた作品は読む人の魂を揺さぶり、自分でも見ようとしなかった心の闇を炙り出す。
 心の闇はカオスだ。あらゆる感情と記憶と妄想が渦巻いている。多くの人はそれを理性の衣装で押し隠して、社会と上手く生きていく。しかしカオスを言葉で表現しようとする人もいる。詩人であり、小説家だ。ジョアンナはサリンジャーとその作品との関わり合いによって、人生を見つける。にこやかなジョアンナの心の奥には、マグマの滾った火山があるのだ。いくらでも噴火できるだろう。

 ジョアンナを演じた女優さんはやや表情に乏しく、観客が想像力で補わなければならないところがあったが、共演したシガニー・ウィーバーの素晴らしい演技に助けられて、ジョアンナという難役をなんとか演じきったと思う。それなりに楽しい作品だ。

映画「明日になれば アフガニスタン、女たちの決断」

2022年05月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「明日になれば アフガニスタン、女たちの決断」を観た。
『明日になれば』5月6日(金)アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

『明日になれば』5月6日(金)アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

今、世界が注目するアフガニスタン女性たちのドラマ

明日になれば

 カブールで暮らす妊娠した3人の女性のそれぞれの生き方を描く。それにしても、アフガニスタンの男性権威主義と女性差別は酷いものである。

 ハヴァが暮らすのは、妊娠中の妻の身体を心配するよりも世間体を優先する夫と、嫁を家政婦扱いする横柄な舅と痴呆症の姑のいる家だ。ルーティンワークの家事の他にやたらに命令する舅の言うことをこなし、痴呆症の舅の面倒を見て、身勝手な夫が急に連れてくる大勢の客の飲み物や食事の準備もしなければならない。自分で客を連れてくるくせに、買い物を頼むと渋る。
 マリアムの別居中の夫は、愛情よりも欲望優先で浮気を繰り返す。マリアムが7年間の無為な結婚生活に疲れて離婚を決意すると、よりを戻そうと必死になる。人格の破綻した夫にマリアムはとことん疲れ果てる。
 アイーシャの元彼氏は、アイーシャに飽きて自分から別れたのに、未練の電話を掛けてくる。

 女性たちの相手の男たちに共通するのは、女性は男の所有物という感覚だと思う。邪険に扱ったことを顧みもせず、離れていこうとする女性を引き止める。妻になって妊娠したら、もはや何処にも行けない。だからハヴァが一番悲惨である。お腹の子供だけが唯一の希望であり、頼りはアッラーだけだ。

 製作は2019年だから、2021年夏のタリバンのカブール侵攻より前の話である。女性差別主義で権威主義のタリバンの統治下の現在はもっと酷い状況であることは想像に難くない。経済的にも困窮していて、娘を金持ちに売り飛ばす人が後を絶たない。女性にとって、女の幸せよりも生き延びることが優先される状況である。このような映画が製作できたのも、タリバンの統治下より前だったからだろう。あまりの悲惨さに息が詰まる。

映画「チェルノブイリ1986」

2022年05月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「チェルノブイリ1986」を観た。
映画『チェルノブイリ1986』オフィシャルサイト

映画『チェルノブイリ1986』オフィシャルサイト

2022年5月6日(金)新宿ピカデリーほか全国ロードショー!|1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所4号炉爆発―全世界を未曽有の危機から救うため、命を懸けた一人の消防...

映画『チェルノブイリ1986』オフィシャルサイト

 主人公はチェルノブイリ原子力発電所のある地域を担当する消防士アレクセイ(愛称アリョーシャ)である。チェルノブイリ原発は、ベラルーシとの国境近く、ドニエプル川の支流であるリカ・プリピャチのそばに作られた冷却池の横に建てられている。南方100キロメートルに首都キエフがある。

 同じ原発事故を扱った邦画の「Fukushima 50」とは切り口がまったく違っていて、事故の全体像があまり見えてこない。それも当然で、本作品はロシア映画である。民主主義国とは違って、当局の検閲は厳しい。「Fukushima 50」のような作品を作ったら、上映ができない可能性があるだろう。
 その点を考えると、家族愛を物語の中心にしたのは苦肉の策で、それでも登場人物のセリフの端々には国民の命を軽視する政治権力への批判がある。前半を主人公の個人的な生活の描写にしたのも、当局の検閲を和らげるためかもしれないし、主人公を身勝手な大酒飲みの男にしたのも、前半は割と退屈な話がダラダラ続くのも、同様かもしれない。

 後半は刮目して鑑賞することをおすすめする。本作品の中心は事故発生後にある。現場の従事者は命がけで頑張って被害者を救おうとしているが、政権中枢の反応は遅い。福島原発事故のときはスマートフォンなどの通信機器が行き渡っていたが、1986年の段階では電話が最速の通信手段だった。電話では画像も送れない。
 とはいえ、強い放射能が発生している炉心付近では、画像や通信どころか、近づくことさえできない。その点では福島原発事故も同じで、原子炉がどうなっているのか、未だに分かっていない。分かっていないまま、福島原発は廃炉作業が進められている。廃炉には30年から40年ほどかかるそうだ。

 はっきりわかるのは、原子力は人間が制御できるものではないということだ。できるのは原子爆弾や水素爆弾で、雷管さえ作動させなければ爆発はしない。それに対して原子力発電は核分裂の連鎖反応を制御するわけだから、非常に困難な技術であり、僅かなミスや誤作動、それに天災地変によって容易に暴走する。
 核爆弾は別の意味合いで人間には制御できない。核の抑止力は核兵器を使わないことで成り立つが、ひとたび核兵器の発射ボタンが押されてしまえば、対抗策として核のボタンが押される。更に対抗してとなると、何発の原爆が爆発するのかわからないし、どれくらいの被害が出るか予想がつかない。人類滅亡の危機が訪れる可能性もある。
 ロシアのプーチン大統領がウクライナに侵攻したこの時期に本作品が公開されたことの意義は、原子力は人間には制御不可だというテーマにあると思う。

 原題の直訳は「コウノトリが落ちたとき」である。これから鑑賞する人は、この言葉を覚えておくといい。