三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「アトランティス」

2022年07月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アトランティス」を観た。
映画『アトランティス』『リフレクション』公式サイト

映画『アトランティス』『リフレクション』公式サイト

戦禍に見舞われたウクライナの真実を描く、今こそ見るべき物語。 6/25(土)シアター・イメージフォーラム他にて緊急公開!

映画『アトランティス』『リフレクション』公式サイト

 ウクライナ近未来の話ではあるが、出てくる屍体はウクライナやロシアの他にチェチェン共和国の兵士や義勇兵のもので、まさに現在の戦争が終結したときの話のようだ。
 登場人物の言葉数の少なさが、尾を引きずっている戦争の悲惨さを物語る。2019年の映画である。ウクライナ人にとっては、2014年のクリミア半島侵攻から、ずっとロシアとの戦争が続いているのだ。2025年を舞台にしたということは、少なくとも10年間はロシアとの戦争を戦ったことになる。
 台詞が極端に少ないが、登場人物の情念は熱量として伝わってくる。最初と最後の赤外線映像が人間エネルギーの熱さを物語っている。生命は赤く、屍体は青い。愛があって生が始まり、憎悪によって生が終わる。熱が失われて青い屍体になる。赤と青の間に、人間がいて、世界がある。金属で出来た標的は、カンカンと空虚な音がする。色は黒だ。赤と青と黒。有機質と無機質。
 乾いた涙のような作品だった。悲壮感が漂うが、人の営みはある。これからも世界は続いていくのだ。

映画「ヘィ!ティーチャーズ!」

2022年07月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヘィ!ティーチャーズ!」を観た。
ロシア映画『ヘィ!ティーチャーズ!』2022年6月25日(土)〜ユーロスペースにてロードショー、全国順次公開

ロシア映画『ヘィ!ティーチャーズ!』2022年6月25日(土)〜ユーロスペースにてロードショー、全国順次公開

ロシア映画『ヘィ!ティーチャーズ!』公式サイト。大都会モスクワから、ロシア地方都市の学校に赴任したふたりの新米教師に密着したドキュメンタリー映画。理想を胸に学校...

ロシア映画『ヘィ!ティーチャーズ!』

 2020年の映画である。2年後にプーチンがウクライナ侵攻という蛮行に出ることについて、漠然とした予感があったのかもしれない。映画全体を妙に不穏な空気が包んでいる。

 本作品を観た限りでは、ロシアの教師は日本の教師よりも授業のやり方に関して自由なところがあるようだ。カリキュラム絶対ではなく、自分なりの教材を使うことも許される。その代わりに馘になることもあるらしい。馘の基準は、反体制的かどうからしい。

 自分を「先生」と呼ばせる輩にろくな奴はいないというのが当方の持論だ。ちなみに中国語の「先生」xiān sheng は、英語のMr.(ミスター)と同じで「〜さん」という意味合いである。学校の教師には老師 lǎoshī を使う。
 ロシア語がわからないので、字幕の元の単語がどんな意味なのか不明だが、教師が自分のことを「先生」と呼んでいたのには違和感があった。日本の学校の教師の多くがそのように話す。自分で「先生は〜」などという文脈で話すほど恥ずかしいことはない。思い上がりが透けて見えるからだ。ロシア人教師も日本人教師と同じように思い上がっているのだろうか。

 教育現場の主役は誰なのか。
 こういう生徒を育てたいと考えていたエカテリーナは、理想の授業と現実とがかけ離れていることに疲弊してしまう。彼女の教育とは、育てたい自分が主役であった。自分の理想を生徒に押し付けようとするから、軋轢が起こり、授業がうまくいかない。
 一方、生徒の自主性にある程度任せたワシーリーは、授業中はスマホを集めるなど、最低限のルールは押し付けるものの、比較的楽しい授業ができている。ワシーリーの授業の主役は生徒である。自由にやらせた結果、生徒は自分自身で物を考えることができるようになる。素晴らしい成果だが、得てしてそういう成果は反体制的な考え方を生み出す。

 プーチンのロシアは、ソ連時代に逆戻りしている。思えばゴルバチョフが最初で最後のソ連大統領になった頃が、ロシア人は一番自由だった。プーチン体制のもと、再び全体主義への道を一直線に歩み続けている。
 ドキュメンタリーだから、登場人物にはその後の人生がある。対極的な教師であったふたりの新米教師のその後。全体主義的なエカテリーナは、おそらくプーチン体制のモスクワで出世しているだろう。自由な授業を行なったワシーリーは、もしかしたら反体制的な考え方の生徒を生み出したかどで、粛清されているかもしれない。

映画「Mes frères et moi」(邦題「母へ捧げる僕たちのアリア」)

2022年07月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Mes frères et moi」(邦題「母へ捧げる僕たちのアリア」)を観た。
「母へ捧げる僕たちのアリア」公式HP

「母へ捧げる僕たちのアリア」公式HP

「母へ捧げる僕たちのアリア」公式HP

 南仏の海岸の街に住む移民の4人兄弟の物語である。亡くなった父親は手先が器用で様々な仕事をした。一度も登場しないが、兄弟が父親を尊敬していることはわかる。母親は植物状態だが、その存在が兄弟をつなぎとめている。
 バイセクシュアルの長男は、老若男女を問わず金持ち相手の売春で稼ぐ。次男は元サッカー選手でそのコネクションで物品をやり取りして小銭を得る。三男は不良だ。中心的に扱われる四男のヌールはまだ中学生くらい。しかしPCは扱えるし、バイクにも乗れる。
 性格もそれぞれ違っていて、長男は大らかで優しく、次男は自分にも他人にも厳しい。三男は被害妄想の甘えん坊だ。ヌールは兄たちを愛してはいるが、完全に信じてはいない。移民らしい強かさは、14歳のヌールにもあるのだ。

 季節は移ろい、観光客が来ては去っていく。兄弟はやがてそれぞれが独立して生きていかなければならないことを知っているが、いまは刹那的な仕事をしている。人生に確固たるものはなく、金持ちは貧乏になり、貧乏人はときにのし上がる。悠久の時の流れからすれば、人生もまた、刹那にすぎない。警官が犯罪者に、犯罪者が警官になる日も来るだろう。諸行無常だ。
 母はカンツォーネが好きだった。ヌールはインターネットの音源をスピーカーに繋いで、昏睡中の母にオペラを聞かせる。やがて門前の小僧のように自分でも歌い出す。歌は楽しい。人生を豊かにしてくれる。母が歌を好きだった理由がわかる気がした。
 貧乏な移民だからといって、精神まで貧しいわけじゃない。植物状態だからといって、その人生まで否定される謂れはない。全部を肯定するのではないが、まったく否定するのでもない。フランスらしい相対的な世界観からくる、ある種の寛容さが作品全体を通底している。心に残るものがあった。

 邦題の「母へ捧げる僕たちのアリア」は作品の印象を音楽に寄せてしまうので、原題の直訳である「兄たちと僕」でよかったと思う。