三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「わたしは最悪。」

2022年07月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「わたしは最悪。」を観た。
映画『わたしは最悪。』公式サイト

映画『わたしは最悪。』公式サイト

7月1日(金)より、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ他 全国順次ロードショー

映画『わたしは最悪。』公式サイト

 器用貧乏という言葉がある。何でもすぐに出来てしまう人は大成しないという意味だ。本作品の冒頭を観て、すぐにこの言葉を思い出した。ヒロインのユリアはまさにこのタイプである。何でもすぐに出来ると言っても、その道の超一流レベルになるという訳ではなく、人よりも上手く出来るという程度だ。しかしそれで出来た気になる。そして飽きる。器用貧乏には、もともと移り気で飽きっぽいという意味もある。
 
 舞台はオスロだろうか。電線がない街並みは緑豊かで美しい。森の中にいるとリラックスして脳の働きがよくなるらしい。ユリアの想像力も豊かに飛翔して、膨らみのある文章を書く。近しい人に読ませてみると評判は上々だ。もっと文章力を上げて、もっとたくさんの文章を書けば、いつかそれが仕事になったのかもしれないが、ユリアはまたしても飽きてしまう。
 
 ある意味で、主人公が女性だから成立した作品かもしれない。そう思わせる発言がある。泊まりに行ったアクセルの友人宅でのユリアの発言だ。性欲が話題になるのは男性の性欲についてだけで、女性の性欲についてはついぞ語られないという意味のことを彼女は言う。小賢しい面はあるが、世界の幸福度ランキング上位のノルウェーにおいても、やはり女性は被差別意識を持ち続けていることが分かる。
 
 アクセルが出演したテレビ番組では、短絡的なフェミニストの女性がアクセルの作品を差別的で不快だと罵っていた。ヒステリックな発言だが、根っこには女性としての被害者意識があるのだろう。男は現実と自分は別だと思っているから逃げることに抵抗がないが、女性は地に足の付いた存在だから逃げることに罪悪感がある。アクセルはマンガのキャラクターをアバターにして語らせているだけで、作品と自分は別だと言い張る。本当に自分から逃げていたのはアクセルの方かもしれない。その意味では、男性社会に対して批判的な立場の作品である。
 
 ユリアは世間的な価値観に左右されて、自分なりの哲学を見い出せずにいる。ユリアだけではない。世の中の大抵の人がそうだと思う。他人の評価にまったく左右されず、自分の価値観だけに依拠して生きていける人など、一度も出逢ったためしがない。
 
 タイトルの「最悪」の基準が気になる。もちろんユリア自身がそのように自己評価しているという意味だが、何をもって「最悪」と評価するのか。器用貧乏なところか。哲学が定まらないところか。
 本作品を鑑賞した方にはおわかりだと思うが、ユリアが自分を最悪だと思うのは、世間的な価値観で他人に酷い言葉を投げつけたり酷い態度を取ったりしたことに違いない。かつての自分は最悪だった。ではいまは最悪ではないのかというと、最悪を脱しつつあるかもしれないが、まだ最悪には変わりない。その意味での「わたしは最悪。」である。句点がついているのがとてもいい。