映画「こちらあみ子」を観た。
アスペルガー症候群という言葉がまだ一般的ではなかった頃から変わった子供はいた。法律に違反する行為はしないものの、マナーやエチケットといった一般常識を守らないことが多くて、家族を主として周囲の人間たちは苦労していたと思う。
本作品のあみ子の家族も苦しめられるが、井浦新が演じた父親が特に大変だった。他人の気持ちを理解できないあみ子がしでかす行動に対応するので手一杯だ。父親はそれでもあみ子を責めない。責めてもあみ子には理解できないとわかっているからだ。尾野真千子が演じた後妻は、あみ子によって心を折られる。あみ子の兄は他人を理解しない妹に疲れ果てて、まともな道を歩むことができなくなってしまう。
人間も社会も矛盾に満ちている。矛盾を受け入れて、他人の行動をある程度許容し、自分の行動もある程度は許容してもらう。そういった見えないギブアンドテイクによって、我々の生活の危ういバランスが保たれている。しかしあみ子には見えないものは見えない。忖度も遠慮もなしだ。独善で突っ走る。
こんなふうに述べるとあみ子が諸悪の根源みたいだが、あみ子にはもともと悪気はない。トリックスターの役割を果たしているだけだ。あみ子がいることによって、日常が異化される。
あみ子に理解してもらうためには何をどのように説明すればいいのか。幼い頃の兄は譬え話によって説明するが、上手くいかなかった。父親はハナから諦めている。後妻は努力したが、自分が病んでしまった。のり君はあみ子を疫病神みたいに思っている。
あみ子は不愉快な存在だが、我々の日常もそれほど愉快ではない。翻って、あみ子が無視する社会のルールや一般常識は、本当に後生大事に守っていかなければならないものなのか。それを問い直すような作品だった。
個人的にはあみ子みたいな子供とは関わり合いになりたくないと思う人が多いかもしれない。演じた大沢一菜(オオサワ カナ)は見事だった。このエキセントリックな役を11歳でこなせたのは凄い。