三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「こちらあみ子」

2022年07月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「こちらあみ子」を観た。
映画『こちらあみ子』公式ホームページ

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映画『こちらあみ子』公式サイト。2022年7月8日(金)より全国公開

『こちらあみ子』公式ホームページ

 アスペルガー症候群という言葉がまだ一般的ではなかった頃から変わった子供はいた。法律に違反する行為はしないものの、マナーやエチケットといった一般常識を守らないことが多くて、家族を主として周囲の人間たちは苦労していたと思う。

 本作品のあみ子の家族も苦しめられるが、井浦新が演じた父親が特に大変だった。他人の気持ちを理解できないあみ子がしでかす行動に対応するので手一杯だ。父親はそれでもあみ子を責めない。責めてもあみ子には理解できないとわかっているからだ。尾野真千子が演じた後妻は、あみ子によって心を折られる。あみ子の兄は他人を理解しない妹に疲れ果てて、まともな道を歩むことができなくなってしまう。

 人間も社会も矛盾に満ちている。矛盾を受け入れて、他人の行動をある程度許容し、自分の行動もある程度は許容してもらう。そういった見えないギブアンドテイクによって、我々の生活の危ういバランスが保たれている。しかしあみ子には見えないものは見えない。忖度も遠慮もなしだ。独善で突っ走る。

 こんなふうに述べるとあみ子が諸悪の根源みたいだが、あみ子にはもともと悪気はない。トリックスターの役割を果たしているだけだ。あみ子がいることによって、日常が異化される。

 あみ子に理解してもらうためには何をどのように説明すればいいのか。幼い頃の兄は譬え話によって説明するが、上手くいかなかった。父親はハナから諦めている。後妻は努力したが、自分が病んでしまった。のり君はあみ子を疫病神みたいに思っている。
 あみ子は不愉快な存在だが、我々の日常もそれほど愉快ではない。翻って、あみ子が無視する社会のルールや一般常識は、本当に後生大事に守っていかなければならないものなのか。それを問い直すような作品だった。

 個人的にはあみ子みたいな子供とは関わり合いになりたくないと思う人が多いかもしれない。演じた大沢一菜(オオサワ カナ)は見事だった。このエキセントリックな役を11歳でこなせたのは凄い。

映画「破戒」

2022年07月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「破戒」を観た。
映画『破戒』公式HP

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島崎藤村・不朽の名作が60年ぶりに映画化される!映画『破戒』公式ホームページ。7月8日(金)丸の内TOEIほか全国公開。主演:間宮祥太朗ほか石井杏奈、矢本悠馬、眞島秀和...

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 感動作である。流石に明治文学を代表する小説が原作だけあって、言葉の選び方、使い方が素晴らしい。単に差別を描いているだけではなく、人間の本質についての深い洞察がある。

 主人公瀬川丑松の尋常小学校の教師ぶりは、如何にも人格者らしく、落ち着いて丁寧で、そして威厳に満ちている。子供たちひとりひとりの人格を認め、尊重しているのがわかる。それは丑松自身が自分の人格や人権を社会に認めてほしいからでもあるだろう。自分が接してほしいやり方で子供たちに接する。
 ということはつまり、教育の善し悪しは、突き詰めれば教師の人格に左右されるということだ。人格者に教えられる生徒は幸運である。瀬川丑松の生徒たちは、稀有な僥倖に恵まれたのだ。

 一方で、丑松の悩みは深刻である。自分が部落出身であることを誰にも漏らしてはいけないという父からの戒めがある。それを守り通してきたから、師範学校を出て教員になれた。しかし行き詰まってしまった。前に進むには父の戒めを破るしかない。
 LGBTの人々や在日の人たちも同じような悩みを抱えていると思うが、丑松の時代は差別が正当化され、表立っていた。告白するには、いまの生活を投げ打つ覚悟が必要だった。最後の授業での丑松の真摯な態度と言葉には、心から感動した。

 間宮祥太朗がとてもいい。紳士的な態度を徹頭徹尾貫いて、丑松の誠実な人柄を見事に演じ切った。他の脇役陣も好演で、特に猪子蓮太郎を演じた児島秀和の演技には凄みがあった。
 猪子の、人間は差別をする、部落差別が解消しても、別の差別が生まれるだろう、それは人間が弱いからだという主張には説得力がある。

 人が人を差別しないためには、寛容と優しさが必要だ。他人を許し、優しくするには、世間のパラダイムに負けない強さが要る。世間が差別しても、自分は差別しないという態度を貫けるのは、強い人だけだ。強くなければ優しくなれない。優しさこそが強さなのだ。
 人類が戦争をするのも、弱いからである。ロシアのプーチン大統領に代表されるようなマッチョイズムは、見かけだけの強さに過ぎず、実は弱さをさらけ出しているだけなのだ。それはゼレンスキーもバイデンも金正恩もトランプも同じである。彼らに瀬川丑松の優しさの欠片でもあれば、戦争は起きなかっただろう。人類が優しさを獲得できるのは、いつの日だろうか。