映画「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」を観た。
フランスの俳優と受刑者の物語である。comédianはコメディアンと発音はするが、フランス語では俳優のことである。いわゆる喜劇役者はhumoriste(ユモリスト)だ。「コメディアン」という台詞を聞いて字幕に「俳優」とあったので安心した。
主人公エチエンヌは売れない俳優だが、演劇に人生を懸ける舞台至上主義者である。何かの縁で囚人たちの更生プログラムとしてのワークショップを引き受けるが、そこは俳優だ。ちゃんとした芝居をやらせてみたい。エチエンヌは権謀術数を駆使してなんとか囚人たちを舞台に立たせる段取りを作り上げる。
舞台を成功させるために、囚人たちを褒め、叱りつけ、懐柔する。相手が刑務所の所長でも判事でも、同じように接する。舞台の成功以外に興味がないから、娘の成績や囚人たちの犯罪にも興味がない。興味があるのは役柄に対する相性や、役者としての長所と短所である。それ以外の情報は、むしろ演出の妨げになる。だから聞きたくない。
いつしか囚人たちにもエチエンヌの熱が伝染して、演じる楽しさ、表現する面白さに目覚めはじめる。しかし初演の日まで半年しかない。落ちこぼれの生徒が半年の勉強で大学を受験するようなものだ。いくらスパルタをやっても無理がある。迎える初演の日。予想通りのシッチャカメッチャカな舞台。それでも彼らの熱意が伝わったのか、観客からは拍手がもらえる。高揚する囚人たち。しかし初演の高揚は、刑務所に戻った途端にやられる全身検査によって無惨に打ち砕かれる。
ラストシーンは俳優としてのエチエンヌの晴れ舞台である。一言一句聞き逃がせない。耳を皿にして聞き入った。ところが、そこはベケットの難解さである。ほとんど思い出せない。しかし素晴らしいラストシーンだった。
「ゴドーを待ちながら」は不条理劇として有名である。何が面白いのかわからないが、とにかく二人の浮浪者がゴドーを待っている。ゴドーは来ないが、別の人間が来る。繰り広げられる会話劇。結局ゴドーは来ない。浮浪者たちは死のうとするが死にきれない。そんな芝居だった。
太宰治の「葉」という短編がある。その最初にある一節は次のようだ。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ゴドーは多分、希望だ。人間は小さな希望を持つことで死なずにいられる。夏に麻の着物を着るのも希望だし、帰宅して枝豆でビールを飲むのも希望だろう。着物なんか着たくない、ビールなんか飲みたくないと思ったら、希望はそこで消える。希望がなくなったら絶望しかない。すると人は簡単に死を選ぶだろう。ゴドーが来ないからと自殺を図る浮浪者たちは、まさしくその状況だった。
囚人たちには舞台が希望だった。しかし舞台の後の全身検査は絶望だ。ふたつがセットになれば、舞台はもはや希望ではない。舞台は囚人たちの人生を変えてくれたが、刑務所はもとの人生に引き戻す。このあたりに、不条理劇「ゴドーを待ちながら」と演じる囚人たちの本質的な接点があるように思った。難解な戯曲を最も理解したのは、彼らだったのかもしれない。