映画「長崎の郵便配達」を観た。
さだまさし(グレープ)が歌った「精霊流し(しょうろうながし)」は、静かなイメージの「灯籠流し」とは異なり、爆竹が鳴り響く派手な祭である。港町長崎らしい、各国の文化が入り混じった不思議な味わいの祭だ。
本作品では、被爆者である谷口稜曄さんを取材したフランス在住のイギリス人作家ピーター・タウンゼントとその娘である女優のイザベル・タウンゼントの心情を中心に描くが、谷口さんが過ごした長崎の様子も同時に描く。
長崎は尾道と同じく坂の町である。道は通り過ぎるイメージだが、坂は上り下りする息づかいのイメージがある。人々の生活により密着しているように感じられるのだ。坂を上り下りしたピーターさんと40年後に訪れたイザベルは、こういう生活を一瞬で破壊した原子爆弾の非人道性にあらためて慄然とする。40年の時の流れも、原爆の恐ろしさを和らげることはない。
人間は環境適応能力の高い生物だ。環境を変えようとするよりも、変化した環境に適応しようとする。それは為政者が代わることに対しても同じである。政策に異を唱えるよりも、新しい政策に対してどうすれば自分が利するだろうかと考える人のほうが多い。それは戦争をする政策に対しても同じである。
世界中の人が戦争に反対していると考えるのは楽観的過ぎる。戦争をしたい政治家がいて、武器弾薬を売りたい軍需産業がある。政治家が敵国を想定して、その存在が著しく国益を損ねると訴えれば、戦争もやむなしと思ってしまう単純な人が実に多い。戦争には反対だけど、今回は仕方がないでしょ、という妥協論である。
こういった妥協論は、反戦の覚悟が不足していることに由来する。反戦というのは戦争を仕掛けないだけではない。たとえ戦争を仕掛けられても、それに応じないことも反戦だ。そして政治家の役割は、戦争を仕掛けられないように外国と上手に渡り合うことだ。
世界には平和という大義名分がある。その大義名分を最大限活用すれば、戦争をしたい国を牽制することが可能だ。大国の核兵器の傘下に入るという考え方は浅はか過ぎる。核のエスカレーションは危機を高めこそすれ、戦争回避の役に立たない。そんなことは子供でもわかる。平和とは武力で争わないことだから、軍備を減少させることが第一だ。軍備を増強させることは売り言葉に買い言葉の効果しかない。
ところが日本では「積極的平和主義」のために軍備を増強するという意味不明な主張をした政治家がいて、このバカが率いる政党が総選挙で勝ちつづけた。そして戦争法案をいくつも強行採決して、日本を憲法の平和主義を無視して戦争ができる国にしてしまった。こういう政治家に投票することは戦争に賛成をしたことになることに、未だに気付いていない有権者が多い。長崎や広島の平和記念式典でどれだけの人が平和を訴えても、戦争をしたい政治家に投票し続ける有権者がいる限り、戦争の危機は増大し続ける。
珍しくシネスイッチ銀座が混み合っていた。上映後に舞台挨拶があるのだろうと予測したらその通りだった。川瀬美香監督によると、ピーターさんと谷口さんの二人を「天国チーム」と呼んでいるらしい。「天国チーム」は地球から戦争がなくなることを願っているのだろうが、地上チームの我々は、彼らの願いを叶えられるだろうか。シネスイッチで本作品を鑑賞した観客は、戦争したい政治家に投票するのをやめるだろうか。参院選の結果を見ても、悲観せざるを得ない気がする。
イザベルは戦争の危機をいままさに実感していると言っていた。同じ実感を当方も共有している。コロナ禍やウクライナ戦争など、まさかと思われることが次々に起きる時代だ。近日中に台湾戦争がはじまったり、朝鮮戦争が再開したりすることもありうると思っている。そのときには我々の反戦の覚悟が試されるだろう。