三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「アートなんかいらない! Session1 惰性の王国」

2022年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アートなんかいらない! Session1 惰性の王国」を観た。
 終映後のトークは「表現の不自由展」の検閲と妨害についてが殆どだったが、作品はアートとは何かという本質に迫る。
 15000年前から5000年前まで、1万年も続いた縄文文化にハマった経験からすると、天皇の歴史はたかだか2000年程度、随分最近のことだと、山岡信貴監督は言う。だから天皇の写真が入ったコラージュを燃やしたからといって、全然大したことではない。こんなことで騒ぎ立てるのはどうかしているという感覚だそうだ。
 その感覚は理解できる気がする。古事記や日本書紀といった神話にしか根拠がない天皇の系図など、怪しすぎるものを簡単に信じてその権威を畏れるという精神性は、子供じみていると言わざるをえない。イエス・キリストの奇跡を信じるのと五十歩百歩だ。
 
 権威の反対側には必ず差別がある。権威主義者はおしなべて差別主義者だ。権威の前で人権を軽んじるから、差別主義者になる。必然である。
 もっと人間は自由なはずだ。権威からはもとより、言葉や概念からも感覚を解き放つことができる。縄文時代はそうだった。ただの鍋や皿に複雑な文様を施す。多分そうすることが楽しかったからに違いない。
 アートとして身構えるから息苦しくなる。商業主義が絡めばなおさらだ。縄文人は何のしがらみもなく、嬉々として造作をしていたのだろう。羨ましい気がする。

映画「荒野に希望の灯をともす」

2022年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「荒野に希望の灯をともす」を観た。

http://kouya.ndn-news.co.jp/

 小さな巨人。その呼び名が彼ほどふさわしい人間はいなかった。寛容と思いやりが心の広さだとするなら、彼ほど心が広い有名人を他に知らない。

 彼が殺されたとき、私はブログに次のように書いた。
 
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 国境なき医師団の中村哲が撃たれて死んだ。
 国内で有名なボランティアの尾畠さんと同じように、善意しかない人だった。もし尾畠さんが撃たれて死んだら、我々はどのように感じるだろうか。世の中にそんなひどいことをする人がいるのかと愕然とするだろう。
 中村哲が撃たれて死ななければならない理由など、この世に存在しない。にもかかわらず、彼は撃たれて死んだ。世界が彼を殺したのだ。この世の善意を我々が支えきれていないから、彼は撃たれてしまった。
 中村哲が撃たれて死ぬ世の中は、優しさに欠ける不寛容な世の中だ。愛くるしい子猫が惨たらしく殺されるのを黙ってみている世の中だ。生れたばかりの子供が爆弾で殺される世の中だ。ねじれた脚と乾いた涙だけが残る世の中だ。谷川俊太郎でなくても、中村哲が殺される世の中がどれほど酷い世の中であるかは解る。
 我々は我々自身に問わなければならない。どうして中村哲は殺されなければならなかったのか。
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 なんとも情緒的で性急な文章ではあるが、言い訳をすれば、自分も中村哲を殺した側にいる気がして、いたたまれなかったのだ。
 いままた映像の中で観ることができた中村哲は、相変わらず寛容で、自省的だ。低姿勢で柔らかな物腰ながら、内に秘めたエネルギーは無尽蔵で、その行動力は疲れを知らない。
 外国人を殺すための武器を着々と装備する政治家がいる一方、中村哲は武器は平和にそぐわないと一蹴する。暴力に暴力で対応していては、いつまでも平和は来ない。大切にするべきはただひとつ、国の威信や利益ではなく、人の命なんだと、それが平和ということなんだと、力強く主張する。
 
 本作品は中村哲の偉業を紹介するとともに、アフガニスタンやパキスタンの惨状も明らかにする。貧しく、傷ついて、無力な人々の群れ。アメリカは911の首謀者はアフガニスタンだと決めつけて、爆撃し、機銃掃射をする。
 
 人間は自然の一部で、自然の恩恵を受けて生きているというのが中村哲の世界観である。自然を制御できるなどというのは人間の驕りに過ぎない。謙虚に自然と向き合って、自然を理解し、人々が健康に生きられるようにしなければならない。それが第一義だ。医師として病気を治すより前に、健康な生活を取り戻させなければならない。だから井戸を掘る。用水路を建設する。
 
 腹立たしいことがあっても、本作品の中村哲を思い出せば、腹も立たなくなる。正しい人も悪い人も、中村哲は分け隔てなく治した。自然が善人と悪人を区別しないのと同じだ。命に区別はない。すべての命を大切にする。それが平和だ。まさしく中村哲の言う通りである。
 いつか人類が、他人を敵と味方に分けて争う愚かしさに気づいたとき、初めて中村哲の偉大さを理解するだろう。人類はそのときまで滅びずに存続しているだろうか。

映画「失われた時の中で」

2022年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「失われた時の中で」を観た。

 またしても悪名高きモンサント社が登場する。農家を苦しめて世界に遺伝子組み換え作物を蔓延させることで、巨額の利益を生み出しているコングロマリットである。ベトナム戦争の枯葉剤を開発し、米軍に提供していたのだ。最近ドイツのバイエル社に買収されたが、実態は何も変わらない。

 本作品はベトナム戦争の是非ではなく、枯葉剤散布という非人道的な作戦を追及する。あくまでも被害者の側、障害を持って生まれた人とその親兄弟たちの苦しみにカメラを向ける。
 ひたすら悲惨である。自分が死んだら社会が娘を養ってくれるだろうが、それでも娘が先に死んだほうがいいと、母親は正直に告白する。誰も彼女を責めることはできない。人生に何の喜びもなく、ただ苦しみだけがあるのだ。
 しかし終映後の舞台挨拶で坂田雅子監督は希望を失っていない姿勢を見せた。それは夫を亡くした喪失感から立ち直り、後に再び世の中と向かい合うことが出来るようになった経験に裏打ちされた姿勢だ。
 
 ベトナムは社会主義国だから役人の権限が大きい。権力は人間を必ず腐敗させるので、政権交代が起きない政権は必ず腐敗する。統一教会とズブズブの関係の自民党がいい例だ。ベトナムの役人は日本の役人よりもずっと腐敗していて、賄賂を渡せば大抵の正規の書類が手に入る。日本に来る留学生や技能実習生は日本語の能力が皆無でも、書類には日本語能力のランクが記されている。
 逆に言えば、賄賂を渡すことができない貧しい人は、福祉行政の恩恵を得られないということだ。国内に救いはない。かといって加害者たるアメリカは、奇形の子供の誕生と枯葉剤の因果関係を決して認めようとしない。国内でも国外からも救済されず、枯葉剤の被害を受けた人々は一生不幸な人生を送ることになる。
 
 アメリカとソ連のどちらが正しかったのかとか、資本主義と共産主義を比較したりすることよりも、人間の寛容についてもっと考えるべきだと思う。どんな政治体制でも、利己主義と独善と不寛容が蔓延していれば、弱い人、貧しい人は救われない。坂田雅子監督は立派である。ベトナムの枯葉剤被害者の子どもたちのために募金を募り、病院の存続と就学を支援する。
 日本の百貨店のニュースがあった。世界の高級時計展が日本橋三越で開催されている。1億円を超す腕時計が売れているそうだ。1億円あれば、ベトナムの子供が1000人、3年間就学できる。人類は金の使い方を間違えている気がする。

映画「新章パリ・オペラ座 特別なシーズンの始まり」

2022年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「新章パリ・オペラ座 特別なシーズンの始まり」を観た。
映画『新章 パリ・オペラ座 ~特別なシーズンの始まり~』公式サイト

映画『新章 パリ・オペラ座 ~特別なシーズンの始まり~』公式サイト

世界的パンデミック禍、バレエの殿堂に訪れた葛藤と静寂。新エトワール誕生までの軌跡を追った-情熱のドキュメンタリー。映画『新章 パリ・オペラ座 ~特別なシーズンの始...

映画『新章 パリ・オペラ座 ~特別なシーズンの始まり~』公式サイト

 

 劇場でバレエを観たことは一度もないが、本作品を観ると、何故かバレエの公演を観たような気になる。そして少し感動する。バレエ作品にではなく、ダンサーや演出家の熱意と努力に感動するのだ。

 体力の4要素という考え方がある。瞬発力、持久力、調整力、それに柔軟性である。スポーツや格闘技にはどの要素も必要だが、ダンスにおいては、すべての要素を最高レベルにしておかないと、ポテンシャルを十分に発揮できない。
 そのために気力の充実が必須なのは言うまでもないが、コロナ禍のせいで長い間まともな練習ができない日々が続き、どのダンサーもモチベーションを上げるのに苦労している。気力が充実していないと集中力が散漫になり、能力を出せないだけでなく、怪我をする恐れもある。演出家はそこを一番に心配する。

 バレエ公演の準備から本番までをダンサーや演出家の目線で見せてくれたのは、実に有意義であった。ナタリー・ポートマンの「ブラック・スワン」では、主役を勝ち取るためにダンサー同士が鎬を削る様が描かれていて、バレエそのものはちっとも魅力的ではなかったが、本作品を観て少し見方が変わった。
 ミュージカルやオペラを鑑賞するように楽しめばいいみたいだ。といっても、日本ではバレエのチケットは結構高いので、同じ金額で映画が5本以上観られるなら映画の方を選んでしまう。バレエダンサーの収入がチケット収益に頼らなくていいような文化の保護ができれば、バレエのチケットももっと安くなるし、日常生活にバレエ鑑賞が組み込まれやすくなる気がする。
 しかし文化を保護する気がない日本の政府にはそんなことは到底無理だ。だから優秀なダンサーは海外に流出してしまうのだろう。