三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」

2022年08月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」を観た。
映画『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』オフィシャルサイト

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あなたに会った日から、私は愛を求めた あなたと別れた日から、私は愛を知った 出演:レア・セドゥ、ハイス・ナバー、ルイ・ガレル、セルジオ・ルビーニ、ルナ・ウェドラー...

映画『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』オフィシャルサイト

 

 最初はゲームのようにはじまった。短いハニームーンの後、ジェイコブは船長として数ヶ月の航海に出る。待たされるリジーと待たせるジェイコブ。心配する者とされる者、求める者と求められる者。関係性は常に相対的で誘導的だ。

 この種のゲームは大抵の場合女が勝つ。精神的なタフネスさが要求されるからだ。男は打ちのめされ、女は打ちのめした男の傷を手当する。ゲームは次々に展開し、次第に男は疲弊していく。そして新たな癒しを求めはじめる。別の女だ。
 
 肉体の関係はいい。快感が精神を安心させ、落ち着かせる。それがなくなったらもはや男と女ではない。ただの同居人、または友だちだ。そして都会の生活には金がかかる。金銭問題が加わると、ゲームは一層複雑さを増す。そうなると一瞬でも隙きを見せたほうが負けだし、あるいは隙きを見いだせない場合も負ける。
 
 結婚は健康にいいとコックにすすめられてはじめた夫婦を演じるゲームだったが、幸せの炎はやがて悩みのタネに変化してしまう。人生に大工はいない。素人に修復は難しい。
 はじめは誰もが愛を語るが、年月が経過して色褪せてしまうと、誰も愛を語らなくなる。愛を語らなくなったときこそ、信頼がさらに深まるきっかけとなるのだが、大抵の人はそこまで待てない。愛は朝露のように消えていく。
 
 リジーを演じたレア・セドゥもジェイコブのハイス・ナバーも、大変見事だった。ハイス・ナバーが1980年生まれと、意外に若かったのが驚きだ。レア・セドゥは1985年生まれ。いままさに脂が乗りきっている。

映画「ぜんぶ、ボクのせい」

2022年08月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ぜんぶ、ボクのせい」を観た。
映画『ぜんぶ、ボクのせい』公式サイト

映画『ぜんぶ、ボクのせい』公式サイト

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 イギリスの詩人W.H.オーデンの「Leap before you look」(邦題「見るまえに跳べ」)の最後は次の一節で結ばれている。

 安全無事を祈願するわたしたちの夢は、失せなくてはなりません。
 (深瀬基博訳)

 本作品を観て「安全無事の向こう側」という言葉が浮かんだ。
 我々はいつも安全無事な日常を送っていて、それがいつまでも続くということを前提にして生きている。ただ心のどこかでは、それが幻想に過ぎないのではないかと疑っている。
 しかし今日と同じ明日は来ないかもしれないと疑っていたら、夜もおちおち眠れなくなる。金を貯めても無意味だし、事業や投資など愚の骨頂だ。だから我々には正常性バイアスがある。安全無事な明日が来ることを常に前提にして生きているのだ。自分だけは大丈夫だと思っているし、足元に火が着いても気が付かないふりをする。

 本作品は、そんな安全無事の向こう側の人々の物語である。
 秩序の維持が最優先の福祉施設は、ひたすら事なかれ主義に徹して、子供たちの行動を束縛し、自由を制限する。ある種の家父長主義だ。施設で飼っていたウサギが死んだら、みんなで一緒に悲しまなければならない。泣きもせず花も捧げないと、どうして悲しまないのかと問い詰められる。
 成績がよくて品行方正で社会の役に立つ人間に育ってほしいと願うのは、子供たちのためではない。福祉の独善であり、施設職員のエゴだ。しかし子供たちはそれに気づかない。職員たち自身も気づいていない。
 しかし優太だけはうっすらと欺瞞を感じている。嘘で固めた安全無事に我慢がならない。ここではないどこかに行きたい。しかし待ち受けていた冷酷な現実に、優太は生きていることの意味のなさに否応なしに気付かされる。

「かあさん、何故僕を産んだの?」
 自堕落で利己主義の母親は、少年の真摯な問いかけに答えることが出来ない。母親もまた、安全無事でない側にいるのだ。だから逃げる。子供を産んだ現実から逃げ、性欲の対象とされることにしか、レーゾンデートルを見出だせない。

 逃げることは悪いことではない。逃げないで立ち向かうことがいいことみたいに言われるが、それで病気になってしまうのであれば、逃げたほうがよほどいい。状況から逃げるだけでなく、世間の価値観からも逃げる。生活は不自由になるが、精神は自由になる。
 安全無事の向こう側で生きることは常に死と直面しながら生きることだ。死は恐れるものではなく、覚悟するものである。考えてみれば、生は死から逃げ続けているようなものだ。いつか追いつかれる。

 追いつかれても、慌てない。オダギリジョーが演じたおっちゃんは、逃げようともせず、その運命をじっと見つめる。実に天晴れな生き方であり、優太にもその生き方が伝わったようだ。
 自分とおっちゃんは自由で、世間は不自由だ。自分の存在が他人の生活を不自由にするなら、それは全部自分のせいだ。だったら自分など生まれてこなければよかったに違いない。しかし死ぬ自由はいつでもあると、おっちゃんは言っていた。命なんかいつだって捨てられるんだ。もう何も怖くない。