三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ヴィレッジ」

2023年04月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヴィレッジ」を観た。
映画『ヴィレッジ』公式サイト|大ヒット上映中

映画『ヴィレッジ』公式サイト|大ヒット上映中

主演:横浜流星 × 監督:藤井道人 × 制作:スターサンズ。現代日本の縮図を描いた、異色のサスペンス・エンタテインメント!

 綾野剛と佐藤浩市がダブル主演した瀬々敬久監督の「楽園」に似た作品だ。同じように「ムラ社会」を扱っている。「楽園」が余所者が主人公だったのに対して、本作品はムラで生まれ育ったユウが主人公である。必然的に前者はムラから排斥され、後者はムラに取り込まれる。
 瀬々監督が主人公を愛情とシンパシーで作り上げるのに対して、藤井道人監督は、主人公でさえも徹底的に突き放すことがある。本作品のユウもミサキも例外ではない。

 藤井監督の作品はこれまで「デイアンドナイト」「新聞記者」「宇宙でいちばんあかるい屋根」「ヤクザと家族 The Family」「余命10年」などを鑑賞した。主人公の気持ちに寄り添った優しい作品と、登場人物の全員を突き放したような冷徹な作品とに分かれる気がする。藤井監督なりに、自分自身の精神バランスを取っているのかもしれない。本作品は冷徹な方の作品だ。

 共同体は弱い人間に冷たい。大抵の共同体では、道理が引っ込んで無理が通っている。力のある者、カネのある者が強く、カネも力もない人間は、一方的に搾取される。それが嫌ならどこかで立ち上がるか、共同体を去って他の共同体で生きるしかない。
 最悪なのは、立ち上がりも立ち去りもせず、強い者、カネのある者に取り入って、同じ側に立ってしまうことだ。弱い人間が弱いなりに生きている間はまだ救いがあったかもしれない。しかしカネのために魂を売った途端に、これまで自分を虐めてきた人間の側に立ってしまう。救いはない。
 勇気を出すなら、ずっと前に出すべきだった。しかしそんなことは傍から見ている人間の勝手な言い草だ。共同体の中にいる間は、強い者に逆らえない。そういう理不尽が、世界中の共同体で歴史的に蔓延ってきたのだ。弱い人間は打ちのめされて、失意のうちに死んでいく。

 しかし最近は不条理でない共同体や組織も増えてきた。または理不尽なところがあれば是正しようとする傾向も増えてきたと思う。与党の政治家は相変わらず利権政治で強い者の味方だが、民間企業や地方公共団体の中には、弱い人間でも生きていけるところがある。ブラック企業やブラックな共同体やブラックな部活、ブラックな学校からは早く逃げて、ブラックでない場所に行くのがいい。逃げるのは決して恥ではない。
 逃げ遅れると、本作品のような不幸が待っている。ユウがいみじくも「ゴミ」と言ったような人間が統治する共同体は、自浄作用がなく、遅かれ早かれ破綻する。日本という国家もその例外ではないかもしれない。

映画「Les passagers de la nuit」(邦題「午前4時にパリの夜は明ける」

2023年04月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Les passagers de la nuit」(邦題「午前4時にパリの夜は明ける」を観た。
映画『午前4時にパリの夜は明ける』公式サイト

映画『午前4時にパリの夜は明ける』公式サイト

映画『午前4時にパリの夜は明ける』公式サイト

 パリでのシングルマザーの生活は不安で一杯だ。経済的な問題もある。しかし一方では子供たちが与えてくれる喜びや幸せがある。エリザベートはいい娘と息子を持った。フランス映画らしく、互いの人格を尊重して、パターナリズムは登場しない。実存主義的に価値観が相対化されているから、違法行為を除いて、どんな生き方も否定されることはない。ニュートラルな親子関係が心地いい。
 教師も同様で、社会のパラダイムにとらわれることなく、学生の本音を引き出して、将来を考えてくれる。インターネットがない時代は、家族のコミュニケーションが濃かったようで、人は互いによく話し合う。

 現在の日本では、直接話すよりもネットで連絡を取ることのほうが多い。仕事なら言った言わないの問題もあるから、ネットの文章で連絡を取るのが確実だ。後で見直しもできる。しかし突っ込んだ話をするとき、ノンバーバルコミュニケーションが使えないネットの文章はどうにも不十分だ。コロナ禍でZoomやGoogle meatなどのヴァーチャルコミュニケーションツールが使われたのは当然のことである。

 本作品は人が生きていくための場所に焦点が当てられる。エリザベートにとって自分の家は、夫がいなくなった場所であり、娘と息子と喜びや悲しみを分かち合う場所である。いくあてのないタルラにとってはシェルターだ。娘や息子にとってはいつか出て行く場所だろう。
 ラジオ局はエリザベートのもうひとつの居場所である。本作品の原題「Les passagers de la nuit」は直訳すると「夜の乗客たち」となって、ラジオ番組に電話してくるリスナーのことを指していると思われる。パリのあちらこちらに、眠れない夜を過ごす孤独な魂が散在していて、ラジオ局に電話をかけてきては、身の上話をする。
 日本のラジオと決定的に違うのは、自分を飾らず、正直に語ろうとするところだ。虚心坦懐な話ができるのも、ラジオならではだろう。聞き手は一切のバイアスなしで素直に「乗客たち」の話を聞く。
 ラジオから流れてくる、どこかの誰かの本音。会話には文章と違うダイナミズムがある。リスナーたちは違和感を覚えることもあるが、共感することも多いだろう。孤独な夜に、ラジオを通じて世界と繋がるような気持ちになるに違いない。いい作品だった。

映画「ベネシアフレニア」

2023年04月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ベネシアフレニア」を観た。
映画『べネシアフレニア』公式サイト|4月21日(金)公開

映画『べネシアフレニア』公式サイト|4月21日(金)公開

映画『べネシアフレニア』公式サイト|4月21日(金)公開

https://klockworx-v.com/veneciafrenia/

「中国の旅」や「殺される側の論理」などの著作で有名な、朝日新聞の編集委員だった本多勝一が「観光に来られる側の論理」という小文を発表したのを何処かで読んだ記憶がある。内容は忘れてしまったが、身勝手な観光客によって地域が汚されたり、生活が乱されたり、または地域の中で軋轢が生まれたり、あるいは観光に特化したあとで飽きられて、ゴーストタウンになってしまったりする実情を紹介していたと思う。

 本作品には、観光に来られる側の論理を極端に主張するデモ集団が映し出される。観光客は地域に利益をもたらすが、同時に迷惑もかけてくる。文化の違う人々が来るのだから、地元は工夫して対処しなければならないのに、単に怒りをぶつけようとするのは、幼稚な精神性だ。
 その幼稚性を象徴するかのようなテロリストが登場する。ピエロ姿のゴツい男で、軽々とした身のこなしには登場人物でなくても威圧感や恐怖を覚えるだろう。この男がなにより恐ろしいのは、殺人に対する禁忌の感情がないことだ。殺す行為に何の躊躇いもない。

 スペイン人観光客の馬鹿騒ぎには地元民でなくても眉を顰めたくなるが、現実の観光地では商売と割り切って対応していると思う。迷惑だからと観光客を排除したら、観光地の経済は成り立たない。
 しかし最近の国際報道では、異邦人を排除しようとする動きが見られる。本作品で見られるような復讐への傾倒だ。そこには自分を守ろうとする意思がない。自分は死んでも傷ついてもいいから、とにかく相手を酷い目に遭わせたい、あるいは殺してしまいたいという自暴自棄な感情だけがある。争いに対するブレーキを喪失した精神性だ。本作品のピエロと同じである。

 本作品はホラー作品として荒唐無稽に思えるが、案外現実をなぞっているところもある。今後、世界中に被害妄想が蔓延して、多くの人々が異邦人に復讐を果たそうと強い怒りを覚えたら、どうなるのか。武器と兵器と原発が溢れている世界だ。空恐ろしい事態になることは間違いないが、現実は既にそうなりつつあるのかもしれない。