映画「幻滅」を観た。
フランスの貴族の名前には、姓と名の間にde(ド)が入る。本作品のヒロインを演じたセシル・ド・フランスもそうだし、フランス大統領だったシャルル・ド・ゴールやヴァレリー・ジスカール・デスタンもそうだ。ジスカール・デスタンの場合は分かりにくいが、Giscard d'Estaingとフランス語のスペルにすると一目瞭然である。そういえばサルトルの相方だったシモーヌ・ド・ボーヴォワールもde(ド)が入っている。
本作品の主人公である貧しい薬屋の息子リュシアンも、貴族の出身である母方の名前「ド・リュバンプレ」を名乗りたがる。文学青年なのに既存の価値観である貴族の称号にすがろうとする浅ましい精神性から、既に将来的な破綻が目に見えている。権威に対してニュートラルな立ち位置でなければならないはずの文学者が権威にへつらおうとするのは見苦しい。このシニカルな視点は現在のフランス人に通じている。一方でリュシアンが縋ろうとするエスタブリッシュメントは、立場の維持と保身に余念がない。それはナチスに占領されたときのフランスの支配階級の態度とそっくりだ。歴史は繰り返す。
ちなみに本作品の原作者のオノレ・ド・バルザックのde(ド)は、どうやら後付けのようで、貴族のふりをするというバルザック一流のおふざけであるらしい。バルザックの作品はその筆名のように世の中に対して斜に構えたところがある。そもそも自分の作品群に「人間喜劇」という名称をつけたくらいだ。執筆した悲劇の数々は、バルザックにとっては喜劇に映っていたのだろう。
「人間喜劇」の作品群のひとつである「谷間の百合」には、有名な「C'est La Vie」という台詞が登場する。大抵は「これが人生なのです」と大袈裟に翻訳されているが、英語の「So it goes」と同じで、割と日常的に使われる言葉だ。だから「こんなもんさ」とか「仕方ない」といった軽い感じの翻訳がむしろバルザックの台詞らしいと思う。「人間喜劇」の作品群には「C'est La Vie」という皮肉な諦観の世界観が通底している。
翻って現代の世界を顧みると、本作品と少しも変わらない喜劇が繰り広げられているのを目の当たりにする。それは我々の日常から、政治のステージにまで及んでいる。ロシアのプーチン、中国の習近平、北朝鮮の金正恩、日本の岸田文雄、菅義偉、アベシンゾーなどの政治家は人権を蹂躙して憚らない。その本質はISISやタリバンと少しも変わるところがない。しかしそれらが民衆に支持されているのも事実だ。バルザックの小説よりももっとずっと愚かしい喜劇が、現在の世界の現実なのである。C'est La Vie。