映画「Knock ノック 終末の訪問者」を観た。
映画『ノック 終末の訪問者』
『シックス・センス』『オールド』をはじめ、数々の大ヒットスリラー作品を生み出してきた鬼才M.ナイト・シャマラン監督最新作。作家ポール・トレンブレイの全米ベストセラ...
映画『ノック 終末の訪問者』
新約聖書の「ヨハネ黙示録」の第七章から第九章を要約してみると、第七章には、地と海を損なう権威を授かった四人の御使いが世界の四隅に立っていると書かれている。第八章には、子羊が第七の封印を解くと、七つのラッパを持った七人の御使いが現れて、第一から第四までの御使いが順にラッパを吹き、災いがもたらされたとある。第九章には、第五の御使いがラッパを吹くと、ひとつの星が天から落ちて災いをもたらし、第六の御使いがラッパを吹くと、四人の御使いが人間の三分の一を殺すために解き放たれたと書かれている。
本作品は予告編も観ずに鑑賞したが、はじまってしばらくすると「黙示録」に関係のある話なんだろうなと見当がついた。しかしそれにしてはちょっとおかしい。「黙示録」には人間の三分の一を殺すとは書かれていたが、人類を皆殺しにするとは書かれていなかったし、マタイ福音書には「私は生贄を求めない」と書かれている。何か変だ。
結局、最後まで何か変だという感覚は消えず、納得がいかないまま終わってしまった。シャマラン監督の作品は前作「Old」もそうだったが、ディテールがいい加減でご都合主義なところがある。新約聖書の解釈が一番のご都合主義だが、それ以外にも、学校の教師が入れ墨だらけの大男だったり、護身用の拳銃が車に置きっぱなしで弾が込められていなかったりする。そもそもどうしてこの山小屋をノックしたのか、その理由もわからない。結末ありきでストーリーやディテールを強引に合わせたみたいだ。お陰で映画としてのリアリティを損ねてしまった。
それでその結末が感動的かというと、まったくそんなことはない。クリスチャンのヒステリーみたいな作品だ。強引に深読みすれば、世界の平和や地球の未来を人質にして国民に我慢を強いている政治家を揶揄しているという可能性はある。しかし本作品を観ただけでそんな風に受け取るのは至難の技だ。どのシーンにも権力者への批判的なスタンスはない。それどころか、作品作りの動機さえ見えてこない。失礼だが、単に売れる作品が作りたかっただけではなかろうか。「Old」と同じように、シチュエーションのアイデアだけに頼った失敗作だと考えていいだろう。