映画「生きる LIVING」を観た。
ミュージカルの「生きる」を2度観劇した。主演は鹿賀丈史と市村正親のダブルキャストだ。一度目は2018年10月に鹿賀丈史が主人公渡辺勘治を演じた回、二度目はその2年後の2020年10月に市村正親が渡辺勘治を演じた回を観た。どちらの渡辺勘治もそれぞれの俳優のよさが出ていて、とても感動したことを憶えている。特に2020年のときは、コロナ禍の真っ最中であり、マスク着用必須で会話も控え、前方の何列かは客席として使用しないという対策が取られている中での観劇だったが、演出の宮本亜門をはじめ、ほとんど同じキャストが揃っていた。共通して助役を演じた山西惇が存在感があって、役所という前例踏襲と保身のヒエラルキーの組織を象徴していた。それは悪意の象徴でもあった。
その2公演の記憶をベースにして本作品の公開を迎えたので、否が応でも期待は膨らむ。主演はビル・ナイだ。「マイ・ブック・ショップ」や「ニューヨーク 親切なロシア料理店」での厚みのある脇役ぶりが印象に残る。さぞかし感動的な作品になるに違いないと思っていた。
しかし期待とはちょっと違っていた。それはミュージカル版の「生きる」とは違っていたという意味で、本作品も悪くない。悪くないが、期待したほどの感動はなかった。それはおそらく、舞台の違いによるものだと思う。
黒澤明監督の「生きる」が公開されたのが、戦後7年しか経っていない1952年。大空襲や原爆投下がまだ記憶に新しいときだ。戦前から戦時下、戦後へと社会が変わっても、少しも変わらなかったのが役所の渡辺課長である。心の中には戦争に協力した過去に対する忸怩たる思いもあっただろうが、表面的には事なかれ主義で、陳情を平気で塩漬けにする。
行動が習慣を変え、習慣は性格を変え、ひいては人生を変えると言ったのは、ウィリアム・ジェイムズだったかマザー・テレサだったか。渡辺もかつては、世の中の役に立とうとして役人になったはずだ。しかし保身と責任回避の、謂わば暗黙のパラダイムが蔓延する役所に長年勤務しているうちに、無気力で無関心な人間になってしまった。行動が性格を変えた訳だ。本作品も同様のストーリーが語られるが、いささか上品すぎる感がある。
日本が舞台の作品では、戦後復興のエネルギーが満ちていて、誰もが自分だけ得をしようという欲望が滲み出ていた。おばちゃんたちの下品で下世話な雰囲気にもそれが現われていて、渡辺勘治はいささかうんざりしているように思えた。それはある意味で人間性の否定である。
対して、ロンドンのご婦人たちは上品で、悪態をつくこともない。ウィリアムズ課長はやや離れた距離で眺めているだけだ。そこに人間性の否定はない。
「生きる」の見どころは、課長の心が人間性の否定から肯定に大転換するプロセスにある。本作品は、そこが少しだけ弱かった。優良可で言えば、良程度の評価が妥当だろう。