映画「トリとロキタ」を観た。
変な言い方だが、人間は物心ついたときには、すでに生まれている。自意識が目覚めて自分の生を認識したときには、否応なしに自分には生命があって、現実に存在しているということを思い知るのだ。そして他の動物が考えないことを考える。自分はどうして生まれてきたのか、自分の存在に意味はあるのか、自分は何をすべきなのか。ゴーギャンの有名な絵のタイトルのようだ。
誰も貧しい国の貧しい家庭の子供に生まれてきたくはないだろう。しかし自分の生まれは自意識が目覚めてからやっと気がつくものだ。そして気がついたときには既にのっぴきならない状況にあることが多い。人間は実存なのだ。
本作品のトリとロキタは、残念ながら貧しい国の貧しい家庭の子供で生まれてしまったようだ。両親は教育レベルが低いと推測され、自分たちの生活の向上のためにロキタを出稼ぎに出したのではないかと思われるが、本作品はトリとロキタがベルギーにいるところから始まるから、背景は観客が想像するしかない。
非合法に出国して非合法に他国に入国するには、非合法の業者の手を借りるしかない。トリとロキタがどうやって故郷の国からベルギーに渡ってきたのか、その悲惨な道程は想像に難くない。辿り着いた場所で紹介された仕事は、やはり非合法だ。トリとロキタにとって、現実はどの場所にいても厳しい。
ダルデンヌ兄弟監督の作品は本作品以外に「La fille inconnue」(邦題「午後8時の訪問者」)と「Le jeune Ahmed」(邦題「その手に触れるまで」)を鑑賞した。いずれも人間を冷徹に等身大に描いて、実存をあぶり出す作品だ。本作品でもニュートラルな立ち位置はそのままで、登場人物を冷徹に突き放す。トリとロキタも例外ではない。
我々の立っている地盤は、丈夫そうに見えても中身は流動化している可能性がある。いつトリとロキタの境遇に陥らないとも限らないのだ。自分の幸運に胸を撫で下ろすのではなく、トリとロキタが自分と同じ実存であることを認めて、その上でどうすればトリとロキタの人権が擁護される社会になるのかを考えなければならない。合法が非合法を駆逐する社会になるために、いま何をしなければならないかを考えなければならない。決して他人事でも対岸の火事でもない。トリとロキタは我々なのだ。
世界的に国家主義のパラダイムが広がりつつある時代だ。危機感を覚えている人は多いと思う。戦争は人権蹂躙の究極である。トリとロキタの人権を守ることが戦争回避への道だ。それは我々自身を守ることでもある。
トリとロキタを演じたふたりは、演技が初めてだったらしい。それにしては演技が自然で臨場感に満ちていた。見事である。