映画「渇水」を観た。
とても面白かった。主人公は水道局の職員という地味な役柄だが、水道代を払えない人々の上水道の給水停止処理を続ける中で、やりきれない世の矛盾を実感していく。
岩切と木田のコンビがとてもいい。水道という最も基本的なライフラインの代金さえ払えない人々に対して、自分たちは税金で暮らす安全圏にいることを自覚している。決して前向きな仕事ではないし、何も生み出さない。
ふたりの疑問はよく分かる。公務員は市民のために働く仕事ではないのか。水道を停止していくことは市民の生命や健康を危険に陥れこそすれ、決して市民の福祉に寄与しているとは思えない。課長の態度を見ている限り、仕事だからやれ、嫌なら辞めろと言っているみたいだ。
しかし課長の言うことは、ある意味で間違っていない。大抵の人は自分にできることを仕事として生活している。好きなこと、やりたいことだけをやって生きていける人はごく少数だ。好きでもない仕事でも、作業興奮という脳の働きで、大方の作業は楽しく感じるようになる。仕事の意義や社会貢献を顧みたりしなければ、働くことはそれほど苦痛ではない。
だが他人を苦しめる仕事はどうだろうか。強盗や泥棒や詐欺みたいな犯罪でも、成功体験がドーパミンを分泌させるかもしれない。結果が出る仕事だ。結果が出ないで、単に他人を苦しめるだけの仕事はそんなにないかもしれない。水道局の給水停止係はそういう意味では苛酷な仕事だ。
さて仕事と同じように、実家に帰っている妻と子供との関係にも悩む岩切だが、世の中が乾燥していても、人と人との間には潤いが必要であることに気がつく。それが滝のシーンである。乾燥しているはずなのに滝の水量が多いことは置いておいて、描きたかったのは滝壺周辺に大量発生しているマイナスイオンだろう。マイナスイオンを浴びて潤うことで人は癒される。
潤いとは優しさだ。他人の幸せを思う無償の行為である。スーパーで少女を見たときに、岩切の心に天啓のように潤いが溢れ出す。他人とどう接すればいいのか、答えは簡単だった。
タイトルの「渇水」に心の渇きの意味もあることは誰もが承知していると思う。使われる童謡は野口雨情の「しゃぼん玉」と北原白秋の「あめふり」だ。いずれも子供と水の関係性を歌った歌である。本作品には、世の中が乾燥していても、心に潤いのある生き方は可能だと思わせる部分がある。それは髙橋正弥監督の優しさかもしれない。今年(2023年)の6月23日公開予定の同監督の「愛のこむらがえり」も楽しみだ。