映画「ウーマン・トーキング 私たちの選択」を観た。
ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説「百年の孤独」を思い出した。ある夫婦が未開の地を開拓して造った共同体マコンドの栄枯盛衰を描いた壮大な物語である。その中でひとり実験と思索にふける男がいて、あるとき驚いたように「この世界は丸い」と言った。定期的にマコンドを訪れるジプシーのメルキアデスがそれを聞いて、地球が丸いのは周知の事実だが、この男が観察と思索だけでその結論に辿り着いたのは大したものだと褒める。
本作品の舞台となった村も、外界と隔絶されて独自の掟で営まれている。2010年の話とは思えないほど、女たちの衣装は古めかしい。つまりは現代のマコンドだ。男尊女卑の階級社会であり、長老がすべてを決める。教育を受けるのは男に限られており、教育の内容は男尊女卑の村の掟である。女たちの識字率はゼロで、おそらく地球が丸いことも知らないに違いない。
女たちの議論は唯一教育された宗教の教義に基づいている。他の考え方を知らないのだからやむを得ないと思わせる。しかし議論が進むにつれて、教育を受けていなければ難しいレトリックも登場するようになり、ややリアリティに欠ける。本作品に難点があるとすればそこだ。
もちろん日本の不良たちが繰り出すような論理破綻した発言も出てくるが、説得力はない。スクエアな主張も残しつつ、議論は原始的な共同体を維持しようとする守旧派から、自由と平等の民主主義の方向へ転換しようとする革新派へ進んでいく。
書記を務めるのは大学で高等教育を受けたオーガストである。彼は民主主義の考え方を紹介することが出来たが、そうしなかった。女たちがみずから議論を深めることのほうが重要だからである。
オーガストの考えはわかる。女たちが主体性を獲得するのが最も大事なのだ。これまで長老が指導するまま、男たちの言うがままに生きてきた。これからは自分たちで生き方を決めなければならない。オーガストの覚悟が陰で女たちを支えていたのだが、それに気づいていたのはオーナだけだった。しかしそのオーナでさえも、宗教の呪縛からは脱しきれない。神という概念は常に善のベールを被っているから、とても厄介だ。
オーガストを演じたベン・ウィショーの雰囲気が日本の俳優の堺雅人に似ていると思ったのは当方だけだろうか。同じタイプの名優だと感じた。オーガストは、ともすれば横道にそれたり現実離れしたりする女たちの議論を、ひとつの方向性にまとめる役割を見事に果たしていた。