映画「わたくしどもは。」を観た。
死は、介在的にしか認識されない。生きている人の中に、死んだことがある人はいない。代替的な話として、臨死体験が語られることはある。しかしそれは潜在意識の働きであり、実際に死んだ体験とは本質的に異なる。死の判定は脳死と心臓死だが、人間の基準に過ぎない。死とはなんだろうか。
本作品は、科学的な知見よりも、情緒的なイメージを映し出す。魂という言葉が使われる。死んだらどこに行くのか。意外にどこにも行かないのかもしれない。名前はなく、記憶もない。当然ながら、アイデンティティもレーゾンデートルもない。死は恐れるものではないと言いたいのだろうか。
歴史的な由来も顔を覗かせる。水くみは大変な重労働だったという台詞は、江戸時代に佐渡金山に送られて強制労働をさせられた人々のことを語っているに違いない。人間にとって死が介在的であり、歴史的であることが伝わってくる。
小松菜奈の特徴的な化粧は、登場人物の帰属を示していると思う。
太い眉はクロ。
厚い唇はアカ。
顔の肌はキイロ。
これにミドリが加わり、あとはアオがあれば光の三原色の完成だ。ミドリが登場しなければ、クロもアカもキイロも登場しなかった。富名哲也監督のイメージの広がり方がそれとなくわかってくる。雲の隙間から海に注ぐ光の筋の映像は、そのイメージが集約されたようで、とてつもなく美しい。
死でも生でもなく、否定するでも肯定するでもない。出逢いも別れも、ただ悠久の時間の中で、無の世界に戻っていく。人類の誕生から滅亡までを見通したような、観ごたえのある作品である。