映画「オールド・フォックス」を観た。
社長のことを中国語で老板(ラオパン)という。社長のシャは漢字だと一般的には謝だろう。謝はピンインだとxieだから、シャよりもシェに近い。字幕がシャだったのは、日本の音読みに従ったのだろう。
謝老板の思想は単純だ。人間は勝ち組と負け組に分かれる。カネを儲けた人間が勝ち組で、勝ち組に使われて僅かなカネで細々と生きているのが負け組だ。他人のことを気にかけていては、金持ちになれない。他人を踏み台にして儲けるのが勝ち組だ。
他人を踏み台にするには、力が必要である。力は腕力だけではない。カネそのものが力であるのに加えて、情報も力となる。他人のことは気にかけないが、人の気持は読まなければならない。それも情報のひとつだからだ。
人の気持ちを読み、操る。世の中は不平等(プーピンダン)だ。人の不幸の上に勝ち組がいる。強い者といると上がっていくが、弱い者といると落ちていくと洗脳する。だから自分に従っていれば大丈夫なのだ。
金持ちの謝老板を紹介する一方で、カネに人生を左右される庶民の姿を描くことも忘れない。カネを得て喜ぶ人はカネを失って泣く。庶民は毎日のカネに汲々として生きている。しかしカネのこと以外にも、日々の小さな喜びがある。
リャオジエの父親はレストランのホール係だ。客の名前と顔を覚えて、予約の状況まで把握している。客から信頼されているのは、仕事のやりがいでもある。美しい思い出もある。思い出の蓄音機は、レコードの柔らかい音を流してくれる。古いサキソフォンは、音は濁っているが、それなりの味がある。
11歳のリャオジエにとって、父親はいい人だが、地味に映る。スポーツカーや運転手付きのロールスロイスに乗る謝老板は、派手で立派に見える。比較すれば謝老板に憧れてしまうのは、子供なら仕方のないところだ。実は謝老板にもたくさんの苦悩があり、父親にはたくさんの楽しみがあることを、リャオジエはまだ知らない。
思うようにならないのが人生だ。他人の不幸を乗り越えて幸運を掴んでも虚しいばかりだということを、謝老板は決して語らない。それは自分の人生そのものを否定することになるからだ。老板は裕福だ。しかし心は自転車操業なのである。
よく出来た作品だが、比喩的なシーンが多くて、頭をフル回転させながらの鑑賞となった。台湾語の響きがとても美しい。台湾語のニュアンスがわかれば、登場人物の機微がもっとわかったかもしれない。