三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Celle que vous croyez」(邦題「私の知らないわたしの素顔」)

2020年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Celle que vous croyez」(邦題「私の知らないわたしの素顔」)を観た。
 http://watashinosugao.com/

 なんともはや、ブラックな少女マンガみたいな作品である。決して悪い意味ではないが、それほどいい意味でもない。
 フランスでは恋愛に年齢は関係ないというのが常識で、中年以降になっても堂々と彼、彼女の話をする。それは多分いいことだ。シャンソン歌手のコンサートのトークで聞いたが、フランソワーズ・モレシャンは80歳近くになってもきちんと化粧をして赤いワンピースを着てハイヒールを履いて、これからデートなのと言わんばかりに艶然と微笑んでいたらしい。性に開放的なフランス人ならではのエピソードである。とても洒落ている。
 いくつになっても恋の炎を燃やすのはいいのだが、肉体は必ず衰える。恋は上手くいっても性行為は上手くいかないことがある。歳を取れば尚更だ。老いのもどかしさがそこにある。
 人体の耐用年数は50年ほどだそうだ。従って本作品のヒロインは減価償却を終えている。しかし精神は若くて、まだまだ若い男と恋をしたい。現実にはかなり難しいが、ネット上のバーチャルならそれが出来る。
 ジュリエット・ビノシュが演じた主人公クレールは、知的な職業の人らしくSNSを縦横無尽に使いこなし、ゲームのように人を手玉に取る。嘘と嫉妬と自尊心のゲームだ。
 しかしゲームには必ず落とし穴がある。その落とし穴はクレール自身が掘ったものだ。つまり、どれほど愛されていても、更に相手の愛を確かめずにいられない女心の闇である。クレールはその穴にみずから嵌まってしまう。
 ジュリエット・ビノシュはやはり凄い女優である。常人は人生で稀にしか遭遇しない女心の闇を、本作品ではこれでもかとばかり見せつける。
 女の言葉にはそこかしこに罠が散りばめられている。人を試し、欺き、そして支配するためだ。少女マンガの台詞はそういう言葉で溢れている。女心の闇も、人生の真実のひとつである。恐ろしいと解っているその深淵を、誰しも覗き込みたくなるのだ。

 本作品はストーリーも人物の相関関係もよくできている。自分のはじめたゲームに翻弄されつつも、次の一手を繰り出していくヒロインから目が離せない。エンディングでは深い溜め息が出た。


森山良子コンサート

2020年01月18日 | 映画・舞台・コンサート

 Bunkamuraオーチャードホールに森山良子コンサートに出掛けてきた。

 昨年の3月に日本武道館で観たジョイントコンサート「あの素晴らしい歌をもう一度」で初めて森山良子の生の歌を聞いた。よく歌手にとって喉は楽器という言い方をするが、森山良子には、たしかにこの人にとって喉は楽器なんだろうなと思わせるところがある。ひとりだけ他の歌手とは一線を画していたように感じた。もはや歌手というより歌のモンスターといった感じで、是非もう一度聞きたいと思った。
 そこでコンサートのチケットを探したが、随分と地方でのコンサートが多い人で、漸く取れたチケットは年明けのオーチャードホールだったという訳だ。
 聞いたことのない歌が何曲かあったが、大方は馴染みのある曲で、代表曲の「涙そうそう」「さとうきび畑」「この広い野原いっぱい」も含めて、沢山の歌をもう一度歌ってくれた。特にヴェルディの「乾杯の歌」(オペラ「椿姫」より)は見事だった。
 そして「さとうきび畑」。亡き寺島尚彦が1967年に作った歌で、以来50年に亘って森山良子をはじめ、たくさんの歌手が歌ってきた。沖縄戦の悲劇を歌った歌だ。早くこの歌が歌われなくなる時代が来ればいいと森山良子は言う。しかしまだそんな時代は来ず、これからも歌い続けなければならないとも言う。今回初めてこの長い歌(8分ちょっと)を最初から最後まで生で聴くことができて、本当によかったと思う。聞いていて、途中から涙が止まらなくなってしまった。

 アンコールは「聖者の行進」である。途中からのスキャットはルイ・アームストロングのトランペット、ソニー・ロリンズのサックスなど、演奏者と楽器のセットの真似をしながらで、これが延々と続く。まさに圧巻であった。この人は本当に歌のモンスターだ。次のコンサートは3月の大田区民ホールで、既に予約済みである。今から楽しみだ。


映画「L'heure D'ete」(邦題「夏時間の庭」)

2020年01月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「L'heure D'ete」(邦題「夏時間の庭」)を観た。
 https://eiga.com/movie/54365/

 ジュリエット・ビノシュは河瀨直美監督の「Vision」で見たのが初めてだった。河瀨監督らしい難解な映画で、心に空いた穴を埋める何かを探すような役柄を演じていたのが印象的だった。
 本作品のビノシュは10年以上前の映画とあって、見た目も演技もかなり若い。今回は三兄妹のひとりで、ニューヨーク在住のデザイナーの役である。珍しく英語を話すシーンがあって、フランス訛りの英語がアメリカンイングリッシュの溢れるニューヨークで異彩を放っていた。
 原題の「L'heure D'ete」はそのまま夏の時間であり、実家の家と庭が中心的な舞台となっていることから、邦題「夏時間の庭」はわかりやすくて秀逸だと思う。三兄妹はそれぞれフランス、アメリカ、中国に住んでいて、たまに実家に帰ってくる程度だ。母がなくなって家を処分することになる。その経緯の中での家族模様を描く作品であり、時の流れと人の移ろいが中心的なテーマだと思う。
 坦々と進むストーリーで起承転結がないから、物語としての盛り上がりには欠けるが、全体を通じて底に流れている無常感のようなものがあって、大森立嗣監督の「日日是好日」を思い出した。
 三兄妹は実家と庭のこまごまとした思い出をいつまでも心にしまって生きる。孫にとっておばあちゃんの家は人に自慢ができる宝物だ。家政婦にはそこで働くことが人生だった。家と庭に関わった人々にとってはどこまでも美しく楽しい場所であり品々であったのだ。
 俳優陣の演技があまりにも自然であり、本物の家族にしか見えなかった。映画としての完成度はとても高いと思う。こういう映画は雰囲気だけみたいに感じてしまう場合もあるが、本作品のそれぞれのシーンの奥にある世界観は、日本文学に通底する諸行無常のような死生観に通じるところがある。奥の深い作品である。


GGスペシャルコンサート2020

2020年01月18日 | 映画・舞台・コンサート

代々木公園駅近くのHakuju Hallの武満徹のGGスペシャルコンサート2020に出掛けてきた。Hakuju Hallはキャパが300席の小さなホールだが音響はいい。客席の傾斜が小さいので席を千鳥に配置して見やすくしている。なかなかいいホールだ。GGコンサートの意味は不明。調べてもわからなかった。

 武満徹は大江健三郎の著作で知った。イラストレーターの司修のことを紹介していた頃だと思う。同じくらいの頃に谷川俊太郎の詩についても言及していて、特に「カッパかっぱらった」という一節について、言葉遊びの要素について述べていたと思う。反戦歌「死んだ男の残したものは」は、谷川俊太郎作詞、そして作曲が武満徹である。
 今回のコンサートは前半はギタリスト福田進一さんのソロコンサートで、曲目は所謂現代音楽と呼ばれたものである。和音と不協和音が混じり合い、なんとも言えないいい雰囲気になる。ものすごく眠くなった。
 後半は最初は武満徹がアレンジした曲のギターソロ。早春賦、サマータイム、オーバーザレインボー、ビートルズのミシェル、イエスタデイなど。その後はカウンターテナーのオペラ歌手藤木大地さんとのコラボレーション。アンコールの一曲目は映画「マチネの終わりに」から「幸福の硬貨」。二曲目は再び藤木大地さんの歌で〆た。
 GGコンサートの意味さえわからずに、武満徹というワードだけで出掛けたのだが、思いがけずいいコンサートで、お正月から得をした気分である。


映画「フォードvsフェラーリ」

2020年01月13日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「フォードvsフェラーリ」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/fordvsferrari/

  ル・マンはあまり見なかったが、F1レースは時々テレビで見た。プロスト、セナ、マンセル、シューマッハなどが活躍していた頃だ。数日前に観た「男はつらいよ お帰り寅さん」の後藤久美子を見て、ジャン・アレジも活躍していたことを思い出した。
 イモラ・サーキットでのセナの事故を最後にあまりF1レースを見なくなった。セナはやたらに後続車をブロックするのであまり好きなドライバーではなかったが、それでも事故は気の毒だった。その後はフェラーリが全盛期となり、どうも毎年のレギュレーションがフェラーリに都合よく変えられているように思えて、急速にF1に対する興味を失ってしまった。
 F1中継は遠いカメラから俯瞰して望遠で映すので、あまりスピードを感じないが、オンボードカメラの映像はかなりの迫力があり、特にテールトゥノーズの場面はスリリングで興奮したことを憶えている。レースは直線のスピード比べとコーナーのブレーキング競争が醍醐味で、本作品にもその辺のシーンがたくさんある。映画は好きなように撮影できるから、本作品の映像ではF1のオンボードカメラを遥かに凌ぐ臨場感と緊迫感を味わえた。

 マット・デイモンは、ロバート・ラドラム原作の「暗殺者」のジェイソン・ボーンを演じたときの切れ味鋭いアクションのおかげでアクション俳優という印象もあるが、セシル・ド・フランスと共演した「ヒア・アフター」(クリント・イーストウッド監督)やスカーレット・ヨハンソンと共演した「We bought a zoo」(邦題「幸せへのキセキ」キャメロン・クロウ監督)では、情緒豊かで思いやりのある役柄を演じ、演技派の俳優として認められたと思う。そして「サバービコン 仮面をかぶった街」(ジョージ・クルーニー監督)では、表面を飾った利己主義者をケレン味たっぷりに演じてみせた。
 本作品では優しさ溢れる熱血漢キャロル・シェルビーを演じ、ときにいたずらっ子のような側面も見せて、非常に魅力的なキャラクターの主人公を作り上げた。もうなんでもできる役者である。ダブル主演のクリスチャン・ベールも、3歳時のわがままさと素直さとひたむきさを残しながら中年になったようなマイルズを存分に演じた。

 作品の構図は、自動車の能力向上とその証としてのレースでの勝利を目指す純粋な男たちと、利益第一の資本家の力関係である。フェラーリはF1でオフィシャルに圧力をかけたが、昔からそういう会社であったことがわかる。フォードはアメリカらしく大量生産の会社だが、自動車は精密な機械だ。少なくともエンジニアは大雑把ではない。
 自動車は人を載せてある程度以上のスピードで走る輸送の道具である。当然ながら安全が第一だ。F1マシンのコックピットは相当に頑丈に作られていてドライバーを守る。それでもセナの事故は起きた。自動車レースは常に危険と隣り合わせなのだ。
 本作品のレース映像は屈指の迫力である。それは主にカメラの位置の低さによるものだとは思うが、事故が起きないかとハラハラする気持ちも手伝って、手に汗握りながら観ることになる。おかげで153分の上映時間があっという間だ。むしろ短く感じるくらいである。

 キャロル・シェルビーの演説のシーンに、10歳の頃になりたかった職業に就くことができるのは一握りの幸運な人々であり、幸いなことに自分もそのひとりだという言葉があった。まさにその通りであるが、そのためには多くの障害を乗り越え、多くの妥協もしなければならない。
 本作品は二人のレーサー兼エンジニアの生き方に人生の真実を投影する。彼らは自動車の発展に寄与し、人々にレース観戦の楽しみを提供してきた。失うものも多かった二人だが、得るものも多かった。人を恨まず、状況を受け入れて真っ直ぐに努力した彼らの生き方に、爽やかな感動を覚えたのであった。


映画「男はつらいよ お帰り寅さん」

2020年01月13日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「男はつらいよ お帰り寅さん」を観た。
 https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie50/

 古いシャンソンのような映画である。古いシャンソンという言葉で思い出すのは、石黒ケイが歌った「ひとり暮らしのワルツ」だ。元の曲はイタリアの民謡だそうで、五木寛之が歌詞をつけた。各番が次の一節で結ばれる。

 そうよ人生は古いシャンソン
 女と男の恋のルフラン

 ルフランは英語のリフレインで、繰り返しの意味だ。寅さんは旅先で出逢った様々な美女と何度も何度も恋をするが、悉くフラレてしまう。
 その歴代マドンナがフラッシュバックで登場するシーンが沢山あり、僅かな時間のひとつひとつに懐かしい感動がある。新珠三千代、栗原小巻、若尾文子、池内淳子、八千草薫、岸惠子、十朱幸代、太地喜和子、大原麗子、香川京子など、往年の名女優が登場すると、一瞬で涙腺が緩むのだ。
 松坂慶子のうなじには尋常ではない艶っぽさがあり、階段を駆け下りる田中裕子は爽やかな色気を発散し、微笑む吉永小百合は永遠の可愛らしさを感じさせる。どの女優も素晴らしい。山田洋次監督は「たそがれ清兵衛」で宮沢りえの美しさを究極まで引き出したように、女優の美しさを引き出す天才だ。
 そしてこんな美人さんたちに、寅さんは何故かモテる。率直だがシャイな人情家のところがいいのか、小うるさいが思いやり深いところがいいのか、それとも他の何かがいいのか、よく解らない。兎に角、寅さんというキャラクターを生み出したとき、製作者は有頂天になったに違いない。寅さんの恋をリフレインすれば無限にエピソードができるからだ。

 とはいえ、今回の主人公は満男である。結婚して娘が出来たが6年前に妻を亡くし、会社を辞めて作家になった満男だ。
 吉岡秀隆らしいこだわりの演技で、あまり映画やドラマで見かけない、一風変わった父親像を作り上げている。特に娘を「きみ」と呼ぶところがいい。娘の人格を尊重し、娘として愛するとともにひとりの人間としても愛するという奥の深い関係性になっている。
 娘のユリを演じた桜田ひよりの演技もよかった。パパ大好きの気持ちが素直に伝わるし、分別のつきはじめた年頃なりの喜びや悩みも上手に演じてみせた。もちろん年を経た後藤久美子もよかった。
 山田洋次監督らしく、大げさなストーリーや演出はないが、日常的なシーンの中にさりげない異化を挟むことで、そこかしこにテーマを鏤める。観客は笑ったり泣いたりしながら、人生の深みを垣間見れるのだ。フラッシュバックのタイミングも含めて、とてもよくできた映画だと思う。寅さんシリーズを観ていなくても、この作品だけで十分に楽しめる。


映画「シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢」

2020年01月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢」を観た。
 https://cheval-movie.com/

 恵比寿ガーデンシネマは恵比寿ガーデンプレイスの外れ、ウェスティンホテルの向かいにあり、隣にはジョエル・ロブションのグランメゾンが堂々と建っている。噂によると中はいくつかの空間に分かれていて、それぞれ値段も違うとか。一番高いガストロノミー(フランス語で食道楽)ではランチが3万円、ディナーが5万円ほどするらしい。注文するワインによってはもっと高額になることもままあるとか。
 ここほど高くはないが、フランス料理店で二人で夕食を食べて、ワイン込みで10万円払ったことは何度かある。しかしそのいずれもややこしい料理ばかりで、何を食べたかあまり記憶に残っていない。もちろんどの料理も素晴らしく美味しかったことは憶えているが、人間の味覚は大抵の料理を美味しく感じるように出来ている。フランス料理もラーメンも、同じ程度に美味しいのだ。それにどちらかと言えば寿司やラーメンのように臨場感のある料理のほうが記憶に残っている。多分素材をストレートに連想できる料理のほうが印象が強いのだろう。

 さて本作品では主人公シュヴァルがパンを捏ねる。パン屋で働いた経験があるからだ。指ではなく手のひらを使うのがコツだと語りながら、力強くパンを捏ねる。焼き上がったパンはとても固そうだが、美味しそうでもある。多分記憶に残る味なのだろう。フィロメーヌは無口な夫を少しずつ理解する。シュヴァルも、慣れない子供の相手に次第に慣れてくる。生まれたアリスは頭のいい可愛い娘になった。
 フィロメーヌを演じたレティシア・カスタがいい。昨年(2019年)末に「パリの恋人たち」を観たばかりで、若い恋人を手のひらで転がすようにもて遊んでいた美熟女の役が記憶に新しいにもかかわらず、本作品の地に足のついた女の役も自然に受け入れられる。大した演技力である。
 この住みにくい世界でフィロメーヌに出会えたことは邂逅だと、最後の最期にシュヴァルは愛の言葉を語る。ささやかなフィロメーヌの人生。しかし幸せな人生。シュヴァルの行動を無条件に受け入れ助けてくれたフィロメーヌ。無口なシュヴァルの愛情がひしひしと伝わってくる。
 出来上がった宮殿はとても見事である。あちらこちらに鏤められたシュヴァル独自の教訓の言葉。観光客が訪れるのは、この宮殿に人生があるからだ。ささやかなシュヴァルの人生。フィロメーヌとともに歩んだ半生。思いを言葉にすることなく、ただ黙々と作り続けた宮殿には、シュヴァルの家族への愛と悔恨が山のように盛られ、固められている。
 シュヴァルは昔から古い建物が好きだった。動物も昆虫も、風も星も好きだった。宮殿を建てようとした動機は単純だが、それだけに力強い。生き物と自然と宇宙を共にして、一緒に宮殿を造り続けた。アリスもフィロメーヌも応援してくれた。決してひとりではなかったのだ。
 長距離を歩く郵便配達と夜を徹しての宮殿づくりに身体を酷使し続けるシュヴァルを心配しながら観る映画だが、エンドロールになってはじめて、シュヴァルの素晴らしい人生を振り返ることができて、思わず涙が溢れてきた。名作だと思う。

 観終わってガーデンシネマを出ると、ジョエル・ロブションのグランメゾンがやけにみすぼらしく見えた。


映画「さよならテレビ」

2020年01月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「さよならテレビ」を観た。
 https://sayonara-tv.jp/

 ポレポレ東中野は設備は古いし、インターネット予約にも対応していない都内でも有数のおんぼろ映画館である。しかし上映作品の選択は素晴らしい。マイナーだが上質の作品を臆さずに上映する。とは言っても、やっぱりインターネット予約ができないのはマイナスで、現地に行って満席で入れなかった記憶があるために行くのを躊躇ってしまう。去年こちらで鑑賞したのは「誰がために憲法はある」の一本だけだ。これがとても素晴らしい映画で、当方としては最高点の4.5をつけさせてもらった。

 さて本作品も決して大手のシネコンが上映しないだろうと思われるレアな作品である。2018年の9月にテレビ放送されたとのことだが、東海テレビはよくこういう作品を放送したものだと思う。特に悪役に見られてしまった編集長(パワハラ)とデスク(保身)は気の毒だ。本当はもう少しまともな人だと思う。
 最初の方は撮影の意義ややり方についての疑問や異論が噴出して収拾がつかないシーンが連続し、どうにも不安定な感じだった。テレビ局が抱える問題が、正しい報道、視聴率、スポンサー、そして36協定の遵守など、対立するテーマの克服であるという場面があり、同じことはすべての企業で起きていることである。つまりこのドキュメンタリーはひとつのテレビ局の話にとどまらない。ちなみに36(さぶろく)協定を知らない人のために説明すると、労働基準法第36条には、従業員に時間外労働をさせる場合は労使間で協定を結び、労働基準監督署に届けなければならないと定めている。この協定を第36条にちなんで36協定と呼ぶ。時間外労働は月に45時間まで、年に360時間までと定められている。

 その後澤村さんや福島さん、渡辺くんが登場すると追いかける対象が安定してドキュメンタリーの軸ができてきた。3人それぞれのテレビとの関わり合いかたが本作品の主題である。看板アナウンサーである福島さんのシーンはほぼ一般のサラリーマンの悩みであり、派遣社員の渡辺くんは適正と能力の話であった。主眼はやはり澤村さんのシーンだろう。

 澤村さんの登場時は斜に構えた人という印象だった。業界で所謂是非物、あるいはZ案件と呼ばれる、クライアントを褒め称えるビデオ、簡単に言うとヨイショ番組を作成している場面である。前職でたくさんやってきたから抵抗はないという澤村さんの表情には、どこか忸怩たるものが感じられた。特に「撮影したらそれが事実なの?」という疑問は、ディレクターには意味不明だったが、澤村さんの哲学の一端が漏れ出したようだった。共謀罪についての取材の場面では、権力の監視者としてのジャーナリストの側面が前面に出て、再び戦争に向かおうとするこの国に対する澤村さんの危惧が伝わってくる。
 共謀罪法とは、批判の多かった共謀罪法案をテロ等準備罪法案(正式には「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」)と言い方を変え、安倍政権が2017年に強行採決で成立させた法律である。澤村さんは「共謀罪という言葉を使わないメディアは権力を支える方を選んでいる」と一刀両断に切り捨てる。澤村さんに従ってこのレビューでも共謀罪という言葉を採用する。
 共謀罪について解説すると、現行の刑法犯は未遂でも逮捕される場合があるが、準備の段階では逮捕はほとんどされない。ところが共謀罪は準備よりも前の段階、人に話しているだけで逮捕される。しかも必ずしも複数の人間の共謀を前提としないということで、頭の中でたとえば「安倍晋三に天誅が下ればいい」と考えただけで共謀罪となる可能性がある。驚くことに自首もできるのだ。寒空の下の浮浪者がよくコンビニで金を出せと言って通報させてしばらく留置場に泊まることがあるが、これからはいきなり交番や警察署に行って「実は総理大臣を殺そうと思っている」と言えば、共謀罪で留置場に泊まれる。警察官が受理してくれればの話ではあるが(笑)。
 つまり憲法が保障している「内心の自由」は完全に蹂躙されるということだ。たとえばある男性が美しい女性を見る。中には下心がある男性もいるかも知れないが、それは表に出さなければ自由のはずだ。しかしその場に警察官がいて、その男性が女性に何か危害を加えようとしたとして逮捕される可能性がある。下心があったかどうかなんて、取り締まる側の胸算用ひとつなのだ。
 共謀罪が濫用されると、そんなふうに女性を数秒以上見つめたら逮捕という世の中になりかねない。女性に限らず、男性が男性を、女性が女性を、または女性が男性を見つめても、権力がそれを共謀だと認めれば逮捕される訳だ。現政権に都合の悪いことを言う評論家がいたら、この手で逮捕できる。そして繰り返すが、自首もできる。寒さに凍えるホームレスが警察署に列を作っている様子が頭に浮かぶ。共謀罪で自首するためである。殆どスラップスティックの世の中だ。笑える話ではあるが、笑いごとではない。

 テレビ局員はサラリーマンである。年収は多いほうがいい。澤村さんとディレクターの間で、年収300万になってしまったら恐怖だという内容の会話があった。しかし現在日本の労働者の4割以上が年収300万円以下である。そういう人たちがこの会話を聞いたら、テレビマンはやはり高収入で恵まれていると思うだろう。その高収入を支えているのはテレビ局の収益であり、スポンサーであり、つまりは視聴率である。
 タイトルの「さよならテレビ」は澤村さんをはじめとする記者たちのジャーナリストとしての矜持と、利潤を追求する企業としてのテレビ局との相克かもしれない。テレビで真実を伝えることは重要だが、それでは視聴率が取れず、スポンサーがつかない。収益が減少して経営が悪化する。ジャーナリストは霞を食って生きている訳ではない。それなりに収入も必要だし、取材には裏の金もかかるだろう。
 ひとつ言えることは、マスコミに真実の報道を求めている人が多ければ、報道番組の視聴率は上がるはずだということだ。テレビに真実を求めていない人は報道番組を見ない。お笑いやドラマなどのエンタテインメントばかりを見るだろう。必然的にそういう番組が多くなる。そして現にそうなっている。旅とグルメの番組が溢れかえっているのは、費用対効果がいいからだ。真剣な報道番組は、もはや需要がないのだ。
 イギリスの諺に「国民は自分のレベル相応の内閣しか選ぶことが出来ない」というものがある。これをテレビに置き換えれば「視聴者は自分のレベル相応の番組しか選ぶことが出来ない」となる。澤村さんが主張するハイレベルな報道番組が放送されても、それを見る人はいないのだ。
 要するにテレビの劣化は、視聴者の意識の低下ということである。誰も政治や社会に関心を持たない。テレビが事実や真実を伝えているとも思わない。原発で国が汚染されようが戦争が始まろうが自分には無関係だと思う人は、事実にも真実にも興味がないだろう。視聴率が取れなければ報道はますます縮小されてテレビはエンタテインメント一色になる。そしてエンタテインメントはインターネットに溢れかえっているから、誰もテレビを見なくなる。そういう時代がすぐそこまで来ている。まさに「さよならテレビ」なのである。


「ニューイヤーコンサート2020」

2020年01月03日 | 映画・舞台・コンサート

 Bunkamuraオーチャードーホールに東京フィルハーモニー交響楽団「ニューイヤーコンサート2020」に出掛けてきた。今年の指揮者は円光寺雅彦だ。
 演奏の曲目は前半が
ヨハン・シュトラウス二世の「美しく青きドナウ」
古関裕而の「東京オリンピック・マーチ」
ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」
 ラプソディ・イン・ブルーでゲスト演奏者としてピアノを弾いた清塚信也が松任谷由実の「春よ、来い」を自身の編曲で弾いたのが前半のアンコール。
 後半の曲目は、
おなじみエドワード・エルガーの「威風堂々」
 抽選で選ばれた2曲は、
グリーグの「ペール・ギュント」から「朝」とヴォルフ・フェラーリの「マドンナの宝石」から間奏曲。
 そのあとは恒例のモーリス・ラヴェル「ボレロ」で盛り上がる。
 抽選で指揮ができるヨハン・シュトラウス一世の「ラデツキー行進曲」だが、今年の当選者は8歳の女の子。この子の指揮が微妙に二拍子を外していたが、見事だったのはその指揮にきちんと合わせたオーケストラ。勢いのいいラデツキーがなんとなく間延びしたマーチになってしまったのも、また一興であった。
 最後も去年と同じくボルカの「雷鳴と稲妻」で、オーケストラが思い切りのびのびと大音響を響かせて終了。今年はフルートとオーボエ、それにトロンボーンの名演奏があった。ファゴットとクラリネットもよかった。打楽器系の活躍も目立ち、総じて出来のいい演奏だった。
 昨年と同じ朝岡聡さんの軽妙な司会でテンポよく進み、2時間半があっという間だった。
 今年も入口で八海山の枡を貰い、帰り際には出口で甘酒をもらった。来年もまた来れればいいなと思う。