三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「WAVES」

2020年07月12日 | 映画・舞台・コンサート
映画「WAVES」を観た。
 
 観ていて面白い作品ではない。寧ろ観ていて辛い作品だ。それも考えさせられる辛さではなく、悲惨な物語を垂れ流される辛さである。単に低レベルの父子が悲劇を産むだけのストーリーだから、登場人物の誰にも感情移入できないまま終わってしまう。加えて何かキリスト教的な居直りも感じる。
 
 アメリカの高校生の日常がどのようであるのか不明だが、本作品に描かれているような、集まって騒いだり着飾ってパーティをしたり自動車で飛ばしたりという日常はあまりにもステレオタイプ過ぎる気がする。同じようなシーンはかなり昔の映画でも描かれていた。今のアメリカの高校生はもう少しマシなのではなかろうか。
 独善的な父親に育てられて、その父親を憎みながら自分自身も独善的になっていることに気がつかない息子という関係性はあまりにも危うい。独善の連鎖だ。抑圧されている息子の心底には、いつ暴発してもおかしくないほど怒りのマグマが沸騰している。悲惨な出来事は起きるべくして起きる。
 
 反キリスト教みたいな発言もないではないが、全編を通じてゴスペルみたいな歌が連続し、結局は自分と自分の家族が大事というアメリカに蔓延する家族第一主義に落ち着き、キリスト教的な価値観で収束してしまう。
 シーンによっては、偽善者の怒りを見せられることに耐え難い苦痛を覚える。マルコムXがアメリカ的なキリスト教を一刀両断にしてから五十年以上経つにもかかわらず、本作品はアメリカの黒人が未だにキリスト教的なパラダイムに縛られていることを表現する。
 本作品のパラダイム自体を反面教師として表現している可能性もあり、キリスト教的なのか、反キリスト教的なのか、解釈は観客に委ねられる。どちらに解釈するにしろ、不愉快な作品であることは間違いないと思う。

映画「今宵、212号室で」

2020年07月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「今宵、212号室で」を観た。
 食生活ほどではないが、性生活も人生の大きな部分を占めている。食欲がまったくないと個体の生命維持が危うくなるし、性欲がまったくないと自己複製をするシステムとしての生命の種の保存が危うくなる。食欲が差し迫った自己の生命維持に不可欠なものであるのに対して、性欲は次の世代の生命を誕生させるために不可欠なものなので、食欲ほど逼迫しておらず、禁欲しても命に別条はない。仏教やキリスト教の一部の宗派で性交を禁ずるのは禁じても死なないからである。
 フランスは性欲に寛容な国である。浮気が日本みたいに責められたり断罪されたりすることはない。そもそも浮気はモラル(倫理)に反する行為ではないとしているから、日本みたいに不倫という言葉を当てることさえ間違いとなっている。日本での使い分けは、結婚している人の場合を不倫、していない人については浮気としているように思われる。
 食欲についてはイスラム教徒以外はかなり自由であり、何を食べても責められることはない。自分は和食しか食べないと決めてずっと和食ばかり食べている人もいるかもしれないが、たまには中華や洋食やジャンクフードなんかを食べたくなる。中には昆虫を食べる人もいる。性欲についてもあまり変わりはない。ときには違う相手としてみたいと思うのは万人に共通だと思う。
 フランスは女性の性欲が社会的にちゃんと認められていて、男女ともに快楽を追求する権利を有している。フランス料理で美味しいものを追求するとともに、より快楽の深いセックスも追求するのだ。その点、日本の女性は不幸である。ごく一部の女性を除いて、たくさんの相手と性交する機会に巡り逢えない。一度もオルガスムスを知らないままの女性もかなりいるのではないかと推測される。
 姦通罪は封建主義的な世界観が生んだ悪法である。日本で女性だけに適用されたことについても、男女不平等の封建主義の悪しき世界観が見える。いまは一部の地域や国を除いて、姦通罪はない。浮気に刑法は適用されないのである。それは人権の尊重という考え方の広まりと同時に、人間の性生活の本質についての理解が進んだためである。人は浮気をする動物なのだ。浮気をした相手に暴力を振るうと、暴行罪や傷害罪で裁かれることになる。この点については法律のほうが進んでいる。
 本作品はマルチェロ・マストロヤンニとカトリーヌ・ドヌーヴの娘であるキアラ・マストロヤンニが主演した、性生活と愛についての考察ともいうべき映画である。浮気をする妻としない夫。快楽を旺盛に追求する妻とEDの夫。互いを解り合い、許し合ってともに年老いていくためには、どんな努力をすればいいのか。
 212号室には自身の過去と夫の過去が人の形をして押し寄せる。過去は過去だが、現在から見れば過去には後悔があり、諦めがある。しかし夫は、愛とは過去の記憶の集まりだと言う。哲学的な言葉なので簡単に理解するのは困難だが、フランスらしく愛の定義も人さまざまに許される。日本では「これも愛、あれも愛 ♪」という歌があった(ドラマ「水中花」より主題歌「愛の水中花」作詞:五木寛之、作曲:小松原まさし、歌唱:松坂慶子)。
 ドラマとしてはスラップスティック(ドタバタ喜劇)だが、哲学の国らしい人生観があり、世界観がある。ドアが勝手に動いたり、天井からの視点になったり、突然海辺を歩いていたりと、時間と空間を自由に飛び越えて、愛と性生活の真実を見せようとするところは、なかなか面白い演出だ。とても楽しめる作品である。

映画「ザ・クーリエ」

2020年07月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ザ・クーリエ」を観た。
 オルガ・キュリレンコはジェレミー・アイアンズと共演した「ある天文学者の恋文」での演技が最も輝いていたと思う。その後、脇役で出演した「スターリンの葬送狂騒曲」や「9人の翻訳家 囚われたベストセラー」では、ロングドレスを纏った美しい女性としてスクリーンを飾り、演技としては十分によかったものの、いまひとつ女優としてのポテンシャルが存分に発揮されるまでには至っていないという消化不良の感があったが、本作品はどうだろうか。
 悪の組織と政治の癒着は昔から続いているというのが一般の認識だと思う。特に警察は悪の組織との距離が近い。役所広司主演の「孤狼の血」では、警察官は暴力団組員と顔馴染みだし、情報をやり取りし、ときには金もやり取りする。印象的な台詞は「警察じゃけぇ、何をしてもええんじゃ」である。
日本の警察官の職務倫理規定は次の通りである。
一 誇りと使命感を持って、国家と国民に奉仕すること。
二 人権を尊重し、公正かつ親切に職務を執行すること。
三 規律を厳正に保持し、相互の連帯を強めること。
四 人格を磨き、能力を高め、自己の充実に努めること。
五 清廉にして、堅実な生活態度を保持すること。
 この五箇条をきちんと守っている警察官がいたら頭が下がるが、警察官も人間だからなかなかそうはいかない。それに警察の上部組織は官僚なので、組織防衛が何よりも優先される。検挙率が低いという批判は組織を傷つけるものであるから、兎に角事件が発生したら犯人を検挙する。犯人として条件が揃っていれば誰でもいい。本当に犯人かどうかなんてどうでもいいのだ。検挙率を上げるためだけに冤罪で刑に服した人は数多くいるだろう。女子高生が小銭欲しさにでっちあげる痴漢冤罪も、検挙すれば検挙率が上がるから警察は喜んで女子高生に協力する。女子高生に肩入れして有罪にする裁判所も同じ穴の狢だ。
 悪党と戦うオルガ・キュリレンコを見ながら、ついつい警察と司法の腐敗をどうやったら防止できるのかを考えてしまった。ストーリーはほとんどなくて、アクションを楽しむ映画だから別のことを考えながらでも鑑賞できる。あまり高評価できる作品ではないが、最後の最後にちょっとしたサプライズがあるのがいい。少なくともオルガ・キュリレンコのアクションは十分に堪能できた。暇なら見ても損はないと思う。

映画「Poms」(邦題「チア・アップ!」)

2020年07月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Poms」(邦題「チア・アップ!」)を観た。
 74歳が跳ねる。ダイアン・キートンほど年老いても若々しい女優はいない。本作品の主人公マーサはゲラゲラ笑うし、ボロボロ泣くし、嫌味をたっぷり言うと思ったら、酷い目に遭っても許してしまう。それでもって主張すべきところでは言いたいことをちゃんと言う。若者にはウイットに富んだアドバイスをし、スクエアな人物の説教には耳を塞ぐ。天晴れなおばあちゃんである。演じたダイアン・キートンも天晴れだ。
 日本では就活(就職活動)をもじった終活(人生の終いの活動)という不気味な言葉が市民権を得ていて、終活アドバイザーなる資格もあり、驚いたことに終活アドバイザー協会なるものまである。死ぬのにアドバイスをもらわなければならない時代になったという訳だ。
 ピンピンコロリという言葉もあって、死ぬ寸前までピンピンしていて、朝出かけていったら死んで戻ってきたみたいな場合を言うらしい。確かに死ぬ前に病気で苦しんだり、認知症や植物状態になって家族が疲弊したりするのは好ましくない。死ぬならある日突然、苦痛もなく死にたい、しかしできれば死にたくないというのが人間の本音だろう。
 だが医学の知識が一般に普及して、5年生存率などの言葉も多くの人が知るようになったいま、医師からステージ4の癌ですと告げられたらどうするか。ステージ4はいわゆる末期癌だ。もしかしたら終活アドバイザー協会に連絡するかもしれない。

 人体の耐用年数は50年ほどらしい。そういえば信長も桶狭間の戦いの前に「人生五十年~」の謡で有名な「敦盛」を舞ったそうだ。信長は47歳で死んでいるし、同時期の武士たちもそれくらいの歳で死んでいる。家康は73歳まで生きたが、23年間は耐用年数の過ぎた身体に鞭打って頑張ったという訳だ。江戸幕府で将軍になったのが60歳のときである。
 
 日本は少子高齢化で世界の最先端を行く。褒められたものではないが、超高齢化社会がどのように展開するのかについては世界の注目を浴びていると思う。当方としては死ぬ前の準備としては情報を残すだけでいいと思っている。個人番号と口座の暗証番号、保険の情報、ネットのアカウントとパスワードなどを一覧にして残しておけば十分だ。あとは残った人が判断すればいい。あれこれ指示を残すのは負担になるだけだ。
 
 その点、本作品の主人公マーサは家族がいないから残すべき情報もない。全財産を売却して最期を看取ってくれる施設に移る。それがマーサの終活だ。外国では遺品の整理はあるが、死ぬ準備のために私物を生前整理することはない。バザールみたいに並べて売っていたら、買う人は遺品整理だと思うだろう。客とマーサのやり取りはシニカルで笑える。
 かなりガタがきている上に病気の身体を抱えて、しかし調子がいいときはやりたいことをやる。マーサは自由闊達で優しさに溢れている。歳なんか関係ない。やりたいと思ったときが始めどきだ。終活なんぞ糞食らえなのである。
 狂言回し役のシェリルを演じたジャッキー・ウィーバーが上手い。序盤からダイアン・キートンのマーサに感情移入してしまったので、施設の人々がいちいち癇に障り、特にシェリルの我儘放題にはイラッとしてしまうが、マーサのおおらかさが逆にみんなを包んでしまう。懐の広いおばあちゃんには敵はいないのである。
 こんなふうに晩年を過ごせたらいいと羨望するとともに、何かをするのに遅すぎるということはないと思い直した。生は死を内包しているから、死に方は生き方に等しい。どのように死ぬかは、つまりどのように生きるかなのである。五十肩でも坐骨神経痛でも腰椎分離すべり症でもチアダンスはできるのだ。幸せに泣ける佳作である。

映画「レイニー・デイ・イン・ニューヨーク」

2020年07月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「レイニー・デイ・イン・ニューヨーク」を観た。

 主人公ギャツビーを演じたティモシー・シャラメの演技が秀逸。世界観がなくて単にミーハーなだけのアホな女の子アシュリー役をエル・ファニングが見事にこなしていて、内向的で思索家のギャツビーと好対照のカップルとなっている。

 ウディ・アレン監督らしく、主人公はかなりのオタクであり、人生に対して斜に構えている。中原中也の詩に登場する「僕」のようである。

 さてどうすれば利するだらうか、とか
 どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと
 要するに人を相手の思惑に
 明けくれすぐす、世の人々よ、
 僕はあなたがたの心も尤もと感じ
 一生懸命郷に従つてもみたのだが
 今日また自分に帰るのだ
 ひつぱつたゴムを手離したやうに

   (「憔悴」より第Ⅴ節の一部を抜粋)

 もうほとんどこの詩だけでギャツビーの人柄を言い尽くしている。詩の中の「あなたがた」には、ガールフレンドのアシュリーも含まれる。ギャツビーの居場所は「あなたがた」の思うところには存在しないのだ。寧ろProstituteのお姉さんのほうがよほど自分の居場所を生きている。

 ニューヨークはやはりいい街だ。セントラルパーク、メトロポリタン博物館、ホテルカーライルなど、所謂ニューヨークオタクにはたまらない場所である。それぞれが美しく描かれ、居心地のよさが空気感で伝わってくる。

 ウディ・アレン監督は雨が好きなのかもしれない。ラストシーンは無理や背伸びから解放されて「僕は僕らしく」というホッとした雰囲気だ。「男と女の観覧車」も「ミッドナイト・イン・パリ」も似たような筋書きを辿る。それがウディ・アレンにとっての人生の真実なのだろう。ただ本作にはこれといって魅力的な人物があまり登場しなかったのが憾み(うらみ)である。人生の真実を語るような年老いた人物が何人かいてほしい。セレーナ・ゴメスのチャンではあまりにも弱く、母親のシーンは機知に乏しかった。3.5かな。


映画「コリーニ事件」

2020年07月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「コリーニ事件」を観た。
 展開が非常に面白くて、様々な問題提起もある意欲的な作品である。台詞よりも表情で語らせる説明的でない演出もいいし、それに応える役者陣の演技も優れている。特にファブリツィオ・コリーニを演じたフランコ・ネロの存在感は凄い。新米弁護士が主役でともすれば法律談義の映画になってしまいそうなところを、この人の存在感で人間ドラマの範疇にとどまらせている。
 ドイツではナチスを生んでしまったことに対する賛否両論がいまでも続いている。未鑑賞だが最近公開された映画「お名前はアドルフ?」は、生れてくる赤ん坊の名前のことで家族や友人が大論争を始める内容らしい。実際のドイツでも、他のどんな名前でもいいから赤ん坊にアドルフと名付けるのだけはよせと言う人は多いと思う。つまりそれだけナチスに対する反省が続いているということだ。対して日本では、松岡洋右や東条英機の名前さえ知らない人が当方の周囲でも結構いる。主に若者だが、本人の問題というよりも教育の問題だろう。
 日本の高等学校までの歴史教育では近代史をほとんど教えない。だから戦争時の大本営発表に国民が沸き立ったことも、マスコミが軍と一緒になって嘘の勝利を報道し続けたことも知らない人が多い。南京大虐殺や従軍慰安婦問題などはまったく教えない。関東軍が中国で何をしたのか、大人になって映画を観るまで知らなかった。
 文科省は日本の近代の戦争を教えることに消極的だが、日本の映画界の人々は積極的に戦争の本質を追求する。当方が観ただけでも、鑑賞が新しい順で紹介すると「この世界のさらにいくつもの片隅に」「日本鬼子(リーベンクイズ)」「アルキメデスの大戦」「東京裁判」「沖縄スパイ戦史」などがある。少し前だが「日本のいちばん長い日」「小さいおうち」「少年H」「一枚のハガキ」なども観た。
 それぞれに視点も見方も異なるが、戦争を美化することなく正面から受け止める姿勢は共通している。映画人の戦争にかかわる世界観は、文科省のそれとは一線を画しているのだ。邦画の戦争映画の多くは戦争がどのようにして起き、人々がどのように苦しんだのかを目の当たりにさせてくれる。歴史の教科書を開く前に、中学生、高校生には戦争映画を観てもらいたい。
 本作品の主人公カスパー・ライネン弁護士を取り巻く人間関係は、ストーリーの展開とともに少しずつ明らかになる。小声の台詞で明らかにされる過去もあり、注意深く鑑賞しなければならない。
 物語の主眼はライネン弁護士が被告の過去を探り、その人生の真実に迫るところにある。被告が殺したことは明らかだが、動機がわからない。真相に迫るにつれて、もはや罪の軽重を争うことよりも、過去の真実を追及することがライネン弁護士の仕事となる。罪の軽重ではなく被告の人間としての尊厳を守るためだ。
 ドイツに限らず、法定では当事者の素行が容赦なく暴露され、人格が攻撃される。それは被告や原告の利益のためである。しかし本当に大事なのは、当事者の尊厳が守られることである。名誉や虚栄ではなく人間としての尊厳。そこがこれまでの法廷映画とはまったく異なる、本作品独自の世界観である。
 三つ子の魂百までというが、人は幼い頃の心の傷を一生背負って生きていく。その忍耐と意志には敬意を表したい。そして誰もが心の傷を負っているのだとしたら、人は他人の人生に敬意を持たねばならない。金持ちでもホームレスでも、その人生に貴賤はない。等しく他人の人生を敬すること、そこに人間の尊厳がある。
 法定を通じて無名の人間のささやかな人生にも敬意を表し、人間としての尊厳を重んじる本作品の世界観に、なにかしら救われたような気がした。