三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「MOTHER」

2020年07月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「MOTHER」を観た。
 真面目なカタギの人間は、人からどう見られるかを気にする。しかし不良の連中は人からどう見られるかなど気にしない。彼らは社会に適応できない人間である。適応できない原因は能力や適性の欠如、または人格の破綻、依存症など、要するに精神的な障害である。彼らは障害者なのだ。障害のせいで現実社会では疎外されるから、生き延びるためには他人に寄生するしかない。人から評価されようとするのではなく人をうまく操ろうとする。そのためには人からどう見られるかではなく人にどう思わせるかが重要なのだ。そうして自分が望む行動を他人がするように仕向けていく。社会に寄生して生きる彼らにとって、それだけが絶対に必要な技術なのである。
 本作品の主人公秋子はそういう人間の典型だ。親に依存、妹に依存、行きずりの男に依存、別れた亭主に依存、果ては子供に依存する。武器は女の色香だけである。
 秋子の世界では人間関係は敵対関係と主従関係が主体である。あたかも戦国武将のようだ。考え方はまさに戦国武将のように封建的で、子供は親に絶対服従だと思っているが、自分にも子供の立場があることは都合よく忘れている。無償の行為などあり得ず、あっても偽善だと思っている。福祉事務所は自分から子供を奪う敵なのだ。
 人の操り方は巧みである。自分が提案したことも、いつの間にか相手が自主的にやろうとしたことになっている、そしてやらないことを責める。自分からやるって言ったよな?
 秋子のような精神性が精神障害であることを知らないと、個人の性格の問題になってしまい、解決が困難になる。かといってこの手の精神障害者がおいそれと自分から精神病院に行ってくれる訳もない。他の精神障害と違って一見するとまともな人に見えるから始末に負えないのだ。だから解決する方策はこういう精神障害があることを世間に広く知らしめることだけだ。自分を操ろうとしてくる相手が精神障害者であるとわかれば、相手の論理を相対化できて、操られないで済む。不良で言えば仲間を増やすことが出来なくなるのだ。しかし子供に相手の論理を相対化する能力があるかどうかは心許ない。
 見渡してみるとこういう精神性は世の中に蔓延していることがわかる。誰も彼も多かれ少なかれ他人に依存しているのだ。その度合によって精神障害となるかどうかが判定されるのだろう。
 街角で子供を怒鳴りつけている母親は時々見かける。やるって言ったのにどうして出来ないの?と子供を責めている。親の命令が子供の自主的な意思にすり替わり、親の期待を裏切ったことになっているのだ。そして多くの親は自分が論理のすり替えをしていることに気づかない。
 殴られて育った人間は人を殴る人間になる。殴ることも他人を操るための重要な技術なのだ。殴ったりなだめたり、ときに優しい言葉をかける。そうして思い通りになる人間に育てるのだ。その連鎖が世代を通じて延々と続く。
 人間の闇は深い。大森立嗣監督は人の闇を描く。穏やかな日常を描いた「日日是好日」でも闇を描いていたし「光」や「タロウのバカ」は人の闇そのものの映画だった。人の弱さが人を傷つける。本作品は闇の中でさらなる闇を求めて這いずり回る母子をこれでもかとばかり表現する。観ている側は辛いが、眼を離すことが出来ない。
 長澤まさみも阿部サダヲも好演だった。そしてそれ以上によかったのが、16歳の奥平大兼(おくだいらだいけん)である。無言の表情が特にいい。母親に蹂躙されながらなおも母親に行動の指針を依存し続けるという心の葛藤がよく現れていた。

映画「Britt-Marie var her」(邦題「ブリット=マリーの幸せなひとりだち」)

2020年07月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Britt-Marie var her」(邦題「ブリット=マリーの幸せなひとりだち」)を観た。
 示唆に富んだ作品である。
 イギリス映画「Edie」(邦題「イーディ、83歳 初めての山登り」)の主人公と同じく、主人公ブリット・マリーの心の奥底にも少女がいる。彼女たちだけでなく世の中の人々がみんなそうだと思う。誰の心にも少年少女の魂が生き続けているのだ。肉体は歳を取っても魂は歳を取らない。長い年月で心に沈殿した見栄や自尊心をきれいに掃除すれば、10代の少女とも対等に話ができる。
 一日ずつよ、ブリット・マリー、一日ずつよと自分に言い聞かせる。そうやって身の回りを綺麗にして片付けをする日々を過ごす内に、自分の人生も片付けちゃったのよと話す主人公は、還暦を過ぎて漸く自分の人生と向き合うことになる。
 人間は食欲と性欲と承認欲求の動物だ。サッカー少女も自分たちの存在証明をしたいと語る。一日一日を後ろにうっちゃって生きているようなブリット・マリーでも、自分の一日が無駄な一日ではないと感謝されたかった。Todoリストに線を引くだけの毎日は、過去を忘れるために有効でも、承認欲求は満たされない。私の人生はどこにあるのか。
 覚和歌子作詞、木村弓作曲・歌唱の「いつも何度でも」は、ジブリ映画「千と千尋の神隠し」の主題歌として有名だが、むしろ本作品に合っている。
 はじまりの朝の静かな窓
 ゼロになるからだ充たされてゆけ
 海の彼方にはもう探さない
 輝くものはいつもここに
 わたしのなかに見つけられたから
 最後の朝、ブリット・マリーには3つの選択肢がある。夫の元に戻るのか、サッカーチームの練習に行くのか、それとも他の場所に行くのか。原題の「Britt-Marie var her」はラストシーン近くに印象的に使われる。落書きではなく存在証明なのだ。生きている自分。ここにいた自分。どこかに行こうとしている自分。どこにでも行ける自分。心は既に決まっている。身体の奥から湧き上がるエネルギー。輝くものは自分自身の生命そのものなのである。無表情だったブリット・マリーの顔に豊かな表情が戻ってきた。
 映画としては小品だがよく纏まっていた。象徴的な言葉が鏤められていて、世界観に説得力がある。ブリット・マリー役の女優さんは名演だったと思う。

こまつ座の芝居「人間合格」

2020年07月19日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿TAKASHIMAYAサザンシアターでこまつ座の芝居「人間合格」を観劇。
 蜷川実花監督、小栗旬主演の映画「人間失格」は太宰治の人となりを割とストレートに表現していたが、本日鑑賞した「人間合格」は、太宰修に友人たちがいて、彼らと深く関わることで死なないでいられる話になっている。世を悲観した太宰を逆にポジティブに描いてやろうという井上ひさしの悪戯っぽい脚本が笑える。見どころは敗戦の前後で、国を挙げての戦争礼賛から戦後民主主義への掌返しに対する太宰の苦々しい思いがよく伝わってきた。
 観客はみな年配の人々ばかりである。芝居を観るという文化は若い人たちの間では既に消滅したのだろうか。

映画「The Public」(邦題「パブリック 図書館の奇跡」)

2020年07月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Public」(邦題「パブリック 図書館の奇跡」)を観た。
 傑作である。スリルもサスペンスもないのにスクリーンから眼が離せない。それは人が権力と対峙するときの、ある種のヒリヒリするような緊張感に由来する。権力との闘いは勝ち目のない闘争であり、将来を棒に振り、家族が酷い目に遭わされるかもしれない。公正な裁きを求めても、三権分立は機能していないことが多く、権力側が負けることは滅多にない。
 だから大抵の人は長いものに巻かれて生きる。それが賢い生き方だと思っている。しかしときには、長いものに巻かれていることに疑問を持つ。もし闘う生き方を選んだらどうなのかと想像する。その想像の先に映画があり、文学があり、歌がある。中島みゆきの「ファイト!」の歌詞は次のようだ。
 暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく
 光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから
 いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
 やせこけて そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく
 勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく闘いの
 出場通知を抱きしめて あいつは海になりました
 ファイト!闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト!冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ
 (1983年アルバム「予感」より2番の歌詞を抜粋)
 こうして歌詞を書き出してみると、この映画にぴったりなことがわかる。そして世間は必ずしも闘う人を笑う人ばかりではないこともわかる。実際に闘えなくても、心の中では闘いたいと思っていたり、または闘う人を応援する人も意外といるのだ。マスコミのバイアスのかかった報道にも惑わされないで本当のことを嗅ぎ分けられる人がいるということである。本作品はそういった人々に向けて作られた気がする。判る人にだけ判ればいいのだ。そして中島みゆきの「ファイト!」の歌詞が理解できる人には本作品も必ず理解できると思う。
 シンシナティを襲った大寒波。市の中央図書館には寒さを逃れたホームレスがたくさん屯しているが、閉館時間になると追い出されてしまう。うまく雨風を凌げる場所に辿り着ければいいが、運が悪いと路上で過ごすことになる。朝になると凍死したホームレスが運ばれていく。生き残ったホームレスは開館時間になると再び中央図書館に入って屯する。
 実はいまでこそホームレスだが、その多くが退役軍人だ。ベトナム戦争やイラク戦争のPTSDに未だに苦しんでいる。J・F・ケネディは「国が何をしてくれるかではなく、国のために何ができるかを考えよう」と演説したが、国のために命がけで他国の人間を殺してきて、心に傷を抱えてホームレスになった彼らに、国は何もしない。悪臭漂う避難所(シェルター)に雑魚寝をさせるだけだ。そう言えば「ランボー」や「運び屋」の主人公も退役軍人だった。アメリカの病苦のひとつはそのあたりにありそうだ。
 本作品に格好のいい行為はない。普通の人が普通に対応したらこうなるだろうなという、至って淡々とした展開である。しかしリアリティがある。それでも大団円のシーンには驚いた。彼らは英雄なのか、一般人なのか。英雄的行為は印象操作によってあとから美化されるのが常で、実際の行為は地味でブザマだ。そしてそれでいいのだ。水の流れに逆らう魚のように、傷ついて剥がれかけた鱗を揺らしながら、見苦しくのぼってゆくのである。

映画「Tailgate」(邦題「ロード・インフェルノ」)

2020年07月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Tailgate」(邦題「ロード・インフェルノ」)を観た。
 人間は誰も多かれ少なかれ頭がおかしいのかもしれない。本作品に登場する人物はそういう人ばかりだ。揉め事のきっかけは、高速道路での煽り運転である。主人公(と言っていいのか)ハンスは、自分が煽られたら頭に来るくせに、他人の自動車を平気で煽る。反省がないというか、想像力の欠如というか、日本でも同じか。
 他人の頭の中を覗き見ることは出来ないから、何を思い、考えているのかは言葉や表情、あるいは行動で判断される。その判断は判断する主体の尺度でなされる。つまり人は自分を基準にしか物事を判断できないのだ。悪意のある人は他人にも悪意があると思い込む。自動車運転で言えば、もともと悪意を心に抱えている人は、煽られていなくても煽られたと思う。自分が煽り運転をする人間だからだ。そして仕返しに煽り運転をする。要するに性格が破綻している人間なのだ。ハンスも老人も、同じ穴の狢である。
 2013年公開の阿部サダヲ主演映画「謝罪の王様」では何があっても兎に角謝り倒していた。仕事上で謝罪することは割と抵抗なくできるだろう。しかし内心では、仕事だから謝るけどプライベートだったら絶対に謝らないのにと思う人もいるかもしれない。そういう人はつまらないプライドに精神を侵されていると言っていい。だから実生活では謝るべきところで謝ることが出来ない。
 プライベートでも相手が会社の上司だったら速攻で謝るだろう。相手が警察官でも謝るだろう。謝らないのは相手を下に見ているからだ。そこには無意識の差別がある。差別はする方は気にしなくても、される方は敏感に感じ取るものだ。
 ハンスも、妻や子どもたちを下に見る人間である。追い越し車線を法定速度を守って運転する老人のことも、やはり下に見ている。相手がパトカーだったら、煽り運転をする人間はいない筈だ。差別は権力と金銭的な格差に由来するのだ。それは無意識の差別である。ハンスみたいなつまらないプライドの塊の人間は、自分より弱い立場の人間に対しては謝罪が出来ない。自分がそうだから、相手もつまらないプライドの塊だと断じてしまう。プライドは差別意識を源にする愚劣な自尊心のことで、不良連中が大切にする面子と同じだ。親分にはヘーコラするのに、相手が下の立場だと面子を潰したと言って落とし前をつけさせる。クズである。
 煽り運転の顛末を扱った作品だが、人間の本質的な愚かさに迫っていると思う。世の中の大多数をハンスや復讐老人みたいな連中が占めているところに、問題の深刻さがある。その愚かさは、トランプ、プーチン、金正恩、安倍晋三の愚かさにつながっている。精神構造はヤクザや半グレの連中と変わらない。そういう連中が世界の大半を占めているということだ。人類は賢くなれないまま絶滅する運命にあるのかもしれない。

映画「Le jeune Ahmed」(邦題「その手に触れるまで」)

2020年07月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Le jeune Ahmed」(邦題「その手に触れるまで」)を観た。
 映画としてはそれほど面白い作品とは言えないが、自爆テロをする子供や女性がどのように作られるのか、そのヒントがあった気がする。邦題の「その手に触れるまで」は作品の内容と乖離していて、寧ろ原題の「Le jeune Ahmed」を直訳した「若いアメッド」のほうが解りやすかった。
 人が自殺するためには、よほどの絶望がなければならない。明日に何の期待も希望もないとき、人は躊躇なく自殺する。期待や希望は大袈裟なものでなくていい。例えば今日買った靴を明日履くのはひとつの期待であり希望だ。太宰治の「晩年」の最初の短編「葉」の冒頭は次のようにはじまる。
 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
 ことほどさように、小さな理由で人は死なないものである。太宰の場合は着物をもらうことやそれに類いすることがなくなり、小説を書く意欲もなくなったから自殺したのだ。心に何も残っていなければ、恐怖も忘れるだろう。
 しかし本作品の主人公アメッドは自殺しようと思っていた訳ではない。イスラム教には自殺を禁じる教えもある。にわか狂信者のアメッドに必要なのはジハードで死ぬことなのだ。ジハードで死んだ者を死んだと言ってはいけないと教えられるシーンもあり、アメッドはますます勇気づけられる。ジハードの相手は異教徒である。コーランから離れ、歌などでアラビア語を教えようとする教師。それはイスラムの教えから子どもたちを離そうとする悪辣な意図である。どうしてもやろうとするなら、もはや殺すしかない。
 失敗して捕まっても、アメッドは崇高な使命を忘れない。従順なフリをしつつ、いつかジハードを実行する機会を狙う。できればジハードの際に死んで、信仰を全うしたいのかもしれない。アメッドの頭の中では、戦前の日本のように散華(さんげ)などという言葉で死を美化しているのだ。自分が生きた証は死そのものにある。母も兄弟も、誉(ほまれ)ある死を喜んでほしい。
 狂信者は情報をシャットアウトする。信仰に反するものは何も見えず、何も聞こえない。異教徒は無価値であり、無人格であり、殺しても差し支えない。スマホを持っていても、そこから入ってくる情報に心を動かされることはないのだ。
 葬式仏教に結婚式クリスチャンまたは結婚式神道という、極めていい加減に宗教と関わり合っている日本人には理解しづらい精神構造であるが、キリスト教文化が根づいたヨーロッパでは、イスラム教への転向もそれほど困難ではないのだろう。神は既にいるのだから、英語のGod、フランス語のDieuをアッラーに変えればいいだけだ。日本では仏教に神は存在せず、神道は八百万の神で森羅万象そのものが神だから、一神教を感性として理解するのは難しい。
 宗教に依存しなくても生きていける日本人が世界的な長寿国となったのは、戒律による不自由がなく、健康や衛生といったどちらかと言えば科学的な価値観で生きてこれたからかもしれない。
 グローバリズムは価値観の崩壊と新たな価値観の創生につながり、狭量で不自由な宗教的価値観からすべての人々が解放される未来がくるのかもしれないが、コロナ禍がグローバル化を妨害している面もあり、今後の世界はどうなるかわからない。
 例えば暴走族が特攻服のようなものを着て、軍隊式の組織を作って自己アピールをしているのを見て、それに憧れる少年少女もいるかも知れない。誰でもまずは形から入る。暴走族の中身がないことに気付くのはそれほどの長い時間を必要としないが、イスラム教の衣服や生活態度や祈りなどに憧れてしまった場合、宗教には経典があってどこまでものめり込んでしまう。
 本作品の主人公を見ていて、自爆テロをする子供や女性がこのように育っていくのだと、うっすらとわかった気がした。愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い。

映画「The imvisible Man」(邦題「透明人間」)

2020年07月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The invisible Man」(邦題「透明人間」)を観た。
 透明人間モノというと、お金を盗んだり覗き見をしたり、兎に角下世話な作品が多かった。それだけ人々の間に透明人間願望があるということなのだろう。そしてその反面で透明人間になってしまったら社会から認知されない不幸を描く側面もあった。そう言えば昭和に一斉を風靡した女性デュオのピンク・レディーに「透明人間」という歌があった。
 透明人間という言葉には人それぞれのバイアスがあると思うから、邦題の「透明人間」は、もしかしたら損をしているかもしれない。原題の「The Invisible Man」の直訳で「見えない男」にするか「姿のないストーカー」くらいでもよかった気がする。
 本作品はこれまでの透明人間モノとは一線を画していて、ホラー、それもかなり怖い部類のホラー映画に仕上がっていると思う。そして主人公セシリア役のエリザベス・モスがとんでもなく上手な演技で孤立無援の恐怖感を共有させてくれる。本当に観ていてかなり怖かった。
 窮鼠猫を噛むの諺の通り、どんなに弱くて力の差があっても、生き延びるためには大人しくやられっぱなしではいられない。序盤を観て一方的な展開かと思いきや、実はそうではない。セシリアは暴力にひしゃげてペシャンコになるような弱い人間ではなかったのだ。物語を通じて変わっていくセシリアが一番恐ろしいと言っても過言ではない。主演女優賞クラスの演技だった。
 ストーリーは面白いし、思い切りがいい。容赦ないと言っていいシーンがいくつかある。次にどうなるのかを頭の中でいくつか候補を考えながら観ていたが、予想を裏切られるシーンが多かった。ツッコミどころはいくつかあるけれども、見えないためのメカニズムや、見えない男の不気味な振る舞いなど、いくつかのアイデアは素晴らしい。いろいろな面で新しい作品だと思う。
 サイコスリラーというジャンルで宣伝されているが、凡百のホラー映画よりもよほど怖い作品なので、ホラー映画の傑作と位置づけたい。

映画「銃 2020」

2020年07月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「銃 2020」を観た。
 村上虹郎が主演した前作「銃」に比べると、世界観の矮小化は否めない。加えて、銃を持っていることによる主人公の心の揺れはあまり描かれず、幼少期からの不幸やトラウマばかりが描かれる。これでは銃を拾ったことがテーマになりえず、タイトルがおかしいということになる。佐藤浩市や友近、加藤雅也が振り切った演技をしていただけに、なんとも主人公の描かれ方が残念である。
 子供の頃から人格や尊厳が蹂躙され続けると、無自覚に他人の人格や尊厳も蹂躙するようになる。暴力を受けて育った子供が暴力を振るう人間になるのと同じである。主人公はまさにそういう人間だが、銃を拾ったことがエポックメイキングな出来事になるためには、主人公のどこかにまともな部分がなければならない。
 しかしそういう部分は描かれることなく、立ちんぼで客を騙して1ミリも罪悪感を覚えない人格破綻だけが描かれる。人格破綻者には感情移入できないから、観客からすれば銃を拾ったクズ女のストーリーを観せられることになってしまった。主演した日南響子が気の毒になるような作品だ。
 施設で育っても、優しい人に出会う期間があれば、その頃の思い出を心の灯にして生きていける。銃を拾ったことでその灯を消してしまうことになるとすれば、主人公の心の揺れは大きく、観客も感情移入できるかもしれない。また、そういう主人公であれば、佐藤浩市や友近の演技も生きてくるだろう。
 前作と殆ど同じスタッフなのに、出来が悪すぎる。観ていて楽しくなかったし、悲しいとも辛いとも面白いとも思わなかった。感情を揺さぶられない映画を観るのは時間の無駄である。村上虹郎と日南響子で演技力の差がそれほどあるとは思えず、もしかしたら前作にあった主人公のモノローグが、観客を感情移入させていたのかもしれない。思考実験的な意欲作であった前作のイメージがあったので楽しみにしていたのだが、残念だった。

映画「一度も撃ってません」

2020年07月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「一度も撃ってません」を観た。
 贅沢な役者陣を惜しげもなく各シーンに鏤めて、それぞれが大真面目に馬鹿を演じる。邦画のコメディはこうでなくてはいけない。どのシーンをとってもドラマがあり、登場人物の思惑や見栄や恐怖や、ときには優しさが見える。
 主人公の作家市川進のハードボイルド趣味に合わせて、銃器の店があったり、その店の閉店の挨拶が「The long good by」(多分レイモンド・チャンドラー著「長いお別れ」より?)だったりする。わかる人だけわかればいいという粋な演出である。
 石橋蓮司の存在感がいい。重々しくなく、軽すぎず、女子高生からカワイイ!と言われそうなおじさんである。役としては74歳、石橋自身は78歳だが、まだ微妙に現役感がある。バランスが取れていそうでいないところに人間としての位置エネルギーがあるのだ。それがそのまま物語を牽引する力となっている。
 同じようなことが他の登場人物についても言えるので、本作品は不完全な人間たちの群像劇として見事に成立している。佐藤浩市親子の直接のやり取りや柄本明親子の共演など、ほんの僅かなシーンもやたらにケッサクで、観ていて兎に角飽きない。
 ノリが完全に昭和だから、中には受け入れがたい人もいるかもしれないが、通信が発達したこの時代にあっても、技術が進んだだけで人間の本質に変わりはない。小賢しくて悪辣で剽軽で人情に厚いという複雑怪奇で面白い人間は確かにいる。そういう人々の情けない喜劇だと思えば腹も立たないだろう。観て損のない佳作である。

映画「お名前は、アドルフ?」

2020年07月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「お名前は、アドルフ?」を観た。
 機知に富んだ会話劇である。誰かが話すたびにその人物に感情移入するので、登場人物の印象がよくなったり悪くなったりして忙しい。そしてそれが楽しい。
 登場人物同士の世界観のぶつかり合いにはじまり、見栄の張り合いから果ては人格攻撃へと次元が堕落していき、最後は暴露合戦になる。とても大人同士と思えない振る舞いだが、言い争いとはそういうものだ。
 その個人の本質を一番よく知っているのは家族である。だから家族による非難は容赦がない。傷つけられた人間は傷つけ返そうとする。それが大学教授でも金持ちの実業家でも関係ない。人間は浅ましくてみっともない存在なのだ。愛しさ余って憎さ百倍。殺人事件の半分以上が親族の間で起きているというのも頷ける。
 ヒトラーについての考え方、感じ方がドイツ人皆同じではなく、人それぞれであることがよくわかるし、それ故に左翼やネオナチが互いに相手を非難し合っているのが現状だということもよくわかる。このあたりは先の大戦に対する考え方が人それぞれの日本と似たような状況だが、思い入れの強さが違う。
 日本ではA級戦犯についてまるで興味がない人も多くいる。だからA級戦犯に指定されていた祖父の岸信介を盲信している孫が、現在日本の暗愚の宰相として独裁的な政治をしていても、興味がないから引きずり降ろそうともしない。そもそも先の大戦に対する反省そのものがないのだ。
 本作品の役者陣は殆ど馴染みのない俳優ばかりだが、みな達者である。多分舞台で上演しても面白いとは思うが、ひとつひとつの台詞を間違えたらシーンが台無しになる可能性のある脚本だから、やり直しのきく映画のほうが安心感がある。いや、やはり舞台で観たいかな。井上ひさしの戯曲みたいにケッサクな傑作である。大変面白かった。