映画「MOTHER」を観た。
真面目なカタギの人間は、人からどう見られるかを気にする。しかし不良の連中は人からどう見られるかなど気にしない。彼らは社会に適応できない人間である。適応できない原因は能力や適性の欠如、または人格の破綻、依存症など、要するに精神的な障害である。彼らは障害者なのだ。障害のせいで現実社会では疎外されるから、生き延びるためには他人に寄生するしかない。人から評価されようとするのではなく人をうまく操ろうとする。そのためには人からどう見られるかではなく人にどう思わせるかが重要なのだ。そうして自分が望む行動を他人がするように仕向けていく。社会に寄生して生きる彼らにとって、それだけが絶対に必要な技術なのである。
本作品の主人公秋子はそういう人間の典型だ。親に依存、妹に依存、行きずりの男に依存、別れた亭主に依存、果ては子供に依存する。武器は女の色香だけである。
秋子の世界では人間関係は敵対関係と主従関係が主体である。あたかも戦国武将のようだ。考え方はまさに戦国武将のように封建的で、子供は親に絶対服従だと思っているが、自分にも子供の立場があることは都合よく忘れている。無償の行為などあり得ず、あっても偽善だと思っている。福祉事務所は自分から子供を奪う敵なのだ。
人の操り方は巧みである。自分が提案したことも、いつの間にか相手が自主的にやろうとしたことになっている、そしてやらないことを責める。自分からやるって言ったよな?
秋子のような精神性が精神障害であることを知らないと、個人の性格の問題になってしまい、解決が困難になる。かといってこの手の精神障害者がおいそれと自分から精神病院に行ってくれる訳もない。他の精神障害と違って一見するとまともな人に見えるから始末に負えないのだ。だから解決する方策はこういう精神障害があることを世間に広く知らしめることだけだ。自分を操ろうとしてくる相手が精神障害者であるとわかれば、相手の論理を相対化できて、操られないで済む。不良で言えば仲間を増やすことが出来なくなるのだ。しかし子供に相手の論理を相対化する能力があるかどうかは心許ない。
見渡してみるとこういう精神性は世の中に蔓延していることがわかる。誰も彼も多かれ少なかれ他人に依存しているのだ。その度合によって精神障害となるかどうかが判定されるのだろう。
街角で子供を怒鳴りつけている母親は時々見かける。やるって言ったのにどうして出来ないの?と子供を責めている。親の命令が子供の自主的な意思にすり替わり、親の期待を裏切ったことになっているのだ。そして多くの親は自分が論理のすり替えをしていることに気づかない。
殴られて育った人間は人を殴る人間になる。殴ることも他人を操るための重要な技術なのだ。殴ったりなだめたり、ときに優しい言葉をかける。そうして思い通りになる人間に育てるのだ。その連鎖が世代を通じて延々と続く。
人間の闇は深い。大森立嗣監督は人の闇を描く。穏やかな日常を描いた「日日是好日」でも闇を描いていたし「光」や「タロウのバカ」は人の闇そのものの映画だった。人の弱さが人を傷つける。本作品は闇の中でさらなる闇を求めて這いずり回る母子をこれでもかとばかり表現する。観ている側は辛いが、眼を離すことが出来ない。
長澤まさみも阿部サダヲも好演だった。そしてそれ以上によかったのが、16歳の奥平大兼(おくだいらだいけん)である。無言の表情が特にいい。母親に蹂躙されながらなおも母親に行動の指針を依存し続けるという心の葛藤がよく現れていた。