三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「すばらしき世界」

2021年02月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「すばらしき世界」を観た。
 昨秋に仲野太賀の主演映画を2本続けて鑑賞した。石井裕也監督の「生きちゃった」と佐藤快磨監督の「泣く子はいねぇが」である。演技は一風変わっていて、無表情というか、空虚な表情をすることが多い。文章では行間を読むという言い方をするが、仲野太賀の演技もそれと同じで、観客が心情を読み取らなければならない。
 映画やドラマや芝居では人間は大げさな表情やリアクションをするが、実際は何があっても大抵は無表情である。何かに驚いたときに驚いた顔をする人はまずいない。異物を発見したり変な人を見かけたりしても、驚くより前に自分の安全を真っ先に考えるから、おのずから無表情になる。仲野太賀の演技は実はとてもリアルなのだ。本作品でもその演技が生かされていて、面と向かって非難されても電話でなじられても、たくさんの言い分を全部飲み込んだ無表情で通す。
 本物のヤクザを扱った映画では今年(2021年)の1月19日公開の藤井道人監督「ヤクザと家族 The Family」があり、映画の後半では13年間の服役のあとのヤクザの生きづらさを描いていて、本作品と少し似たところがあった。ヤクザの兄貴分で出演していた北村有起哉が、本作品では親切な福祉担当者の役なのも面白い。主演の綾野剛の演技はとてもよかったが、本作品の役所広司が演じた三上正夫には本職のヤクザの凄みがあった。
 半グレが幅を利かせてカタギはカタギで理不尽な差別をする。刑務所も酷かったが、娑婆に出ても世の中が酷いことには変わりはない。一匹狼の三上正夫はただ大人しくカタギで生きていきたいだけなのだが、世の中はどこまでも冷酷だ。街角で見かけたカツアゲの場面。糞チンピラども。三上正夫はそれを見逃す訳にはいかない。悪党を成敗するのだ。しかしそれが非難される。一本気な人間には生きづらい世の中だ。
 出身地の福岡でもヤクザは警察に追い詰められている。極道にはもはや生きる場所がない。たとえ窮屈でも、カタギで生きていくしかない。非道な場面は見て見ぬ振りをし、同調圧力には従い、差別も我慢する。反社はいつまでも反社として見られるのだ。理不尽なことに対しても声を上げるのは厳禁である。何も見ない、何も聞かない、何も言わない。そうやって無為の人生をやり過ごす。空が広くたって、広いだけでは何の意味もない。三上の心を荒涼とした風が吹き過ぎる。
 仲野太賀演じる津乃田が漸く表情を崩す場面が現れる。生きていてほしい。足を洗ったやくざ者。辛くても苦しくても生きていてほしい。三上の人生に意味はなかったかもしれない。しかし三上の人生は三上のものだ。誰にも何も言われたくはない。
 冬の雪の中で出所して、今度こそはカタギになると誓い、秋になる頃には娑婆の知り合いも出来たし、身元引受人の先生はそんなに親切でもないが、応援はしてくれる。もしかしたらカタギで生きていけるかもしれない。男一匹、三上正夫。ここで生きる。秋だ。秋桜が、とても綺麗だ。

映画「マーメイド・イン・パリ」

2021年02月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マーメイド・イン・パリ」を観た。
 これはパリを舞台のショーのような映画だというのが第一印象である。音楽と映像とダンスがずっと続く。音楽はオリビエ・ダビオーという人が殆どひとりで担当しているようだが、どの曲もノリがよくて映画にぴったりである。主人公ガスパールの動きはほとんどがダンスだ。歌と踊りではじまり、人魚発見のシーンから一直線に話が進む。フランス映画らしく人魚を善人にしたりすることもなく、船乗りを次々に殺していった伝説はそのまま活かす。
 サブストーリーは人魚の歌声で恋人を殺された女医の物語。科学者だけにそう簡単には人魚伝説など信じないが、残された鱗や青い血液などを分析して、いよいよ本当の人魚だと思うようになる。されば恨み骨髄の人魚に復習しないでいられようか。
 人魚の命を狙う人間がいるなどとは露ほども知らぬガスパールは、その残酷さもひっくるめてまるごと人魚を受け入れ、家を燃やされてもさほど気にせず、タイムリミットまでを思い切り充実した時間にしようとする。別れを悲しむよりも人生を楽しむのだ。
 フランス映画といえば哲学的な会話や実存的なストーリーがおなじみだが、本作品は兎に角パリの洒落たショーなので、哲学も実存も関係なく、酒があり音楽がありラブストーリーがあるというパリの楽しさだけが満載である。エッフェル塔のライトアップのCGは見たこともないほど綺麗だった。鑑賞して温かい気持ちになる作品である。

映画「おもいで写真」

2021年02月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「おもいで写真」を観た。
 他人の価値観を認めない頑なな女性が少しだけ成長する話である。しかし主演の深川麻衣は、頑なな演技をするあまり、どんなときでも不機嫌な表情になってしまった。演出にも問題があるのかもしれないが、それ以上にこの女優さん自身のポテンシャルの低さに由来していると思う。
 29歳の女性の役で演じた深川麻衣も29歳なのだから、それなりに社会に揉まれて苦労しているはずだ。笑顔が必要な場面では笑顔を、神妙な場面では神妙な面持ちをするのが普通である。共演した香里奈はそうやって無理なく演技していた。深川麻衣の演技だけが浮いていて、古谷一行の渾身の演技の場面でさえ、その怒ったような表情で台無しにしてしまっていた。テンカラットが会社を挙げて頑張った作品にしてはキャスティングを失敗した気がする。同じ会社の田中麗奈は40歳だがその演技力で29歳の役も可能だったのに。
 作品自体は悪くない。地方都市でも少子高齢化は着実に進んでおり、福祉行政は高齢者の多様性に対応できず、孤独死も多い。老人たちの暮らし向きを把握するために、思い出の場所で写真を撮影するという企画はとてもいいと思う。この映画を見て実際に思い出写真の企画を始める自治体もあるかもしれない。
 手話を混じえたあたりも熊澤監督の才能が光る。古谷一行と一緒に古い写真を見るところが本作品で一番感動する場面だが、深川麻衣が無表情で演じてしまったために、やや盛り上がりに欠けてしまった。

映画「心の傷を癒やすということ 劇場版」

2021年02月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「心の傷を癒やすということ 劇場版」を観た。
 腰が痛くてペインクリニックに行くと、結構な混み具合である。世の中には身体に痛みを感じている人がこんなに沢山いるのだと少し驚いた。この経験から考えると、心療内科や精神科を受診する人も結構いるのではないかと思った。
 本作品は精神科医の人生の話である。精神科医の中には悪徳医師もいて、患者を長期間に亘って閉鎖病棟に強制入院させる事例が数多く報告されている。しかしもちろん大半の精神科医はまともな人間であり、恣意的に強制入院させることの出来る制度を悪用することはない。
 本作品では主人公の安医師を演じた柄本佑の演技がとにかく秀逸。コミュニケーションが上手くいくかどうかは言語による部分が15%で、残りの85%は非言語の部分だと言われている。精神科医に求められるのはこういう態度、話し方、声のトーン、表情なのだろうなと納得した。
 強制感がない、威圧的でない、急がせない、説教臭くない、落ち着いて穏やかな聞き取りやすい話し方である。こういう話し方は普通の人は相当訓練しないとできないと思うが、俳優柄本佑の演じる安医師はいとも簡単にお手本のような話し方をする。在日であることなどとうの昔に超越している。安は不安の安ではなく、安心の安なのだ。
 NHKは「国民の皆様のNHK」から「アベ様のNHK」に変わってしまってからは、基本的に見ないことにしている。しかし優秀なテレビマンはまだ残っていて、時々こういう優れた番組を作る。
 河島英五が謳った「時代おくれ」(1986年リリース、作詞:阿久悠)に次の一節がある。
「目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、人の心を見つめつづける、時代おくれの男になりたい」
 安医師のような人間は、もはや時代遅れなのだろうか。

映画「哀愁しんでれら」

2021年02月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「哀愁しんでれら」を観た。
 鑑賞後は凶悪な気持ちになる。ここ数年に鑑賞した映画の中では群を抜いて後味の悪い作品といって間違いない。誰彼構わずぶん殴りたいような殺伐とした気分になるのだ。しかしこれでも一応は人並みの善悪の基準は持ち合わせているから、人を殴るなんて行動は金輪際したことがないしこれからも多分しないと思う。映画館を出て、そもそも善悪とは何かと考えた。
 善悪とは何か。無人島に独りで生きている人間に善悪の概念は不要である。善悪とは複数の人間が同じ空間で生きているときに、共同体の存続と自分たちが生き延びるために決めたことなのだ。共同体を離れた、絶対的な善や絶対的な悪というものは存在しない。たとえば多くの人が、人を殺すことは絶対的な悪であると信じているかもしれないが、強盗殺人は犯罪でも、戦争でたくさんの敵を殺せば悪ではなくて英雄になる。善悪の基準は共同体の都合によるものだ。善悪は共同体における人間の行動規範であり、その共同体で円滑に生きていくために守るべき事項である。だから親は子供に善悪を教える。
 子供の頃に獲得する善悪の基準は、親の教育によるところが大きい。しかし親の基準のすべてがそのまま子供の基準になっていくのはとても危険だ。どんな親にでも偏見や思い込みがある。賢い親はその辺りを自覚しているから、絵本を読んだり童話を与えたり、いろんな場所に連れて行ったりする。子供は本や人に触れることで、最大公約数の善悪の基準を学んでいく。その過程で形作られる禁忌の感情を良心と呼ぶ。
 もし親が善悪の教育を怠ると、子供の心には良心が形作られず、平気で他の子が嫌がることをする。そして次第に他の子供から嫌われて排斥されるようになる。それでも成績が群を抜いているとか、スポーツが恐ろしく出来るとかいった才能があれば、その一点だけで生きていけるが、凡庸な子供の場合は引きこもりになるかグレるだけだ。ただ、才能がなくても学校で普通に過ごせる子供がいる。それは嘘を吐く子供である。ただ嘘を吐くだけではない。自分の吐いた嘘を本当だと思い込むことのできる子供である。そして他人に対して一歩も引かない子供である。
 本作品は滅多にいないだろうと思われるそんな子供を登場させる。実際にこういう家族が存在するとは思えないが、思考実験として極端な事例を考えた場合、可能性はゼロではない。しかしそれを映画にしようとすると、極端な演技が要求される。田中圭はよく頑張ったと思う。もともとどんな役でも上手にこなすポテンシャルのある俳優さんだが、今回の役は自分で同調する部分が殆どなかっただろうから、精神的に結構きつかったと思う。
 そしてそれ以上にきつかったと思う役が土屋太鳳の演じた小春である。途中まではやや優しさに欠ける部分はあるものの、そこらにいそうな普通の女性だったのだが、オオカミ少女と溺愛パパの家庭に嫁いで徐々に精神を病んでいき、終盤ではまったく別の人格になってしまう。観客の誰ひとりとして感情移入のできない人格だ。この役をやりたい女優は誰もいないだろう。
 子役はかなり上手だった。この子の役もやはり難役だと思う。将来はいいバイプレイヤーになりそうである。

映画「Illuminated」(邦題「イルミナティ 世界を操る闇の秘密結社」)

2021年02月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Illuminated」(邦題「イルミナティ 世界を操る闇の秘密結社」)を観た。
  邦題がよろしくない。原題の通り「イルミナティ」だけでよかった。「世界を操る闇の秘密結社」などという副題を勝手に付けたものだから、日本人観客の多くが誤解して、世界を裏で牛耳っている秘密組織の陰謀を描いた作品だと思ったに違いない。こういった煽るような副題をつけるのは、かつての東スポの見出しみたいで、こんな副題が多くなると映画の価値自体が下がってしまう。洋画の邦題を付ける人は、映画をよく観て内容を把握してから付けてほしい。
 秘密結社という言葉は謎めいていて、陰謀とか策略とか暗殺とか、そういったイメージがある。だから副題に秘密結社という言葉を用いて集客を図ろうとしたのだと思う。しかし実際の秘密結社と言うのは、公にされていない結社、または結社を他言しないという規律のある結社はみんな秘密結社なのである。そこら辺のおばちゃんとおっさんが秘密のカラオケの会を作ったら、それも秘密結社と呼んでいい。
 しかしイルミナティはそもそも秘密結社でさえなかった。ヴァイスハウプト教授によるゼミのようなものである。参加者を増やそうとして活動したのだが、教皇や君主を筆頭とするヒエラルキーを否定したものだから、時のイエズス会から迫害された。そこで表立っての活動をやめてコソコソと参加者を増やそうとしたので、後付け的に秘密結社とされただけなのだ。
 本作品はそんなイルミナティの本当の姿を研究者の証言によって明らかにする。ヴァイスハウプトの思想は自由と平等を実現する政治体制をひたすら思索によって追求しようとするものだ。思索を共有しあるいは教育するための集まりとしての存在がイルミナティであり、ある種の啓蒙集団であった。ブッダと弟子たちに似ているが、ヴァイスハウプトの思想はゴータマのそれほどには昇華されていなかった。
 イルミナティが成立した1776年といえばアメリカがトマス・ジェファーソン起草の独立宣言を採択した年である。独立宣言には次の文章がある。
「すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」
 まさにヴァイスハウプトの求めていた理想である。期せずしてアメリカとドイツで規模は違うが同じ年に同じ理想を発表したのである。そしてその13年後にはフランス革命が起こり、やはり自由と平等を謳った人権宣言が採択された。
 18世紀の後半は世界のあちこちで自由と平等が高らかに宣言されたのである。問題は理想を現実にする政治体制の構築だが、人類はそこで躓く。戦争が勃発して人権は制限され、国家主義のもとに自由は踏みにじられる。個人よりも国家が優先する社会となり、為政者は自由や人権の主張を恐れ、弾圧する。そこで抵抗する人々は地下に潜ることになるが、各地に存在した秘密結社がイルミナティの存続ではないかと恐れられた訳だ。
 たった9年間で壊滅に追い込まれた組織が、数世紀にわたって影響力を持ったのである。それはひとえに国家主義の為政者の恐怖にあったのかもしれない。近代の思想史の一面としてそれなりに見応えのある作品だった。

映画「シンクロニック」

2021年02月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シンクロニック」を観た。
 主人公の救急隊員スティーブは、飼い犬にホーキングと名付けるほど理論物理学にハマっている変わり者だ。相棒のデニスと普段は現実的な話をしているが、かつて夢中になった理論物理学はずっと頭に残っている。
 人体について医学では未だに解明できていないことが数多くある。解明できたと思っていることも実は違っていたということも数多くある。本作品のように人間の脳の松果体に謎のドラッグシンクロニックが作用してタイムトラベルが出来るという設定もあながち無理筋ではないのかもしれない。
 フォイエルバッハの「唯心論と唯物論」を読んだのはいつの頃だろう。内容はもう忘れてしまったが、最終的に唯心論を否定していたような記憶がある。唯心論は様々な解釈があるが、当方のわかりやすい解釈では、唯心論とは認識の主体(つまり自分)が認識しているから世界が存在するというものである。自分がいなくなれば当然ながら自分の認識が消滅し、世界が存在しなくなる。
 本作品で言えば、自分が認識しているものが現在であり過去であり未来である。そのあたりから飛躍して、だから薬を脳に作用させれば過去に行けるという理屈である。無理矢理ではあるが、そういう設定での物語なのだ。理論物理学が好きなスティーブが唯心論の現象を信じるのもなにかの皮肉だろう。
 それにしても薬を飲めば数分間だけ過去や未来に行けるというのは、なかなか面白い。当方にも行ってみたい過去はないこともない。そこに行ったからと行って多分何もできないだろう。過去を変えてしまえば未来の自分は違う自分になり、過去に来ることもなかったという所謂タイムパラドックスにハマる。
 しかし量子力学ではパラレルワールドの可能性も否定しないから、レコードの針をどこに落とすかによってどの時点にでも行ける場合がある。過去と現在の行き来を薬によって可能にすることもできるのかもしれない。そんな気もしてきた。本作品は大して面白い映画ではないが、タイムトラベルの考察のきっかけとしては、いささか存在価値のある作品と言えるだろう。

映画「Hippopotamus」(邦題「ラブ・エクスペリメント」)

2021年02月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Hippopotamus」(邦題「ラブ・エクスペリメント」)を観た。
 この手の実験的な映画にはたまにお目にかかる。大抵の場合、最後のネタバラシが主眼であり、それによって観客を驚かせたり感心させたりする。しかし本作品は少し違う気がする。
 小柄で肉感的な若い女がひとり、足を投げ出し背中を壁に預けて床に座っているシーンからはじまり、ストーリーはビデオゲームの謎解きのように進んでいく。なぜ閉じ込められているのか、なぜ怪我をしているのか、場所はどこなのか、時代はいつ頃なのか。観客の興味は当然そこに行く。
 原題の「Hippopotamus」は「河馬」という意味の英語で、脳の一時記憶の場所「海馬」の英語「Hippocampus」との言わばダジャレである。原題を観てから鑑賞していたので、河馬はいつ登場するのだろう、とても河馬が登場するようなシチュエーションではないけど、などと考えていた。河馬と海馬の聞き間違いの会話のシーンで、一気に本作品の状況設定が理解できる。
 男の置かれた状況は非常に困難で、なまじインテリだから公的機関に頼ろうとしなかった。その決断がなければ本作品は生まれない。無理矢理感のある設定だが、人の脳がどのように世界を認識し、信頼と疑念を解決しようとするのかについては興味深かった。愛は信頼がなければ生まれない。信頼が崩れれば愛も崩れる。B級作品だが悪くなかったと思う。

映画「Host」(邦題「ズーム 見えない参加者」)

2021年02月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Host」(邦題「ズーム 見えない参加者」)を観た。
 意外に面白かった。そして意外に怖かった。ホラー映画はどれだけ怖がらせるかが評価のポイントだから、本作品は高めの評価になると思う。ノートPCのZoomの画面という設定だからアクションも限られるし、各自の家の中という限定もある。しかしカメラワークの工夫もあって、登場人物の恐怖が互いに伝染し合うように高まっていくにつれて、観ているこちらにも恐怖が伝染してくる。上手く作られた映画である。
 Zoom交霊会は面白そうだ。幽霊を信じている人は少ないと思うが、信じていない人も100%幽霊はいないと断言できない。幽霊がいる可能性はゼロではないと思っている。そこにホラー作品を作る隙間があるし、交霊会の面白さもある。霊媒師を招いたらソレらしさが増すし、コロナ禍で在宅を余儀なくされているヒマ人たちが考えそうな交流会のひとつである。
 霊媒師は仰々しさのない普通の女性で、逆にリアリティがある。原題の「Host」の意味は「主人」というよりも「主催者」と考えるのがいい。交霊会を提案したのはヘイリーだが、ヘイリーは主催者というよりも参加者のひとりである。かといってヘイリーに呼ばれた霊媒師はもちろん主催者ではない。本当の主催者はPC画面の参加者の枠の中にはいないのだ。
 邦題の「ズーム 見えない参加者」は秀逸。本当の主催者は通信と現実の両方を支配していたという訳で、我々が日常的に考える時間と空間の概念を超越して、場所も時間も無関係な神出鬼没の存在を暗示している。それはたしかに怖い。交霊会は面白そうだが、本作品を観たら、やってみる気にはなれないだろう。少しひねった良作である。

映画「写真の女」

2021年02月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「写真の女」を観た。
 結婚式の写真を撮るフォトグラファーには、様々な要望が来る。デジタル写真はフィルムの頃には出来なかったレタッチという処理が出来るから、アルバムを作る前に新郎新婦に写真を見せて、レタッチの希望の有無を聞く。例えばブラジャーの紐が写っているとか、シャッターが押されたときに目を瞑ってしまっているから直してほしいとかいった要望である。中には本作品の女性のように、もう少し美しくしてほしいという要望もある。要望の99%は女性からで、稀に男性からの要望があっても女性から言われて要望してきたというものだ。レタッチャーはソフトを使って要望の通りに写真を修正する。地道で時間のかかる作業である。
 大友裕子という歌手をご存知だろうか。活躍した期間が短かったので殆どの人は知らないと思うが、葛城ユキが歌ってヒットした「ボヘミアン」という歌は最初はこの人が歌っていた。もともとはシンガーソングライターであり、彼女自身が作詞作曲した「夜明け前」という曲の歌詞に次の一節がある。
 女は化粧した顔を自分の素顔だと思う
 あんたはまだそれを知らない
 本作品は女の美しさについての真実を求める。化粧した顔が真実なのか、修正した写真が真実なのか、それとも素顔が真実なのか。
 人間の脳は結構いい加減で、都合がいいように見ることがある。ブルーをずっと眺めたあとに白黒の風景写真を見ると、脳が勝手に空を青くすることがある。暫くすると白黒に見えてアレ?となる。見えているものが必ずしも真の姿とは限らないし、元の姿よりも見えているほうが真実なのだという考え方もある。
 レタッチを繰り返す主人公は、自分で撮影した趣味の昆虫写真さえ修正してしまう。もちろん昆虫からの修正依頼はないから、主人公が自分の目で見た昆虫と写真の昆虫を比較して、より真実らしい姿に作り変えるのだろう。だがそれは昆虫の本当の姿なのだろうか。
 怪我をした女の迷いが主人公の迷いを増幅する。女は肉体だ。触れば柔らかい部分もあり硬い部分もある。皮膚の下に筋肉と血管と内蔵と骨を隠し、未消化の食物や大小便も隠している。見えているところが女のすべてではない。女は動き出す。エネルギーの発露だ。それは生命の発露でもある。主人公は写真を撮る。もうカメラは必要ない。自分の目に焼き付けるのだ。そう、生命の躍動こそが本当の姿なのだ。それを撮らなければ写真の意味がない。
 主人公の台詞が殆どないことを不思議に思いながら観る作品だが、それほどの違和感はない。むしろ還暦に近い主人公の写真に対する思い入れの深さと、真実の姿を求める気持ちを観客が推し量ることを要求されるようだ。ずっと考えながら観ていられるし、退屈もしなかった。面白い作品だと思う。