映画「ファーストラヴ」を観た。
公認心理師という資格は本作品で初めて知った。まだ新しい制度らしく従来の臨床心理士の多くが公認心理師資格を取得していることから、臨床心理士との違いは殆どないそうだ。日本の行政は、商売になりそうな分野では必ず資格を設けて許認可の権益を得ようとする。公認心理師の資格も、教材会社や資格試験の運営会社などからバックマージンが入り、最終的には役人の天下り先にもなるのだろう。厚労省はそういう役所だ。
それはともかく、日本はいま経済的に下りの時代に入っている。イケイケドンドンの高度成長から成熟期を経て、後退期に入っているのだ。経済が下り坂というのは市場の縮小という意味である。財政ファイナンスそのものであるアベノミクスという詐欺みたいな政策で見かけの株価が上がっていても、実体経済は縮んでいるのだ。少子高齢化で労働力が減少しているということは、消費する人口も減少しているということだ。共同体は常にひずみを生じさせ続けているが、経済が減少すると生じるひずみは大きくなり、貧しい人々から順に自由や権利が蹂躙されていく。
ひずみは次第に富裕層にまで蔓延し、人々は自分よりも弱い人に不満の吐き出し口を求めるようになる。差別やいじめやハラスメントである。老若男女の誰がターゲットになるか分からないが、いじめは弱い人から更に弱い人へと連鎖し、最後に一番無力な子どもに行き着く。子どもは他の子どもをいじめ、最後の子どもは自分を傷つけるしかなくなる。リストカットは絶望ではない。怒りなのだ。
本作品で主演の北川景子が演じた真壁由紀の心情は、子どものころの行き場のない怒りで苦しんだ経験のある人なら、共感できる部分も多いと思う。同じように追い詰められた、芳根京子演じる聖山環菜の気持ちもある程度は推測できる。環菜の父親は社会的に認められた著名人だ。自分の怒りは父親の権威や権力の前に否定されるだろう。怒りを訴えても誰も分かってくれない。分かってくれたのはユウジくんだけだが、父親によって引き離されてしまった。環菜の証言がコロコロと変わるのは、怒りを押し隠していたからだと思う。環菜は最後の最後まで自分の怒りを口にしなかった。
時代は常に子どもたちに犠牲を強いる。いじめの連鎖は断ち切らなければならない。いじめられた子どもが子どもをいじめる大人にならないために、公認心理師がいるのだ。少なくとも主人公真壁由紀はそう信じている。子どもに必要なのは物質的な豊かさではない。好きなだけおもちゃを買い与えても、好きな遊園地に何度連れて行っても、子どもは満たされない。満たされない子どもはいじめる子どもになる。まして下り坂の日本では物質的な不足が心理的な不満を増幅させる。
子供が満たされるのは先ず承認欲求の充足で、次いで達成感だ。承認欲求は人間の成長において比較的早い段階から現れる。自分が何かをして親が笑えば、それを繰り返す。しかし何度も繰り返すと誰も笑わなくなる。子どもは親が自分に飽きたと思って居場所がなくなったように感じる。承認欲求は危険な側面を持っているのだ。
大人になるにつれて他人からの承認欲求を満たすことよりも、好きなことを追求してひとりで達成感を得るようになる。自信を持つのである。自信があるから他人と関係なく自分で自分を認めることが出来る。しかしいつまでも承認欲求が強い人間は、その自信のなさ故に狭量で不寛容であり、人間としての弱さ故に立場の弱い人をいじめる。世の中はいつも弱い人で溢れている。世界中にいじめや差別が蔓延しているのだ。公認心理師はひとりでも多くの人を「いじめる自分」から解放するのが仕事である。
そのように考えていくととてもスケールの大きな作品だ。原作は未読なので不明だが、少なくとも映画ではスケールの大きさを感じた。堤幸彦監督の世界観の大きさなのかもしれない。北川景子の顔のアップがとても多い作品で、その多くは無言なので、観客はその美しい表情の向こうにある悲しみや迷いや怒りや憎しみなど、公認心理師として決して表情に出せない心の闇を想像する。当方はそれに加えて、世界中の子どもたちの悲しみを背負う悲壮感も感じた。スケールが大きいと思った理由はそこにある。
主人公真壁由紀が公認心理師として被告と向き合う一方、一女性としての真壁由紀を過去から現在に亘って描くことで、主人公の世界観と作品の世界観が徐々に一致していく。言葉で説明しないシーンも多く、立体的で奥行きのある作品である。北川景子は見事な大熱演だった。