三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ヤクザと家族 The Family」

2021年02月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヤクザと家族 The Family」を観た。
 久しぶりに胸にズシッとくる邦画を観た。藤井道人監督は「デイアンドナイト」「新聞記者」「宇宙でいちばんあかるい屋根」といった、まったく異なるジャンルの映画をすべて上手に仕上げていて、本作品でもヤクザものという新たなジャンルを一級品の映画に仕上げてみせた。見事である。まだ34歳。凄い才能だ。
 タイトルが出るところでは、活字の「ヤクザと家族」の後ろにある「My Family」の赤い筆字が深作欣二監督の「仁義なき戦い」を思い起こさせる。おそらく「仁義なき戦い」に敬意を評したのだと思う。
 戦後から高度成長期に至る頃を舞台にした「仁義なき戦い」の時代なら、出所すれば昇進して若頭になってもおかしくないところだが、現在は暴対法や暴力団排除条例の締め付けで、組のために服役しても、必ずしも高待遇で迎えられるとは限らない。ヤクザには生きづらい時代になってしまったのだ。
 指定暴力団に所属して有利なことは何ひとつない。所属していない連中、通称半グレと呼ばれる集団のほうが、暴対法や条例に引っ掛からないから、自由に稼ぐことが出来る。場合によっては悪徳警官や、警察と癒着しているヤクザに上納金を払って、ガサ入れの前情報などを貰えれば、摘発されずに生き延びることが出来る。つまり、今やヤクザは半グレのおこぼれを頂戴して生き延びているだけなのだ。地元の警察と癒着してシマを維持するのが唯一のシノギなのである。それができない組は悉く排除される。
 社会で上手く生きていけない子供は、引きこもりになるかグレるかのどちらかだ。グレた子供は暴力と駆け引きだけが武器になる。しかしどんなに腕っぷしが強くても一匹狼は徒党を組んだ連中に勝てない。かといって組織に属すると、人と同調するしかない。だったら最初から他人とうまく同調して普通に生きていけばよかったのだが、今更悔やんでも仕方がない。子供の頃は、将来の自分がドツボにハマってしまうことなど想像できないのだ。
 ドツボにハマってしまった主人公山本賢治を綾野剛がケレン味たっぷりに演じてみせた。運命を受け入れ、組に居場所をもらって組長を親父と呼び、義理と人情のヤクザ道を信じて生きる。切った張ったの危険と隣り合わせの毎日は、カタギには想像もできないほど神経をすり減らす。いつでも命を投げ出す覚悟をしたその表情は、本物のヤクザの迫力である。
 映画の後半は出所した賢治が、変わってしまった世の中でどのように生きるかを描く。SNS全盛の状況は、もはや義理人情の通用しない乾いた人心が蔓延していて、賢治の出る幕はどこにもない。かつて居場所がなかった自分を拾ってくれた組は、組長の病気とともに衰退してしまった。警察と癒着して稼ぐ経済ヤクザだけがのうのうと生き延びている。賢治の居場所はどこにあるのか。
 綾野剛は前回の出演作「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」では熱血刑事を演じ、その前の映画「影裏」では静かだが芯の強いゲイの青年を演じた。このところ芸の幅をますます広げていて、本作品では本物の若手のヤクザにしか見えなかった。凄い演技力である。脇を固めた舘ひろしや豊原功補、北村有起哉も好演。特にホステスを演じた尾野真千子が殊の外よかった。
 SNSで忙しい社会では、賢治のような古いタイプの落ちこぼれが生きる場所はない。アナログとデジタルの違いなのか、現代社会の冷たさが身にしみる。暴力に満ちた暗い作品だが、終映後は不思議に清々しい気分になる。ある男がこんなふうに生きた。ろくでもない人生かもしれないが、否定されるいわれはないのだ。

映画「花束みたいな恋をした」

2021年02月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「花束みたいな恋をした」を観た。
 恋愛物語はふたりの関係性の変化を綴るものだから、ふたり以外はみんな脇役だ。本作品の脇役は豪華である。小林薫、戸田恵子、岩松了、オダギリジョーと並べてみると、この4人だけで渋いドラマが出来そうだ。そんな中で重要な役割を果たすのが清原果耶と細田佳央
太の19歳コンビである。ふたりの一度だけの登場シーンが本作品にとってのハイライトだと思う。
 巷間に言われていることを思い出した。男の恋愛は名前を付けて保存で、女の恋愛は上書き保存だというのである。別れに際しては女は意外なほどクールで、男は未練たらたらということだが、当たっている気がする。
 高評価の作品で、主演のふたりの演技もとてもよかったのだが、どうにもピンとこなかった。それは多分当方に原因があり、最近の本をまったく読んでいないのでふたりが挙げる作者をひとりも知らず、おかげでふたりがどんな世界観で生きているのかが全然わからなかった。わかったのは日本人の作者ばかりだったということだけだ。
 ここでもし誰もが知る古典を挙げてもらえれば、当方にも少しはふたりの世界観がわかったと思う。例えば一方がダンテの「神曲」を挙げ、一方が源信の「往生要集」を挙げれば、それは世にも珍しいマニアックなカップルだと認識できる。ふたりとも村上春樹を挙げればありふれたカップルだとわかる。
 実名で上げられた作者たちを否定するものではないが、当方にはふたりが幼稚な小学生のカップルに見えてしまった。本を読むのは自分なりの世界観を構築するためである。もちろん面白いから読む。読むと作者の見ている世界と同じ方向を向く。そうやって少しずつ世界観が形作られていくのだ。何を面白いと思うかが個人によって違うから、構築される世界観も違っていく。同じ本を読んでいる筈のふたりは、それだけが嬉しくて、世界観も一致していると勘違いする。
 ふたりが時期を異なって相手に言う台詞が印象的である。「楽しくないことはやめたほうがいい」。この世界観は正しい。人はパンのみにて生きるにあらずだ。しかしパンのために自由を投げ出すことが現実だと、そういうパラダイムが支配的である。パンよりも自由を選ぶ女と、パンのために自由を投げ出す男。出逢ったときから実は世界観がまったく違っていることに気づくのは、ふたりの主人公ではなく観客である。出会いのシーンからそれがわかっていたから、ふたりのどちらにも感情移入することが出来ず、感動もしなかった。恋愛物語としては及第点をつけられないと思う。

映画「名も無き世界のエンドロール」

2021年02月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「名も無き世界のエンドロール」を観た。
 無理矢理感がずっと続く。これは小学生時代でこの子の髪の色は取り敢えず不問にしたほうがいいのだなとか、ここは多分中学生時代で、ここは高校時代と見ればいいのだなとか、鑑賞するのに作品に寄せていかねばならない。中村アンのリサが10年経っても見た目が歳を取らないのも、柄本明がヤクザの親玉にしては迫力に欠けるのも、なんとか許容範囲ではある。
 しかしストーリーが現実離れしていて、登場人物の誰にも感情移入が出来なかった。つまりは感動しなかったということだ。唯一の救いは、すべての伏線を回収したことである。へえと思いながら鑑賞して、あとには何も残らない。
 キダとマコトを演じた主演のふたりはよく頑張ったと思う。岩田剛典は2016年の映画「植物図鑑 運命の恋、ひろいました」から観ているが、このところ随分演技が上手になった気がする。柄本明と1対1のシーンでも迫力の面で見劣りしなかった。真剣佑あらため新田真剣佑は2016年のテレビドラマ「仰げば尊し」の演技からあまり変わっていないが、あの頃からある程度完成されていたと見るのがいいのかもしれない。
 主役ふたりの奮闘のおかげでなんとか作品になったというのが正直な感想である。共通の幼馴染ヨッチの言葉が物語の動機となるのだが、言葉はそれを発する人間によって重味が変わってくる。山田杏奈ではヨッチの言葉の重味を伝えきれなかった。言葉が上滑りしてしまい、おかげでキダとマコトの人生も上滑りしてしまった。