映画「写真の女」を観た。
結婚式の写真を撮るフォトグラファーには、様々な要望が来る。デジタル写真はフィルムの頃には出来なかったレタッチという処理が出来るから、アルバムを作る前に新郎新婦に写真を見せて、レタッチの希望の有無を聞く。例えばブラジャーの紐が写っているとか、シャッターが押されたときに目を瞑ってしまっているから直してほしいとかいった要望である。中には本作品の女性のように、もう少し美しくしてほしいという要望もある。要望の99%は女性からで、稀に男性からの要望があっても女性から言われて要望してきたというものだ。レタッチャーはソフトを使って要望の通りに写真を修正する。地道で時間のかかる作業である。
大友裕子という歌手をご存知だろうか。活躍した期間が短かったので殆どの人は知らないと思うが、葛城ユキが歌ってヒットした「ボヘミアン」という歌は最初はこの人が歌っていた。もともとはシンガーソングライターであり、彼女自身が作詞作曲した「夜明け前」という曲の歌詞に次の一節がある。
女は化粧した顔を自分の素顔だと思う
あんたはまだそれを知らない
本作品は女の美しさについての真実を求める。化粧した顔が真実なのか、修正した写真が真実なのか、それとも素顔が真実なのか。
人間の脳は結構いい加減で、都合がいいように見ることがある。ブルーをずっと眺めたあとに白黒の風景写真を見ると、脳が勝手に空を青くすることがある。暫くすると白黒に見えてアレ?となる。見えているものが必ずしも真の姿とは限らないし、元の姿よりも見えているほうが真実なのだという考え方もある。
レタッチを繰り返す主人公は、自分で撮影した趣味の昆虫写真さえ修正してしまう。もちろん昆虫からの修正依頼はないから、主人公が自分の目で見た昆虫と写真の昆虫を比較して、より真実らしい姿に作り変えるのだろう。だがそれは昆虫の本当の姿なのだろうか。
怪我をした女の迷いが主人公の迷いを増幅する。女は肉体だ。触れば柔らかい部分もあり硬い部分もある。皮膚の下に筋肉と血管と内蔵と骨を隠し、未消化の食物や大小便も隠している。見えているところが女のすべてではない。女は動き出す。エネルギーの発露だ。それは生命の発露でもある。主人公は写真を撮る。もうカメラは必要ない。自分の目に焼き付けるのだ。そう、生命の躍動こそが本当の姿なのだ。それを撮らなければ写真の意味がない。
主人公の台詞が殆どないことを不思議に思いながら観る作品だが、それほどの違和感はない。むしろ還暦に近い主人公の写真に対する思い入れの深さと、真実の姿を求める気持ちを観客が推し量ることを要求されるようだ。ずっと考えながら観ていられるし、退屈もしなかった。面白い作品だと思う。