三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「写真の女」

2021年02月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「写真の女」を観た。
 結婚式の写真を撮るフォトグラファーには、様々な要望が来る。デジタル写真はフィルムの頃には出来なかったレタッチという処理が出来るから、アルバムを作る前に新郎新婦に写真を見せて、レタッチの希望の有無を聞く。例えばブラジャーの紐が写っているとか、シャッターが押されたときに目を瞑ってしまっているから直してほしいとかいった要望である。中には本作品の女性のように、もう少し美しくしてほしいという要望もある。要望の99%は女性からで、稀に男性からの要望があっても女性から言われて要望してきたというものだ。レタッチャーはソフトを使って要望の通りに写真を修正する。地道で時間のかかる作業である。
 大友裕子という歌手をご存知だろうか。活躍した期間が短かったので殆どの人は知らないと思うが、葛城ユキが歌ってヒットした「ボヘミアン」という歌は最初はこの人が歌っていた。もともとはシンガーソングライターであり、彼女自身が作詞作曲した「夜明け前」という曲の歌詞に次の一節がある。
 女は化粧した顔を自分の素顔だと思う
 あんたはまだそれを知らない
 本作品は女の美しさについての真実を求める。化粧した顔が真実なのか、修正した写真が真実なのか、それとも素顔が真実なのか。
 人間の脳は結構いい加減で、都合がいいように見ることがある。ブルーをずっと眺めたあとに白黒の風景写真を見ると、脳が勝手に空を青くすることがある。暫くすると白黒に見えてアレ?となる。見えているものが必ずしも真の姿とは限らないし、元の姿よりも見えているほうが真実なのだという考え方もある。
 レタッチを繰り返す主人公は、自分で撮影した趣味の昆虫写真さえ修正してしまう。もちろん昆虫からの修正依頼はないから、主人公が自分の目で見た昆虫と写真の昆虫を比較して、より真実らしい姿に作り変えるのだろう。だがそれは昆虫の本当の姿なのだろうか。
 怪我をした女の迷いが主人公の迷いを増幅する。女は肉体だ。触れば柔らかい部分もあり硬い部分もある。皮膚の下に筋肉と血管と内蔵と骨を隠し、未消化の食物や大小便も隠している。見えているところが女のすべてではない。女は動き出す。エネルギーの発露だ。それは生命の発露でもある。主人公は写真を撮る。もうカメラは必要ない。自分の目に焼き付けるのだ。そう、生命の躍動こそが本当の姿なのだ。それを撮らなければ写真の意味がない。
 主人公の台詞が殆どないことを不思議に思いながら観る作品だが、それほどの違和感はない。むしろ還暦に近い主人公の写真に対する思い入れの深さと、真実の姿を求める気持ちを観客が推し量ることを要求されるようだ。ずっと考えながら観ていられるし、退屈もしなかった。面白い作品だと思う。

映画「ヤクザと家族 The Family」

2021年02月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヤクザと家族 The Family」を観た。
 久しぶりに胸にズシッとくる邦画を観た。藤井道人監督は「デイアンドナイト」「新聞記者」「宇宙でいちばんあかるい屋根」といった、まったく異なるジャンルの映画をすべて上手に仕上げていて、本作品でもヤクザものという新たなジャンルを一級品の映画に仕上げてみせた。見事である。まだ34歳。凄い才能だ。
 タイトルが出るところでは、活字の「ヤクザと家族」の後ろにある「My Family」の赤い筆字が深作欣二監督の「仁義なき戦い」を思い起こさせる。おそらく「仁義なき戦い」に敬意を評したのだと思う。
 戦後から高度成長期に至る頃を舞台にした「仁義なき戦い」の時代なら、出所すれば昇進して若頭になってもおかしくないところだが、現在は暴対法や暴力団排除条例の締め付けで、組のために服役しても、必ずしも高待遇で迎えられるとは限らない。ヤクザには生きづらい時代になってしまったのだ。
 指定暴力団に所属して有利なことは何ひとつない。所属していない連中、通称半グレと呼ばれる集団のほうが、暴対法や条例に引っ掛からないから、自由に稼ぐことが出来る。場合によっては悪徳警官や、警察と癒着しているヤクザに上納金を払って、ガサ入れの前情報などを貰えれば、摘発されずに生き延びることが出来る。つまり、今やヤクザは半グレのおこぼれを頂戴して生き延びているだけなのだ。地元の警察と癒着してシマを維持するのが唯一のシノギなのである。それができない組は悉く排除される。
 社会で上手く生きていけない子供は、引きこもりになるかグレるかのどちらかだ。グレた子供は暴力と駆け引きだけが武器になる。しかしどんなに腕っぷしが強くても一匹狼は徒党を組んだ連中に勝てない。かといって組織に属すると、人と同調するしかない。だったら最初から他人とうまく同調して普通に生きていけばよかったのだが、今更悔やんでも仕方がない。子供の頃は、将来の自分がドツボにハマってしまうことなど想像できないのだ。
 ドツボにハマってしまった主人公山本賢治を綾野剛がケレン味たっぷりに演じてみせた。運命を受け入れ、組に居場所をもらって組長を親父と呼び、義理と人情のヤクザ道を信じて生きる。切った張ったの危険と隣り合わせの毎日は、カタギには想像もできないほど神経をすり減らす。いつでも命を投げ出す覚悟をしたその表情は、本物のヤクザの迫力である。
 映画の後半は出所した賢治が、変わってしまった世の中でどのように生きるかを描く。SNS全盛の状況は、もはや義理人情の通用しない乾いた人心が蔓延していて、賢治の出る幕はどこにもない。かつて居場所がなかった自分を拾ってくれた組は、組長の病気とともに衰退してしまった。警察と癒着して稼ぐ経済ヤクザだけがのうのうと生き延びている。賢治の居場所はどこにあるのか。
 綾野剛は前回の出演作「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」では熱血刑事を演じ、その前の映画「影裏」では静かだが芯の強いゲイの青年を演じた。このところ芸の幅をますます広げていて、本作品では本物の若手のヤクザにしか見えなかった。凄い演技力である。脇を固めた舘ひろしや豊原功補、北村有起哉も好演。特にホステスを演じた尾野真千子が殊の外よかった。
 SNSで忙しい社会では、賢治のような古いタイプの落ちこぼれが生きる場所はない。アナログとデジタルの違いなのか、現代社会の冷たさが身にしみる。暴力に満ちた暗い作品だが、終映後は不思議に清々しい気分になる。ある男がこんなふうに生きた。ろくでもない人生かもしれないが、否定されるいわれはないのだ。