三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「記憶の戦争」

2021年11月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「記憶の戦争」を観た。
 
 瀬戸内寂聴さんが亡くなった。波乱万丈の人生を送った人だが、生涯を通じて、一貫して反戦を訴え続けた人でもあった。
 
 個人が他人を虐殺すると、どの共同体でも犯罪になるが、戦争で他国の人間を虐殺すると、どの共同体でも英雄になる。つまり戦争は個人の残虐行為にお墨付きを与えることなのだ。愚かとしか言いようがないが、それが国家という共同幻想の本質だ。
 国家主義は、国家が個人に優先し、個人は国家に従属して国家を褒め称え続けなければならないという考え方だ。北朝鮮の国民が常に独裁者を褒め称えているのと同じだ。
 縫い目ひとつ変わらぬ同じ軍服を着せた兵隊に隊列を組ませ、一糸乱れぬ行進をさせる。指導者はそれを美しいと評価し、忠誠心の現れだと悦に入る。アベシンゾーが「美しい国」とするのがそういう光景だ。気持ち悪いとしか言いようがない。トリモロスとか言われても困るのだ。
 
 本作品はベトナム戦争で韓国軍人に虐殺された家族の生き残りの女性が、謝罪を求めて韓国政府を訴える話である。従軍慰安婦が日本を訴えたのと同じ構図だ。だから賢い韓国人はベトナム女性を支援する。しかし頭の硬直した韓国軍人は、一切の虐殺を認めない。日本の国家主義者たちが従軍慰安婦問題や南京大虐殺を認めないのと同じ精神性である。
 
 大切なのは寂聴さんが訴え続けた通り、戦争をしないことだ。タンおばさんの悲劇を二度と繰り返さないことだ。そのために過去を反省する。被害を訴え続ける。謝ったから、補償したからもういいだろうというのは間違っている。タンおばさんは補償なんかいらない、金も欲しくないと言う。欲しいのは謝罪と反省だ。反省し続ける気持ちがなくなったら、人間はまた戦争をする。
 
 日本軍が朝鮮半島や中国、東南アジアで何をしたか、それを反省し続けることが、戦争で亡くなった人への鎮魂であり、反戦の決意である。平成天皇の明仁が戦地を巡って、頭を下げ続けたのも同じ理由だ。日本国憲法によって日本国および日本国民統合の象徴と位置づけられた天皇が、各地を訪れて頭を下げることが、現地の人々や各国の政府にとってどれだけ大きな意味を持っていたか、それを知らないのは当の日本国民だけである。
 日本国民が平成天皇の戦地行脚の意味を知らないのは、報道がきちんと説明しないからだ。説明しないように圧力がかかったのかもしれない。天皇は政治的な発言をしてはならないとされているから、どこへ行ってもただ頭を下げるだけだったが、どんな思いでそうしたのか、マスコミはちゃんと伝えるべきだと思う。
 平成天皇の「お言葉」の中で「先の大戦」という言葉が多く使われていたことは、割と多くの国民の記憶にあると思う。戦争に対する反省と、戦争で亡くなった人を悼む気持ちが伝わってきたが、感受性が欠如した人には何も伝わらなかったと思う。寂聴さんの言葉も、平成天皇の思いも、結局は国民に伝わっていないのだ。もし伝わっていたら、先の総選挙で自民党が大勝することはなかったはずだ。日本に未来はない。

映画「スズさん 昭和の家事と家族の物語」

2021年11月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スズさん 昭和の家事と家族の物語」を観た。
 
 淡々として静かな映画だが、どこか心を揺さぶられるものがあって、知らずしらず涙が溢れてくる。スズさんという名前から、アニメ映画「この世界の片隅に」の主人公北條すずさんが思い起こされた。戦争に翻弄されながらも、家族や地域の人たちと過ごす日常をとても大事にするという共通点に泣かされたのかもしれない。
 しかし本作品は反戦映画ではない。戦時中から戦後にかけて日本に存在した、一日中働いている主婦の日常を細かに描いた作品だ。5時から6時くらいに起きて身支度をし、朝食を作り、後片付けと洗い物をし、大量の洗濯物を洗い、絞って干す。家中の掃除が終わると、着物の縫直しや繕い物をする。漬物を漬け、季節によってはおはぎやおせち料理を作る。買物に出かけ、帰るとすぐに夕飯の準備だ。夕食、片付け、洗い物が終わると、夜は編み物をしたり、夫の翌日の準備をする。あっという間に真夜中になる。
 子どもたちが学校から帰って勉強していると、勉強なんかしないで手伝いなさいと言われる。綿入れに綿を詰めたりする仕事が沢山あるのだ。手が空いたらやろうと思っている懸案が山積みという訳である。家事に追われる主婦には、暇な時間などないのだ。
 
 それでもスズさんは幸せだったように見える。家族の世話をするスズさんにとっては、家族の幸せが自分の仕事の反映であり、そこに幸せを感じていたのだろう。最期まで働きづめの人生だったが、とても充実していた。あれこれとやることが沢山あり、仕事をこなす技術がある。料理と裁縫が得意なスズさんは、家族に美味しいものを食べさせ、見栄えのいい着物を着せる。家族の笑顔がスズさんにとってのご褒美だ。
 「かあさんの歌」に出てくる「かあさん」は昭和に実在したのだ。高度成長期は長時間働く企業戦士が活躍したが、彼らを支えたのは昭和の主婦である。誰からも褒められることなく、ただ家族のために一日中、一年中働き続けた。無死の精神性が昭和の主婦に宿っていたことを、本作品によって改めて知らされた。

映画「マリグナント 凶暴な悪夢」

2021年11月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マリグナント 凶暴な悪夢」を観た。
 
 人に悪意が生まれるのは、何歳ころだろうか。生まれたばかりの赤ん坊には悪意はない。しかし5歳くらいの子供で意地悪な子がいる。人を叩いたり、騙したりする。
 当方は4歳くらいの頃に近所の5歳くらいの悪ガキに「行けって言ったら走るんだよ」と騙されて、遮断器が閉じようとした踏切を走って渡ったことがある。自転車で通りかかった駅員にこっぴどく叱られたが、悪ガキは逃げていた。この悪ガキはこの15年後くらいに、二十歳で自殺した。
 もしかすると彼は死に関心があって他人の死が見たかっただけで、悪意はなかったのかもしれない。しかしそんなふうな言い方をすれば、世の中に悪意が存在しなくなる。他人が不利益を被ることを願うのはすべて悪意だと考えるのが一般的で、正解だと思う。
 では不利益とはなにか。痛い思いや辛い思いをさせられること、自分の持ち物を盗られたり取り上げられたりすること、他人と比較して不当に低い扱いを受けることである。子供は殴られたり罵倒されたり、服を脱がされて外に放り出されたり、おもちゃを壊されたりすると、それが自分の不利益であることを理解する。
 しかしそこから悪意に至るプロセスがわからない。子供に悪意はないと言い張る人がいるが、本当にそうだろうか。当方に列車で轢かれるかもしれないダッシュをさせた近所の5歳くらいの悪ガキに、本当に悪意はなかったのだろうか。
 
 本作品の冒頭に登場する病院は、まるでビデオゲーム「Resident evil」(邦題「バイオハザード」)の洋館のようで、怪しい雰囲気が満載だが、CGの出来はいまひとつかもしれない。当方には何故か新宿の都庁に似ているように見えた。
 そこに入院しているのは8歳児だ。8歳ともなれば、被害者意識が生まれているし、リベンジの思いから悪意が生じる場合もある。被害者意識が強ければ強いほど悪意は根深くなり、一生消えることはない。当方も、小学校2年生のときにモノサシで酷く叩いた教師のことをいまだに忘れていない。その理由が教師の誤解だったことで、すぐに謝ってきたが、謝られても痛みの記憶は消えることはない。もし将来会うことがあってもモノサシで殴ることはしないが、嫌味のひとつも言ってやりたい気がする。
 
 世の中には当方と同じように、被害者の思い出にいつまでも消えない怒りを抱えている人もいると思う。本作品はそういう人にとって、溜飲の下がるシーンを連発してくれる。権力と暴力に対してそれを上回る暴力で圧倒することは、リベンジできない被害者意識を持ち続ける人間にとっては、なんとも爽快である。
 謎解きのような前半から、真相が判明する後半へテンポよく進む。目が離せない展開の中で無残な殺人が繰り返される。特に広い留置場から警察署内のシーンは本作品の白眉で、チンピラや警官を相手の立ち回りは、日本の時代劇の殺陣(たて)のようだ。このシーンを観るだけでも本作品を鑑賞する価値はある。ストーリーといい、ディテールといい、とてもよく出来たホラーだと思う。

映画「梅切らぬバカ」

2021年11月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「梅切らぬバカ」を観た。
 
 エンドロールにスタイリスト(加賀まりこ担当)、ヘアメイク(加賀まりこ担当)とあった。単独の担当者が付くとは、さすがに大女優さんである。
 それはさておき、占い師にはある種の尊大さが必要である。意味不明の基準で一方的に決めつけられても何故か納得してしまうような、自信たっぷりの態度がなければ占い師は務まらない。
 主人公の珠子さんは、自閉症の息子に限りない優しさを注ぐ一方で、占い師としての尊大さを見せる。こんなややこしい役を演じることが出来る女優となると、加賀まりこを置いて他に思い当たらない。まさにはまり役である。
 
 人と人とは結局のところ、解り合えないものだ。それぞれに自我があるから当然である。歳を取ると、他人とは解り合えないと諦めて、どこかで折り合いをつける。つまり妥協するのだ。それは悪いことではない。
 息子の忠さんが50歳になっても、珠子さんには忠さんのことがまだまだ解らない。きっと死ぬまで解らないのだ。しかし珠子さんは、解らないからこそ人生が面白いと達観しているフシがある。だから占い師みたいなことも出来ているのだろう。
 
 自閉症の息子を抱えていても、珠子さんに悲壮感はない。何があろうと忠さんはかけがえのない自分の息子だ。一生背負っていく。自分が亡くなったとしても、忠さんはなんとかやっていけるだろうという楽観もある。それは占い師ならではの楽観かもしれない。
 忠さんは自閉症の中でも意思疎通が難しい部類に入る。意思疎通が図れない人間は常に差別の対象だ。日本人は言葉の通じない「在日」を差別してきた。戦時中や戦後には殺された人も多くいたと聞く。差別はいまも続いている。忠さんへの差別も同じ精神性である。
 珠子さんは、息子を差別する人たちとは戦わない。グループホームに対する反対運動で時間を無駄にしている人たちに付き合う必要はないのだ。
 
 脇役陣は概ね好演。林家正蔵は人のいい役が似合うが、本作品では人の好さだけではなく、差別や役所の怠慢に対する怒りも見せる。なかなかいい。森口瑤子は偏りのない素直な精神性の奥さん、渡辺いっけいは自分本位ではあるが、他人の人格も尊重する気の弱いサラリーマンをそれぞれ上手に演じていた。
 塚地の忠さんは、自閉症の中年としての悲哀が少し足りなかった感じがある。急に真顔になったりスタスタ歩いたりして、自閉症らしくないシーンもあった。そのたびに珠子さんが、塚地の演技にかぶせるようにして忠さんに話しかけたり、話を引き取ったりして、いくつかのシーンを見事に収めていた。このあたりの呼吸は流石である。加賀まりこはやはり大女優なのだ。

映画「恋する寄生虫」

2021年11月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「恋する寄生虫」を観た。
 
 知人に対人恐怖症の人がいる。他人に近づくのが怖い、見られるのが怖い、人と話すのが不安、といった症状がある。当然ながら会社などの一定の場所に通勤するのは不可能だ。そもそも面接に出向くことさえ出来ない。しかし幸いなことにこの人はPCスキルがとても高く、ネットで知り合った人がそれを知って、最初からリモートワークでいいということでその人の会社に採用された。こういうことは多分珍しい話で、知人は僥倖に恵まれたのだと思う。恐怖症や鬱病で社会生活を営むことができずにひきこもったり、苦しんだりしているひとは大勢いる気がする。
 
 本作品で小松菜奈が演じたサナギは、視線恐怖症なのに外を出歩くことが出来るという強引な設定である。相手役である林遣都が演じたケンゴは、度を越した潔癖症なのに普通に外出するという、こちらもかなり強引な設定だ。設定が強引だからいろいろ辻褄が合わなくなるが、芸達者な二人がなんとか物語にしてしまう。演出も大変だっただろうが、演技はそれ以上に大変だ。改めて小松菜奈と林遣都の演技力に感心した。
 
 本作品は欠点を持つ男女が、少しずつそれを克服して仲よくなるというベタなストーリーだが、そこに寄生虫を絡めたことで、俄然ややこしくて、いい物語になったと思う。トキソプラズマの話は学術的な根拠は何もないが、話としては面白い。
 対人恐怖症も潔癖症も脳の症状だから、寄生虫が脳に寄生するというのが上手いアイデアだ。医師が登場すれば真実性も増す。その医師が石橋凌であれば、存在感といい演技力といい、言うことなしだ。作品としての出来はいいと思う。
 
 小松菜奈は25歳になって、セーラー服はこれが最後かなと言っていたが、スタイルと言い、透明感のある白い肌といい、まだまだ女子高生を演じられるだろうと思ったのだが、さすがに人妻になってしまったら難しいかもしれない。
 
 結婚は他人とずっといるから、ストレスが溜まる一方で、孤独ではないという安心感がある。恋は盲目アバタもエクボというが、結婚するとすぐにエクボではなくアバタだったことが解る。しかしアバタも相手の個性だ。尊敬できる相手なら、どこまでも許せるし、どこまでも妥協できる。人間としての幅も広がるだろう。それはつまり、俳優、女優としての幅も広がるということだ。今後の菅田将暉と小松菜奈の演技には、これまで以上に期待できるかもしれない。ご結婚おめでとうございます。

映画「アイス・ロード」

2021年11月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アイス・ロード」を観た。
 
 文句なしに面白かった。ボディダブルのスタントマンもいたとは思うが、御歳69歳のリーアム・ニーソンが体を張ってリアルなアクションに挑んでいるシーンに胸が弾む。
 ストーリーは意外に入り組んでいて、単に危険を冒して荷物を運ぶだけの映画ではないことはすぐに解る。シーンは極限までカットされていて、テンポよく物語が進んでいく。そんな中で主人公マイクをはじめとする登場人物が上手に紹介されている。脚本も担当したジョナサン・ヘンズリー監督の手腕は大したものだと思う。
 特にマイクの弟ガーディの人物造形は見事で、愛されるために生きているような無辜の人間だ。ガーディが愛されないのは世の中のほうがおかしいからだ。マイクの怒りは根深い。
 それともうひとり、先住民の血を受け継ぐタントゥという女性ドライバー。勇敢で負けず嫌いで正直者である。この人が迫害され差別されるとしたら、やはり世の中のほうがおかしい。タントゥがいつも怒っているのはそのせいだ。メイフラワー号以来の400年にわたる怒りと言ってもいい。
 ところで、タントゥ(Tantoo)という名前でどうしても思い出してしまったのが、ターントゥ(Turn-To)という種牡馬である。日本の三冠馬ディープインパクトの父サンデーサイレンスはターントゥ系のサラブレッドだ。競馬に詳しい人ならすぐに解るが、そうでない人には何を言っているのかわからない話である。どうもすみません。
 
 牽引の免許取得はかなり難しいが、ユンボなどの重機を操るオペレーターは、現場に重機を運ぶのに必要だから取得している。一度話を聞いたことがあるが、日当は6~7万円だそうだ。結構な高額である。ユンボの免許も含めて特殊な技術であり、危険も伴うから、金額としては妥当だと思った。
 本作品に登場する牽引車は、アメリカならではのデカさである。貨物車(トレーラー)も巨大だから、生身の人間の力ではどうにもならない。動かすには強力なエンジンの力が必要だ。そこに本作品の面白さがあると思う。

映画「愛のまなざしを」

2021年11月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「愛のまなざしを」を観た。
 
 仲村トオルは2016年11月に、世田谷パブリックシアターでの舞台「遠野物語・奇ッ怪 其ノ参」で主演したのを観劇した。仲村トオルは柳田國男の役で、わかりやすく美しい台詞をきちんと話していて、豊かな日本語に改めて感心した記憶がある。しかし、実はその年の9月まで放送されていたテレビドラマ「家売るオンナ」での軽くて情けない課長の役が頭に残っていて、思索の人である柳田國男を演じているのがちょっと可笑しかった。本人が大真面目に演じているのでなおさら吹き出しそうだった記憶もある。
 
 本作品の主人公滝沢貴志も至って真面目な役柄で、序盤では、精神科医はこうでなければと思わせる落ち着きぶりである。なかなかいい。しかしそう思わせるのも束の間、杉野希妃の演じる患者水野綾子が登場すると、あっという間に落ち着きをなくしてしまう。
 精神科医なら綾子の異常な精神性に気づく筈だと思うのだが、綾子の色香にやられてしまったのだろうか。それならそういうシーンがあってもいい。杉野希妃はみずから監督した映画「雪女」では堂々と濡れ場を演じているから本作品で嫌う理由はない。
 なんとも不可解なままストーリーが進み、自分を省みることのない綾子に振り回されながら、貴志はどこまでも堕ちていく。死んだ妻のことが忘れられないという設定は受け入れられるのだが、終盤に明かされる、中村ゆり演じる妻の薫が亡くなった理由が納得できない。そもそも貴志は穏健で気の弱い夫である。話も聞くし同意も同感もする。夫の他に息子もいれば父も母もいる。
 
 綾子は狂言回しにもなっていない、ただの異常者である。こういう異常者が世の中に沢山いて、多くの人たちを不幸に陥れていますよ、という映画なのだろうか。家族に異常な人間がいることで、事件が起こる。現に日本の殺人事件の半数以上は親族間の殺人だ。そういう現実を描きたいのだとしたら、無理矢理な設定もわからないでもない。
 プロデューサーでもある杉野希妃は、理不尽な女の業を表現したかったのかもしれないが、舞台女優みたいな演技と台詞回しが鼻につき、鑑賞中に早く終わらないかなと思ってしまった。心に響くものがなかった作品である。

映画「ボクたちはみんな大人になれなかった」

2021年11月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ボクたちはみんな大人になれなかった」を観た。
 
 「普通」という台詞が様々なシーンで印象的に使われる。何をもって「普通」とするか。どんな人が「普通」なのか。映画は言葉では説明しない。説明はしないが、登場人物の生き方をもって「普通」とは何かを明らかにしていく。「普通」は肯定されるべきなのか、それとも否定されるべきなのか。
 
 主人公のサトウを演じた森山未來は大したものだ。これだけ豪華なキャストなのに、ひとりだけ存在感が突出している。そういう演出なのだとは思うが、森山未來の演技力がなければここまで目立つことはない。サトウの心象風景のような作品である。
 
「大人」という言葉を定義しようとしても、様々な定義が頭に浮かんでうまく定義できないが、本作品での「大人」という言葉は、諦めきれなかったという意味合いのように思える。
 高倉健主演の映画「居酒屋兆治」の主題歌で、加藤登紀子作詞作曲の「時代おくれの酒場」という歌がある。加藤は高倉健の妻の役で映画にも出演している。本作品を観て、この歌の次の一節を思い出した。
 
 あああ、どこかに何かありそうな そんな気がして
 俺はこんなところに何時までも 居るんじゃないと
 
 子供の頃は夢や憧れがあるかもしれない。しかし自分で生計を立てなければならなくなると、夢や憧れでは暮らしていけない。やりたいことではなく出来ることをやって金を稼ぐしかない。いつか何者かになって、やりたいことをやって生きていける日が来ると思いながら、一方で、そんな日は永遠に来ないことも知っている。しかし心の片隅には、諦めきれずに現実を否定したい気持ちがある。
 
 中島みゆきの「狼になりたい」という歌をご存知だろうか。夜明け前の吉野家を舞台にアロハシャツの男の子が呟いているという歌だ。次の歌詞がある。
 
 人形みたいでもいいよな 笑えるやつはいいよな
 みんな、いいことしてやがんのにな
 いいことしてやがんのにな
 ビールはまだか
 
 うわべを取り繕い、建て前を喋る。そんな毎日に疑問を持たなくなり、屈託なく笑うことが、本作品の「大人」なのかもしれない。果たしてそれはいいことなのか。タイトルの「ボクたちはみんな大人になれなかった」の「ボクたち」は、依然として疑問を持っているし、依然として残り火のように消えない怒りを持っている。本作品は「大人になれなかった」ことを必ずしも否定していない。むしろ「大人になれなかった」ことにこそ、人生の真実があることを示唆していると思う。いい作品である。

映画「DANCING MARY ダンシング・マリー」

2021年11月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「DANCING MARY ダンシング・マリー」を観た。
 
 SABU監督には前作の「砕け散るところを見せてあげる」で度肝を抜かれたが、本作品は少しおとなしめである。加えてキャストもかなりおとなしめで、多分予算もおとなしめなのだろう。
 ということで作品のスケールはかなり小さくなってしまったが、SABU監督の想像力は相変わらず多方向に破れかぶれに進んでいく。「砕け散るところを見せてあげる」では主人公が善意の塊で、まさしくヒーローであったが、本作品の主人公フジモトは小役人の小心者である。幽霊対策を頼んだ女子高生の雪子に引きずられるようにして行動する。
 物語の山場は石橋凌が八面六臂の活躍をする場面である。このあたりの存在感は流石だ。娘の石橋静河は演技派で、映画にドラマに大忙しだが、父親の演技力もまだまだ衰えていない。
 主演のEXILE NAOTOは映画「フードラック!食運」では、脇役陣との演技力の差がありすぎて悪目立ちしてしまったが、本作品ではそんなこともなかった。しかしあまりにも普通の現代っ子で、主人公としての魅力には欠けている。会話がSNSみたいで人間的な深みがないのだ。
 ただストーリーがいい。主人公のつまらなさをものともせずにグイグイと引っ張っていく。この辺は「砕け散るところを見せてあげる」を彷彿させるテンポのよさである。ラストシーンで少しだけ主人公を救ったのはSABU監督の優しさだろう。

映画「アンテベラム」

2021年11月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アンテベラム」を観た。
 
 ネタバレ厳禁である。だからなのか、公式サイトも紹介サイトも、どうにも歯切れの悪い説明をしている。どうしてネタバレ厳禁なのかを説明するとネタバレになってしまうから、とにかく映画を観れば解るとしか言えないが、何故この作品が作られたかは説明できる。
 
 アメリカでは黒人差別や女性差別がいまだに根強い。映画でも毎年、何作かは正面から差別を扱うか、正面からではないが物語の中で取り上げた作品が公開されている。同じ人間を奴隷として一切の人格をスポイルした歴史はそう簡単に消えるものではないし、特に奴隷を使って大規模な綿花農場を営んでいた南部の州の人々には、差別する側の精神性として残り続けているのかもしれない。
 人間は差別をし、戦争をする。それが人類の歴史だと言っても過言ではない。だから常に差別と闘い、戦争反対を訴え続けなければならない。人道主義や平和主義よりも経済を優先するべきだと言う人がいる。しかしそれはアホの論理である。文明の利器が発達すればするほど、人間はアホになる。自明の理だ。
 自家用ジェットで移動する金持ちを羨ましがる人々がいるから、いつまでも人間は富を求め続ける。あれはアホが乗るものだ。哲学と想像力が欠如している人をアホという。自家用ヘリに乗っているアホのCMを見れば一目瞭然である。
 必要十分な生活で満足する人には、自家用ジェットは必要ない。ごくわずかの金持ちの自家用ジェットのためにどれほどの人々が貧しい生活を強いられているか、その構図を理解する想像力があれば、人類が求めなければならないのは、平和と平等であることがわかる。
 
 本作品の主人公ヴェロニカは女性差別、黒人差別と闘う活動家である。アホたちはそれが面白くない。アホには哲学も想像力もないから、直情型で暴力的だ。暴走族やチンピラを見ればわかる。超然と振る舞うヴェロニカだが、その生活は常に差別と危険にさらされている。
 
 本作品は、鑑賞後にしてやられたと思う作品のひとつである。同じように観客をミスリードする映画「マスカレード」を観たばかりだと言うのに、まんまとミスリードされてしまった。敢えて自己弁護をするなら、想像力があって、アメリカの歴史を少しは知っている人ほど、ミスリードされやすいと思う。
 ある意味、アメリカにも沢山いるアホに対する挑戦状みたいな作品である。多分アホは観ないと思うが、観たとしてもアホだからミスリードされず、作品の面白さも理解できないだろう。してやられたと思った人は、アホでないことが証明されたと喜んでいい。