三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「劇場版 きのう何食べた?」

2021年11月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「劇場版 きのう何食べた?」を観た。
 
 内野聖陽は映画「海難1890」やテレビドラマ「臨場」などでの男臭い演技が定番だった。2019年に新宿サザンシアターで鑑賞した舞台「化粧二題」では、響き渡る低音がひとりの人間の等身大の迫力を伝えてきた。
 ところが本作品でのケンジはまるきりの乙女である。この見事なまでの変身ぶりはおそろしいほどの努力の賜物だと思う。何度も浮かべるとびきりの笑顔は、鏡の前で何百回も何千回も練習したに違いない。
 
 以前、マツコ・デラックスがテレビで「オカマもゲイも女装家も、みんな人それぞれ。くくれないし、くくっては駄目」というような内容を話していた。まさにその通りである。この発言の正反対が杉田水脈の「LGBTは子供を作らないから生産性がない」という発言だ。LGBTというひとくくりで人間を分別してしまう。
 人間は自分はカテゴリーにくくられたくないくせに、他人のことはカテゴリーにくくりたがる。「いまの若い連中は~」という言い方はその代表選手だ。「いまの若い連中」のことを調べての発言ではない。自分勝手な印象で「いまの若い連中」をひとくくりにしているのだ。同じ構図は沢山ある。「アメリカ人は~」という言い方をするくせに「日本人は~」と言われると、勝手にひとくくりにしないでくれと憤る。
 
 本作品には、そういったひとくくりにするような言葉は出てこない。シロさんとケンジはあくまでも個人と個人の相思相愛の関係である。男が好きだからといって誰でもいい訳ではないし、通俗的な言い方をすれば、好きになった人が男だっただけだ。
 シロさんもケンジも相手の精神性を尊敬していると思う。だから掛け替えのない大事な人になる。一生を添い遂げたい。しかし相手は自分と一心同体ではない。どこまでいっても別の人格である。場合によっては別れもある。死別するかもしれない。不安は幸せの周りをついてまわる。それが人生だ。
 幸せとは過ごす時間のことである。信頼できる人と快適な環境で食事をすること。旅行やアクティビティやスポーツもいいが、基本は食事である。ひとりの食事でも幸せを感じることはある。シロさんは料理の最中にとても幸せそうだ。ケンジはシロさんの愛情に溺れそうになっている。
 本作品は思いやりを過剰に表現してみせる。つまり思いやりが空回りをする。そして、得てして思いやりの空回りは喜劇である。本作品を観て吉本新喜劇を思い出した人も多いだろう。思いやりの空回りと先走った誤解が喜劇の原動力だ。
 シロさんの思いやりとケンジの不安、ケンジの思いやりとシロさんの不安。喜劇の十八番を、二人の俳優が面白おかしく演じてみせる。二人とも鍛えられて引き締まった肉体の持ち主であるところがギャップであり、美しくも萌えるところだ。本作品は、LGBTという言葉でくくられてしまう問題をさり気なく持ち出しつつも、柳に風と受け流してしなやかに生きるシロさんとケンジの幸せを上手に描いてみせた。たまにはこういうほのぼのとした作品もいいと思う。

映画「エターナルズ」

2021年11月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「エターナルズ」を観た。
 
 MARVEL作品なのに実存的な会話が出てきたことに驚いた。物語がある段階まで進むと、エターナルズは自問する。我々は何をしているのか。我々は何のために生み出されたのか。我々は何をなすべきか。
 人類とその歴史についての言及もある。人類は利権を求めて互いに争い、殺し合っている。それが人類の歴史だ。人類は守るに値する存在なのか。我々は人類の争いに介入すべきなのか。
 環境問題を彷彿させるシーンもある。温暖化によって、500年前に氷に閉じ込めておいた生物が再び動き出したのだ。それが本作品の物語が動き出すきっかけでもある。
 壮大な話ばかりではない。戦いがもたらすPTSDについてのシーンもある。戦闘を繰り返していると、徐々に精神が傷ついていく。エターナルズも例外ではない。
 記憶がなくなると、その人ではなくなるのかという、哲学的なテーマも登場する。人格や個性は、即ち記憶なのか。記憶がなくなれば、その人ではなくなるのか。アルツハイマーで記憶をなくした人は、既に別の人格なのか。きわめて現代的なテーマである。
 
 あれもこれもと贅沢にテーマを盛り込んでいるのだが、流れの中で自然に発生するように脚本ができているので、戸惑うことなく鑑賞できる。むしろ次々に発生する問題と、先の見えない手探り状態が興味をそそって、飽きることがない。大変に面白い作品だ。
 
 メンバーのネーミングについて大方の人は気づいていると思うが、神話に由来する名前があると思う。太陽の熱で死んだイカロスからのイカリス、戦いの女神アテナからのセナ、それにメソポタミア神話のギルガメッシュなどだ。神話の名前は馴染みやすく、覚えやすい。セナやイカリスという名前は印象に残るだろう。あとの名前はMARVEL作品からだったりして、うまくMARVEL映画の流れを生かしている。メンバーの人種と性別、性的嗜好を色とりどりにしたことも含めて、クロエ・ジャオ監督は時代をうまく捉えている上に、商業的なセンスも抜群だと思う。
 
 本作品はこれまでのMARVEL映画の、家族第一主義で愛を無条件に肯定する単純な作品群とはものの見事に一線を画している。流石に「ノマドランド」の監督である。ハリウッドの通俗B級作品であるMARVEL映画を、実に哲学的で壮大なA級作品に仕上げてみせた。CGも音楽も言うことなしだ。おそらく賞レースにもノミネートされるだろう。続編はないほうがいい。

舞台「ザ・ドクター」

2021年11月07日 | 映画・舞台・コンサート
 渋谷のPARCO劇場で大竹しのぶ主演の芝居「ザ・ドクター」を観劇。ある事件をきっかけに湧き上がった矛盾や問題について、それぞれの立場の医師や看護婦や広報担当者が意見を述べ合うディベート劇である。
 
 大竹しのぶが演じたイギリス人女性のルース・ウルフは医師であり、病院の創設者にして所長である。ある時、自分で妊娠中絶をしようとして敗血症になってしまった14歳の患者が死んだ。担当医師はルースである。ルースは嘆く。娘の両親がカトリックで妊娠中絶に不寛容でなければ娘は病院で中絶手術を受けることができて、死ぬことはなかった。
 死ぬ前に、患者の両親から頼まれたと言って黒人のカトリックの神父がやってくる。ルースは疑う。本当に両親から頼まれたのか、本当に神父なのか、娘はカトリックなのか。死にかけている娘が神父を見たら、死神が来たのだと錯乱しはしないか。そういった理由でルースは神父が娘に面会するのを拒否した。無理矢理に入ろうとする神父の肩を押して入室を拒否したのだ。
 しかし娘は死ぬ前に錯乱し、後頭部を枕に打ち付けながら死んだ。実は担当の看護婦が神父が来たことを娘に告げたのだ。そして娘は狂乱した。その看護婦はカトリックであり、ルースが神父を病室に入れないことに納得できなかった。娘が錯乱したのは自分のせいではなくルースのせいだと思っている。
 
 神父は帰った。しかし収まらない。ルースの態度はカトリックに対する侮辱であり黒人差別であり暴力だ。SNSにアップしてルースに反対する署名を集め始めると、またたく間に署名は5万人を超える。病院の理事会も問題視しはじめ、ルースを議長とする役員会は揉めに揉める。
 ルースは病院を守るために所長を辞め、担当していた職務も辞める。家に閉じこもるルース。外からはルースを非難する怒声が聞こえてくる。窓ガラスは投げられた石でもう粉々だ。
 ルースは意を決して外に出ていく。テレビ出演だ。ディベートという名の吊し上げ番組である。5人のパネラーは入れ代わり立ち代わり、言葉巧みにルースを追い詰めていく。正直者のルースは正直であるが故に、多くの濡れ衣を着せられる。ユダヤ人、人種差別主義者、無神論者、中絶推進論者。ルースは反論するが、悪意のある司会者に封じ込められる。ルースの長年の友人である医師で現在は厚生労働大臣のフリントが現れ、ルースを査問委員会にかけると言い放つ。ルースの医師としての息の根を止める宣言だった。
 
 ルースが終始追い詰められていて、観ているのが大変に苦しい劇だった。パルコ劇場はマイクを使わないのだが、大竹しのぶを始めとする出演者の声がよく通るのと、前から7列目という幸運もあって、台詞を聞き取るのに苦労はしなかった。
 ラストまで大竹しのぶが出ずっぱりで、ルースの苦しい立場がつづく。こちらまでつらい気持ちにさせるのは、さすが大女優の演技である。医師として尊敬を浴びていたルースが、正しい判断をしたにもかかわらず、世間から追い詰められて地位も生活も失っていく。最後まで救いはなく、ルースの慟哭で芝居は終わる。カーテンコールで緞帳が上がったとき、立ち上がった大竹しのぶはまだルースから抜け出せずに泣いていた。
 その姿に、こちらも思わず胸を打たれたのであった。苦しかったが、とてもいい芝居だった。

映画「ほんとうのピノッキオ」

2021年11月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ほんとうのピノッキオ」を観た。
 
 ピノッキオはどうして人間になりたかったのだろうか。妖怪人間ベムみたいに人間の世界ではまともに生きていけないのならともかく、本作品の物語の中では違和感なく受け入れられている。人形だから困ることは何もないように思える。
 人間の子供は親や教師から殴られて痛い思いをするが、木偶(でく)なら痛みの感覚がないから殴られてもへっちゃらだ。 頭は悪くないから木偶坊(でくのぼう)と言われることもない。人間になるメリットはどこにもない。
 
 子供は何でも信じてしまう傾向にある。親が子供に自分を信じさせる教育をするからなのかもしれない。親が子供に信じてもらえないと、日常生活が何かと面倒くさい。
 しかし中には疑い深い子供もいて、大人にとって扱いづらいことこの上ない。だからそういう子供に向かって「ひねくれている」と非難する。大人の都合だ。
 
 ピノッキオは大方の例に洩れず、何でも信じてしまう。悪い大人、悪い教師、悪い友だちは、ピノッキオに害しかもたらさないが、作られて間もない木偶のピノッキオにはそんなことはわからない。
 散々酷い目に遭って、ピノッキオは他人の悪意を知る。そして大半の無関心と、歪んだ社会制度と、ごくわずかの親切を知る。それが世の中だと悟るまでにそれほど時間はかからない。
 
 ピノッキオが人間になりたいと思った契機は、作品の中で明確に描かれる。それは妖精が女の子から女性に成長した姿を見たときだ。ピノッキオは悟る。妖精も人間のように大人になるのだ。大人になるということは即ち、見た目が大人になるということだ。
 どんなに勉強しても、どんなに働いても、子供の木偶のままでは一人前として扱われない。ピノッキオは大人になりたかったのだ。木偶は成長しないから、人間の子供になるしかない。ピーター・パンと正反対である。
 
 ピノッキオが大人になりたかったのには他にも理由がある。世の中は悪い連中が殆どだったが、例外もあった。サーカスの親方であり、サメの腹の中で出逢った鮪であり、仕事をくれた牧場主である。そしてどこまでも許してくれた妖精であり、何より、自分を作ってくれたジェペットだ。これらの人々はピノッキオに優しくしてくれた。ピノッキオが救われたのは彼らのおかげである。彼らと同じように、大人になったら人に優しくしたい。ピノッキオはそう思ったに違いない。木偶のピノッキオは、人間の優しさに光を見出したのだと思う。

映画「マスカレード」

2021年11月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マスカレード」を観た。
 
 本作品は、観客をミスリードするタイプの映画である。ネットで公開されている作品情報がそれに輪をかける。おまけに入場するときにチラシを渡す念の入れようである。作品情報やチラシを読んでいなければ、もう少し解りやすかったと思う。
 
 音楽の効果は抜群だ。単に夜の木を映しているだけなのに、低い不協和音が流れるおかげで、怪しさ満点である。おかげで違いに気づけなかった。その違いというのが、次のような違いである。
 ローズは強盗を裏で操っている謎の女ではない。屋敷は同じ屋敷ではない。一方は森や川のそばにあるが、一方は広大な人工庭園の中にある。子守は同じ子守ではない。マスカレード会場のホステスの名はローズではない。
 
 こういったことに気づくことができて、尚且、現在と過去という時間の認識まであれば、本作品は意外なほど単純で、世界観の浅い作品であることが解る。内容は単なるクライム・リベンジだ。
 チラシのタイトルは「少女vs強盗団───その背後に隠された真実に驚愕するレイヤード・アクション・スリラー」となっている。レイヤードとはつまり現在と過去を重ね合わせたという意味だ。ここに気づいていれば、最初からネタが解って鑑賞できただろう。
 
 盗んだ絵画を画商に持ち込むと、通報される恐れがあるが、自分が画商として売るのであれば、絵の入手方法は守秘義務として明かさずにいられる。本当かどうかはわからないが、少なくとも本作品はそういう想定だ。
 
 ネタバレにならないように注意して、鑑賞した人だけに解るように解りにくく書いてみた。なんだそんなことかと軽い失望を感じる人もいるかもしれない。確かにラストのネタバラシのために一生懸命の作品にも感じられるが、強盗と少女の攻防には一定の緊張感があり、80分という短さもあって、割と面白く鑑賞できた。B級映画にしてはよく出来ている方だと思う。

映画「モーリタニアン 黒塗りの記録」

2021年11月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「モーリタニアン 黒塗りの記録」を観た。
 
 世界の奴隷制度を語るとき、モーリタニアは必ず話題に上る国だ。国として表向きは奴隷制度を廃止したと言っているが、実際には続けられているらしい。モーリタニアは日本と無関係の国ではない。スーパーで蛸を買うと、大抵は原産国がモーリタニアとなっている。
 本作品を観て、米軍に法律家がいることに驚いた。そもそも軍隊に法律家がいるのは矛盾そのものである。軍隊は人を殺す組織だ。軍隊の訓練は殺傷武器や大量殺人兵器や乗り物などの使い方、建設技術と破壊技術、近接格闘術、サイバー攻撃、他人を操る心理技術などで、あとはそれらの技術を支える体力づくりである。法律の知識は軍隊の訓練にはない。そもそも人を殺すことを善としている以上、殺人を悪としている共同体の法律では裁かれない。そして米軍の最高司令官は大統領である。
 
 本作品でベネディクト・カンバーバッチが演じた軍の法律家スチュアートは、軍に入ってから法律家になったのではなく、弁護士資格を持つ法律家が軍隊に入ったのだと思う。軍務に就いていることには矛盾がなかっただろうが、法律家としての働きを求められた途端に、自分の存在の矛盾に悩み始める。そして法律家としての意志が表面化する。自分は真実を知りたい。
 真実を知りたいのはスラヒを弁護することになったナンシー・ホランダーも同じである。法律家としての冷静さと人道的な弁護士としての熱さを兼ね備えた複雑なヒロインをジョディ・フォスターが見事に演じている。美しい青い目は昔のままだ。
 
 世界は軍と弁護士のように、矛盾を抱えている。人を救うはずの宗教であるイスラム教徒がスンニ派とシーア派に分かれて対立しているし、紛争地域に手を突っ込むアメリカとロシア、それに中国がいる。武器商人は武器を作り続け、劣化して使用期限が切れそうな武器をあちこちに売り捌く。やがて軍産複合体となった巨大な利益集団は、世界中から紛争の火種が消えないように、火を付けて回る。末端のサラリーマンはただ熱心に商品を売っているだけだし、軍の下っ端は目的もわからずに派遣されて人を殺す。
 頂点に立つはずの大統領も、軍産複合体の意向を無視できない。当時史上最悪の大統領だったジョージ・ウォーカー・ブッシュ・ジュニアからバラク・フセイン・オバマに代わっても、軍産複合体を解体するようなドラスティックな改革は出来なかった。
 
 モーリタニアはアフリカの国らしく政情不安が続いて政策はブレにブレている。国内の治安も悪い。しかしスラヒはモーリタニア人でも抜群に優秀で、アラビア語だけでなくドイツ語やフランス語を話せるし、尋問を受けている間に英語も習得してしまう。並大抵の頭のよさではない。本作品は、才能に溢れたモーリタニアの若者が、アメリカの軍産複合体によって無為の15年を過ごしたという話で、バカが利口を支配するという、世の中に溢れている事例のひとつである。
 
 これからも世界はバカが利口を支配し続ける。それはバカを支え続けるバカがいるからである。人はパンの前には自由と権利を投げ捨ててバカになるのだ。人ごとではない。元からバカな人はしょうがないが、利口な人はパンのためにバカにならないように身を引き締めていなければならない。アベシンゾウやアホウタロウが20時に当選確実が出るような選挙をしている国では、スラヒの権利は守られない。名古屋の入国管理局の牢獄で殺されたウィシュマさんは、スラヒと同じ目に遭ったのだ。繰り返すが、本作品の出来事は、決して人ごとではないのだ。

映画「ハロウィンKILLS」

2021年11月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ハロウィンKILLS」を観た。
 
 誰でも心に悪を隠しているという。出来心だとか、魔が差すという言葉は、決して悪が外からやって来るという意味ではない。内なる悪が顔を出してしまうということなのだろう。
 我々は日頃は理性で悪を押さえつけている。しかしそれはあくまで行動に出るのを抑制しているということで、心の中の悪までは押さえつけてはいない。
 間違えて自分を殴った教師、営業成績が上がらないことで定規でこちらの頭をコツコツと叩いた社長、罵詈雑言を浴びせてきたクレーマーなどを思い出すと、土方歳三に変身し、和泉守兼定を振り下ろして天誅を加える想像をしてしまうが、想像するだけで実行に移すことはない。怒りが湧き起こったときは深呼吸をして鎮めるだけだ。どんなに年数が経っても怨嗟の念が消えることはない。
 そこで考える。自分もどこかの誰かから怨嗟の対象になっているのではないか。暴力や誹謗中傷は論外としても、気づかないうちに他人の人格を否定したりするのはあり得ることだ。どこまで他人は自分の言動を許してくれるのか。または翻って自分はどこまで他人の言動を許すべきなのか。
 問題は悪意の有無である。他人の心身を傷つけようとする意図があるかどうか。あるいは差別的な信条に基づいての言動である。差別の代表選手である家父長的な信条に基づく言動はすべて悪意があると言っていい。父親を敬い、言うことを聞けという強制、男なのだから、女なのだから、男のくせに、女のくせに、といった教条の押し付け。気づいてみると自民党の道徳教育の理念みたいだが、これらすべては悪である。
 
 悪の被害に遭っても、土方歳三になれない我々は、ひたすら我慢して怒りに顫える心をあやしながら生きていくしかない。ふと思いつくことがある。無敵の強さを持つ怪物になってこの世に復讐するのだ。自分が悪そのものになるのだ。
 本作品でのマイケルの殺人はグロテスクである。しかし誤解を恐れずにいえば、ある意味で爽快である。胸のつかえがおりたような気がするのだ。それは世間の人々が無意識に共謀している弱者への無配慮に対する復讐である。
 ジョン・カーペンターは1988年の監督作品「ゼイリブ」ではホームレスを主人公にした。「ゼイ」は普通の人々に紛れ、善人を装っているが、陰で人々を洗脳して世界を支配しようとしている。本作品でマイケルが次々に殺したのは「ゼイ」ではなかったか。そこが本作品の隠された意味だと思う。単なるホラー映画ではないのだ。

映画「アイの歌声を聴かせて」

2021年11月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アイの歌声を聴かせて」を観た。
 
 伏線は前半に散りばめられている。家の中では声に反応し、個人を特定するAI機器、そしてAIによるセキュリティが完備されている。外には風力発電と太陽光発電、全自動運転のバス、田植えロボットがある。学校の黒板もどうやらタッチパネルを兼ねているようだ。つまりこの街はAIの会社によって電力も交通も稲作も教育も支えられている訳だ。
 しかし、その割には学校の生徒も教師もアナログである。唯一プログラミングとコンピュータとインターネットに精通しているトウマを除いて、誰もAIの本質を理解していない。これは現実を反映していると思う。
 たとえば自動車は進化しすぎて、日本で普通車の運転免許を持っている人の7割がAT限定免許である。マニュアルのギアチェンジができないどころか、ボンネットを開けたことがない人も多いという。
 同じことはAIについても言える。つまり殆どの人間はAIの進化についていけない訳だ。かくいう当方も全然無理である。いつの時代も、最先端の技術は極く一部の天才的なエンジニアたちによって作られる。他の人は単なるアプリケーションユーザーだ。
 
 本作品の前半まで観た段階では、これはどうやら観る映画を間違えたらしいと思った。高校生や中学生向きの作品だと思ったのだ。ほぼ歌いっぱなしの土屋太鳳のいい声と上手な歌唱だけが収穫だった。ところが後半に入ると、思いもよらない怒涛の展開が待っている。
 端緒は「それは命令ですか」というシオンの台詞である。トウマに向けられて唐突に発せられたこの台詞の意味が、本作品のコアになっている。それが明かされる過程で、トウマがサトミにプレゼントしたたまごっち風の機械や、部室にあるゴミ箱にそっくりの記憶装置なども含めて、前半で散らしておいた伏線がきれいに回収される。
 そしてAIの今後の問題も提起される。つまりAIロボットが自分で考えて行動するようになると、ロボット工学三原則が守られない可能性が出てくるという問題だ。星間エレクトロニクスの過剰とも思える対応は、必ずしも間違いではないのだ。
 
 AIの安全性の問題が提起されてしまうと、物語がどこに決着すればいいのか分からなくなる。吉浦監督は上手に落としどころを持って来たように見える。しかし、ラブストーリーはわかりやすくピースがはまるが、AIとロボット工学三原則の問題はこれといった解決策を見ないままである。それも当然で、その問題は現実でも未解決のままだ。むしろ軍事に利用されたりして、AIの危険性はますます高まっているとも言える。
 
 本作品は爽やかな青春群像とAI開発の安全性の問題を上手に組み合わせて見せた。アニメの多義的な表情を効率よく利用して、奥行のある作品になっている。とても見事だ。ただ一点、人物の顎の影が濃すぎてアゴ髭みたいに見えたのが憾みだが、気になったのは前半までで、後半の波乱万丈の展開では、そんなことはちっとも気にならなかった。