三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「DEATH DAYS」

2022年03月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「DEATH DAYS」を観た。

 森田剛の凄いところは宮沢りえと結婚したことだ。何が凄いかという具体的なことは、考えられる限りのあらゆる語弊があるので触れないが、とにかく凄い。

 そんなことはともかく、本作品の、生まれたときから何月何日に死ぬことがわかっている、ただし何年に死ぬかはわからないという設定は、人生の不安定の極致である。しかし逆に考えれば、その月日を過ぎたら一年間は死なないことが決まっている訳だから、この上ない安定とも言える。
 我々は明日死ぬかもしれないことを心の片隅で意識しつつも、今日と同じ明日が来ることを前提に生きている。人も企業も共同体もみな同じだ。明日巨大地震が来たり、外国から核弾頭付きのICBMが飛んできたりすると考えたら、生活は営めないし、企業活動もできないし、行政サービスもできなくなる。想定外のことが勃発したら、そのときに考えて対応すればいい。
 実際にコロナ禍は人類にとって想定外の出来事だった。沢山の人が死んだり企業が倒産したりしたが、生き残った人々や企業はそれなりに営んでいる。人類はそうやって事態に対応し、変化に適応して生きてきた。
 明日のことを心配しないのが原則なのだ。強盗が侵入するかもしれないと違法に銃器を所持したり、外国が攻めてくるかもしれないと軍備を保持したりするのは愚の骨頂である。防犯や防災は必要だが、他人や他国を傷つける武器や兵器の所持は不必要だ。時間とお金の無駄でもある。
 聖書には「だから、明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と書かれてある(「マタイによる福音書」第6章)。
 ロシアがウクライナに侵略戦争を仕掛けた。先進国の今後の対応によっては第三次世界大戦がはじまるかもしれない。しかし、だから日本も核兵器を持つのだという考えは間違っている。専守防衛の平和憲法がある。他国の人々を殺すことは、もうしないのだ。

 明日のことは明日考えればいい。今日は花見にでも行こう。そんなふうに前向きになれる作品だった。さすが森田剛だ。だてに宮沢りえが奥さんではない。

映画「スターフィッシュ」

2022年03月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スターフィッシュ」を観た。
 正直に言ってよくわからない映画である。2018年の製作で、主演のバージニア・ガードナーはまだ23歳だった。主人公オーブリーは、その精神性からして、高校を卒業してそれほど経っていない19歳か20歳くらいだろう。電話がダイヤル式ということは1960年代か、せいぜい70年代だろう。まだCDもMDもなく、音楽を聞くのはカセットテープや円盤レコードが中心だった時代だ。

 今みたいにSNSもない時代だが、本作品は亡くなった友達と目に見えない繋がりの中で展開するところが、そこはかとなくSNSを想起させる。
 出現する人間大のモンスターは、オーブリーの弱さであることは途中でわかる。しかし巨大な怪獣はなんだろうか。当方にはどうしても戦争に思えてしまった。そしてラストのドームは、チェルノブイリ原発か、または核兵器が爆発した瞬間の熱球に見えた。その両方かもしれない。
 死んだ友達からの伝言だけという限られた情報を信じて動いた結果が核戦争を招いてしまったのだとすれば、SNSに左右されてしまう現代を想起させる。それともオーブリー自身が世の中から人間が消えてしまえばいい、それが地球のためだと考えていたことが現実になったのか。
 映画は結論を明らかにはしない。それが監督の狙いなのか、それとも監督の才能の不足のせいなのか、それもわからない。わからないことだらけの作品だ。

 メタファーを想像しながら鑑賞しているときに、いきなり大音量が出たり、はっきり言って下手くそな歌が流れたりする編集には、かなり違和感がある。変な効果音や下手な歌を廃して、息遣いや足音や物音などが目立つような、静寂を中心にしたほうがよほど入り込めた気がする。映画としての出来栄えはあまりよろしくはなかった。

映画「ウェディング・ハイ」

2022年03月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ウェディング・ハイ」を観た。
 本作品はバカリズムの脚本と大九明子監督の演出がとにかく秀逸。主演の篠原涼子をはじめ、役者陣は概ね好演。特にひっかかるところもなく、全体にスムーズな流れである。コメディはあくまでも平凡で常識的なモデルがベースだから、このスムーズさには相当の苦労が窺える。
 岩田剛典と向井理のくだりは要らなかった気がする。披露宴だけで十分に面白かった。流石はバカリズムの脚本だ。笑いを取ろうとする人の心理が事細かに描かれる。高橋克実のシーンが一番ケッサクだった。

 結婚式でスピーチや余興を頼まれたら、誰でも内容をどうしようか考える。一生懸命になってしまう気持ちはよく分かる。
 当方も一度結婚式のスピーチを頼まれたことがあって、考えた末に自作の短い童話を披露した。拍手はもらったものの、あまり受けていないことは空気でわかった。もっと普通のスピーチにすればよかったのかもしれないとも思った。しかし数年経ってその結婚式の出席者の一人に会ったら、当方のスピーチを覚えていてくれた。
 当方も、覚えている他人の言葉はたくさんあるが、そのときにほぼ無反応だったことを思い出す。印象に残る言葉を受け取ったときは、思い切り拍手したり頷いたりする場合と、無反応の場合がある。反応したときは、自分が反応したことの方を覚えていて、相手の言葉の内容を思い出せないことがある。自分が無反応だったときのほうが、相手の言葉の内容をよく覚えていることが多い。多分であるが、心の中で反芻しているから無反応になるのだと思う。
 だから会話で相手に頷かれたり感心されたりされなくても、安心していい。大仰に頷いたり賛同したりするのは、言葉が相手の心に届いていない場合が多い。ほぼ社交辞令なのだ。

 そんなふうに考えるようになってからは、人との会話が楽になった。相手の反応を気にしないから、自分をよく見せようとしたり、言葉を飾ったりしない。虚心坦懐に話すことが一番で、こちらにとっても相手にとっても楽なのである。ノンバーバルコミュニケーションに配慮すればいい。
 本作品では片桐はいりが演じた先生のスピーチがそれに当たる。鑑賞した誰もが彼女の言葉を覚えているとおもう。「蛍の光」の2番の歌詞のように、万感の思いをこめたひと言は、千の言葉を並べるよりもずっと心に残るものなのだ。





映画「アンネ・フランクと旅する日記」

2022年03月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アンネ・フランクと旅する日記」を観た。
 戦時中の日本では、空襲爆撃を避けて田舎に避難することを疎開と言っていたと思う。島国の日本ではどこへ行っても日本語が通じるから、言葉の苦労はない。
 しかし他国と地続きのヨーロッパでは、疎開先が外国の可能性もあり、必ずしも言葉が通じるとは限らない。言葉が通じないことは衣食住の確保を困難にし、死や病気になる可能性を高くする。必然的に他の言語をマスターするようになった筈だ。特にユダヤ人はディアスポラと呼ばれる離散以後は、世界各地に散り散りになって、住み着いた地方の言葉をネイティブと同じように話した。ヘブライ語も喋るから、たいていのユダヤ人はバイリンガルだ。中には女優のナタリー・ポートマンのように6ヶ国語を話す人もいるくらいである。
 
 アンネ・フランクは4歳の頃に危険なフランクフルトからアムステルダムに移住したから、4歳までに覚えたはずのドイツ語よりもオランダ語のほうに馴染みがあったに違いない。オランダ語で日記を書くのは当然である。アンネは日記にキティという名前をつけた。
 ユダヤ人迫害の閉塞状況の中で、それでもティーンらしく未来への希望や広い世界の想像がキティに記されていく。アンネは迫害されても人を信じていたのだ。それは父オットー・フランクが人格者であったことに由来するものだ。アンネは心が広くて優しい父親が大好きだった。母親は嫌いだったけれども。
 
 本作品は日記であるキティが現代のアムステルダムに現れて、世界がアンネの願った状況とはかけ離れていることに衝撃を受ける話である。プーチンが戦争を始めたときに公開されたのは、偶然とはいえ、奇跡的なタイミングであった。
 世界中で出版されていて、タイトルは広く知られているにもかかわらず、世界はアンネの苦しみをちっとも理解していない。精神性の弱い人たちが、自分勝手な思い込みと狂った被害妄想で、他人を傷つける。キティはそのことが耐えられない。アンネの苦しみの全量を背負って現代に現れたキティだが、苦しみは増すばかりだ。
 世界がどんなに平和に見えても、人の心には悪意があり、被害妄想がある。戦争はあなたたちの心にあることを、どうしてわからないの?と、キティに責められているようだった。

映画「ポゼッサー」

2022年03月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ポゼッサー」を観た。 
 タイトルの通り、肉体の所有者の話である。意識を乗っ取って、宿主の肉体を自由に扱う。依頼された殺人を実行し、そのあとで宿主を殺せば自殺にしか見えない。何の証拠も残さない完全犯罪だ。まずこのアイデアが見事である。よく思いついたものだ。

 製作側には心理学や精神分析、または脳科学の知識があると思う。意識を乗っ取るといっても、無意識を含めた脳の働きのすべてを乗っ取れる訳ではない筈だ。乗っ取る事ができるのは意識の一部と関連する無意識の一部だけだという設定だと思う。つまり脳の働きの大部分を占める無意識は、ほとんど手つかずのままだ。そこが本作品のポイントだと思う。

 人間は平凡な一日でも、200回ほどは何らかの選択をしている。その殆どは無意識が行なっているらしい。朝起きて最初にトイレに行くのか歯を磨くのか、そういったことは殆どが無意識によって決められている。なんとなくというやつだ。
 無意識によるなんとなくの行動がたくさんあるのであれば、無意識も乗っ取らないと、肉体を自由に扱えない場合が生じる。それが本作品である。乗っ取ることができなかった無意識は宿主が所有者である。乗っ取っている意識と、宿主の無意識とが対立してせめぎ合う。ある意味でアイデンティティの戦いと言ってもいい。これは両方にとって苦しい。

 殺し屋にとって、殺す対象は仕事を処理するだけだから躊躇なく殺せる。しかし殺しのために利用する人間を殺すのは、少し引っかかる。そこへ宿主の無意識が意識に流れ込んで来たら、パニックだ。
 本作品はそのあたりを上手に表現してみせた。SNSの匿名性に個を埋没させる現代人が、特殊な機械と通信技術によって個を乗っ取られようとする危機に対して、どのように対応できるのか。
 簡単な構図の作品であるが、テーマは意外に深い。斬新なアイデアとともに、印象に残る作品となった。

映画「親密な他人」

2022年03月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「親密な他人」を観た。
 新垣隆さんの音楽が凄い。人が欲望に負けて堕ちていくときには、確かにこんな音楽が鳴り響く筈だと思わせる、そんな音が随所に散りばめられている。その結果、映画全体が怪しくて危なっかしい雰囲気で満たされたように感じた。
 おまけに主演の黒沢あすかが音楽に負けないくらい妖しい雰囲気である。演じた石川恵は、場末のスナックにある飲みかけの高級酒みたいで、飲めば美味しいかもしれないが、安い酒を高いボトルに入れているだけかもしれない。逡巡しているこちらを嘲笑うように誘ってくる。

 不良の連中というのは、意外にまめで時間にも正確である。よく言えば働き者、悪く言えばしつこくて執念深い。一度でも不良連中と関わると、関係を断つのは難しい。どこまでも追いかけてくる。大川もそんなひとりだ。
 井上は大川のパシリである。大川は嗅覚が利く。どこで何をすれば金になるかがわかっているみたいだ。分前はわずかだが、しばらくは大川の手下を続けるしかない。将来のことなど考えても仕方がないが、毎日のねぐらと食い物は確保したい。井上が考えているのはその程度だ。ほぼ野良犬と同じである。

 石川は赤ん坊が好きだ。近くにいたら触ろうとする。子供用品も売っているアパレルの職場でそんなことをすればどうなるか、石川にも分かっている。しかし赤ん坊を触りたい衝動は激烈で、自制心の働く余地がない。
 ストーリーが進むと石川の秘密が少しずつ明らかになっていき、その異常性も明らかになる。野良犬程度の頭しかない井上には、石川の恐ろしさが想像できない。自分のことで精一杯なのだ。

 爛れたようなエロスというか、四畳半の湿った畳の上での性行為みたいなエロス。年増女のたるんだ肌が妙に誘うような雰囲気が監督の狙いだろう。しかし石川が好きなのは赤ん坊のスベスベの肌だ。だから髭を剃って肌をスベスベにしたい。石川は赤ん坊フェチなのだ。

 なんとも危なっかしくて刹那的な石川と井上だが、シーンはきわめて日常的である。人は日常の中で堕ちていく。決してドラマチックではない。そこに恐ろしさがある。日常の至るところに深い穴があって、誰もが陥る可能性があるのだ。しかし作品としては逆に、日常生活を描きつつも、とてもドラマチックである。よく出来ている。

映画「余命10年」

2022年03月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「余命10年」を観た。  
 小松菜奈は去年(2021年)公開の映画「ムーンライト・シャドウ」ではほどよく筋肉の付いた健康的でバランスのとれた素晴らしいプロポーションを披露していたが、本作品ではとても痩せて弱々しく見えた。減量したそうである。女優魂というよりも、役に入れ込んだからこその減量だろう。高林茉莉はそれほどの大役だった訳だ。

 茉莉と書いて「まつり」と読む名前である。茉莉はジャスミンのことで、茉莉花とも書く。茉莉花茶(ジャスミン茶)として中華料理店で提供されるほど、香りの強い花であるが、見た目は清楚で可愛らしい。薔薇の字を名前にするのは重すぎて憚られるが、茉莉や茉莉花は名前にちょうどいい感じで、付けられた子供も苦にならない。いい名前だと思う。

 映画「8年越しの花嫁」を思い出す。脚本も同じ岡田惠和さんだ。あちらは瀬々敬久監督でこちらは藤井道人監督。年月もよく似ているが、あちらはどん底からのスタートで、こちらは幸せな恋からのスタートである。どうなることかと観ていたが、流石に「新聞記者」の監督だ。物語の緩急とメリハリが実に上手い。そしてそれに応えた小松菜奈の演技が素晴らしい。
 相手役の坂口健太郎も一生懸命な演技で好感が持てた。加えて脇役陣の名演が人生の機微を上手に伝えている。リリー・フランキーの思いやりのある短い台詞がなんとも味があった。人の優しさとはこうでなければいけない。松重豊のお父さんも同様に短い台詞やちょっとした仕種に娘への気持ちが溢れていた。この二人はもはや名人である。そこに奈緒と黒木華が絡めば鬼に金棒だ。いい作品にならないわけがない。

 人間は他人の死を死ぬことができない。死は常に孤独に迎えるものである。そして親しい人間の死は、常に悲しい。中島みゆきの「雪」の歌詞に次の一節がある。

 手をさしのべればいつも
 そこにいてくれた人が
 手をさしのべても消える
 まるで淡すぎる雪のようです

 小松菜奈が演じた高林茉莉は、淡い雪のようでもあり、舞い散る桜の花びらのようでもある。そして付けられた名前にたがわず、ジャスミンの花のように可憐に咲いたのであった。

映画「ある職場」

2022年03月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ある職場」を観た。

 サーフィンのシーンは監督の趣味だろうが、この映画には不必要だった気がする。夏のシーンなのにウェットスーツを着たサーファーのシーンが挿入されるのは不自然だった。真冬のサーファーが好きなのだろうか。もしかしてユーミンファンか。

 それはともかく、本作品は会話劇である。映画でなく演劇でもよかった気がするが、それにしては登場人物の台詞が練り込まれていないという印象があった。台詞に整合性のない人物が何人かいて、その整合性のなさを指摘する人物もいないのだ。
 おかしいと思いながら鑑賞したが、終映後の監督の説明で納得した。公式ホームページにも「シナリオは無く舞台設定だけ与えられた俳優たちが、即興に近い演技で演じているのも本作の見どころのひとつだ」と書かれていた。なるほど、整合性がないのも当然である。

 本作品を観る前に、新宿で『ムクウェゲ「女性にとって世界最悪の場所」で闘う医師』を鑑賞したからか、武装した男たちにレイプされて膣が破れて内臓が飛び出した女性たちの被害と比べてしまう部分があった。

 セクシャルハラスメント(役所の言葉はセクシュアルハラスメント)は多かれ少なかれ、あらゆる場所で起きている。「きみ可愛いね」というバカ丸出しの言葉から、問答無用のレイプまで、カテゴリーにすれば全部セクハラだ。しかし暴行や傷害やレイプでなければ罪に問えない。本作品では財務大臣(発言当時)の言葉が使われている。
 アホウ太郎が口を曲げながら「セクハラ罪という罪はない」とシレッと言ったことが問題となり、昔なら頭を下げて謝罪するところだが、アベシンゾウ内閣は「セクハラ行為を処罰する旨を規定した刑罰法令は存在しない」と閣議決定してしまった。これには仰天したが、騒ぎにはならなかった。アベシンゾウは「ボクチャンは悪くない」総理大臣である。何でもありなのだ。伊藤詩織さんをレイプした男も罪に問われなかった。

 実は当方は昔、体格のいい親戚の中年男から、きれいな手をしとるねと手を触られたことがある。当方も男だが、このときは本当に気持ちが悪くて、すぐに手を引っ込めて相手をまじまじと見た。こいつは頭がおかしいと思い、以来一切の付き合いを断った。自分の倍くらいの体重がある男から触られることにこれほどの嫌悪感と恐怖感があるのかと思い、女性の気持ちがある程度は想像できる気がした。もし手ではなくて身体を触られていたら、顔に正拳を叩き込んだと思う。

 セクハラの多くは密室で行なわれる。肩を揉む、手を握る、顔を近づける。若い女性にしてみれば、親しくもない年上の男からそんなことをされると本当に気持ちが悪い。本作品ではその先がカットされて、早紀ちゃんが泣いている場面に飛ぶ。何が起きたのかは、早紀ちゃんの言う通り胸やお尻を触られただけなのか、それ以上のことがあったのか、観客それぞれに推測する以外にない。
 密室の出来事である。防犯カメラがある訳でもなく、被害女性は証拠がないから主張を聞き入れてもらえないと考える。それに、一部の元ヤンキーを除いて、日本の女性の殆どは暴力に慣れていない。足を踏みつける、急所に蹴りを入れる、顔に肘打ちをするなど、咄嗟に出来るものではない。本気で抵抗しなかったとか、反撃はできたはずだとかいう議論は現実的ではないのだ。

 男社会のヒエラルキーの中で出世すれば改革が出来ると言う女上司が登場する。それでは出世したあなたは改革ができたのかと聞くと、いろいろ難しいと言い訳をする。理屈になっていない。それもその筈だ。出世したということはヒエラルキーに取り込まれた訳だから、改革などできようはずもないのである。
 ちなみに後半で登場したこの女上司の役者は演技がとても下手だったが、それ以外の役者陣は概ね好演だったと思う。

 鑑賞中は胸がざわつくというか、いろいろな感情が浮かんでは消えた。直前に見たドキュメンタリー映画の、コンゴでの凄まじいレイプ被害も頭に浮かんだ。コンゴではセクハラどころではない。セクハラが問題になるのは先進国だからである。
 仕事でハラスメント防止のアドバイザーをしている人の話を聞いていると、他人との関わり合いはなんでもかんでもハラスメントになる気がしてくる。ハラスメントになるのを恐れれば他人との関係をなるべく避けるようになる。
 女性が髪型を変えても何も言わない。何を言ってもハラスメントになるのだ。そもそも他人を見ない。他人からも見られないからファッションも気にしない。アパレル業界は沈没する。仕事中の会話はチャットで済ませる。街では他人の顔を見ない。街で他人に声をかけるのはポン引きと怪しいスカウトだけだ。道で誰かが倒れていても直接は触らない。好きで倒れているのかもしれないし、寝ているのかもしれない。
 他人との関係はどんどん希薄になり、未婚化、晩婚化、少子化が進む。それが先進国の証だ。それは悪いことではないと思う。登った山は降りなければならないのだ。

ゼレンスキー大統領のアホなパフォーマンス

2022年03月08日 | 政治・社会・会社

 欧米各国のウクライナ支援がエスカレートしている。戦闘機までウクライナに供与しようとしているのだから、気が狂っているとしか思えない。戦争はエスカレートすればするほど被害が拡大する。ロシア側は、戦闘機をウクライナに供与すれば、その国も参戦したとみなすと警告している。ウクライナのゼレンスキー政権は一歩も引かない構えで、支持率も9割を超えたらしい。ウクライナ国民が逃げ惑う中、どうやって支持率を調査したのかは不明だが、ゼレンスキーの態度が変わらない限り、戦争はこのまま継続するだろう。第三次世界大戦も近い。

 ゼレンスキーはもともと最も駄目な大統領のひとりである。ロシア出身でウクライナ語が苦手なコメディアンだった彼が大統領選挙で勝ったのは、ロシアとの関係改善を望んだ国民の願いが多かったからである。持ち前のパフォーマンスを披露して、政治素人でもちゃんとやってくれるだろうと思わせたのだ。ポピュリズムである。テレビが作った政権と言ってもいい。就任時の支持率は7割を超えていた。
 ゼレンスキーの大統領就任後、ロシア語を中心に話す東部の国民は、それまでウクライナ語だけが公用語だったのを、ロシア語も公用語に加えてくれるものだと思っていた筈だ。しかし彼はそうしなかった。それどころか、依然として紛争が続く東部の武装勢力を、昨年(2021年)の10月、ドローンで攻撃したのだ。おまけにフランスとドイツが仲介したミンスク合意を反故にして、ロシアに軍事的に睨まれると、アメリカに助けを求めてNATOに入りたいと言い出した。本物のバカである。このときの支持率は25%だった。

 先進国でNATOに入っていない日本が仲介役として相応しいかというと、プーチンと27回も会談して何の成果も上げられなかったアベシンゾウでは役者不足で、4年半も外務大臣をやって、やはり何の成果もなかった岸田文雄は論外だ。中国はパラリンピックが終わる3月13日以降に何らかの動きを見せるかもしれないが、中国の仲介で戦争が止まるかどうかは分からない。ウクライナは習近平の一帯一路の要衝だから、戦争は中国にとっても芳しくないのは確かだ。しかしプーチンが上げた拳を卸すだけの成果を中国が提供するのは難しいだろう。

 ひとつだけ、ゼレンスキー大統領が自分の名誉も意地も捨てれば、戦争が終結可能性はある。ミンスク合意の反故を取り消し、ロシアとフランスとドイツに謝罪するのだ。そしてロシア語を公用語にすると公約する。砲撃した東部の武装勢力に謝罪し、国民にも謝罪する。ゼレンスキーがプーチンに頭を下げる器量があるかどうか。そこにこの戦争の早期終結の可否がかかっている。しかし多分そんな器量はないだろう。彼はいまでもコメディアンである。問題の解決よりも、どういうパフォーマンスをすれば国民に受けるかを考えている。勇ましい自分を見せたいだけなのだ。さすがにテレビが作った大統領だけある。

 やっぱり世界のどこでも、アホが利口を支配している。絶望的だ。


映画『ムクウェゲ「女性にとって世界で最悪の場所」で闘う医師』

2022年03月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画『ムクウェゲ「女性にとって世界で最悪の場所」で闘う医師』を観た。

 シネマカリテでの上映後に、立山芽衣子監督の舞台挨拶があった。なかなか正直な監督で、映画の中でこれを訴えようという方向性が決まらないままに、本作品を完成させてしまったと言う。問題を提起して、あとは観客の問題意識に任せる訳だが、それは決して無責任な姿勢ではない。
 それは作品中でムクウェゲ医師が言う「世界はすべて繋がっている」という世界観と同じで、一点だけを主張しても解決にはならないことを示唆していると思う。ムクウェゲ医師を描くことで自然に提起される多くの問題は、互いに繋がっている。どの問題がいちばん重要とは言えないのだ。
 そこで本作品の中で目立った言葉や問題を、当方なりに箇条書きにしてみることにした。ちなみにコンゴはコンゴ民主共和国とコンゴ共和国があり、本作品のコンゴはコンゴ民主共和国の方である。

(監督の言葉)
コンゴは自然が豊かで美しい国だ。人口も多い。平和以外はすべてあると言われている。

(ムクウェゲ医師の言葉)
出産で亡くなる女性を助けるために病院を設立した。しかしやってくるのはレイプの被害者ばかりだった。

私は生後半年から90歳超までのレイプされた女性を治療した。

レイプで生まれた女性が、再びレイプされる。

私が病院を離れたとき、病院に戻ってきてほしいと、毎日1ドルで暮らす女性が50ドルを帰国費用に用意してくれた。

女性たちに比べれば私は小さな存在だ。

広島の原爆には、コンゴで採掘されたウランが使われた。コンゴと日本には深い繋がりがある。

コンゴのレアメタルがスマホなどの電子機器に使われている。世界は繋がっている。コンゴの問題は世界の問題である。

政府は武装してレアメタルを奪い、女性をレイプする者たちを取り締まらない。

政府はレアメタルの採掘は完全に管理されているというが、それは嘘である。

コンゴに必要なのは平和である。

(子供の頃にレイプされ、いまは看護師を目指している21歳の女性)
8歳のときに武装勢力に襲われた。ナタで頭を割られて脳が飛び出した母親の血の海に、首を切られた父親が倒れ込んだ。

森の中を5年間連れ回されて、のべつ幕なしにレイプされた。

妊娠したらその腹を刺されて胎児は死んだ。胎児が腐り、死にそうになっているところを助けられ、病院で13回も手術を受けた。ムクウェゲ医師にはとても感謝している。

(当方の感想)
ムクウェゲ医師はフランス語を話している。

武装勢力とは、ルワンダから来た悪党と、地元の民兵、それに国軍兵士も含まれる。これらがすべて、女性をレイプするのである。コンゴの警察機能は停止していると考えていい。政府が武装勢力を取り締まらないのは当然である。取り締まれないのだ。

武装勢力はどの国から武器や弾薬を調達しているのか。武器輸出の大国であるアメリカ、ロシア、中国からに決まっている。先進国の軍需産業がコンゴの紛争をいつまでも終わらせない。自分たちの商売に好都合だからだ。

武器を持ちながらジープで街を走るのは、男たちばかりだ。同じ考えの人間同士で集まって力を誇示し、他人を従わせようとするアホは、常に男たちである。ただしヤンキーの女子たちと右翼政治家のアホな女たちを除く。

政府がレアメタルを管理できていないというムクウェゲ医師の主張は多分正しい。武装勢力はレアメタルを奪い、その金で武器を調達していると考えるのが自然だ。レアメタルを強奪し、女性たちをレイプする。

2019年に来日し、広島を訪れて核廃絶を願ったムクウェゲ医師が、その時の総理大臣のアベシンゾウと会ったのは皮肉な話だ。アベシンゾウはロシアのウクライナ侵略を受けて、日本の核兵器保持を主張している。ムクウェゲ医師の願いはアベの心にはまったく届いていなかった訳だ。無力感というか、脱力感を感じた。多分アベシンゾウには心がないのだ。

コンゴの平和のためには、寛容と忍耐の教育が必要。教育を受けないと、平和の大切さが分からない。紛争は経済を疲弊させて、国を貧しくするだけだ。平和でなければ経済は発展せず、国民は貧しさから抜け出せない。

教室のシーンに希望を感じた。授業を受けているのは女性たちばかりである。コンゴの平和は、女性たちの努力によって得られる可能性が高い。ムクウェゲ医師の「女性たちに比べれば私は小さな存在だ」という言葉は、将来のコンゴを見越した言葉だと思う。女性たちが大きな存在になることがコンゴの平和となる。武装した男たちは全員退場だ。