三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「MEMORIA メモリア」

2022年03月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「MEMORIA メモリア」を観た。
 ティルダ・スウィントンは、そのロンパリ気味の大きな目と、常に半開きの口元のせいで、外見はかなりミステリアスである。カメラ目線でまっすぐこちらを見ているようでも、どこか遠くを見ている感じだし、開いた口から言葉が出そうで出ない。何を考えているのかまるで見当がつかないのだ。ラブストーリーよりも魔女や幽霊や超能力者が似合う女優さんである。

 さて、本作品はなかなかレビューの難しい映画である。少なくとも、短気な人には向いていないことだけは分かる。森、山、空などのひとつひとつのシーンが長い。街なかのシーンでさえ、登場人物なしの長回しなのだ。隣の年配の客は最初からエンドロールまでずっと寝ていた。

 ジャンル分けも難しい。強いて言えば超心理学SFだろうか。コロンビアを舞台の超常現象というのも違和感があるし、主人公が住んでいるのがメデジンだ。メデジンといえば、メデジンカルテルしか思い浮かばない。物凄く危険なところだというイメージだ。絶対に行きたくないと思っていた。しかし映像を見る限りではそんなに物騒な感じではない。当然といえば当然だ、戦場ではないのだから。ただ体格がよくて強面の男たちがたくさん映っていて、やっぱりメデジンには行きたくないと思った。

 象徴的な場面がいくつかある。若いエルナンが言った「Depth of Illusion」、考古学者が6000年前と推測した若い女の頭蓋骨に開けられた穴、まるでつけて来るみたいな大きな野良犬、中年のエルナンとのノンバーバルな交流、それに音の正体である超常的な光景などだ。
 
 理解し難い部分が沢山ある作品だが、時間の流れ、輪廻転生、人類のよって来たる源についての考察などが製作者のモチーフとして感じられる。スウィントンが演じたジェシカは旅人である。空間を移動する以外に、時間も移動しているような印象である。本人が意識していないところで違う時間に入り込む。ジェシカが移動する過程が時間と空間のつながりそのものとなる。

 そういう意味では、ヒロインは中性的で思索的でストイックである必要がある。ジェシカの役はティルダ・スウィントン以外に考えにくい。それは本作品がいい作品だったということなのかもしれない。

映画「金の糸」

2022年03月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「金の糸」を観た。
 主人公エレネにとって、ミランダは娘の夫の母親である。だから娘が結婚するまでは赤の他人だった。娘の娘、つまり孫はアメリカの大学に通っている。孫の娘、つまりエレネにとってのひ孫はエレネと一緒に暮らしている。

 本作品は個人主義の主人公エレネに、全体主義者のミランダを対比させることで、ソ連時代のグルジアのありようを浮かび上がらせている。
 エレネの両親も、かつて恋人であったアルチルの両親も、ソ連の粛清によって殺されてしまった。しかしエレネもアルチルも自由な精神を失わず、エレネは作家に、アルチルは建築家になった。エレネが好きな小説はマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」であり、パステルナークの詩が好きである。パステルナークは映画「ドクトル・ジバゴ」の原作者として有名だ。ちなみにソ連では発禁処分になっている。その点も反骨精神旺盛なエレネがパステルナークを好きな理由のひとつなのだろう。
 映画「ドクトル・ジバゴ」は大評判で、特にそのテーマ曲「ララのテーマ」がつとに有名だ。誰でも聞いたことがある馴染みのメロディである。

 ミランダはソ連の官僚であった。官僚機構というヒエラルキーの上位にいたことだけが彼女のレーゾンデートルであり、世の中で最も尊いのが政治だと、いまだに思っている。エレネのひ孫娘に向かって、エレネはこれでも知られた作家なのよと、見下した言い方をする。権力が彼女の拠り所であり、権力に逆らう者はおしなべて馬鹿者ばかりだという考え方だ。
 年老いたミランダは自分が権力者だった過去のことだけを自慢気に話すだけだが、その裏では、財産を処分して貧しい子どもたちの施設に寄付をしている。ソ連は崩壊した。ソ連のせいで閉じ込められていた貧しい子どもたちの才能は、開花させなければならない。そんなふうな反省があったのかもしれない。

 ドラマらしい場面は一箇所だけ。若い時分に書いたエレネの小説が発禁となり、その後エレネは20年もの間作品を発表できなかったのだが、その発禁処分を下したのが自分だったという事実をミランダが告白したシーンだ。発禁処分はエレネの娘が結婚する前の話であり、エレネとミランダは赤の他人だった。
 随分と昔から、エレネとミランダは個人主義と全体主義、検閲される側とする側という対立関係にあった訳だ。それが何故か、いまでは縁戚関係にある。
 金継ぎの話はひ孫とエレネ、アルチルとエレネの会話にそれぞれひと言出るだけだが、エレネとミランダの決定的な決裂が再び関係性を持ったという人間ドラマとして、象徴的な使われ方をしている。

 ウクライナに侵攻したプーチンは、かつてのソ連を取り戻したいようである。そういえば日本にも「日本をトリモロス」とテレビCMで言っていた阿呆もいた。しかしプーチンの真の動機は、ソ連が西側諸国によって蹂躙されたという被害妄想にあると思う。再びソビエト社会主義共和国連邦(USSR)を復活させることが、被害妄想のプーチンが溜飲を下げることができる唯一の道なのだろう。もしプーチンを取り巻く官僚たちがプーチンの異常さに気づかなければ、このまま第三次世界大戦となる。
 本作品は2019年の製作だ。ミランダのような権力亡者の異常な精神性が芸術も人命も蹂躙してしまったことを描いている。製作者はまったく予期していなかっただろうが、プーチンのウクライナ侵攻と同時期に上映されたことで、日本の観客にとってまさにコンテンポラリーな作品となった。

映画「Ribbon」

2022年03月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Ribbon」を観た。
 真面目に一生懸命に作った作品という印象だ。監督、脚本、主演ののんは真面目で一生懸命な性格なのだろう。それがそのまま作品に出ている。
 
 若い女性の心模様を描きたかったのだと思うが、それにしては本作品のヒロインは幼稚すぎる感がある。精神的に安定しない小学生か中学生みたいな言動が目につくのだ。二十歳過ぎの女性は脳内にセロトニンが豊富で、怒鳴ったり喚いたりすることはない。
 
 母親が勝手に絵を捨てたシーンも、子供じみた対応をする。二十歳すぎの女性なら、簡単に怒るのではなく、例えば自分の絵が如何に駄目な絵かを思い知らされて絶望した振りをする。お母さんにさえ解ってもらえない絵しか描けないなら、もう絵をやめて死ぬしかないと大袈裟に嘆く。計算高い現代っ子なら、それくらいは簡単にできそうだ。涙だって流せるだろう。その方が怒鳴るよりもずっと母親を追い詰めることができる。しかし、のんの想像の中にはそんなひねくれた女子はいなかったのだろう。
 
 絵を描く美大生としても、いくつか疑問のシーンがあった。
 芸術家は寝ても覚めても作品のことで頭がいっぱいだ。だから目が覚めたらすぐに作品に取り掛かる。しかしいつかは朝起きてすぐに絵を描かない。このことだけでも絵描き失格である。絵描きは自分が描きたいから描くのだ。他人が褒めてくれたらやる気が出るとか、やはり小学生のレベルである。
 いつかは気持ちが高ぶって洗い物を途中でやめてしまう。芸術家の才能で最も大きな割合を占めるのが持続力だ。どんなに絵が上手くても、作品を完成できなければ絵描きとは呼ばれない。絵を描きたい情熱がすべての感情を凌駕するのが絵描きなのだ。泣いて洗い物を途中でやめるのは、絵描きの精神性ではあり得ないことである。
 
 ヒロインには、せめて絵描きとしての才能があってほしかった。才能は情熱であり、持続力である。持続する情熱と言ってもいい。いつかにはそれがない。才能のなさが透けて見えるから、観客はヒロインに感情移入できず、小学生の学芸会を観ているかのような気になる。真面目で一生懸命なのんがずっと空回りしているような作品だ。

映画「牛久」

2022年03月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「牛久」を観た。

 昨年(2021年)の3月6日に収容先の名古屋出入国在留管理局(入管)で亡くなったウィシュマ・サンダマリさんのことは、未だに記憶に新しい。開示された動画を見た記事によると、亡くなる3日前の3月3日には、食べたものをバケツに吐き出しているのに、職員が無理やり食べさせようとしていたらしい。
 本作品では、ハンストという言葉が何度も出てくる。念の為に説明すると、ハンストはハンガーストライキ(Hunger Strike)の略で、公共の場で飲まず食わずで命がけの抗議をすることだ。インド独立の立役者であったマハトマ・ガンディーがはじめた。ウィシュマさんは収容後、半年で20キロも痩せて、そして亡くなった。ストレスで食欲が失せて痩せたという説明が一番もっともらしいが、ハンストをしていた可能性もゼロではない。

 本作品の主な舞台である東日本入国管理センターはその所在地から通称牛久と呼ばれている。牛久大仏から南南東に1.5kmの場所にある。法務省の施設だから職員は公務員である。在留資格が認められない外国人を収容する施設だ。ポーランドにあったナチスのアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所と似たようなものである。強制労働や殺害がないのが牛久である。閉鎖環境では職員にも相当なストレスが溜まる。ストレスを収容者に対する暴力で発散している点はナチスの強制収容所と同じだ。したがって「牛久強制収容所」と呼ぶのが実態に即した呼び方である。
 牛久強制収容所の収容者は、日本の法律で言えば不法滞在者だ。本人たちは難民であると主張している。国にいたら殺されるから日本に逃げてきた。さて、日本人にとってここが考えどころである。彼らの話を信じるかどうか。彼らのためにどのように税金を使うか。

 知人のアメリカ人女性は、日本で働く資格を得て働いていた。期限は5年間だが、1年働いて別の仕事に転職した。しかしそのときに入管に報告をしなかった。5年の期限が近づいて、期限の延長の手続きをした。書類は全て揃っていて問題ないはずだったが、入管は期限の延長を認めなかった。理由は言えないと言われたそうだが、推測はできる。転職してからの4年間は入管にしてみれば不法滞在であり、不許可の資格外活動をしていた訳である。印象が悪すぎるのだ。だから入管は延長を認めなかった。
 しかし、日本国にとってはどうだろう。この女性は5年間働いて、税金や保険料も納めているし、消費もしている。この女性がいたことは、日本経済にとってプラスであったことは間違いない。在留の延長を認めればこれからもプラスであり続けるだろうし、日本人の男性と結婚して子供を産んだりすれば、労働力も増えるし消費者としての役割も果たす。
 入管にとってはそんなことは無関係なのだろう。手続きを怠ったことが許せないだけだ。入管はそういう性格の組織だということである。この女性は難民ではないが、入管職員の態度は物凄く横柄で怖かったらしい。アメリカ人相手であんなに怖いのであれば、難民がどんな目に遭っているか、本当に恐ろしいと彼女は言っていた。本作品を観ると、入管は想像以上に恐ろしい場所であることが解る。入管職員は街のチンピラや暴走族と大差ない精神性である。

 ひと言で難民といっても、いろいろな人がいる。能力や適性も様々なのは日本人と同じだ。難民を支援して、日本語を教えて仕事を世話すれば、社会的な役割を果たすし、消費もするだろう。反社会的な行動をされると困るが、その危険性は日本人にもある。ポイントは日本語能力だけで、日本を占領した米軍のように、半年間で実用的な日本語が使える教育をすれば、多くの難民が救えるだろう。
 世界の多くは無能な国家主義者が国を統べている。優秀な人ほど反体制的だから、弾圧される傾向にある。そういう人が難民になる。受け入れれば日本の経済や文化にとってプラスになる可能性が高い。政府が受け入れようとしない理由がわからない。日本人でない人が日本国内で活躍するのが怖いのだろうか。

 本作品でも若くして日本語が話せる収容者がいた。彼の在留が認められれば、ちゃんと仕事をして税金や保険料を納めて、消費もするだろう。日本国にとっても地方公共団体にとっても何の不都合もない。むしろ歓迎すべきではないだろうか。
 しかしその彼が言う「ここでは毎日が同じ。こんな人生はいらない」
 難民にこんな言葉を言わせる行政は、恥ずべき行政である。毎日のように職員たちから暴行を受け、暴言を浴びせられ続けているのだ。誰だって死にたくなる。その職員は我々の税金から給与を得ている。その仕事は暴力と暴言だ。
 難民の彼に代わって言いたい。「もうこんな政治はいらない」