映画「マイスモールランド」を観た。
内容が今年(2022年)の2月に公開された映画「牛久」に直結していると感じた。「牛久」は茨城県の牛久市にある不法滞在者を収監する施設、東日本入国管理センターを描いた映画だ。
収監施設は閉鎖的な空間であり、必然的に職員も収容者もストレスが溜まる。そこで職員はストレスを収容者に対する暴力で解消している。ナチスのアウシュビッツ・ビルケナウ収容所と同じだ。つまり牛久の入国管理センターの実態は、強制収容所である。
牛久強制収容所の管轄は出入国在留管理局、つまり入管だ。入管は管理局であって援助局ではないから、滅多に難民認定しない。日本の難民認定率は0.4%で、欧米の15%〜50%に比べて極端に低い。ましてクルド人は国籍がまちまちだということもあってか、これまで一度も入管に難民認定されたことがない。2005年には国連難民高等弁務官事務所が難民と認めたクルド人親子が、入管によって強制送還された記録がある。
今年の5月13日、入管は前年2021年の難民認定者数を発表した。難民認定されたのは、2020年から27人増えて74人だった。それでも認定率は0.7%だ。難民認定外で在留を許可されたのは580人とのことだが、この数字は、6ヶ月しか滞在許可を与えられない緊急避難措置の対象者を含めた水増しではないかとの疑問がある。しかし入管は内訳を発表しない。
入管は難民に厳しい一方、技能実習生の受け入れについては甘い。アベシンゾウが人手不足という産業界の意向を受けて、入管法を変えたのだ。そして「技能実習生」という名の奴隷労働者が日本にやってきた。3年間の実習期間が終了したら、2年間は延長して働くことができるが、その期間が過ぎたら、自動的に不法滞在者となる。緊急避難措置の6ヶ月を過ぎても日本にいたら、見つかった場合に強制送還となる。
見つからなくても、日本国籍も住所もない外国人には仕事の機会はない。帰国するか、自殺するか、犯罪に走るかのどれかだ。実際に外国人による犯罪の半数以上は不法滞在者によるものである。こうなることは目に見えていながら、入管法を変えてしまったアベシンゾウの罪は大きい。多分バカだから何も考えていないのだろう。
本作品は深刻な難民問題を扱っていながらも、高校三年生の青春を明るく、しかし現実的に描いている。主演の嵐莉菜は初めて見たが、なかなかの演技力だ。美人すぎて当面は役柄が限られるかもしれないが、北川景子みたいにエキセントリックな役(「謎解きはディナーのあとで」「家売るオンナ」など)を演じて一皮むけることもある。美人に演じられない役はない。
冒頭の落書きみたいな線が埼玉県の形だとわかった人は沢山いたと思う。東京出入国管理局さいたま出張所はさいたま新都心駅から徒歩8分。さいたま第2法務総合庁舎内にある。働いている人は法務省の職員だから、基本的に解雇などはなく、給料が遅れたりすることもない。役人だから手当がたくさんつく。安全圏で暮らしている訳だ。職員から見たら難民の状況など対岸の火事である。毎日の職務さえこなして給料をもらって安全無事に生きられればそれでいい。強制送還された難民の運命など知ったこっちゃないのだ。大半の職員がそう考えているから、難民認定率が0.4%なのだろう。日本の入管に杉原千畝はいないのだ。
映画「教育と愛国」を観た。
随分と控えめな内容だったというのが第一印象である。井浦新の滑舌のいい落ち着いたナレーションが教育現場の危機を淡々と伝える。
第二次大戦中に日本軍が行なったことをきちんと教えることは、戦争を反省する上で重要なことだ。戦争は兵隊の精神を破壊して理性を奪う。欲望のままに他国の女子供をレイプし、非武装の民間人を容赦なく殺す。従軍慰安婦や徴用工は実際にあったことである。もっと言えば、従軍慰安婦は病気になったり怪我をしたら捨てられるか殺されるかして、新しい従軍慰安婦が補充された。女性の使い捨てだ。まさに人権蹂躙だが、戦争というのはそれ自体が人権蹂躙であり、犯罪の正当化である。
平時に人を殺せば殺人罪に問われるが、戦争で沢山の敵を殺せば英雄と呼ばれる。つまり英雄とは無慈悲な殺人者のことである。それを戦争の大義名分によって、罪人ではなく功労者だとするのが国家主義者だ。そして戦死者を英霊などと呼んで靖国神社に奉る。
本作品に関連するドキュメンタリー映画で、当方が鑑賞した作品を紹介する。
沖縄戦で沢山の民間人が自死したのは、陸軍中野学校出身の将校が住民を煽り、誘導したためである。その経緯は、映画「沖縄スパイ戦史」に描かれている。
沖縄県民の7割以上が反対しているにも関わらず、強行されている米軍基地建設については、映画「戦場ぬ止み」に描かれている。
従軍慰安婦の論争については、映画「主戦場」に描かれている。
第二次大戦で日本軍(関東軍)が中国で行なった残虐行為については、映画「日本鬼子」に詳しく描かれている。
安倍政権の悪行については、映画「新聞記者」に描かれている。
本作品では、国家主義者が愛国心という錯覚を国民に強要するために教科書を改変しようとする経緯が詳しく紹介されている。「愛国心という錯覚」の意味は、たまたまそこで生まれたに過ぎない国を「祖国」や「母国」などと呼んで、あたかも「自分の国」であるかのように錯覚するということだ。
本作品の骨子は、日本学術会議の任命から外された6人のひとりである岡田正則教授の「世界はグローバル化していて、国民や国家という概念が意味を成さなくなっている」という言葉に集約される。人間は自由な選択をすることができる。どこに住むこともできるし、住んでいる場所を愛するかどうかについても、その人の自由である。
日本の義務教育には日本国憲法の時間割がない。日本国憲法には、国民主権や法の下の平等、基本的人権の尊重や平和主義など、なるべく早い段階で子供に教えたい内容が満載である。映画「誰がために憲法はある」では、新しい憲法ができて、日本国民はこれからは戦争のためではなく平和のために生きていける、国のためではなく自分たちのために生きていけると喜んだことが紹介されている。日本国憲法の時間割がないのは、国家主義者にとっては教えられて困る内容ばかりだからに違いない。
個人の幸福追求の権利を捨てて、国家のために死ねる人間を作りたいのが国家主義者だ。日本国憲法の理念が戦後の日本の発展につながったことを理解していない。不自由な状況では人間はポテンシャルを発揮できない。小泉政権から安倍政権に至る国家主義教育で日本の産業や技術がどれほど衰退したかを考えれば、国家主義が経済的にも国を滅ぼすことは明らかだ。
一日でも早く、日本国憲法の時間割を義務教育に設けなければならない。家庭でも、絵本と一緒に憲法も読み聞かせてほしい。子供に条文を説明することで、大人も憲法についての認識を新たにするだろう。
映画「シン・ウルトラマン」を観た。
映画「シン・ゴジラ」を鑑賞したときのような感動を期待したが、何故かしら、何も感じなかった。樋口真嗣監督と庵野秀明さんのコンビは同じなのに、本作品には「シン・ゴジラ」にあった重厚感がない。ずっしりした革ジャンとペラペラのウインドブレーカーくらいの差がある。
「シン・ゴジラ」で唯一違和感を感じたのは米大統領の特使カヨコを演じた石原さとみである。演技がどうのというよりも、若すぎたのだ。カヨコ以外は、長谷川博己が演じた主役の矢口蘭堂官房副長官をはじめ、それぞれに人間的な深みがある役だった。そしてカヨコも矢口蘭堂との関わりの中で、不安や恐怖を吐露し始め、骨太な人間ドラマとしての作品を支えることになる。
本作品で長澤まさみが演じた浅見弘子がカヨコに似ていた。しかしカヨコが次第に世界情勢が絡む問題の本質を理解し始めるのに対し、浅見弘子はずっと同じノリである。人間的に軽いままなのだ。その軽さが、本作品そのものの軽さとなってしまった。
主演の斎藤工や有岡大貴、早見あかりはそれなりに頑張っていたが、いかんせん浅見弘子の軽さをカバーするまでにはいかなかった。長澤まさみはスタイルのよさが取り柄みたいな変な展開には違和感しかない。
もしかしたらギャグ映画だったのかと、はっと気づいた。ウルトラマンと宇宙人が日本の居酒屋で交渉をしたり、宇宙人と総理大臣が書面の覚書を交わしたりするのは、たしかにギャグだ。であれば、長澤まさみのアホなシーンも頷ける。本作品は壮大なスラップスティックなのだ。
映画「My Salinger Year」(邦題「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」)を観た。
何のエッセイか忘れたが、大江健三郎が、数年に一度はドストエフスキーを読み耽ることがあって、それは幸福な時間だという意味のことを書いていた記憶がある。ドストエフスキーを読んだことがある人ならご存知だと思うが、作品の多くは会話によって成り立っている。話し手が自分の魂を取り出して見せるような会話である。あるいは人の心の奥を覗き込んで囁きかけるような会話である。そんな会話で溢れたドストエフスキーの小説は、一度読みはじめると止まらない。ドストエフスキーとの濃密な時間を過ごすことになる。
本作品の原題は「My Salinger year」である。ヒロインのジョアンナは、とても気に入って長期滞在することにしたニューヨークで、J・D・サリンジャーという生きる伝説にまつわる濃密な時間を過ごす。
サリンジャーを読んだこともないジョアンナだが、サリンジャー本人からの電話を受けて勇気づけられる。そして同居相手が留守をしている間に、サリンジャーを読み耽る。それは大江健三郎がドストエフスキーを読んで過ごした濃密な時間と同じで、優れた作品は読む人の魂を揺さぶり、自分でも見ようとしなかった心の闇を炙り出す。
心の闇はカオスだ。あらゆる感情と記憶と妄想が渦巻いている。多くの人はそれを理性の衣装で押し隠して、社会と上手く生きていく。しかしカオスを言葉で表現しようとする人もいる。詩人であり、小説家だ。ジョアンナはサリンジャーとその作品との関わり合いによって、人生を見つける。にこやかなジョアンナの心の奥には、マグマの滾った火山があるのだ。いくらでも噴火できるだろう。
ジョアンナを演じた女優さんはやや表情に乏しく、観客が想像力で補わなければならないところがあったが、共演したシガニー・ウィーバーの素晴らしい演技に助けられて、ジョアンナという難役をなんとか演じきったと思う。それなりに楽しい作品だ。
映画「明日になれば アフガニスタン、女たちの決断」を観た。
カブールで暮らす妊娠した3人の女性のそれぞれの生き方を描く。それにしても、アフガニスタンの男性権威主義と女性差別は酷いものである。
ハヴァが暮らすのは、妊娠中の妻の身体を心配するよりも世間体を優先する夫と、嫁を家政婦扱いする横柄な舅と痴呆症の姑のいる家だ。ルーティンワークの家事の他にやたらに命令する舅の言うことをこなし、痴呆症の舅の面倒を見て、身勝手な夫が急に連れてくる大勢の客の飲み物や食事の準備もしなければならない。自分で客を連れてくるくせに、買い物を頼むと渋る。
マリアムの別居中の夫は、愛情よりも欲望優先で浮気を繰り返す。マリアムが7年間の無為な結婚生活に疲れて離婚を決意すると、よりを戻そうと必死になる。人格の破綻した夫にマリアムはとことん疲れ果てる。
アイーシャの元彼氏は、アイーシャに飽きて自分から別れたのに、未練の電話を掛けてくる。
女性たちの相手の男たちに共通するのは、女性は男の所有物という感覚だと思う。邪険に扱ったことを顧みもせず、離れていこうとする女性を引き止める。妻になって妊娠したら、もはや何処にも行けない。だからハヴァが一番悲惨である。お腹の子供だけが唯一の希望であり、頼りはアッラーだけだ。
製作は2019年だから、2021年夏のタリバンのカブール侵攻より前の話である。女性差別主義で権威主義のタリバンの統治下の現在はもっと酷い状況であることは想像に難くない。経済的にも困窮していて、娘を金持ちに売り飛ばす人が後を絶たない。女性にとって、女の幸せよりも生き延びることが優先される状況である。このような映画が製作できたのも、タリバンの統治下より前だったからだろう。あまりの悲惨さに息が詰まる。
映画「チェルノブイリ1986」を観た。
主人公はチェルノブイリ原子力発電所のある地域を担当する消防士アレクセイ(愛称アリョーシャ)である。チェルノブイリ原発は、ベラルーシとの国境近く、ドニエプル川の支流であるリカ・プリピャチのそばに作られた冷却池の横に建てられている。南方100キロメートルに首都キエフがある。
同じ原発事故を扱った邦画の「Fukushima 50」とは切り口がまったく違っていて、事故の全体像があまり見えてこない。それも当然で、本作品はロシア映画である。民主主義国とは違って、当局の検閲は厳しい。「Fukushima 50」のような作品を作ったら、上映ができない可能性があるだろう。
その点を考えると、家族愛を物語の中心にしたのは苦肉の策で、それでも登場人物のセリフの端々には国民の命を軽視する政治権力への批判がある。前半を主人公の個人的な生活の描写にしたのも、当局の検閲を和らげるためかもしれないし、主人公を身勝手な大酒飲みの男にしたのも、前半は割と退屈な話がダラダラ続くのも、同様かもしれない。
後半は刮目して鑑賞することをおすすめする。本作品の中心は事故発生後にある。現場の従事者は命がけで頑張って被害者を救おうとしているが、政権中枢の反応は遅い。福島原発事故のときはスマートフォンなどの通信機器が行き渡っていたが、1986年の段階では電話が最速の通信手段だった。電話では画像も送れない。
とはいえ、強い放射能が発生している炉心付近では、画像や通信どころか、近づくことさえできない。その点では福島原発事故も同じで、原子炉がどうなっているのか、未だに分かっていない。分かっていないまま、福島原発は廃炉作業が進められている。廃炉には30年から40年ほどかかるそうだ。
はっきりわかるのは、原子力は人間が制御できるものではないということだ。できるのは原子爆弾や水素爆弾で、雷管さえ作動させなければ爆発はしない。それに対して原子力発電は核分裂の連鎖反応を制御するわけだから、非常に困難な技術であり、僅かなミスや誤作動、それに天災地変によって容易に暴走する。
核爆弾は別の意味合いで人間には制御できない。核の抑止力は核兵器を使わないことで成り立つが、ひとたび核兵器の発射ボタンが押されてしまえば、対抗策として核のボタンが押される。更に対抗してとなると、何発の原爆が爆発するのかわからないし、どれくらいの被害が出るか予想がつかない。人類滅亡の危機が訪れる可能性もある。
ロシアのプーチン大統領がウクライナに侵攻したこの時期に本作品が公開されたことの意義は、原子力は人間には制御不可だというテーマにあると思う。
原題の直訳は「コウノトリが落ちたとき」である。これから鑑賞する人は、この言葉を覚えておくといい。
映画「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」を観た。
ベネディクト・カンバーバッチは繊細な演技のできる名優である。アカデミー賞にノミネートされた「パワー・オブ・ザ・ドッグ」では高い演技力を発揮していたが、あまり目立たなかった映画「クーリエ:最高機密の運び屋」の演技も凄かった。このふたつの作品ですっかり気に入ってしまった。
前作の「ドクター・ストレンジ」はまあまあ面白かったし、引き続きカンバーバッチ主演ということで鑑賞することにした。
期待外れというほどではなかったが、どこまでいってもMARVELであり、そしてディズニーだ。つまり家族第一主義で恋愛至上主義だ。そこには子供の保護者に対する配慮があると思うが、当方はこういう映画は逆に子供に悪影響を及ぼすと考えている。
世界の問題は悪役が起こしているという設定は、必然的に勧善懲悪の二元論に行き着く。悪役さえ倒せば平和を取り戻せるという単純な理屈は子供たちに受け入れられやすい。
もちろん実際は世界の問題は人間が引き起こしている。現実は複雑だ。子供たちの多くはそれを感じている。大人が思う以上に子供たちはいろんなことを理解しているのだ。しかし複雑さを言葉で表現できない。その結果、二元論に飛びついてしまう子供もいる。
善か悪かの二元論は魅力的である。それ以上考えなくていい。実は子供よりも大人の方が二元論に陥りやすい。プーチンが悪でゼレンスキーが善だと思っている人は多いと思う。実際のウクライナ戦争の状況と経緯はそんなに単純ではない。
二元論はともかく、本作品は家族第一主義が悪の原因となるところがユニークだ。しかし殺せる敵を殺さないというドクター・ストレンジのドクターらしさが封じられてしまった。パラレルワールドは使い古し感があるし、観ていてワクワク感がない。カンバーバッチは好きだが、このシリーズは次の続編があっても多分観ないと思う。
映画「死刑にいたる病」を観た。
阿部サダヲを見ると大島渚監督の映画「愛のコリーダ」を思い出し、どうしてこんな芸名を付けたのだろうと訝る。しかしすぐに忘れてしまい、次に阿部サダヲを見ると、また同じことを思うのである。因果な名前だが、忘れ難い名前でもある。
名前といえば岡田健史が演じた筧井雅也の名字は珍しい。普通、筧は一文字で「かけい」と読む。更に井をつけると「かけいい」になる訳で、それを強引に「かけい」と読ませる。こんな名字があるのかという疑問がずっと頭から消えない。
さて本作品はそのタイトルでほとんどの人が、哲学者のキルケゴールの著書「死に至る病」を思い浮かべると思う。そしてルサンチマンという概念を思い出す。犯人はどのような自尊心があり、どのようなルサンチマンによって犯行を犯したのか。
テーマが壮大な割には、物語の牽引力が弱い気がした。狂言回しが阿部サダヲ演じる榛原大和ではなく、岡田健史の筧井雅也(マーくん)にしてしまったから、榛原のルサンチマンを掘り下げるのではなく、榛原の心の闇に触れたという体になってしまった。
起訴されたうちの9番目の殺人事件の犯人探しという一点だけでは、映画に対する興味を持続するのは難しい。榛原の告白は説明的に過ぎて、実感が伴わない。榛原のルサンチマンが伝わってこないのだ。
ルサンチマンは怒りであり、憎悪である。しかしシリアルキラーの動機は概ね快楽殺人だ。明らかに矛盾している。本作品にルサンチマンは無関係なのか。キルケゴールの死に至る病とは絶望のことだ。人は未来に何の希望も持てなくなると容易に死を選ぶ。
太宰治は、夏に着る着物をもらったから、夏まで生きていようと思った、と書いた。もらった着物をその季節に着るのは、ひとつの希望である。何かを希望と思うことが希望なのだ。明日の晩の会食が楽しみであれば、人は簡単には死なない。未来の予定を楽しみに思わないことを絶望と呼ぶ。
どうやら、本作品はキルケゴールをだしに使って、快楽殺人者の異常心理を死刑に至る病として描いているようだ。榛原の様子は希望に満ちている。死に至る病が絶望なら、死刑に至る病は希望なのだ。榛原の希望は死刑台にある。
しかしたったひとつ、やり残したことがある。それはマーくんを操ることだ。それが榛原の希望であり、本作品で紹介されたのは死刑に至る病のひとつの事例なのだ。そう考えるとようやく、タイトルと中身の整合性が取れる。随分ややこしい話だ。
榛原は恐らく躁病だ。鬱病ばかりが問題にされる現代だが、躁病の患者もたしかにいる。そして積極的に社会に出るから病気だと思われていない。アベシンゾウの自己愛性人格障害は有名だが、プーチンもトランプも、病気としか思えない非常識ぶりである。
榛原は一般庶民だから死刑になるが、政治家だったり大金持ちだったりすると、他人を追い詰めて人生を台無しにしても罪に問われない。国民を不幸にしても逮捕されないのだ。榛原の存在をそういう国家主義の連中の象徴として見るなら、更に奥深い作品となる。考えるほどに難解さが増してくる不思議な作品だ。
映画「わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯」を観た。
川平慈英ではないが、絶対に負けられない戦いがある。負けてもどうということのない川平慈英の戦いと違って、国家主義権力との戦いは、負けたら平和を失い、自由を失い、最後は命を失う。
古今東西、女性は常に虐げられてきた。選挙制度のある国で婦人参政権が認められたのは、ほとんどが20世紀に入ってからである。日本では戦争に負けて、マッカーサーの統治下での勅令によって、婦人参政権が認められている。政治運動家はたくさんいたが、権力者を倒したのはアメリカで、日本国民全員が民主主義に目覚めた訳ではないのだ。
だから未だに「英霊」などという言葉を使って国家に無駄に殺された兵隊を崇めている連中がいる。アホである。民主主義が技術を向上させて生活を豊かにしたのに、それが理解できずに国家主義を信奉している。アベシンゾウがその代表である。頭の悪い人間が国家主義者となるのである。
それにしても本作品の主人公である伊藤千代子は立派だ。立派すぎて涙が出る。治安維持法を振りかざして特高警察がやりたい放題の取締りと拷問をしている時代に、天皇制反対と戦争反対を堂々と主張する勇気に感服した。若さゆえの思い込みの激しさも手伝って、天皇による独裁政治にとことん反対する。本当の芯の強さを持つのは女性の方だ。
伊藤千代子の死(1929年)から100年近くが経って、世界は女性の活躍が目立つようになった。アンゲラ・メルケルのような優れた政治家も出現した。しかし安心はできない。国家主義は世界中に蔓延しつつある。融和と継続を求める民主主義に対して、国家主義は断絶と闘争に走る。国家主義では内心の自由さえ認められない。政治家や役人の言いなりになっていると、気がついたときには権利を奪われ、フィジカルもメンタルも国家に従属することになりかねない。
だから反戦はどんな時代でも主張し続けなければならない。第二次世界大戦が終わってからも、いまだに戦争映画が作り続けられるのは、国家主義に対する危機感からだ。本作品もその系列にあると思う。伊藤千代子の理想と危機感は、共有しなければならない。
日本が国家主義に陥る危険はとても大きい。それは太平洋戦争の時代に逆戻りとなることだ。時代がどんなに平和に見えても、国家主義者たちは国民の権利を蹂躙する機会を伺っている。国家主義には絶対に負けられない。
井上百合子の演技は悪くなかった。女工たちに悲壮感がなかったのは、敢えてそういう演出にしたのだと思う。後半の苦しい描写にそなえて、前半は努めて明るい雰囲気で、伊藤千代子の幸せだった時間を伝えたかったのだろう。心に残る作品である。
映画「ホリック xxxHOLiC」を観た。
印象は壮大なゲゲゲの鬼太郎である。しかしゲゲゲの鬼太郎のような分かりやすさがない。アヤカシも女郎蜘蛛もどこから来て何をしようとしているのか、何もわからない。そもそも説明しようとする意図が感じられない。
頼りは役者の演技力だが、神木隆之介と柴咲コウが存在感を出していたのに比べて、女郎蜘蛛の吉岡里帆は頼りない。演技は十分だったから、演出の問題だと思う。強敵の役なのだから、もっとおどろおどろしい恐ろしさがなければならないのに、見た目は渋谷の女子高生だ。これでは吉岡里帆がどんなに演技上手でも、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる強敵のような怖さはない。
豪華な衣装を身に着けているはずの柴咲コウも、ミニスカで頑張る吉岡里帆も、何故かちっとも美しく見えなかった。ファッションショーのランウェイを歩くモデルがちっとも綺麗に見えないのと同じだ。人間よりも衣装を美しく見せようとするならファッションショーで十分で、映画にする必要はない。
能書きみたいな台詞が多い作品だが、どの台詞も空疎に響く。ただ、神木隆之介がビルから飛び降りようとするときの台詞「死にたい理由は特にない。生きていたい理由はもっとない」だけが心に残った。
この台詞が掘り下げられていくのかと期待していたが、そんなことはなかった。ただ強引な決めつけの台詞が並べられるだけだ。そこにはリアリティも何もない。これほど空疎な映画はあまりないかもしれない。ゲゲゲの鬼太郎のほうがずっとましだ。