映画「破戒」を観た。
感動作である。流石に明治文学を代表する小説が原作だけあって、言葉の選び方、使い方が素晴らしい。単に差別を描いているだけではなく、人間の本質についての深い洞察がある。
主人公瀬川丑松の尋常小学校の教師ぶりは、如何にも人格者らしく、落ち着いて丁寧で、そして威厳に満ちている。子供たちひとりひとりの人格を認め、尊重しているのがわかる。それは丑松自身が自分の人格や人権を社会に認めてほしいからでもあるだろう。自分が接してほしいやり方で子供たちに接する。
ということはつまり、教育の善し悪しは、突き詰めれば教師の人格に左右されるということだ。人格者に教えられる生徒は幸運である。瀬川丑松の生徒たちは、稀有な僥倖に恵まれたのだ。
一方で、丑松の悩みは深刻である。自分が部落出身であることを誰にも漏らしてはいけないという父からの戒めがある。それを守り通してきたから、師範学校を出て教員になれた。しかし行き詰まってしまった。前に進むには父の戒めを破るしかない。
LGBTの人々や在日の人たちも同じような悩みを抱えていると思うが、丑松の時代は差別が正当化され、表立っていた。告白するには、いまの生活を投げ打つ覚悟が必要だった。最後の授業での丑松の真摯な態度と言葉には、心から感動した。
間宮祥太朗がとてもいい。紳士的な態度を徹頭徹尾貫いて、丑松の誠実な人柄を見事に演じ切った。他の脇役陣も好演で、特に猪子蓮太郎を演じた児島秀和の演技には凄みがあった。
猪子の、人間は差別をする、部落差別が解消しても、別の差別が生まれるだろう、それは人間が弱いからだという主張には説得力がある。
人が人を差別しないためには、寛容と優しさが必要だ。他人を許し、優しくするには、世間のパラダイムに負けない強さが要る。世間が差別しても、自分は差別しないという態度を貫けるのは、強い人だけだ。強くなければ優しくなれない。優しさこそが強さなのだ。
人類が戦争をするのも、弱いからである。ロシアのプーチン大統領に代表されるようなマッチョイズムは、見かけだけの強さに過ぎず、実は弱さをさらけ出しているだけなのだ。それはゼレンスキーもバイデンも金正恩もトランプも同じである。彼らに瀬川丑松の優しさの欠片でもあれば、戦争は起きなかっただろう。人類が優しさを獲得できるのは、いつの日だろうか。
映画「ソー ラブ&サンダー」を観た。
2011年の第一作以来の「ソー」である。最近のマーベル映画の例に漏れず、本作品にも多分楽屋落ちのギャグが一杯あったんだろうが、不幸にしてマーベルに詳しくない当方には、あまりピンとこなかった。
ただナタリー・ポートマンが演じたジェーン・フォスター博士は彼女なりの世界を作っていて、第一作目のほんわかしたミーハー女子から、ずいぶんな成長を遂げていた。どれだけエクササイズすればあんな三角筋になるのだろう。殆んどマドンナかデミ・ムーアである。そうか、ジェーンだからGIジェーンか。ダジャレ的な発想だ。ヒロインの名前はジェーン・フォンダとジョディ・フォスターを合わせたみたいだが、それをわざわざダジャレにしてナレーションしたのには閉口した。粋じゃないのだ。
ストーリーは可愛さ余って憎さ百倍みたいな感じで、被害→憎悪→復讐という流れで、神々を殺しまくる悪役が登場する。その流れにソーが絡み、ジェーンとの再会がある。ベタなヒーロー物である。登場する神々は、キリスト教のゴッドやアッラーではなく、ギリシアローマ神話の神々やエジプトのアモンラーである。シヴァやヴィシュヌも登場しない。三大宗教に気を遣っているのだろう。
アベシンゾウが死んだ一報が流れた直後の鑑賞だったが、観客はかなりいた。それなりにケッサクな場面もいくつかあって、楽しめることは楽しめた。
クリス・ヘムズワースの肉体は第一作よりもボリュームアップしていて、かなりの迫力があった。ゼウスの取り巻きのニンフたちが気絶するのが本作品の一つのハイライトシーンだ。
ナタリー・ポートマンは自身が製作、主演した映画「水曜日のエミリア」の演技が最も秀逸だったが、本作品も悪くない。科学者が自分のステージ4のガンにどのように向き合うのか、よく考えて演技している様子に好感が持てた。
映画「ベイビー・ブローカー」を観た。
「万引き家族」を鑑賞したときも思ったが、是枝監督の作品は、憎悪や無関心と対極にある、愛情深いものばかりである。俳優ともいい関係性にあるのだろう。ペ・ドゥナとは13年前の映画「空気人形」でも一緒に作品を作っている。
本作品を観て、中島みゆきの「友情」という歌の一節を思い出した。
この世見据えて笑うほど
冷たい悟りはまだ持てず
この世望んで走るほど
心の荷物は軽くない
自分は友情を持つに値する人間ではないと卑下する心と、この世を上から眺めて人類を否定する心のせめぎ合いがそのまま歌詞になっている。そしてこの歌詞の世界観が、是枝監督の世界観にとても近い気がする。
人間はどうしようもない存在で、どうしようもなく生きていく。しかしそれは愛すべき存在である。悲劇ではあるが、同時に喜劇でもある。おそらく本作品を観た多くの人が、温かい気持ちになるはずだ。こんなふうに世の中を見ることが出来たら、多分幸せだろう。
敢えて難を言えば、ソヨンを底の浅い元ヤンキーみたいなキャラクターにしたことだ。生れ出づる悩みというか、儚さと女のやさしさ、それに母の強さみたいなものを併せ持った魅力的な女性だったらよかったのにと思った。前半の彼女は、人間的な深みに欠けていた。
もうひとつ、ソン・ガンホの台詞に「血は水よりも濃い」というのがあったが、儒教的な家父長主義のパラダイムが未だに支配的な韓国で、こんな考え方があるのかなと、疑問に感じた。
映画「ブラック・フォン」を観た。
なんだか新しい。いじめや予知夢やグロい暴力などの、ありがちなシーンが使われているホラーではあるが、全体として斬新な印象を受ける。
まだ幼くて精神的に不安定なフィニーは、気が弱いくせに暴力的な父親や徒党を組んで弱そうなやつをいじめる男子たちに対して逃げ腰だ。しかし、かつて自分をいじめたデブが散々な目に遭っているのを見ていられないなど、時折はやさしさを見せることがある。やさしさは即ち強さでもある。フィニーにはまだそれがわからない。
本作品はホラー作品であると同時に、フィニーの成長物語でもある。成長といっても、急に強くなったり視野が広くなったりするのではない。情報を取捨選択して、何が本当のことなのかを自分で判断したり、いろいろな可能性をひとつひとつやり遂げたりする。社会性と精神力の獲得である。そこが新しい。
一般的なホラー作品の場合は、犯人がなかなかわからないように出来ているが、本作品はとても分かりやすい。その犯人との対峙を繰り返すうちに、フィニーの性格に微妙な変化が見られるようになる。この辺も新しい印象を受ける要素のひとつだ。
フィニー役のメイソン・テムズは上手い。エキセントリックなグラバー役を演じたイーサン・ホークは流石である。フィニーとの関係性の変化を仮面の下の表情と声色だけで演じ切った。
映画「リフレクション」を観た。
同じ監督による映画「アトランティス」もやはり、戦争で心身ともに傷を負った人々を描いている。本作品は、捕虜になったときの敵兵の様子や戦時中の日常を描くことで、より立体的な映画になっている。登場人物の言葉数の少なさは「アトランティス」と同じで、絵画の余白のように、無言の長回しがテーマを際立たせる。
プーチンは2014年のクリミア侵攻から、ずっとウクライナ紛争に介入し続けてきた訳だ。あくまでもウクライナ政府と親ロシア派武装勢力の争い、つまり国内紛争だと言い張っている。しかし武器を供与しているだけの筈がなく、ロシア兵士もたくさん注入し続けていた。
日本政府にも当然、それくらいの情報は入っていただろうが、それでもアベシンゾーはプーチンにヘーコラして、3000億円をタダで取られた上に北方領土も永遠に戻らなくしてしまった。挙句の果ては「ウラジミール、君と僕は同じ夢を見ている」というおぞましい台詞を臆面もなく口にしている。ウクライナの人々にアベシンゾーがどのように映ったのか、恥ずかしい限りだ。
2022年の2月に、プーチンはとうとう本格的にロシア軍を投入した。訓練だと言われて行ったら実践だったという若いロシア兵の証言は、これまでの紛争の経緯と矛盾している。おそらくアメリカの捏造だろう。戦争研究所あたりのネオコン発に違いない。
プーチンはスパイだから、人を操る術(すべ)に長けている。宥めたり賺したり、時には脅しても、言うことを聞かせるのだ。ときには拷問も厭わない。お調子者のアベシンゾーなど、プーチンにとっては赤子の腕をひねるようなものだっただろう。
国のトップが拷問体質であれば、軍隊はすべからく拷問体質となる。第二次大戦後は戦争の捕虜に対してであっても拷問は禁止されているが、ロシア軍にはそんなことはお構いなしだ。人を殺したり拷問したりすることに、子供の頃からの禁忌のせいで最初は抵抗があるが、慣れてしまえば板前が魚を捌くのと同じになる。
本作品ではその様子が淡々と描かれる。アンドレイは意地を貫き通したが、セルヒー医師は拷問されても死ぬわけにはいかない。娘が待っているのだ。心の傷は深かったが、誰にも話さない。ウクライナも30年前はソビエト連邦だった。どこにスパイが潜んでいるかわからない。
自由はどこにあるのか。鳥は窓に映る空を本当の空と勘違いして激突する。ウクライナ人もロシア兵も、どこかに本当の自由があると信じていたのだろうか。ラスト近くのシーンで窓に激突した跡は、大きな天使のように見えた。しかし激しく叩きつける雨にやがて流されてしまう。跡形もない。
映画「わたしは最悪。」を観た。
器用貧乏という言葉がある。何でもすぐに出来てしまう人は大成しないという意味だ。本作品の冒頭を観て、すぐにこの言葉を思い出した。ヒロインのユリアはまさにこのタイプである。何でもすぐに出来ると言っても、その道の超一流レベルになるという訳ではなく、人よりも上手く出来るという程度だ。しかしそれで出来た気になる。そして飽きる。器用貧乏には、もともと移り気で飽きっぽいという意味もある。
舞台はオスロだろうか。電線がない街並みは緑豊かで美しい。森の中にいるとリラックスして脳の働きがよくなるらしい。ユリアの想像力も豊かに飛翔して、膨らみのある文章を書く。近しい人に読ませてみると評判は上々だ。もっと文章力を上げて、もっとたくさんの文章を書けば、いつかそれが仕事になったのかもしれないが、ユリアはまたしても飽きてしまう。
ある意味で、主人公が女性だから成立した作品かもしれない。そう思わせる発言がある。泊まりに行ったアクセルの友人宅でのユリアの発言だ。性欲が話題になるのは男性の性欲についてだけで、女性の性欲についてはついぞ語られないという意味のことを彼女は言う。小賢しい面はあるが、世界の幸福度ランキング上位のノルウェーにおいても、やはり女性は被差別意識を持ち続けていることが分かる。
アクセルが出演したテレビ番組では、短絡的なフェミニストの女性がアクセルの作品を差別的で不快だと罵っていた。ヒステリックな発言だが、根っこには女性としての被害者意識があるのだろう。男は現実と自分は別だと思っているから逃げることに抵抗がないが、女性は地に足の付いた存在だから逃げることに罪悪感がある。アクセルはマンガのキャラクターをアバターにして語らせているだけで、作品と自分は別だと言い張る。本当に自分から逃げていたのはアクセルの方かもしれない。その意味では、男性社会に対して批判的な立場の作品である。
ユリアは世間的な価値観に左右されて、自分なりの哲学を見い出せずにいる。ユリアだけではない。世の中の大抵の人がそうだと思う。他人の評価にまったく左右されず、自分の価値観だけに依拠して生きていける人など、一度も出逢ったためしがない。
タイトルの「最悪」の基準が気になる。もちろんユリア自身がそのように自己評価しているという意味だが、何をもって「最悪」と評価するのか。器用貧乏なところか。哲学が定まらないところか。
本作品を鑑賞した方にはおわかりだと思うが、ユリアが自分を最悪だと思うのは、世間的な価値観で他人に酷い言葉を投げつけたり酷い態度を取ったりしたことに違いない。かつての自分は最悪だった。ではいまは最悪ではないのかというと、最悪を脱しつつあるかもしれないが、まだ最悪には変わりない。その意味での「わたしは最悪。」である。句点がついているのがとてもいい。
映画「マーベラス」を観た。
文句なしに面白かった。
バイオレンスアクション映画はハリウッドの十八番である。本作品はマギー・Qが演じる凄腕の殺し屋アナがヒロインで、師匠をサミュエル・L・ジャクソンが演じるとなれば、面白さは保証されたようなものだ。
土砂降りの冒頭シーンから同じく土砂降りのラストシーンまで、緩急を織り混ぜたシーンの連続で息もつかせない。適切な場面にフラッシュバックを挿し込んで、師匠と弟子の歩みをさり気なく紹介する。説明的でないところがいい。
同じ場所が複数回使われることでシーンが復習となるから、全体的に分かりやすく、アクションと世界観を同時に楽しめる。綿密に計算された職人芸のような作品である。
映画「エルヴィス」を観た。
どうもエルヴィス・プレスリーという人は大スター過ぎて、少しも感情移入が出来なかった。それよりも、トム・ハンクスが演じた詐欺師のパーカー大佐の腹黒さと、嘘を吐いて平気でいることができる胆力には感心した。
かつて日本の新聞は「インテリが作ってヤクザが売る」と言われていたが、アメリカのスターは「才能を見つけた詐欺師が売る」という時代があったのだろう。いまでもそうかもしれないが。
トム・ハンクスは「ハドソン川の奇跡」の人格者の機長から、本作品のような品性下劣な詐欺師まで、驚異的な演技の幅の広さを見せる。エルヴィスを演じたオースティン・バトラーはあまり記憶に残っていない役者だが、本作品ではエルヴィスの気の弱さが、繊細な感性での歌唱に役立った反面、自ら世間と渡り合うことができずにパーカー大佐のような人間に引っかかってしまう原因となってしまったことを上手く表現できていたと思う。
芸能は絵や音楽とは違って、存命中に売れることが条件だ。いつ売れるのか、いつ売れなくなるのか、期待と不安の振れ幅が大きいだけに、ストレスは計り知れないものがあるのかもしれない。
正直者はストレスに弱く、嘘つきはストレスに強い。日本の政治家を見ればよく分かるだろう。嘘を吐いても心が咎めないのだ。音楽に誠実だったエルヴィスは身体を崩したが、パーカー大佐は平気だった。
エルヴィスの気持ちは、感じることは出来なかったが理解することは出来たと思う。弱いエルヴィスに対して、パーカー大佐の精神性は怪物級だ。ある意味で、パーカー大佐の悪どさを見る作品であった。
映画「アトランティス」を観た。
ウクライナ近未来の話ではあるが、出てくる屍体はウクライナやロシアの他にチェチェン共和国の兵士や義勇兵のもので、まさに現在の戦争が終結したときの話のようだ。
登場人物の言葉数の少なさが、尾を引きずっている戦争の悲惨さを物語る。2019年の映画である。ウクライナ人にとっては、2014年のクリミア半島侵攻から、ずっとロシアとの戦争が続いているのだ。2025年を舞台にしたということは、少なくとも10年間はロシアとの戦争を戦ったことになる。
台詞が極端に少ないが、登場人物の情念は熱量として伝わってくる。最初と最後の赤外線映像が人間エネルギーの熱さを物語っている。生命は赤く、屍体は青い。愛があって生が始まり、憎悪によって生が終わる。熱が失われて青い屍体になる。赤と青の間に、人間がいて、世界がある。金属で出来た標的は、カンカンと空虚な音がする。色は黒だ。赤と青と黒。有機質と無機質。
乾いた涙のような作品だった。悲壮感が漂うが、人の営みはある。これからも世界は続いていくのだ。
映画「ヘィ!ティーチャーズ!」を観た。
2020年の映画である。2年後にプーチンがウクライナ侵攻という蛮行に出ることについて、漠然とした予感があったのかもしれない。映画全体を妙に不穏な空気が包んでいる。
本作品を観た限りでは、ロシアの教師は日本の教師よりも授業のやり方に関して自由なところがあるようだ。カリキュラム絶対ではなく、自分なりの教材を使うことも許される。その代わりに馘になることもあるらしい。馘の基準は、反体制的かどうからしい。
自分を「先生」と呼ばせる輩にろくな奴はいないというのが当方の持論だ。ちなみに中国語の「先生」xiān sheng は、英語のMr.(ミスター)と同じで「〜さん」という意味合いである。学校の教師には老師 lǎoshī を使う。
ロシア語がわからないので、字幕の元の単語がどんな意味なのか不明だが、教師が自分のことを「先生」と呼んでいたのには違和感があった。日本の学校の教師の多くがそのように話す。自分で「先生は〜」などという文脈で話すほど恥ずかしいことはない。思い上がりが透けて見えるからだ。ロシア人教師も日本人教師と同じように思い上がっているのだろうか。
教育現場の主役は誰なのか。
こういう生徒を育てたいと考えていたエカテリーナは、理想の授業と現実とがかけ離れていることに疲弊してしまう。彼女の教育とは、育てたい自分が主役であった。自分の理想を生徒に押し付けようとするから、軋轢が起こり、授業がうまくいかない。
一方、生徒の自主性にある程度任せたワシーリーは、授業中はスマホを集めるなど、最低限のルールは押し付けるものの、比較的楽しい授業ができている。ワシーリーの授業の主役は生徒である。自由にやらせた結果、生徒は自分自身で物を考えることができるようになる。素晴らしい成果だが、得てしてそういう成果は反体制的な考え方を生み出す。
プーチンのロシアは、ソ連時代に逆戻りしている。思えばゴルバチョフが最初で最後のソ連大統領になった頃が、ロシア人は一番自由だった。プーチン体制のもと、再び全体主義への道を一直線に歩み続けている。
ドキュメンタリーだから、登場人物にはその後の人生がある。対極的な教師であったふたりの新米教師のその後。全体主義的なエカテリーナは、おそらくプーチン体制のモスクワで出世しているだろう。自由な授業を行なったワシーリーは、もしかしたら反体制的な考え方の生徒を生み出したかどで、粛清されているかもしれない。