三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ぜんぶ、ボクのせい」

2022年08月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ぜんぶ、ボクのせい」を観た。
映画『ぜんぶ、ボクのせい』公式サイト

映画『ぜんぶ、ボクのせい』公式サイト

映画『ぜんぶ、ボクのせい』公式サイト

 

 イギリスの詩人W.H.オーデンの「Leap before you look」(邦題「見るまえに跳べ」)の最後は次の一節で結ばれている。

 安全無事を祈願するわたしたちの夢は、失せなくてはなりません。
 (深瀬基博訳)

 本作品を観て「安全無事の向こう側」という言葉が浮かんだ。
 我々はいつも安全無事な日常を送っていて、それがいつまでも続くということを前提にして生きている。ただ心のどこかでは、それが幻想に過ぎないのではないかと疑っている。
 しかし今日と同じ明日は来ないかもしれないと疑っていたら、夜もおちおち眠れなくなる。金を貯めても無意味だし、事業や投資など愚の骨頂だ。だから我々には正常性バイアスがある。安全無事な明日が来ることを常に前提にして生きているのだ。自分だけは大丈夫だと思っているし、足元に火が着いても気が付かないふりをする。

 本作品は、そんな安全無事の向こう側の人々の物語である。
 秩序の維持が最優先の福祉施設は、ひたすら事なかれ主義に徹して、子供たちの行動を束縛し、自由を制限する。ある種の家父長主義だ。施設で飼っていたウサギが死んだら、みんなで一緒に悲しまなければならない。泣きもせず花も捧げないと、どうして悲しまないのかと問い詰められる。
 成績がよくて品行方正で社会の役に立つ人間に育ってほしいと願うのは、子供たちのためではない。福祉の独善であり、施設職員のエゴだ。しかし子供たちはそれに気づかない。職員たち自身も気づいていない。
 しかし優太だけはうっすらと欺瞞を感じている。嘘で固めた安全無事に我慢がならない。ここではないどこかに行きたい。しかし待ち受けていた冷酷な現実に、優太は生きていることの意味のなさに否応なしに気付かされる。

「かあさん、何故僕を産んだの?」
 自堕落で利己主義の母親は、少年の真摯な問いかけに答えることが出来ない。母親もまた、安全無事でない側にいるのだ。だから逃げる。子供を産んだ現実から逃げ、性欲の対象とされることにしか、レーゾンデートルを見出だせない。

 逃げることは悪いことではない。逃げないで立ち向かうことがいいことみたいに言われるが、それで病気になってしまうのであれば、逃げたほうがよほどいい。状況から逃げるだけでなく、世間の価値観からも逃げる。生活は不自由になるが、精神は自由になる。
 安全無事の向こう側で生きることは常に死と直面しながら生きることだ。死は恐れるものではなく、覚悟するものである。考えてみれば、生は死から逃げ続けているようなものだ。いつか追いつかれる。

 追いつかれても、慌てない。オダギリジョーが演じたおっちゃんは、逃げようともせず、その運命をじっと見つめる。実に天晴れな生き方であり、優太にもその生き方が伝わったようだ。
 自分とおっちゃんは自由で、世間は不自由だ。自分の存在が他人の生活を不自由にするなら、それは全部自分のせいだ。だったら自分など生まれてこなければよかったに違いない。しかし死ぬ自由はいつでもあると、おっちゃんは言っていた。命なんかいつだって捨てられるんだ。もう何も怖くない。

映画「L.A.コールドケース」

2022年08月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「L.A.コールドケース」を観た。
映画『L.A.コールドケース』公式サイト 8月5日(金)、ロードショー

映画『L.A.コールドケース』公式サイト 8月5日(金)、ロードショー

ジョニー・デップ×フォレスト・ウィテカー それは、誰も望まない《真実》誰がビギーを撃ったのか――アメリカ史上最も「悪名高い」未解決事件を実話に基づき映画化!

映画『L.A.コールドケース』公式サイト 8月5日(金)、ロードショー

 

 普通に考えれば、13,000人も警察官と職員がいるロス市警の組織的な不正は、社会にとって一大事だ。それでなくても不祥事の多いロス市警である。市民が警察官を信用できなければ、社会の安全はない。

 本作品は法と正義を貫いた立派な警察官であるラッセル・プールの実話に基づいている。ロス市警の闇を執拗に追及したその姿勢は、日本の地検特捜部やマスコミの記者たちが放棄したものだ。プールの爪の垢でも煎じて飲んでほしいと思う。

 とはいえ、2022年に鑑賞すると、ロス市警の不正など小さな事件に思えてしまうから不思議だ。本作品が作成された2018年に公開されていれば、もっと強く印象に残ったはずだが、コロナ禍が猖獗を極め、ロシアがウクライナに侵攻し、日本の政権与党がまるごとカルト宗教とズブズブの関係が明らかになったりすると、現実のほうが恐ろしすぎて、警察の組織的な不正などよくある話のひとつに感じる。それは本作品にとっては不運だろう。

 ジョニー・デップは好演。やっぱり器用な俳優だ。目に力があるから、海賊から酔いどれから真面目な警察官まで、どんな役を演じても存在感がある。
 ハリウッド映画だったら努力が報われて家族との関係も修復するようなラストにしたかもしれないが、そこはイギリス映画。事実に対して真摯である。不明な点は不明なまま残し、組織の闇、ひいては人間の闇として余韻を残した。
 公開が遅れてインパクトが弱くなってしまったのは残念だが、映画としてはいい作品だと思う。本来は映画作品は俳優の私生活と区別されるべきで、公開の遅れはジョニー・デップの責任ではない。しかしそこもやはりイギリス映画。世論を真面目に考慮したのだろう。やむを得ないところだ。

映画「長崎の郵便配達」

2022年08月07日 | 映画・舞台・コンサート
映画「長崎の郵便配達」を観た。
映画『長崎の郵便配達』公式サイト

映画『長崎の郵便配達』公式サイト

1冊の本からはじまった父の記憶を辿る旅― 今、娘が受け取る平和へのメッセージ。『ローマの休日』のモチーフになったといわれる元英空軍大佐ピーター・タウンゼンド。彼が出...

映画『長崎の郵便配達』公式サイト

 

 さだまさし(グレープ)が歌った「精霊流し(しょうろうながし)」は、静かなイメージの「灯籠流し」とは異なり、爆竹が鳴り響く派手な祭である。港町長崎らしい、各国の文化が入り混じった不思議な味わいの祭だ。

 本作品では、被爆者である谷口稜曄さんを取材したフランス在住のイギリス人作家ピーター・タウンゼントとその娘である女優のイザベル・タウンゼントの心情を中心に描くが、谷口さんが過ごした長崎の様子も同時に描く。
 長崎は尾道と同じく坂の町である。道は通り過ぎるイメージだが、坂は上り下りする息づかいのイメージがある。人々の生活により密着しているように感じられるのだ。坂を上り下りしたピーターさんと40年後に訪れたイザベルは、こういう生活を一瞬で破壊した原子爆弾の非人道性にあらためて慄然とする。40年の時の流れも、原爆の恐ろしさを和らげることはない。

 人間は環境適応能力の高い生物だ。環境を変えようとするよりも、変化した環境に適応しようとする。それは為政者が代わることに対しても同じである。政策に異を唱えるよりも、新しい政策に対してどうすれば自分が利するだろうかと考える人のほうが多い。それは戦争をする政策に対しても同じである。
 世界中の人が戦争に反対していると考えるのは楽観的過ぎる。戦争をしたい政治家がいて、武器弾薬を売りたい軍需産業がある。政治家が敵国を想定して、その存在が著しく国益を損ねると訴えれば、戦争もやむなしと思ってしまう単純な人が実に多い。戦争には反対だけど、今回は仕方がないでしょ、という妥協論である。
 こういった妥協論は、反戦の覚悟が不足していることに由来する。反戦というのは戦争を仕掛けないだけではない。たとえ戦争を仕掛けられても、それに応じないことも反戦だ。そして政治家の役割は、戦争を仕掛けられないように外国と上手に渡り合うことだ。

 世界には平和という大義名分がある。その大義名分を最大限活用すれば、戦争をしたい国を牽制することが可能だ。大国の核兵器の傘下に入るという考え方は浅はか過ぎる。核のエスカレーションは危機を高めこそすれ、戦争回避の役に立たない。そんなことは子供でもわかる。平和とは武力で争わないことだから、軍備を減少させることが第一だ。軍備を増強させることは売り言葉に買い言葉の効果しかない。

 ところが日本では「積極的平和主義」のために軍備を増強するという意味不明な主張をした政治家がいて、このバカが率いる政党が総選挙で勝ちつづけた。そして戦争法案をいくつも強行採決して、日本を憲法の平和主義を無視して戦争ができる国にしてしまった。こういう政治家に投票することは戦争に賛成をしたことになることに、未だに気付いていない有権者が多い。長崎や広島の平和記念式典でどれだけの人が平和を訴えても、戦争をしたい政治家に投票し続ける有権者がいる限り、戦争の危機は増大し続ける。

 珍しくシネスイッチ銀座が混み合っていた。上映後に舞台挨拶があるのだろうと予測したらその通りだった。川瀬美香監督によると、ピーターさんと谷口さんの二人を「天国チーム」と呼んでいるらしい。「天国チーム」は地球から戦争がなくなることを願っているのだろうが、地上チームの我々は、彼らの願いを叶えられるだろうか。シネスイッチで本作品を鑑賞した観客は、戦争したい政治家に投票するのをやめるだろうか。参院選の結果を見ても、悲観せざるを得ない気がする。
 イザベルは戦争の危機をいままさに実感していると言っていた。同じ実感を当方も共有している。コロナ禍やウクライナ戦争など、まさかと思われることが次々に起きる時代だ。近日中に台湾戦争がはじまったり、朝鮮戦争が再開したりすることもありうると思っている。そのときには我々の反戦の覚悟が試されるだろう。

映画「ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言」

2022年08月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言」を観た。

https://www.universalpictures.jp/micro/finalaccount

 ドイツ人の精神性は日本人のそれに似ている気がした。みんながやっていたからとか、命令されたから仕方なくとか、従わないと自分がやられるとか、そういった理由で自分の行為を言い訳する。どれも日本でも聞いたことがある言い訳だ。

 第二次大戦時に日本国内で朝鮮人や中国人がどんな目に遭ったのか、誰もはっきりとは語らないから詳細は不明だが、噂話や言い伝えの類はあって、日本人は彼らに対してかなり酷いことをしたらしい。関東軍が中国で行なった残虐行為については、映画「日本鬼子」でたくさんの元陸軍兵士が証言している。国内での朝鮮人や中国人に対する残虐行為も想像を絶する酷さであったことが類推される。三菱重工をはじめとする軍需産業が朝鮮人を徴用工として強制労働させた記録もある。しかし日本人の誰も、責任を取らない。言い訳はドイツ人と同じだ。

 本作品を観て恐怖を感じたのは、一度でも国家主義が走り始めたら、後戻りができなくなるということだ。お国のためという大義名分は万能で、あらゆる局面で国民の行動を制限し、束縛することができる。互いに見張り合って、ドロップアウトが許されない時代になるのだ。退職が不可能なブラック企業みたいなもので、労働力だけでなく精神まで全体主義に蹂躙される。
 個人として反体制を貫く人々も現われるだろうが、そういう勇気のある人はごく少数である。しかも弾圧されて拷問の憂き目に遭う。すると大多数は強権を恐れて物を言わなくなる。権力者に唯々諾々と従って、国家が破滅に向かうのを無気力に眺めているしかない。
 そうなっては遅いのだ。だから有権者は誰が戦争をする政治家で、誰が戦争を回避できる政治家なのかを見極めなければならない。戦争をする政治家を落選させ続けることが、戦争を望まない有権者の責務である。

 ところが昨今は、戦争をする政治家が当選し続けている。「積極的平和主義」などと意味不明の言葉を叫んで拳を振り上げていたアベシンゾーがその筆頭だった。アベは射殺されたが、その一派で軍事力増強を主張している政治家が国会に溢れている。

 極右政治家が勢力を伸ばしているのは日本だけの傾向ではない。世界の人々は多分、平和を望んでいないのだ。

映画「劇場版ねこ物件」

2022年08月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「劇場版ねこ物件」を観た。
映画『劇場版 ねこ物件』公式サイト

映画『劇場版 ねこ物件』公式サイト

猫付きシェアハウスを舞台に、猫と人との繋がり方や新しい家族の形を描いたハートフル・ストーリー。主演:古川雄輝 監督・脚本:綾部真弥 2022年8月5日(金)ROADSHOW.

映画『劇場版 ねこ物件』公式サイト

 

 猫を飼うには覚悟が必要だ。猫に対して決して怒りの感情を持たない覚悟である。猫は本能と遊びで生きている。悪意はない。赤ん坊と同じだ。赤ん坊が泣いたりグズったりしても親は怒りの感情を抱かない。もし抱くとしたら、その人は親になる資格がない人である。

 親が子供を殺した報道に触れるたびに、どうして義務教育で親の覚悟について教えないのか、疑問に思う。猫と人間の子供を一緒にするなとの指摘があるかもしれないが、生き物を育てるという点では、本質的な違いはない。
 二星ハイツ七箇条はとてもよく出来ている。猫を子供に変えれば、子供のいるすべての家庭にそのまま適用できそうだ。親になるということは子供の存在のすべてを受け入れることであり、子供第一の生活をすることである。猫は疎外感を感じることはないが、子供は親から受け入れてもらえないと、自己肯定感の低い人間に育つ。それは不幸を育てているのと同じだ。
 悪人が登場しない優しい作品である。ドラマは観ていないが、登場人物それぞれの物語が紹介されるのだろう。ドラマはドラマでほのぼのした時間が過ごせそうだ。人生の辛さとは縁がないが、たまにはこういう性善説の作品を観て、猜疑心に充ちた日常を省みるのもいいかもしれない。

映画「霧幻鉄道 只見線を300日撮る男」

2022年08月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「霧幻鉄道 只見線を300日撮る男」を観た。
■霧幻鉄道

■霧幻鉄道

ドキュメンタリー映画『霧幻鉄道』公式HP。2011年、福島で起きたもうひとつの災害はローカル線復活の奇跡のストーリーを生んだー まだ見ぬ絶景を追い続ける 一人の写真家が...

mirufilm ページ!

 

 鑑賞していると、なんだか旅をしているような気分になる。個人的に今年は猪苗代湖に行き、尾瀬に行き、魚沼に行った。奥会津の真ん中を走る只見線は、猪苗代湖の西にある会津若松から魚沼を結んでいる。つまり奥会津は猪苗代湖の西、尾瀬の北、魚沼の東に位置する訳だ。

 アクセスが難しい場所でもある。しかし映画で観る景観は素晴らしい。本作品を観て行ってみたいと思う人が多いだろう。観光で地域が潤えば、只見線も赤字から脱却できるかもしれない。
 奥会津は洪水の被害に遭い、地球温暖化の影響と思われる雪不足に悩まされ、コロナ禍で施設閉鎖の憂き目に遭う。それでもそこに暮らす人々は決して暗くない。奥会津は水が豊かで自然が美しいところだ。住民と行政が一緒になって、奥会津をもり立てようと努力する。その努力は、きっと楽しいことに違いない。
 最近は大都市では夜空の星が殆ど見えない。少なくとも東京ではそうだ。地方にいたときは夜は満天に星が降っていた。「星の降る夜はあなたと二人で」という出だしの歌詞で知られる懐メロの「星降る街角」は1972年の発売だから、その頃は多分東京でも星がたくさん見えたのだろう。
 星空を見るために地方に旅行したり、プラネタリウムに出かけたりする。尾瀬の帰りに泊まった丸沼の湖畔では、驚くほどたくさんの星が見えた。長いこと星が降るような空を見ていなかったので、とても感動した。滅多にない体験であり、大都市に住む人間にとってはひとつの邂逅でもある。
 大都市は夜の星が見えないほどの明かりを灯す必要があるのか。商業施設は半袖だと寒く感じるほど冷房を効かせる必要があるのか。人間が快適さを求めるのは自然なのだろうが、過度になるとむしろ不快である。
 冬は雪あかりで勉強し、夏は蛍の光で勉強したというのは誇張だとは思うが、過度の明るさ、過度の空調は、人間を弱くする気がする。おまけにそれらは電力によってまかなわれるから、発電のために温室効果ガスを大量に発生させる。快適さを求める大都市の人々のために、奥会津の雪が減少したのだとしたら、反省して然るべきだ。
 我々はPCやスマホに囲まれて、情報の洪水に翻弄されている。もはや当日の天気さえ、空を見上げるのではなくスマホの情報を確認する。人間は空を見上げても天気が予想できなくなってしまったのだ。
 地球温暖化は我々が快適さを求めすぎているからだ。快適さにも人それぞれに方向性がある。満天の星空が見えることが快適なのか、寒いほど冷房を効かせることが快適なのか、選ばなければならない。目先の観光収入にこだわっている場合ではない。未来の人間たちに美しい自然を残せるかどうかの瀬戸際なのだ。

映画「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」

2022年08月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」を観た。
アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台 | UN TRIOMPH | reallylikefilms

アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台 | UN TRIOMPH | reallylikefilms

映画『アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台』公式サイト:何をやってもうまくいかない、人生崖っぷち俳優エチエンヌ。彼にめぐってきた大仕事は、塀の中のワケありク...

アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台 | UN TRIOMPH | reallylikefilms – 映画『アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台』公式サイト:何をやってもうまくいかない、人生崖っぷち俳優エチエンヌ。彼にめぐってきた大仕事は、塀の中のワケありクセありならず者たちに演技を教えて更生させること!このミッション、果たして彼はコンプリートさせることができるのか?エマニュエル・ クールコル監督作品 | UN TRIOMPHE | 主演: カッド・メラッド (コーラス)(オーケストラ・クラス) / マリナ・ハンズ (世界にひとつの金メダル) / ロラン・ストーケル (セザンヌと過ごした時間) | 主題歌「I Wish Knew How It Would Feel to Be Free」ニーナ・シモン | 2022年7月29日(金)より感動のロードショー(ヒューマントラストシネマ有楽町/新宿ピカデリー他にて全国縦断公開)

 

 フランスの俳優と受刑者の物語である。comédianはコメディアンと発音はするが、フランス語では俳優のことである。いわゆる喜劇役者はhumoriste(ユモリスト)だ。「コメディアン」という台詞を聞いて字幕に「俳優」とあったので安心した。

 主人公エチエンヌは売れない俳優だが、演劇に人生を懸ける舞台至上主義者である。何かの縁で囚人たちの更生プログラムとしてのワークショップを引き受けるが、そこは俳優だ。ちゃんとした芝居をやらせてみたい。エチエンヌは権謀術数を駆使してなんとか囚人たちを舞台に立たせる段取りを作り上げる。
 舞台を成功させるために、囚人たちを褒め、叱りつけ、懐柔する。相手が刑務所の所長でも判事でも、同じように接する。舞台の成功以外に興味がないから、娘の成績や囚人たちの犯罪にも興味がない。興味があるのは役柄に対する相性や、役者としての長所と短所である。それ以外の情報は、むしろ演出の妨げになる。だから聞きたくない。
 いつしか囚人たちにもエチエンヌの熱が伝染して、演じる楽しさ、表現する面白さに目覚めはじめる。しかし初演の日まで半年しかない。落ちこぼれの生徒が半年の勉強で大学を受験するようなものだ。いくらスパルタをやっても無理がある。迎える初演の日。予想通りのシッチャカメッチャカな舞台。それでも彼らの熱意が伝わったのか、観客からは拍手がもらえる。高揚する囚人たち。しかし初演の高揚は、刑務所に戻った途端にやられる全身検査によって無惨に打ち砕かれる。
 ラストシーンは俳優としてのエチエンヌの晴れ舞台である。一言一句聞き逃がせない。耳を皿にして聞き入った。ところが、そこはベケットの難解さである。ほとんど思い出せない。しかし素晴らしいラストシーンだった。
「ゴドーを待ちながら」は不条理劇として有名である。何が面白いのかわからないが、とにかく二人の浮浪者がゴドーを待っている。ゴドーは来ないが、別の人間が来る。繰り広げられる会話劇。結局ゴドーは来ない。浮浪者たちは死のうとするが死にきれない。そんな芝居だった。
 太宰治の「葉」という短編がある。その最初にある一節は次のようだ。
 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
 ゴドーは多分、希望だ。人間は小さな希望を持つことで死なずにいられる。夏に麻の着物を着るのも希望だし、帰宅して枝豆でビールを飲むのも希望だろう。着物なんか着たくない、ビールなんか飲みたくないと思ったら、希望はそこで消える。希望がなくなったら絶望しかない。すると人は簡単に死を選ぶだろう。ゴドーが来ないからと自殺を図る浮浪者たちは、まさしくその状況だった。
 囚人たちには舞台が希望だった。しかし舞台の後の全身検査は絶望だ。ふたつがセットになれば、舞台はもはや希望ではない。舞台は囚人たちの人生を変えてくれたが、刑務所はもとの人生に引き戻す。このあたりに、不条理劇「ゴドーを待ちながら」と演じる囚人たちの本質的な接点があるように思った。難解な戯曲を最も理解したのは、彼らだったのかもしれない。

映画「戦争と女の顔」

2022年08月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「戦争と女の顔」を観た。
映画『戦争と女の顔』公式サイト

映画『戦争と女の顔』公式サイト

“わたしたち”の戦争は終わっていない-。1945年、戦後のレニングラード。PTSDをかかえた元女性兵たちの生と死の闘い。7月15日(金)より 新宿武蔵野館、ヒューマントラストシ...

映画『戦争と女の顔』公式サイト

 

 この8月に広島で開催される原水爆禁止2022年世界大会に先立って7月に開かれた科学者集会で、和田賢治武蔵野学院大学准教授が「ジェンダー化する安全保障」と題する講演を行なった。

 講演の趣旨は、男らしさが軍拡競争を生むというもので、核兵器のような暴力装置に頼って安全を守ろうとする「男らしさ」は有害であり、平和の秩序を生むことはないという内容だ。
 実に正しい分析である。世の戦争は男のマッチョイズムが起こしてきた。プーチンやスターリンはその代表選手だ。個人でマッチョにのめり込むのは自由だが、国家を代表されたりすると困る。そういう連中は国家の名誉や尊厳といった実体のないものを崇め奉り、傷つけられたと言っては戦争を仕掛けるのだ。巻き込まれる国民はたまったものではない。
 自民党の政治家、特にアベシンゾーとその一派の連中は日本の名誉や尊厳をよく口にするが、表現の自由度や女性の社会進出といった民主主義の成熟度のランキングでは下位に低迷している。それは政府の姿勢に如実に現れている。取材に制限を設け、開示する文書は黒塗りで、テレビ局や新聞社に脅しをかける。これでは国民は幸せになれない。
 国家の名誉や尊厳はいらないから、国民生活をもっと安心で豊かなものにしてほしい。それが国民の本音だと思うのだが、選挙ではいつも自民党が勝つ。頑張れ日本、欲しがりません勝つまでは、非国民にはなりたくない、そういった意味不明の心理が未だに日本の有権者を縛っているのだろうか。
 国があるから国民が生きていけるのではない。国民が国家という共同幻想を共有し、統治を任せているから国家が成り立つ。公務員は国民から信託を受けた奉仕者である。だから役人はServant(奴隷)と呼ばれるのだ。
 大抵の女性は現実主義者だ。勝ち負けよりも生き延びることを優先する。そのためにはまず状況に慣れることだ。本作品のイーヤとマーシャは、戦場では暴力に慣れ、性行為に慣れる。そうして生き延びたのはいいが、何が残されたのか。彼女たちにはもはや何もない。みずからの無一物を悟って現実は虚無そのものだという境地に達すれば心の平安もあるかもしれないが、そこに至るには彼女たちはまだ若すぎるし、現実から離れられない。戦時を思い出させるような発作もある。イーヤの佇立癖、マーシャの鼻血だ。
 アニメ映画「この世界の片隅に」の主人公北條すずが、敗戦を告げる天皇のラジオ放送を聞いて慟哭した場面を思い出す。すずと同じように、イーヤとマーシャも、戦争を生き延びてしまった。すべてを失ってなお、生きていかねばならない苦しみ。せめて子供でも産まないと、この世との繋がりが何もなくなってしまう。
 マーシャはサーシャの母親に向けて真実を話す。サーシャが知らなかった事実だ。おそらくサーシャは話を受け入れることができないだろう。マーシャにはわかっていた。それでも真実を話す。それは多分、マーシャの優しさだった。

映画「セルビアン・フィルム」

2022年08月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「セルビアン・フィルム」を観た。
映画『セルビアンフィルム 4Kリマスター完全版』公式サイト

映画『セルビアンフィルム 4Kリマスター完全版』公式サイト

7月22日(金)公開『セルビアン・フィルム4Kリマスター完全版』公式サイト。人でなしの映画。これが噂の鬼畜残酷ホラー史上、一番ヤバいやつ。一生分のトラウマがここにある。

映画『セルビアンフィルム 4Kリマスター完全版』公式サイト

 情報公開を要求したときに役所が出してくる黒塗りの文書がある。何故かそれを思い出した。日本のAVではモザイクがかけられているが、あれは黒塗り文書と一緒で、あまりよろしくない。日本ではポルノ映画でなくてもモザイクがかけられる時代が長く続いていた。
 このところ、漸く普通の映画からはモザイクが取れ、映っているべきものが映っているようになった。顔がひとりひとり違うように、性器もひとりひとり違う。ありのままを映すほうがドラマに真実味が出ると思う。

 本作品はポルノ映画ではないが、ポルノ映画を題材にしているから、映すべきものはそれなりに映っている。ドラマとしての映し方だからエロティスムはあまりない。ただ、主人公がどうして人気のポルノ男優だったのかはよくわかった。
 途中まではなんだか胡散臭い映画に出ることになった元ポルノスターが厄介事に巻き込まれるのかなという程度だったが、映画「ハングオーバー」を彷彿させる終盤はまさに怒涛の展開で、急にテンポが快調になる。セックスに取り憑かれたような登場人物たちが繰り広げる惨劇は、快楽を命懸けで追求する亡者の群れそのものだ。

 キリスト教的な禁欲主義が招いた反動が暴力に結びつき、しかしキリスト教的な教条が暴力を正当化するという皮肉が、本作品の底流にある気がする。映画「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」は神父による少年への性的虐待を告発しているが、本作品は告発ではない。偉そうにしている紳士も、股の間にはわがままな棒を一本ぶら下げているじゃないか、というシニカルな指摘をしているのだ。

 ゴア描写満載のスラップスティックとして捉えれば、本作品は文学的にさえ感じられる。製作者はユーモアのセンスもあり、ポルノ女優が使っていたペニス型ライターが笑えた。