カール・シュミット流に言うならば、友と敵を明確に区別し、敵はこの世から抹殺するというのが政治の論理なのである。9・11への報復として、オバマ大統領がウサマ・ビンラディンの殺害を、誇らしげに発表するのも、そのためなのである。米軍の特殊部隊が綿密な計画を立てて決行に及んだといわれるが、これによって米国民の愛国心がかきたてられ、ホワイトハウスはそうした群集に取り囲まれているという。そうした暴力の海のただなかにあって、唯一日本だけは惰眠をむさぼってきた。だからこそ、福島第一原発のトラブルの対応にみられるような、情けない事態を招いてしまったのだ。危機的な状況なわけだから、超法規的な処置によって、国民の命を守らなければならないのに、まだまだ大丈夫だというのは、カミカゼが吹くと信じているからだろう。救いがたい楽観主義である。放射能汚染がどんどん進行しているのに、危険な場所から避難させることもできない国家というのは、責任放棄ではなかろうか。大東亜戦争で日本が米国に負けたことで、日本人の多くは、憲法9条があれば平和が到来すると、勝手に思い込んでしまった。その結果、例外状況下での国家の役割を否定することになり、強権を発動することもできず、今の日本はまるっきり無政府状態と同じなのである。
憎まれても言うべきことは言わなくてはならない。福島第一原発から半径20キロ、30キロ以上でも、危険なところは危険なのであり、子供を持つ親ならば、自主的に避難すべきなのである。罪もない者たちにまで犠牲を強いるのは、とんでもない。さらに、体内被曝のことを考えても、食べ物に注意するに越したことはない。風評被害を一掃するというお題目で、出荷停止の野菜を子供に食べさせるなどというのは、まさしく狂気の沙汰だ。嘆かわしいのは、この場に及んでも、このままでは町がなくなってしまうとか、コミュニティが消滅するとかいう感情論が横行していることだ。市町村の首長がその程度の意識では、迷惑するのは住民だ。今考えなくてはならないのは、命を守るためにどうすればよいか、その一点に尽きる。この地を離れたらば生きてはいけないというのは、現実を直視しないから出てくる言葉だ。民主党政権は、すぐにでも帰ってこられるようなことを述べていたが、それは嘘でしかなかった。だからこそ、一時帰宅を認め、必要なものをとって来いというのだ。ジョルジュ・バタイユに「賢者たちの明晰な知恵が、必ずしも民衆の盲目的な知恵よりただしいとは限らない」(「広島のひとたちの物語」)という言葉があるが、首長としての自覚があるならば、直感的に恐れおののく民衆の側に立つべきだろう。偉い科学者は、ほとんどが民主党政権の言いなりで、これっぽっちも責任をとるつもりはないわけだから。
民主党政権と東京電力の見通しのなさが、またまた明らかになった。福島第一原発の収束に向けた動きが頓挫したからだ。海水を使った熱交換器の復旧を断念したというのだから、ガッカリしてしまった。それでは、今後の工程表自体も、変更を余儀なくされるのではなかろうか。連日のように大本営発表をやらかしていたくせには、あっけない幕切れであった。ポンプ類が集中しているタービン建屋に、多量の汚染水が見つかったために、手に負えなかったのが理由のようだ。今後は空冷式の外付け冷却を試みるそうだが、それで本当に局面を打開できるのだろうか。心もとないことこの上ない。できもしないことで、福島県民に期待を持たせるのは、ある種の犯罪ではないだろうか。原発から放射能が漏れ続けているのを阻止できないのだから、残された選択肢は、健康に害が出そうな地域から、人々を避難されることではないか。それもせずに、今になってもまだ、安全だとかいう神経は信じられない。放射性物質による汚染は、福島県内をじわじわと蝕みつつある。福島県は昨日、郡山市の下水処理場の汚泥と溶融スラグから高濃度のセシウムが検出されたと発表した。そこまで深刻になっているのに、手をこまねいているだけのお上を、誰が信用できるだろうか。