菅直人首相の英断とか言って持ち上げられた浜岡原発のことで目くらましにあっているが、ここにきて福島第一原発のことが気になってならない。もしかして、とんでもないことになってはいないか。危惧であればいいのだが、急に浜岡原発のことに話題を振った背景には、福島第一の見通しが立たないこともあるのではないか。2号機の温度が高くなっているのは本当に大丈夫なのだろうか。白い煙も上がっているようだし。それから1号機は今日の午後から放射能物質を外部に放出するようだが、大したことがないのだろうか。また、最近になって放射能の計測器が一般にも出回るようになったせいで、会津でもあちこちの数値が話題になっているが、昨日は会津若松市七日町の建物内で0・18マクロシーベルトだった。そこに24と365をかけ、それを1000で割ると、年間の放射線量は1・5768ミリシーベルトになる。ということは、一年間に浴びてもよいとされる1ミリシーベルトは突破してしまうのである。それでもまだ、福島市や郡山市ほどは深刻ではないが、もう一度何かが起これば、会津だって安全とはいえないのである。人類が未だ経験したことがない放射能汚染にについて、民主党政権は不手際を重ねてきたが、その汚名を挽回するためには、危険な地域に住む人たちを、一日も早く避難させることではなかろうか。反原発のお題目を唱えることではないはずだ。
またぞろサヨクのお出ましとなって、反原発で気勢を上げたようだが、文明に背を向けるというのは、本来であれば保守派の特徴なのである。サヨクというのは未来をバラ色に描いており、原発だって否定しているわけではない。社会主義の国であっても、それを推し進めているのが現状だ。彼らが問題にするのは、それを運営する主体が誰かということなのである。そして紋切り型のプロレタリアートという言葉を持ち出すのだ。文明の恩恵を否定するわけではない。それと真っ向から対立するのが、日本ロマン派の保田與重郎に代表されるような日本の保守派だ。共産主義とアメリカニズムを一挙に打倒しようとしたのは、文明の利器を退けるのが、保田の立場であったからだ。その意味では、功利と打算の産物である原発は、日本人が受け継いできた美意識への謀反である。保田は『戴冠詩人の御一人者』のなかで「日本武尊の悲劇の根本にあるものは、武人の悲劇である。神との同居を失い、神を畏れんとした日の悲劇である」と書いている。ギリシャ神話にもあるように、イカロスは蝋で固めた人口の翼をつくり塔から逃亡したが、あまりにも高く飛び過ぎたために、太陽の熱で翼が溶けて墜落死したのだった。保守派というのは、イカロスと違って、文明に背を向けた者たちを指す言葉なのである。