順調だといわれていた1号機ですら、危機から抜け出していないことが明らかになった。福島第一原発については、NHKを始めとするマスコミの大本営発表に踊らされて、状況が一変したと思っていた国民は、またまた裏切られたのである。福島県民の絶望感は筆舌につくしがたいものがある。ぬけぬけと嘘をついていた枝野幸男官房長官や、最近になってスポークスマン役を果たしている細野豪志首相補佐官がテレビに出てくると、怒鳴りつけたくなる。私は何度も同じことを言い続けてきた。真実を語ってくれれば、福島県民は、うろたえることなく、毅然とした行動をとると。民主党政権は、愚かな国民に真実を言えば、パニックを起こすと考えているようだが、それは偏見でしかない。歴史を紐解くまでもなく、名も無き大衆こそが、死を甘んじて引き受けてきたのであり、それは今も変わらないのだ。失うものが多い政治家や官僚、さらに金持が慌てふためくだけだ。裸で生まれ、裸で死んでゆくの大衆なのである。心残りがあったとしても、それほど動揺はしないのである。ただし、子を持つ親として気にかかるのは、子孫の行く末である。だからこそ、放射能物質による汚染のことが問題になるのだ。子供たちの命を守るためにも、安全だ、安心だというデマゴギーを振り撒いたくせに、最後は逃げようとする民主党を、一刻も早く権力の座から引きずりおろさなければ。
子供たちの命がかかっているのに、それを実施するかどうかは地元に判断させる。そんな無責任な今の政権を、どうして福島県民が支持できよう。文部科学省は昨日、校庭の表土を削って放射線量を低減する方法について福島県に通知した。そういうやり方があることを認めただけで、それをやらせるかどうかという決断は、またまた回避したのである。子供たちが年間20ミリシーベルトの被曝をしても、健康にはさしつかえないと言っているために、整合性がとれなくなるからだ。しかし、福島県もだらしない。責任をとりたくない国を断固として批判すべきだろう。そして、私たちが忘れてならないのは、そこまでしなくては校庭を利用できないという現実である。住民が集団で移動することになれば、コミュニティが崩壊するとか、子供たちだけ疎開させれば、家庭が崩壊するとかの議論があるが、命がなくなれば、元も子もないのである。3月11日以降の福島第一原発事故に対しての福島県民の受け止め方は、当初とは違ってきてはいないだろうか。初めは何とかなるだろうという風潮があったが、徐々に真実が分かってくるにつれて厭戦気分になり、それが今では死なばもろともというような玉砕主義になっている。国の身勝手さのために、福島県民は絶望的になっているのである。