草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

今こそ三島由紀夫の「憲法改正草案」に学ぶべきだ!

2013年08月09日 | 思想家

 三島由紀夫の死は、政治的な死であった。週刊ポストの8月16日・23日号には、三島さんの「憲法改正草案」が掲載されている。目の前に侵略者が迫ってきているのに、憲法擁護だとか口にする人たちは、三島さんが残したその文面を読んでみればいいのである。三島さんが訴えたかったのは、「天皇は国体である」「日本国民は祖国防衛の崇高な権利を有する」の二点であった。国体としての天皇陛下から、軍人たる自衛官は、栄誉の大権を与えられなければならないのである。今になってそれが公開されたのは、三島さんの精神を受け継ぐことが、日本を救うことになると考えたからだろう。悲しいかな三島さんの死は、これまで天才文学者の死として片づけられてきた。しかし、菊と刀が結びつかなければ、日本は滅びるしかない。アメリカとの同盟関係を止めろというのではない。自国の防衛は自国ですべきなのである。今のままでは、自衛隊はアメリカの指揮下にあるのと同じだ。菊と剣が一体になることで、国体を維持するために、自衛隊を名誉ある存在にしなくてはならない。葦津珍彦が『日本の君主制』のなかで「大御心というのは、アメリカ人が理解するような意味での一裕仁命の後天的思想や教養から生じて来る意思なのではない。(略)それは分り易く言えば、日本民族の一般意思とでも言うべきものである。それは万世不易の民族の一般意思である。この民族の一般意思を日本人は神聖不可侵と信じている」と書いているように、それこそが国体なのあり、日本国民であれば、それを守り抜く「崇高な権利を有する」のである。


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数が全ての「水平化」に危機感を抱いていたキルケゴール!

2013年08月09日 | 思想家

 本当の危機と向き合おうとせずに、どうでもいいようなことを話題にする。それが今のマスコミなのである。キルケゴールが『現代の批判』(桝田啓三郎訳)で述べている「調子の狂った時代」という言葉がぴったりする。キルケゴールは1846年にそれを発表していた。マルクスが『共産党宣言』を書いた頃である。日本で言えば江戸時代の弘化2年。孝明天皇が即位された年である。天才思想家というのは、予言者でもあるのだろう。新聞によって人々の妬みが増幅され、水平化が進むことを取り上げ、警鐘を乱打したのだった。「水平化の張本である公衆を、生みだすのである」と断言した。かつて世の中を指導すべき者たちは、脇に追いやられてしまい、数こそが全てとなった。しかも、指導すべき者たちにしても、公衆の前に怖気づいており、「高い身分を隠しておこうとする」のである。この結果「昔の体制は、傑出者たちにおいて具象化されている世代を個人個人のささえとしていたのであるが、それに反して今日の世代は、目立たない人々によって否定的な態度で支持されているひとつの抽象物であって、個人個人にたいして攻撃的な態度で立ち向かう」ことになる。キルケゴールの場合は、それゆえに単独者として神の前に立つことになるのだろうが、私たちに教えてくれるのは、水平化された社会の恐ろしさであり、マスコミがその中心なっているという、まぎれもない事実である。ネットを通じでマスコミに対抗することで、私たちは水平化にノンを言うべきだろう。マスコミに踊らされないためにも。


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