昭和20年8月14日から終戦の日の翌日未明にかけて、会津の空はB29の大編隊が通過した。体験者の多くは新潟空襲だと語っていたが、記録を調べてみると、それは秋田の土崎空襲であった。硫黄島を飛び立った129機のB29は猪苗代湖を目印にして飛来し、それから北を目指したのだろう。一晩中、大編隊が頭の上を通り過ぎたわけだから、多くの会津人の脳裏に刻みこまれたのだった。すでに日本は降伏の意思を表明していたにもかかわらず、我が物顔に振る舞い、わざと低空を飛んで見せた。防空壕に入ることもなく、茫然と空を見上げていたという。その空襲によって約400人の死傷者が出た。当時日本最大であった石油基地をターゲットにしたのだった。二度と日本が立ち上がれないように、破壊の限りをつくしたのである。大東亜戦争が過ちであったと主張する人たちは、アメリカによる原爆投下や差別爆撃をどう考えるのだろう。その上、終戦当日の未明まで及んだのが土崎空襲なのである。その夜は、会津の人たちも一睡もできなかったという。日本が悪かったから、どんな仕打ちをされても、耐えるしかないのだろうか。東京裁判史観は、アメリカの主張ばかりを取り上げ、勝者の敗者への見せしめの場と化してしまった。しかし、それは真実を伝えることにはならない。日本はやむにやまれぬ思いで大東亜戦争に突入したのである。欧米列強の植民地支配からアジアの国々が独立できたのも、日本の犠牲があったからだ。日本の先人を犯罪者扱いにするのではなく、歴史を正しく伝える責任が私たちにはあると思う。
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