草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

反日NHKを糾弾した西田参議院議員を断固支持する!

2013年08月28日 | マスコミ評

 自民党に救いがあるとすれば、西田昌司参議院議員がいることだろう。NHKによるCCTVへの映像の貸し出しを問題にしていたが、ようやく国会議員から声が上がったことは歓迎したい。渋谷のNHKのなかに中共の御用放送局であるCCTVが同居し、あろうことか協力関係にあるというのは、断じて許されるべきではない。国民から受信料をもらっているくせに、反日的なことが行っているわけだから、国民を愚弄するにもほどがある。尖閣諸島をめぐって、中共が侵略の意図を隠していないのに、それに同調するような放送局があるというのは、国が乗り出して当然である。もし中共と日本が武力衝突をしたならば、同じように中共に手渡すのだろうか。西田議員は国会の場で追及することもほのめかしている。NHKは国営放送局に近いにもかかわらず、反日的なことを行えるのは、きちんとした国家観がないからだろう。世界中友達だというお花畑が、覇権国家中共に付け込まれるのである。自民党で西田議員位しか、声を張り上げないのも納得できない。真に日本のことを考えれば、一番重要なことではないだろうか。言論の自由は認めるべきだが、日本を敵視している国家のお先棒を担ぐ必要はないだろう。しかも、CCTVのニュースをNHKのBSでそのまま流したのである。西田議員は、反日の外国勢力の影響下にあるマスコミを鋭く批判してきた。マスコミは第4の権力とも呼ばれており、そこに立ち向かう勇気には敬意を表したい。ネット言論は西田議員に好意的であるが、ここは一緒になってNHKを糾弾すべきだろう。

 

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今求められるのは新自由主義に抗する経済学だ!

2013年08月28日 | 思想家

 経済学の専門家ではない私ではあっても、何が正しいかは見当がつく。宇沢弘文の「社会的共通資本の時代」という文章を読み返して、その主張に共感を覚えた。もう20年も前に日本経済新聞社が出版した『資本主義の未来を問う』のなかに収録されていた。冒頭で資本主義と社会主義の両方を批判し「新しい21世紀の展望を開こうとするとき、もっとも中心的な役割を果たすのが、制度主義の考え方である」と書いている。ジョン・スチュアート・ミルが『経済学原理』のなかで言及した、自由が保障され、人間的尊厳と職業倫理が守られ、安定的調和的な経済発展が可能な経済制度が存在するかどうかの設問に対して、「ソースティ・ヴェブレンのいう制度主義の考え方がもっとも適切にその基本的性格を表している」と断言した。宇沢が強調したかったのは「一つの普遍的な、統一された原理から論理的に演繹されたものではなく、それぞれの国ないしは地域のもつ歴史的、社会的、倫理的、文化的、そして自然的な諸条件が互いに交錯してつくりだされる」との見方だ。とくに宇沢は「さまざまな社会的共通資本と、それぞれの共通資本を管理する社会組織のあり方」にこだわった。社会的共通資本の構成要素は、水や空気などの自然的環境、道路や上下水道などの社会的インフラストラクチュアー、教育、医療、金融などの制度資本である。社会的共通資本は専門家によって運営されるが、官僚的な基準や市場的基準にのみもとづいて行われるのではない。政府の役割は社会的共通資本の管理運営が適切かどうかを監理し、財政上のバランスを保てるようにすることだ。市場原理一辺倒でも、計画経済一辺倒ではない第三の道を私たちは目指すべきなのだろう。新自由主義に抗するためにも。

 

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日本の真の独立のためにも今こそ憲法の改正を!

2013年08月28日 | 思想家

 日本が国家としての国益を主張することに対して、世界は冷たいようだ。68年前の敗戦が今なお尾を引いているのである。国家の根本である憲法をアメリカに委ねたこ時点で、日本は終わっていたのである。安倍政権は、戦後レジームを脱却するどころか、かえってそれを容認する方向に向かいつつある。ここは焦るべきではないだろうが、国民一人ひとりが、真の独立を目指す気概を持たなければ、安倍政権が誕生した意味はなくなってしまう。磯田光一は『戦後史の空間』のなかで、中野重治の『五勺の酒』に言及している。民族主義的な左翼が、日本国憲法の成立に対して、まっとうな感想を抱いていたのである。しかし、その大事な部分はアメリカの検閲によって削除されたのだった。「じっさい憲法でたくさんおことが教えられねばならぬのだ。[あれが議会に出た朝、それとも前の日だったろうか、あの下書きは日本人が書いたものだと連合軍総司令部が発表して新聞に出た。日本の憲法を日本人がつくるのにその下書きは日本人が書いたのだと外国人からわざわざことわって発表してもらわなければならぬほど、なんと恥さらしの自国政府を日本国民が黙認していることだろう。]そしてそれを、なぜ共産主義者がまず感じて、そして国民に、訴えぬだろう」。[]で削除された箇所からは、無念さが伝わってくる。日本人自らの憲法でないことに、中野は悲憤慷慨しているのである。しかし、現在のサヨクにはそれはない。憲法擁護を叫び、押しつけ憲法であることに触れようとしない。私たちの自主憲法制定の思いは、そこからの脱却なのである。現在は退却を余儀なくされているが、一歩でも二歩でも前進しなくては、永遠に日本は属国から抜け出せないのである。

 

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