ナチズムやファシズムと同一視して自民党を攻撃するのは、マスコミが真にそれを理解していないからだ。そんな単純な問題ではないのである。エルンスト・ブロッホの『この時代の遺産』(池田浩士訳)を読めば、ナチズムやファシズムが一筋縄ではいかないのを知るはずだ。私はブロッポを論評するだけの能力を持ち合わせてはいないが、訳者である池田の解説文「遺産・空洞・占拠」が全てを言いつくしている気がしてならない。「ナチズムやファシズム一般を『反動』として、前近代が近代につきつけた挑戦としてとらえるような歴史観は、いまではもはや説得力を失っている。近代の矛盾を前近代の援用によって突破しようとするもの、というようなとらえかたも、やはり同様である。ナチズムやファシズムは、いまでは、その新しさにたいする着目を当然のこととして要求している。とはいえ、ファシズムのこの新しさとは、たとえばそれに先立つ時代の芸術・文化領域の前衛たちを包摂したとか、最先端の科学技術を利用したとかいうことに尽きるものではない。後期資本主義の合理化が現実のあらゆる局面に行きわたるなかで、抑圧され忘却を強要される古い要素を、ナチズムとファシズムは未来に向かう夢として、動員し組織した」。ソ連崩壊が象徴するように、社会主義国家の実験は失敗に帰した。それらに対抗して「抑圧され忘却を強要される古い要素」を救出しようとするのは、並大抵のことではないのである。マルクス主義が無効を宣言された今となっては、一から出直すしかない。日本のマスコミのような単なるレッテル貼りは、本質を見抜くことではなく、かえって混乱をもたらすだけだ。ナチズムやファシズムが到来するとすれば、政治家の発言よりも、私たちの生活レベルでの変化が引き金となるのであり、もっと根深い力が働くのである。
←ナチスについてはもっと本質的な議論をすべきだと思う方はクリックを