草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

世論のまやかしに足をすくわれる知識人を撃つのがネットだ!

2013年08月06日 | 思想家

 毎年8月になると決まってマスコミは「過ちは繰り返しません」の大合唱になる。東京裁判史観を思い起こす場となり、そこから日本人は抜け出せないできた。これに対して、日本のジャーナリズムや知識人の多くは、迎合するだけで反駁しない。西部邁が『知性の構造』で指摘しているように「戦後日本の世論は『平和と民主主義』そして『進歩と人間主義』という互いに関連した二本立てのイデオロギーから片時も離れることはなかった」のである。そのいい加減さには気付いていても、「きわめて頻繁に、世論のきれい事やまやかし話に足をすくわれ」てしまうのである。それに対抗できるのは、西部においては「保守の構え」であった。歴史をくぐり抜けた伝統を重視したのだ。進歩派の知識人は、それがないから大衆迎合的になり、西部の言葉を借りるならば、サヨクの「薄められたイデオロギー」を信奉することになったのである。麻生副総理の発言やオスプレイ、さらには米軍のヘリコプター墜落事件などの報道は、まさしくその典型ではないか。センセーショナルに扱うことで、反論できないようなムードをつくり、テレビにはそれを煽るだけの似非知識人でしか出てこない。西部は知識人によるマスコミへの攻撃を提唱するが、知識人が大衆化しているわけだから、こうなれば「保守の構え」の土民大衆の出番である。ネットの保守派は、それを実践しているのであり、土民大衆に依拠しているからだ。

 

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憲法改正論者を皮肉るために例に挙げたのがナチスだった!

2013年08月06日 | マスコミ評

 レトリックという言葉がある。あくまでも言葉の綾であり、論理とは違う。その場の雰囲気とかが優先されるために、論理的一貫性はない。物議をかもしだしている麻生副総理の発言も、その一つだったのだろう。「誰に向かって話したか」なのである。そこに居合わせた櫻井よしこがその辺のことをようやく口にした。櫻井が理事長を務める国家基本問題研究所の会合に出かけた麻生副総理は、憲法改正を実現するために熱くなっている出席者に向かって、皮肉を述べただけなのである。要約すれば「騒ぎ立てれば立てるほど、反対が出てくるから、反面教師としてナチスのことでも学んだら」と水を差したのである。わざわざ民主主義を持ち出したのも、ナチスを打ち消す意味があったのだろう。それがいつの間にやら、朝日新聞やその他の新聞にかかると、ナチスを容認するかのような物言いに歪曲されてしまったのである。そして、国際社会には、誤ったメッセージとして伝わったのである。その発言については、重箱の隅をつつくかのような議論が横行しているが、「誰に向かって話したか」の視点が抜け落ちていれば、勝手な解釈が生まれかねないのだ。大騒ぎをしたわりには、あっけない幕切れであった。捏造報道のイメージが定着しつつある日本のマスコミは、またまたポカをやらかした。汚点の歴史をもう一つ付け加えることになったのである。

 

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