毎年8月になると決まってマスコミは「過ちは繰り返しません」の大合唱になる。東京裁判史観を思い起こす場となり、そこから日本人は抜け出せないできた。これに対して、日本のジャーナリズムや知識人の多くは、迎合するだけで反駁しない。西部邁が『知性の構造』で指摘しているように「戦後日本の世論は『平和と民主主義』そして『進歩と人間主義』という互いに関連した二本立てのイデオロギーから片時も離れることはなかった」のである。そのいい加減さには気付いていても、「きわめて頻繁に、世論のきれい事やまやかし話に足をすくわれ」てしまうのである。それに対抗できるのは、西部においては「保守の構え」であった。歴史をくぐり抜けた伝統を重視したのだ。進歩派の知識人は、それがないから大衆迎合的になり、西部の言葉を借りるならば、サヨクの「薄められたイデオロギー」を信奉することになったのである。麻生副総理の発言やオスプレイ、さらには米軍のヘリコプター墜落事件などの報道は、まさしくその典型ではないか。センセーショナルに扱うことで、反論できないようなムードをつくり、テレビにはそれを煽るだけの似非知識人でしか出てこない。西部は知識人によるマスコミへの攻撃を提唱するが、知識人が大衆化しているわけだから、こうなれば「保守の構え」の土民大衆の出番である。ネットの保守派は、それを実践しているのであり、土民大衆に依拠しているからだ。
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