:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 貧困について

2008-07-11 12:22:29 | ★ 野尻湖・国際村

 

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日本の貧困について

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(グアム島に自生するブーゲンビリアの茂み)



昨日の晩、クリスマスパーティーを兼ねたある小さなサロンの集まりで、大切な話をしたついでに、今の日本の「貧困」の問題にもちょっと触れました。


その脱線の発端は、その日、青山の会場に向かうべく東海道線の各駅停車に乗ったら、川崎の手前の線路上で突然停止し、車内放送では、人が線路内に立ち入ったためとの説明があったことでした。とっさに、「アッ、また人身事故か」、と思ったのです。その昼は、ドイツ人の彫刻家と、その奥様のきれいな日本人のピアニストとワインを飲みながら、日本の自殺の異常な多さについて話してきたばかりでしたから。カールさん-と、彼はいいますが-は、日本の人口に対して自殺者年間3万人強は、恐らくドイツの3倍以上ではなかろうかと言いました。(その大づかみな彼の感想の正確さを私はまだ検証してはいませんが・・・。)

私は、小泉・竹中の新自由主義経済改革以来、日本の憲法に定められた「人間らしい最低の生活」を保障するセーフネットが、あの頃からほころび始め、その破れ目からこぼれおちていく人がにわかに多くなっているのではないかという持論を持ち出したところ、あとで、いろいろな角度から反論が相次ぎました。私は敢えて弁明しませんでしたが、反論の主たちは、自分の才能と努力でセレブの道を切り開いたエリートたちだという印象を拭えませんでした。

そして、私の心の中では、私の親しい信者さんが、意欲もあり、ささやかな技能もあり、正直に真面目に働いているにもかかわらず、生活が苦しく、結婚も、自分の家を持つことも叶わず、老後の展望も立たない、と言う厳しい日送っているのを見守りながら、祈ること、言葉をかけること、寄り添うこと以上に何もしてあげられないでいるつらさが疼いていました。

私の知るY子さんのような愛すべき魂が、長年契約社員として、そして、名前だけ正社員に昇格した今も、十分な休暇も無く、正当な残業手当も無く、展望の無い日々の生活苦の中で、過重労働に疲れ、体調を崩し、精神を蝕まれて欝になり、それでも心療内科の世話になりながら、使い捨てられていく恐怖に怯えつつも、薬を飲み飲み必死で働いている姿を目の当たりにして、いたたまれない気持ちから、一体何が悪いのか、どうすれば彼女を助けられるのか、という素朴な疑問が生まれたのでした。

いわゆる「小泉改革」などに象徴される、無制約な弱肉強食と経済格差の助長策が、新しい貧困層を生み出し、それを情け容赦なく切り捨てようとしているのに対して、私は怒りすら感じます。日々東京の地下鉄を止めている3万人余りの自殺者達の多くは、いつやってくるかも知れぬ生活の破綻の悪夢に怯えながら、危うい日々を綱渡りしてきた挙句に、ついに行き詰って、孤立無援の中で人生に悲しい決着を付けざるを得なかった人たちではないのでしょうか?

実は、以前にも同じ会でこの点についてもう少し突っ込んで意見を交わしたことがありました。その時のことを思い出しながら再録することをお許しください:


(A)さんが、まず「北九州市で、生活保護を辞退するように追い込まれ、結果として死んで行った人のケースなんかもそうですよね」とフォローしてくれました。(あの事件、まだ覚えておられる方も多いでしょう?)
私には、弱者を省みない資本主義より、マルクスの経済理論のほうが、より進んだ解決策を提起してくれる可能性があるのではないか、と言う、無知から来る素朴な期待もありました。
私なりに、自分の身の丈に合った解決の鍵を見つけているように思ってもいますが、それを提唱する前に、先ず人は一体どう考えているのかを知りたいと思いました。

すると、私の提起した問題のポイントを突く質問がすぐに返ってきました。

(B)さん曰く「あなたは、小泉・竹中の改革それ自体が悪い、間違っていると言いたいのか、それとも、ただ単にその結果生まれた富の再配分がうまく行っていないところが問題だと言うのか、どちらなのかをはっきりさせなければ」と言う鋭い指摘です。
私は、はじめからそのような点を明確に区別して考えていたわけではありませんでしたから、一瞬はたじろぎました。Bさんによれば、経済を成長させ、発展させ、国際競争力を高めるには、小泉改革は有効である、自分は大いに評価し、支持していると言うことのようでした。
私は、ただY子さんのような人が、大企業並みの休暇が与えられ、残業をすれば正当な手当てが支払われ、定年まで働けば、その老後は慎ましい生活が出来るよう福祉で約束されさえすれば、それで良かったのです。

(C)さんは「人生のスタートの段階で安易に流れ、将来のために我慢して努力しなかった人間が、後になってまともな仕事にありつけない、十分な収入が得られない、老後の不安が解消しない、と嘆いても手遅れ、そんなことは自己責任の範囲で解決すべきもの」自業自得で同情の余地なし、と突き放しました。
先の(B)さんは「単に富の再分配の問題なら、累進課税を強化するなり、福祉制度を見直したりすればいいわけだが、再分配の面で手厚い社会主義や共産主義では、誰も経済を成長させ、国際競争力を高めるために意欲を燃やさないだろう。だから、グローバル化した国際社会の中で、飽くなき利潤の追求に走る企業は、資本家は、お金は、税率と福祉負担のより低いところへ逃げて行くから、一国、一地域での社会保障の充実は、必ずしもその地域の貧困の問題の解決には繋がらないだろう」と言います。

(D)さんは「みんなが同じように能力を発揮し、努力をし、自由に競争するとすれば、勝負は最初の出発点でどれだけの資本 (例えば親から受け継ぐ財産、教育、機会等) を持っていたかで決まる。それは、本人の問題以前の要素で、貧困を単に個人の自己責任に帰してしまうことは出来ないだろう」といわれました。

ブログでこの会を知ったパリ在住の(F)夫人は、たまたまの一時帰国を利用して初めて参加されましたが、「文字通りの空中楼閣(集まった会場は東京の都心のデラックスな高層マンション上層階で実に素晴らしい眺望)で、おいしいご馳走の数々とアルコールを頂きつつ、貧困を論じるのには、なんだか後味が悪く空しく感じました」と率直に言われました。

私は、世俗の社会制度がY子さんのような例を救えないのなら、様々な階層のキリスト教信者がランダムに集まって、35人~50人の単位で親密な共同体を作り、各共同体において、みんな自分の所得の十分の一を目処に拠出して、それを必要なメンバー、不足している家族に再分配すれば、その共同体の中ではいわゆるワーキングプアーの問題はたちまち解消すると提唱しました。それは、たとえば、手取り月15万円の派遣社員は1万5000円を、月収300万円の人は30万円を拠出し、以下同様に皆が10%を出しあって創ったプールから、先の派遣社員は、例えば新たに10万円をもらって25万余りで生活する、子供が7人いて住居費や教育費が自分たちの給料で足りなければ、必要額をこのプールから汲み取る、老人を介護しているメンバーにもその中から足りるだけ補助をするといった具合です。
すると(E)夫人から、「神父様がおっしゃった小さな共同体で、それぞれが収入の一割を醵金、再分配ということ。そんなこと、日本で可能とお思いになりますか?出し渋る人が多いだろうし、受け取る側も施しを受ける気がして辞退するとか・・・・アラブ社会、フランスだったらできそうですが」というコメントがありました。
私は、アラブ社会やフランスには、もともと神がいる社会だからやりやすいには違いないが、日本でも、キリスト教の教えを正しく理解し、福音的な回心の道を受け入れた人々の間でなら、不可能ではないと思うし、同じ回心を前提とすれば、受ける側も、それを施しとして恥じることなく、家族的な共同体からの当然な支援として受け止めるしなやかさが期待できると思いました。現に、少数ながらこのような実験は日本でも始まり、機能し始めています。

E夫人は付け加えて、「ご出席の方々は、所詮恵まれた勝者ですもの、死ぬまで決して落ちこぼれることは無いでしょう。けれど、それをわきまえつつ、時々彼らの考えを聞くのは大変興味あるとは思います」といって、パリへ帰っていかれました。
 

* * * * * * *

〔私なりの結論〕

資本主義的無神論も、社会主義的無神論も、共産主義的無神論も、本当の神を否定するからこの世に貧困の無いユートピアを築くことは決して出来ないだろうと思います。なぜなら、そこで君臨する神は、私の言葉で言えば、「マンモンの神」、「お金の神様」、「悪」の力でしかないからです。そこで働く法則は、どんなにうまくカモフラージュしても、結局は「貪欲」と他者を踏みつけて省みない「利己主義」です。

ローマ皇帝を神とし、その圧制をローマ軍の暴力装置で維持し、反抗する分子には十字架の恐怖で臨んだ2000年前の地中海世界で見られた奴隷制社会と、今の社会とは、基本構造においてそれほど変わっていないように思います。救いの見えない状態にあえぐ多数の貧困者を生み出しそれを切り捨てていく社会では、現状を根本的に変えるだけの力は、内部からは決して湧いてこないでしょう。

しかし、「隣人を自分のように愛すること」を学んだキリスト教徒の共同体の内部でならば、この世において貧しい人のいない社会を実現することはなんとか出来そうに思われます。その意味で、実践的キリスト教は、決して現実逃避の「阿片」ではなく、実効性のある貧困問題の解決策でもあると思うのです。

とは言え、現実のキリスト教会は、その理想からはあまりにもかけ離れては居ないでしょうか。いま日本のカトリックの教会に熱心に通っている現役の信者さんや教会指導者の聖職者たちにこの話をしても、先のパリからのご夫人のように、日本のカトリック教会の中ではそんな夢みたいな話、先ず無理でしょうね、と軽くいなされるのが落ちかもしれません。

しかし、ナザレのイエスは、回心して彼の福音を信じるように我々を招いています。もちろん、先ず私から始めなければならないでしょう。その上で、それに共鳴する人が続くなら、小さな福音的共同体の形成は可能かもしれません。そこでは、食べられない貧しい人、打ち捨てられた老人はいないはずです。

そうした、キリスト教的ミニ共同体が、細胞が分裂して増殖するように増えていくならば、多くの貧しい人が救いを求めてそこに集まってくるかもしれません。キリストから300年の間の初代教会も、実はそのようなものとして広がっていったのでした。

お金の神様に身も心も売り渡し、「マンモン」の奴隷としてこの世の栄華を誇る強者たちの目には、そのような集団の出現は、社会の秩序を覆す恐ろしい癌細胞のように映るかもしれません。だから、彼らからの迫害もあるでしょう。初代教会がまさにそのような状況にありました。キリスト教は、今また、そのような姿に帰るべき時だと思います。

上のような実験に参加している日本人のカトリック信者は、まだせいぜい数百人か、多くてもまだ1000人には達していないでしょう。しかし、世界10億のカトリック人口の中では100万人をはるかに越えているのではないかと思います。

60億の中の100万人は大海の中の一滴にしかすぎないかもしれません。しかし、私が近い将来テーマとして取り上げようと考えているアメリカのアーミッシュは全部集めても19万人ほどで、それでいて世界のキリスト教に強いインパクトを与えているのですから、それに比べれば決して小さい集団ではありません。

《 つづく 》

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★ 回教徒、ついに世界一? (その-2)

2008-07-07 12:20:50 | ★ 野尻湖・国際村

 

 

★ 回教徒、ついに世界一? (その2)

 

         = 若干の補足 =


 

ベトレヘムのキリストの降誕の教会の中庭で輪になって踊る共同体の若者達

 

気が付いたら 回教徒、ついに世界一? (その1)  は、大分前にアップしていました。そこでは、世界の人口に占める回教徒の数は、ずっとトップを走ってきたカトリックを追いぬいて世界1になったという話でした(どちらも9億人台ではあるが)。その単純な原因の一つは、カトリック教徒の一家庭あたりの数(ヨーロッパでは1.3)に対し回教徒の一家庭当たりの子供の数は3とか、4とか、それ以上とか(国、地域によるが)、とにかく2を遥かに上回っている現実が続いたことから来ています。それで、ここに若干の補足をしたいと思いました。
 
「アーミッシュ」 (この言葉は説明を要しますね、後でいたします) の場合と同様、カトリック教会の中の「求道共同体の道」 (これも説明が必要ですが、今はそのまま読み飛ばして下さい) の場合も、7の70倍赦し、敵を愛し、悪に逆らわないように、と言う福音的な理想に日々チャレンジしています。そして、そのチャレンジを通して、人間的にはそれが実現不可能なほど高い理想であることを、イヤと言うほど身に沁みて思い知るのです。

しかし、それと同時に、たとえ人間的には不可能なことでも、神の霊の助けによって、奇跡的にその不可能が可能になる、と言う信仰を、体験を通して、事実によって、着実に皮膚感覚で体得していくのです。

その結果、例えば、二人目の子供の誕生後間もなく、夫婦のいずれかの不倫や、金銭的問題からのいさかいや、育児教育の考え方の相違など、様々な動機と理由で不仲になり、猜疑や、嫉妬や、憎悪で早々と寝室を別にし、意味のある会話が失われて家庭内離婚状態となっていた夫婦が、民法上の離婚手続きに終わろうとする寸前に、たまたま「新求道共同体の道」に出会い、信仰を通して和解に導かれ、再び寝床をともにして愛し合い、何年ものブランクの後、また次々と子供に恵まれ、温かい愛に包まれた大家族に変貌して行くというような、現代の奇跡が相次いで起こっているのです。(信仰によらなければ、このような奇跡は現実にあり得ないでしょう!)

あるいはまた、初心を忘れ、倦怠と召命感の喪失で、生きる意味を見失った神父が、辞めて結婚に踏み切ろうとした矢先に、この共同体にめぐり合い、回心して気を取り直し、熱烈な宣教者、信仰の証し人に変わっていった司祭の例を、私は実際に目の当たりにしています。これなども現代の奇跡に数えていいと私は思っています。そもそも、私自身が、長い放蕩生活の末に、いまこうして司祭として生きているのも、私にとっては小さな、しかし確かな奇跡なのです。

そういう意味で、2000年前のキリストの時代と同じように、現代においてもキリストは目に見える奇跡をあちこちで行っているといえるでしょう。

  そういう奇跡を体験した人たちで形成された共同体では、一家庭あたりの平均の子供の数が回教圏の平均をも上回っているとしても何の不思議もありません。

信仰の証は、決して世界人口に占める信者の数で量れるものではありません。現に、たった16万人アーミッシュの沈黙の証言は強烈です。2001年にペンシルヴァニアで起きたアーミッシュの学校での児童に対する銃乱射事件の後にアーミッシュの共同体が示した赦しの精神は、世界中のキリスト教徒に衝撃を与えました。世界の新求道共同体100万人の存在も、9億のカトリックの中で大きな証しとなっています。

敵を赦すだけではなく、敵を愛する宗教。正当防衛と報復の権利を進んで自由に放棄する宗教。悪に逆らわず、裁きを神に委ねて、悪を前にして判断を停止する宗教。カトリック9億の中に、そのような福音の理想を体現するほんの一握りのグループがいるだけで、その存在意義は大きいと言えるのではないでしょうか?

  どんなに小さくとも、そのようなグループが現実に存在するなら、それこそ「時の印」、「地の塩」、「世の光」と言えるのではないでしょうか。

(近いうちに 「アーミッシュ」 について連載を考えています。)

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★ サンクゼール = 四つ葉のクローバー物語

2008-06-28 19:59:55 | ★ 野尻湖・国際村

2008-06-28 06:42:56



サンクゼールの庭の其処ここに、このような札が立っている

四つ葉のクローバー物語


野尻湖国際村113番のキャビンから車で約25分の丘の上に、突然、おや?ここ日本??と目を疑わせるような眺望の洒落たレストランがあります。その名を『サンクゼール』といいます。なんとなくフランス語っぽい耳ざわりの単語ですが、仏和辞典には出てきません。ン?と思って語源を探ると、大爆笑!
なんと、このレストラン、いや、広大なブドウ畑と、リンゴ園と、ワイナリーとジャム工場と、・・・の持ち主のお名前を「久世さん」と申します。、ひっくり返すと「さん・久世」、サンクゼ、『サンクゼール』となるわけです、ね!ナーンダ!ブリジストンタイヤの社長が石橋さん、の手合いですね。日本的駄洒落といってしまえばそれまでですが・・・・
いたるところ花だらけのこのワイナリー、其処ここに小さな札が立っていて、どれにも聖書の一句がしるされています。久世さんの奥さんが牧師さんで、従業員もキリスト教的な雰囲気の中で働いています。
林檎の木の下の足元はびっしり敷きつめたようにクローバーが生えています。よく見ると、・・・あった!四つ葉のクローバーだ。



実は私、小さな子供の頃から、男の子のくせに野の花が大好き、四つ葉のクローバーを見つける天才少年でした。



今でも、野原でしゃがんで、いや、立ったままでも、四葉を探して、5分もすると指には必ず3本ー5本の四つ葉がたまります。時間があれば、時には15本、20本と集めてしまうこともあります。その秘訣は?もちろん、秘密です。・・・ですが、今日は特別、その秘密の種明かしをいたしましょう。
先ず第一は、信仰です。この際、プロテスタント、カトリックの違いは問題になりません。神様は、天地万物の創造の初めから、クローバーの葉の中に、或る確率で、四つ葉、五つ葉、六つ葉(七つ葉はまだ見たことが無い)をばら撒くという遊びをなさったようです。それは、「僕のような少年を楽しませるためでした」、と固く信じる信仰です。この信仰無しに、誰も見つけることは出来ません。
私は、いい年配の上品なご婦人で、「神父さまーぁ!四つ葉のクローバーって、本当にあるんですかーぁ?わたくし、生まれてこの方、いちども見つけたことありませんことよーぉ!という悲しいことばを吐く人に出会ったことが少なくない。なんと、嘆かわしい!
神の恵みを疑う人、信じない人、だからそれを受けることを望まない人には、陽の光、優しい雨のように降り注ぐ恵みも、その心にしみ透ることは無いのです。
私は、告解(懺悔、告白とも言う)に来る小さな子供に、「あなたが創られた唯一の目的は、聖人になることです。神様は、あなたを聖人になるように招いています。あなたも望めばきっとなれますよ!それを信じますか?」といいます。「はい!」と明るく答えた子供の誰かが、いつかきっと聖人になるとわたしも確信しています。たとえ列聖式がサンピエトロ広場で晴れがましく行われなくても・・・・。そのお祝いの日が、復活の日までお預けになっても。ビバ、セイント・アノニマス!!
縁あって出会って、明るく「ハイ!」と答えてくれた何十人、二、三百人の子供たちの誰かが、いつかきっとその夢を叶えてくれる、と信じる能天気な信仰。それは、この足元に必ず四つ葉が隠れている、と言う信仰に通じるものがあります。ひょっとして私も、中学時代のクノール神父様、ブラウン神父様にそのお目出たい信仰を刷り込まれた一人なのかもしれませんね。
聖人だって?フン!と鼻で笑った少年は、絶対100%聖人にならないだろう。たとえ、彼の方が、塾で、部活で、東大お受験で、成功者、強者の道を歩んだとしても、であります。
私なんぞ、と謙遜したご夫人も絶対にならないだろう。自分で招待券を破って捨てたのだから。宝くじだって、せっかくもらったのなら、当選発表日まで破り捨てずに持っていたほうがいい。万に一つも、と言うことがあるかもしれないのだから。



さーて、話を進めて、手品の秘密、種明かしに入りましょう。
まず、既成概念を捨て去ることです。これは、人生のあらゆる場面で有効な重大な教訓です!
クローバーの葉は何枚?ハーイ、先生、三枚でーす!三枚の葉のそれぞれの間の角度は? 360度割る3だから・・・、120度でーす! ハイ、よく出来ました。それでは、皆さんの目の中の角度を120度から90度にセットしなおしてください。そう、その通り!角度をぎゅ-っと絞って、十文字。ちょうど、狙撃ライフルのスコープを覘いたときのように、視野に十文字の線が入るように。
これで準備は完了!これから足元の緑のじゅうたんをこのスコープで高速スキャンします。漫然と広い範囲を眺めるのではなく、一本一本の葉を一つづつ、ガキッと90度に角度をあわせたスコープを、必ずここにあるという確固たる信仰の心の目で覗き込み、すばやくアナログテレビの走査線のように足元をスキャンしていく。するとアラ不思議!三つ葉の120度の葉は目にただの緑の絨毯なのに、その中に90度の四つ葉だけが金色に光っているではありませんか。そこへ手を伸べて摘みとってみると、・・・ほーら、四つ葉だったでしょう?
えっ?! 違う? そんな! アッ、本当だ! これって、ひょっとして五つ葉じゃないの?



手にとって見ると確かに五つ葉でした! 感激ですね!
さあ、あなたもやってみませんか?信じる者は幸いなり!です。私は、もう何人もの四つ葉探しの天才を育てましたよ(笑)



この日の収穫は、結局10本ほどでした。



信じる者は、幸いなるかな!

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★ 爆弾宣言

2008-06-04 03:53:22 | ★ 野尻湖・国際村

2008-06-04 00:25:23



爆弾宣言
 司教総会初日のバチカン大使の発言に唖然。カトリック新聞の一面トップを飾った高松神学校問題。今後一切の言動まかりならん。バチカンからのきついお達し。 一体何があったのか。
 神学校の問題と運動そのものの問題とはまったく別の問題なのに。同じ信仰の世界とは言え、なんだか悲しくなった。共存共栄こそカトリックなのに。
(中略)
 これも日本司教団にはきっと意味のあることに違いない。とは言え、明日の会議は荒れそう。


これ誰の文章だと思います?
鹿児島教区の郡山司教の6月2日のブログからの抜粋です。全文は:
http://sdemo.net/pken/Blog/72065f3e5ba38a00
で閲覧できますよ!(6月10日のマリアさんのコメントによれば、上のブログの該当するページは、その後削除されたそうです。自由な言論を封じる圧力に屈したのでしょうか。それにしてもよかった。一瞬でも真実の光が外に漏れた。聖霊に感謝!)


 一昨日、3年ぶりに司教館に帰着して最初に直面した現実は、高松司教の教区内のすべての聖職者、修道者、信徒に当てた、たった4行と3文字の短い手紙だった。日付は5月31日。内容は、5月29日付で出した、『高松教区立国際宣教神学院閉鎖の件について』の司教書簡に関する一切の公表を停止し、文書は、すべて焼却破棄すること、を求めるものだった。
 現実には、司教の求めとは裏腹に、同書簡は私の知る限りでも、2日の時点で、司教館周辺の複数の人がそのコピーを焼却せずに所持しており、着いたばかりの私にもその内容を垣間見ることが可能であった。
 時系列から言えば、焼却破棄の依頼の手紙は、司教協議会初日のバチカン大使の爆弾発言よりも先であるが、そこに何らかの因果関係が臭う。
 全て焼却破棄してくださいという司教の文字は空しく、うがったものの見方をする人は、司教は最後のぎりぎりの時点で、あの文書の発送を指示し、二日後に焼却破棄依頼の文書をかぶせることを通じて、自分の執念の構図を確実に永久に歴史に止めることを意図した、と考えている。私は単純な人間だから、司教にとって何か予想外の事態が司教総会前日に発生し、慌ててもみ消しにかかったとみる方が自然に思える。もちろん、真実は永久に闇の中である。いずれにしても、司教は5月29日以前にも、神学校を6月30日付で閉鎖する決定に関して、複数のチャンネルで周知しており、私も直接書いた形で知らされていた。そして、それに関しては、特に公表禁止命令は今もって付されていない。
 それにしても、郡山鹿児島司教のブログの中の一言、「明日(3日)の会議は荒れそう」が気になるところだ。
 念のために、3日付けの郡山司教のブログを開いてみたが、会議の内容には一言も触れられていなかった。また、何も書かないように圧力がかかったのかもしれないが・・・。あるいは、余りひどくて書き様がなかったか?

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★ 無事帰還

2008-06-03 03:45:09 | ★ 野尻湖・国際村

2008-06-03 02:50:36


 写真も何もないまま、緊急報告します。
 昨日、3年間の追放生活に終止符を打ち、高松司教館に無事帰還を果たしました。
 懐かしいですね、やはり。前の司教様の頃と、何も変わっていないと言えばいないし、しかし、前よりきれいになったことも否めません。教区には前よりもお金があるな、と感じました。
 一昨日、当分帰ることはないかもしれないと思い、念入りに戸締りをし、司教様の言うとおり必要最小限に止めた荷物も、長期に亘るかもしれない新生活に備えてとなると、両手で持ってJR持ち込める範囲には収まらなかったので、普段は、山荘の上の広場に駐めてある車をま近かまで持ってきて、積み込みを終えていざ出発。ところがどっこい、濡れた落葉にスリップして、100メートルの細い急な上り坂で立ち往生。大汗かいて、悪戦苦闘の末、やっと公道まで出すのに、2時間もかかってしまいました。やっぱり四輪駆動でなきゃ駄目だな!
 一旦、日本海に出て、親知らず、糸魚川、富山、金沢を経て一路高松へ。しかし、陽も傾くと、70近い老人のことでもあり、夜間の長距離運転は無理と判断。彦根で高速を下り、ビジネスホテルに泊まりました。
 次の朝、宿のフロントから司教館に、「今日の夕食までに着くから食事をお願い」といというファックスを入れ、一路高松に向けて発進。すると、京都の手前で携帯が鳴って、今日ではなく、あと10日ほど後に来るように、との指示でした。
 「そんなことなら、野尻を出発する前に言ってもらわなければ・・・。ひと晩がかりでもう目と鼻の先まで来ている人間に、いまさら野尻に帰って10日後に出直して来いとはご挨拶な、それが3年ぶりに帰ってくる人間への言葉か?」と言うと、「私ではなく、司教様が・・・」と歯切れが悪い。結局、司教様は出張で不在だが、とにかく会って話しましょうということで、一応何とかその場は治まった。
 夕食のテーブルでは、十数年ぶりに会ったK神父様と話が弾んだ。食後は、早速、教区事務局のお友達から「焼き鳥でイッパイ!」のお誘いがあった。午前様まで気持ちよく呑んだ。一夜明けての第一印象は、「司教館の空気は悪くないな!」だった。
 さあ、ここでしっかり働こう!
 

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★ 戸隠の森に想う

2008-05-27 03:36:53 | ★ 野尻湖・国際村

2008-05-29 07:58:39



 
最近の私のブログ、週に一度も更新しないことが多いにもかかわらず、毎日、私にしては驚くべき数のアクセス。一体誰が?と思うと不気味。
 私の生活にも変化が訪れるのかな?と言う予感がしています。そのことはこのブログの最後に書きましょう。
 心の洗濯のために、戸隠の山を見に行きました。


午後の逆光の戸隠。戸隠神社奥社の駐車場。ここからの岩屏風のような眺めがわたしは好きだ。


一歩森に踏み込むと一面の水芭蕉。


足元にはカタクリ?の花。


この黄色い可憐な花の名は・・・?ええと、キンポウゲ??違う、リュウキンカですって!(有難う!)



足元の清らかな流れは木々を映して・ ・ ・ ・ ・



やっぱり水芭蕉は水の中がいいね !ちょっと尾瀬を思い出す。


目の高さには柔らかな木の葉が・・・・


こずえには元気な野鳥が。可愛い嘴は、くわえた大きなエサで隠れている(ちょっと残念!) 一瞬の出来事。シャッターの微かな音が消える前に、ブルブルッと羽音を残してもう姿は無かった。



 さて、野尻湖の国際村に流されて、早くも2年の時が流れました。ローマに流されていた1年を加えると、3年間の司教命令による教区外居住。正直、つらいことが多かった。
 55歳になってやっと司祭になり、その後も神学の教授資格を取るためにローマで学生神父をして、帰ってからは高松の神学校の建設に情熱を燃やした。ウオールストリートで、ロンドンのシティーで、霞ヶ関で、国際インヴェストメントバンカー時代と変わらぬ活動の場がそこにあった。充実した日々だった。
 深堀司教様が引退されると、新しい司教様が着任された。今にして思えば、それが神学校解体の始まりだった。私は創造の喜びを味わった。解体作業を身体を張って阻止するであろう私の存在は、邪魔者であった。3年間、手も足も出ないところに置かれた。孤独、疎外感、冬の厳しい寒さ、慣れない自炊など生活の不如意なことの数々、経済的窮乏・・・・祈りと共にそれらを犠牲として捧げることだけが、神学校を救い、お金の神様の奴隷たち、世俗主義の闇にうごめく1億2700万の日本人の魂に、キリストの福音を告げる希望の火を消さぬための、わたしの武器だった。
 最近、6月末には解体作業完了の発表をすると、司教様からのメールがあった。彼には、オメデトウと言うべきか?
 バンザーイ!これで、私の教区外生活の必要性は終わった、と喜ぶべきか。
 私は復活を信じる。神学校は不滅だと信じる。どのようにして?それは聖霊がご存知のこと。
 神学校をつくり、福音宣教の情熱に燃えた若い神父たちを世に送り出す、創造の喜びは大きかった。
 だが、破壊の負のエネルギーの巨大さ、その有能さには目を見張った。それも別の大きな喜び、快感だったのだろうか?
 日本の司教団は、彼を支えた。
 ローマは、そして特にベネディクト16世は、わたしたちの拠り所だ。

 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとするものは、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕えるものがいれば、父はその人を大切にしてくださる。
(ヨハネによる福音書12章24-26節)


 なんという慰めに満ちたみ言葉だろう。死ぬまで従順を身上として生きていこう。
 戸隠のマイナスイオンの澄んだ空気のように、わたしの心も澄み渡っている。
 そうだ、高松に帰ろう。そこがわたしの司祭としての召命を受けた原点なのだから。

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★ カトリック教会内のこの温度差: 《バチカン》 vs 《東京》

2008-05-23 02:43:18 | ★ 野尻湖・国際村

2008-05-22 07:11:57

この温度差! 2008年5月18日発行の
「ヴァチカン機関紙」と「カトリック新聞」
( “L’OSSERVATORE ROMANO” vs “THE CATHOLIC WEEKLY” )
新求道共同体の「規約」は5年前に前教皇ヨハネ・パウロ二世によって既に5年間の期限付きで承認されていた。現教皇ベネディクト16世はそれを恒久的に承認する。



この温度差! 2008年5月18日発行の:
      「ヴァチカン機関紙」 と 「カトリック新聞」
( “L’OSSERVATORE ROMANO” vs “THE CATHOLIC WEEKLY” )  
 
  《 「混乱と分裂に解決を」 4司教、教皇に現状訴える 》
                   vs
 教皇様 《 運動体に対応する際に求められる賢明さと忍耐 》


 この日のカトリック新聞(日本カトリック司教団の機関紙)の一面右半分を占めるトップ記事の見出しを活字の大きい順に拾うと、

 「混乱と分裂に解決を」   
  「4司教、教皇に現状訴える」

  ●「20年越しの課題」高松教区立国際宣教神学院
  ●「道」の規約は未承認
  ● 神学院問題が解決しない限り
  ● あなたの忍耐と苦労に感謝しています
  
 まるでそれに答えるかのように、同日付のオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙(ヴァチカンの官報)は、教皇ベネディクト16世の司教たちへの訓話として、以下のような文章を発表した。その全文を訳したので、読んでいただきたい。そうすれば、ローマと東京の間にどれほど大きな落差、温度差があるかが一目瞭然になるだろう。

             * * * * * *

信徒省主催の司教たちのための学習セミナー参加者に宛てた

   ベネディクト16世の訓話

   諸運動体に対応する際に求められる
           賢明さと忍耐

 司教達は、賢明さと忍耐をもって、様々な運動ならびに新しい共同体に対応しなければならない:パパ様は、5月17日土曜日、コンチストロの間での謁見に招かれた信徒省主催の学習セミナー参加者に対して、そう言われた。

枢機卿方、
 司教職、並びに司祭職における敬愛する兄弟のみなさん、
 親愛なる兄弟と姉妹たち!
 信徒省主催で、教会内の様々な運動ならびに新しい共同体に対する司牧的対応について反省するために開かれた司教セミナーに際して、貴方たちにお会いできるのは私の大きな喜びです。世界中から参加された大勢の司教様に感謝します。おかげさまで、セミナーは成功裏にその最終日を迎えることになりました。司教職における兄弟の皆さんと全ての出席者、とりわけ、信徒省の長官スタニスラオ・リルコ枢機卿と秘書のモンセニョール・ヨゼフ・クレメンス、並びにその協力者たちに、心からの一致と平和の挨拶を送ります。
 信徒省が信徒の諸運動に関する司教セミナーを催すのは、今回が初めてではありません。1999年のそうした催しのことを私はよく覚えています。それは、その前年の5月30日に、私の敬愛する前任者ヨハネ・パウロ二世が開いた様々な運動と新しい共同体との出会いに続くものでした。当時、私は教理省の長官として、その討議に深く関与し、たくさんの重要な点について司教たちと率直で兄弟的な直接対話を確立しました。また、今回のセミナーは、ある意味において、私自身が2006年6月3日に開いた100以上の信徒集団に属する信徒たちとの会合を継続するものでもありました。そのような機会に、様々な運動と新しい共同体の経験の中に「キリストとその花嫁である教会の美しさの輝かしい印」が明らかになりました(2006年5月22日のメッセージ参照)。私は「様々な運動に属する親愛なる友人達」に対し、それらの運動が、キリストによって啓示され、使徒たちが証しし、その弟子たちの大家族を通して私たちに伝えられた真理と愛に生きることを学ぶ「一致の学校、歩みの伴侶」としてますます発展するよう励ましました。(同上)
 教会の様々な運動と新しい共同体は、第二ヴァチカン公会議を現実化するために教会の中で聖霊によって鼓舞された最も大切な新しい事象であります。それらは、公会議直後、特に熱烈な約束に満ちた数年間、に生まれ広まりましたが、それはまた、最初から多くの苦難と試練の印をも伴っていました。パウロ六世もヨハネ・パウロ二世も、様々の斬新な形で活気と信仰と希望を全教会に再び与えてくれたこれらの信徒の新しい現実のほとばしりを受け入れ、識別し、励まし、擁護することに努めてきました。事実、当時すでに彼らは、これらの運動が喜びにあふれ、信仰の道理にかない、キリスト者であることの美しさに輝いていることに関して証言し、それらが教会そのものである交わりの神秘に帰属していることへの感謝の気持ちを表していました。私達は、気付かされ生きられたキリストとの出会いの貴重な体験を、全ての人と分かち合いたいという願いに突き動かされた彼らの力強い宣教の情熱の目覚めを目の当たりにし、それが真理と幸福への人間の心の深い渇きに対する唯一の真実な答えであることに気付かされました。
 その際、神のご計画と今の時代の状況下における教会のミッションの観点から、このような新しい現実をどうすれば適切に包み込んでいくことが出来るかという問題が、未解決のまま残されていることを、見過ごしてよいものでしょうか。まさにそのために、多くの部分教会において、対話と協力が始められ、絶えずそれを深めていく過程で、司教たちの側からの数多くの指導や方向付けが相次いでいるのです。少なからぬ偏見や抵抗や緊張がすでに克服されました。しかし、全てのカリスマが、それぞれの特性を十分に尊重されて、最大限に、また自由に、キリストの唯一の体の建設に貢献できるようになるためには、教会の全ての構成要素とのより成熟した一致が促進されなければならないという重要な課題がまだ残されています。
 アドリミナの訪問に際して、ドイツの司教たちのグループに私が宛てた勧告が、このセミナーの指針として選ばれたことを、私は大変高く評価しています。もちろん、今日は、たくさんの部分教会の牧者であるあなたたちにも、それをあらためて披露したいと思います。それは、「深い愛をもってそれらの運動に対処して下さるようあなた方にお願いいたします」というものです(2006年11月18日)。それに何も付け加えて言う必要は無いでしょう!愛はよい牧者を識別する印です。愛こそが、私たちに託された責務の信頼に足る効果的な遂行を可能にしてくれるのです。様々な運動と新しい共同体にたくさんの愛をもって向き合うことが、表面的な印象や偏見無しに彼らのありのままの姿を理解する上で不可欠です。それはまた、教会内の運動や新しい共同体が、新たな問題の種や、ただでさえ重い我々の職務にのしかかるさらなるリスクではないことを理解するのを助けてくれるでしょう。そんな心配はありません!かえって、彼らこそ主からの贈り物、キリスト教共同体全体を新しいカリスマによってより豊かにするための貴重な資源なのです。それゆえ、彼らに活動の場所を与える信頼に満ちた歓待に欠けるところが無いように、そして部分教会の生活に対する彼らの貢献を正しく評価するようにしてください。また、個別の問題に関する困難や無理解が排他的な態度を正当化することの無いように。「たくさんの愛」は賢明さと忍耐を鼓吹するでしょう。かれらの宣教的情熱、キリスト教的養成の効果的な道、教会に対する忠誠と従順の証し、貧しい人々の必要に対する感受性、召命の豊かさなど、われわれが知って評価することを学んだたくさんの賜物を、彼らが惜しみなく用いて、秩序正しく実り豊かな形で、全体の利益のために奉仕することが出来るように、真心のこもった賢明な方法で、様々な運動や新しい共同体に対して父性的配慮をもって密接に寄り添うことが、我々牧者に求められています。
 新しい諸カリスマが本物であることは、教会の権威の識別に常に自らをゆだねようとする彼らの恭順な態度によって実証されています。既に、多くの教会内運動と新しい共同体が、聖座の認知を受けています。したがって、彼らが全ての教会のための神からの賜物であると見なされることに関しては、疑いを差し挟む余地はありません。まだ誕生の過程にある他のものは、部分教会の牧者によってよりデリケートに、注意深く見守られる必要があります。しかし、識別と指導の奉仕に召されたものは、そのカリスマの上に横暴に立ち振舞ってはなりません。むしろ、聖霊が唯一のキリストの体の建設と拡張に協力するために多様性を生かそうと望んでいるときに、それを画一化してしまおうとする誘惑と戦いながら、それらを窒息させてしまう危険を冒さないように気をつけなければなりません(1テサロニケ5:19-21参照)。聖別され神の霊に助けられ、教会の頭であるキリストのうちにあって、司教は、良いもの、真実なもの、美しいもの、個々人と共同体の聖性の増大に資するものを認め評価するために、カリスマを吟味し、試さなければなりません。矯正のための介入が必要になった場合も、それが「たくさんの愛」の現われとなりますように。様々な運動と新しい共同体は、独自の集会の自由と彼らのカリスマへの忠誠を大切にしますが、同時に彼らは、その忠誠と自由が、ペトロの後継者に結ばれた司教達によって管理され、保護され、導かれている教会との一致によって、制限されることなく保障されるものであることを十分に承知していることをはっきりと示しています。
 司教職における親愛なる兄弟の皆さん、この会議の終わりに際して、叙階のときに受けた恵みが、皆さんの内にあって活力を取り戻すように勧めます(2テモテ1:6参照)。全ての人のために教会の中で神の霊ご自身が引き起こされた驚くべきことがらを私たちがよく理解し、大切に護ることが出来るよう、私たちを助けてくださいますように。使徒たちの女王である至聖なるマリア様に、あなたたちの一つ一つの教区を委ね、あなたたちに心からの愛に満ちた使徒的祝福を与えます。この祝福は、司祭たち、修道士たち、修道女たち、神学生たち、カテキスタたち、全ての信徒たち、特に、今日あなたたちの心に委ねられた教会の様々の運動と新しい共同体のメンバーにも及びます。
 

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★ ロールシャッハテスト

2008-03-09 12:19:58 | ★ 野尻湖・国際村

2008-03-09 12:28:14

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ロールシャッハテスト -ちょっとおふざけー

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これ何の写真だかお分かりですか?
何も写っていないって?
いいえ、写っていますとも!もう一度よーく瞳を凝らして見てください。
これは、私が昨日歩いた足跡です。夜中に降った軽い雪をかぶって少しボヤケてますが何とか形は残っています。右上から左下方向に歩いた私の四足が写っています。私は野尻湖ではウサギに変身しています。左利きです。一番右上が私の左手、その次が右手です。跳び箱を飛ぶ要領で先に前足を着きます。そしてひょいとばかりに跳んで後足がそろって、前足のついた場所より前に着地します。

次は、ロールシャッハテストです。
この写真何に見えますか?深く考えずに第一印象ですぐ答えてください。



とんがり帽子のピエロですって?
いい線行ってますね!あなたは想像力が豊かすぎますから、一度カウンセラーとご相談下さい。(笑)



この写真を90度回転すると、こうなります。野尻湖の冬景色です。

風の無い日、対岸の景色が湖面に逆さに映ります。



紅葉の頃もいいですが、私は冬のが一番好きです。

次は弁天島です。赤い鳥居が左端にちょっと見えます。



逆さ斑尾山



この足跡の動物、まだ確認できていません。

ウサギのほか、リス、いたち、てん、狸、狐などがこのあたりをうろうろしているそうです。



ついでにもう一枚。

 

《 終わり 》

コメント (4)
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★ 悪の根源」 について -「エゾ鹿」 と 「ウサギ」 の哲学的・神学的対話-その20

2008-03-02 07:10:14 | ★ 野尻湖・国際村

2008-03-02 07:10:14



   (これ、昨日1日にリリーズしたんですけど・・・、2月27日付けになってました・・・)
〔エゾ鹿〕 たしか、このシリーズの前回の最後は「天地万物をご自分のあふれる創造的愛で無から存在界に呼び出した神が、被造物に対して何が善いことで、何が悪いことかを・・・・」と言う言葉で終わっていたと思う。
 その終わり方が「・・・・」だったのは、時間切れで筆が止まったとか言うような、そんな簡単な理由ではなかった。それは、実に悩ましい「・・・・」で、容易に話を先に進めることを許さない、大きな壁のようなものと言ったらいいだろうか。
 そして、さんざん考えた末、残念ながらその壁はキリスト教的な神の概念を持ち出さないと越えられそうに無いように思えてきたということさ。
〔ウサギ〕 ちょっと待ったー!それって、インチキじゃないですか?だって、そもそもエゾ鹿さんは、この「悪の根源談義」を、出来る限り普通の言葉で、つまり、あなたが国際金融マンをやっていて、まだ教会の門をくぐる前の時代の言語を使って、あの頃あなたのまわりにいた普通の人たち、つまり神など信じないエリートビジネスマンたちにも分かる言語で説明し切りたいという、かなり思い上がった野心から始めたはずではなかったですか?
〔エゾ鹿〕 参ったな!それはそうだよ!全く痛いところを衝いてきますね、ウサギさんは!
確かに、キリスト教の神を受け入れ、主観的には神を信じていると思い込んでいる人たちの世界でしか通用しない「身内の話」に堕してしまっては失敗だ、と言う想いは捨て切れない。だからこそ悩んでいるんですよ、私は!
 しかし、長考一番、ここは強い挫折感と、いささかの諦めとともに、一つの結論を受け入れなければ、次の一歩を進めることは、どうも難しそうな気がしています。「悪の根源」の探求には、キリスト教的な「神」概念を導入しなければ、どうあがいてもうまく行かないだろう、と言う展望です。
〔ウサギ〕 つまり、言い換えれば、神を認めないエリートサラリーマンの語彙と思考回路だけでは、悪の問題に納得の行く究極的回答にたどり着くことは、恐らく不可能であろうと言いたいのですね!?
〔エゾ鹿〕 その通り、神との関連を考えに入れないままで、悪の考察を行き着くところまで突き詰めるのは、極めて危険な冒険でもあるだろう、という予感がするのです。適当なところで不可知論的に問題をはぐらかすこと無く、どこまでも追求しようとすれば、最後には「人生不可解なり」といって自殺を選ぶか、悪くすると、発狂して精神病院に入ることにもなりかねない、極めて危険な企てなのかもしれませんね。
〔ウサギ〕 そんな恐いことなら、さっさと止めにしましょうよ。もともとこんな話、誰も興味を持って読んでなんかいないんじゃないですか?
〔エゾ鹿〕 いや、せっかくここまで来てそれは無いだろう。とにかく、ここでちょっとジャンプして、善とは神の命令に従うこと、悪とはそれに従わないこと(不従順)と強引に定義して、そこから話を先へ進めることにしたいと思う。この定義を引き出す根拠は、旧約聖書にも新約聖書にも色々あるが、今はそれらを個別に検証するのは、ひとまず省略するとして・・・。
〔ウサギ〕 ところで、従順って何ですか?
〔エゾ鹿〕 えっ、そんな初歩的なこと訊くの?参ったなー!えーと、それはですね、それは先ず、人格的主体の行為だということから入ろうかな?!
〔ウサギ〕 人格的主体って?
〔エゾ鹿〕 それも説明しなければいけないの?それは、ラテン語でペルソナ(もともとはギリシャ悲劇の仮面のこと)とも言うが、理性と自由意志を備えた生き物の固体のこと。身近には自分と他の個々の人間のことさ。もちろん、天使も、悪魔も、実は神もその仲間に入るのだけどね。
〔ウサギ〕 ウサギや鹿などの動物は?
〔エゾ鹿〕 君と僕は擬人化されているから別として、自然界の動物はそのカテゴリーには属さないね。
具体的な行為に際して、自分がしようとしていることを理性で把握し、その上で自由意志を用いて選択することが問題になるが、動物は本能に従ってしか行動しないから対象外だね。
〔ウサギ〕 そうか!つまり、シカさんが言いたいのは、人格的主体が、良心の声を通して神様が人間に命じること、または、禁じること、を理性で正しく認識し、認識したことに自由意志をもって選択し、それに従うことを「善」と言い、従わないことを「悪」と言うことですね?!
〔エゾ鹿〕 いやー!ウサギさん今日は実に冴えてますね。いつもそうだといいんですがねぇ。
〔ウサギ〕 私はいつも冴えてますよ!今回、タブーのキリスト教言語を持ち込んだことで、話は一気に進んだけれど、問題は、神を認めない人がそれで納得するか、ですがね。あーあ、ちょっと疲れたな。今日はもうこの辺で店仕舞いにしませんか?(つづく)

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★ イージス艦の事故に思う。 神不在の社会 (世俗化した社会) ??

2008-02-24 07:15:33 | ★ 野尻湖・国際村

2008-02-24 07:15:33




(この記事に新規追加あり)

 数日前から、新潟、東京、横浜と旅烏で、ゆっくり落ち着いて新しいブログを書く気分になりませんでした。ところが、メールチェックをしていたら、(aki) さんという方から、私の1月10日のブログ 「死刑囚から牧師へ」 にコメントが届いたという記録がありました。それを見て、急に短いブログを書く気になった次第です。まず、 (aki) さんのコメントを引用したいと思います。

             * * * * * * *

憲法9条の会 (aki)
(2008-02-22 17:27:24)

今日は久しぶりの憲法9条の会の集まりを4人のメンバーでもちました。
正義と平和の会から出ている松浦悟郎司教の講演録を読み分かち合いをするのです。

その席で「地獄の虹」の紹介をしたのです。

来月8,9日には正平協の部落問題委員会での伊勢神宮現地学習会が開かれます。
伊勢神宮は私の住居の近くですので私は予定に入れました。。

第二次大戦の時には神風が吹き日本は戦争に勝つと信じられていたそうですね。
今でこそ国家神道ではなくなってはいますが、事あれば天皇家と関係があるので、いろんな面で国の神事に組み入れられているのではないかと危惧する面もあります。
考えすぎでしょうか?

 
        * * * * * * *

 「地獄の虹」 と言うのは私がこの1月のはじめグアム島で出会って感動して読み耽り、ブログで紹介した本の題名です。荒垣三郎と言う当時17歳の少年が、サイパン島の日本人捕虜収容所で元憲兵の指令で二人の日本人を殺害し、その憲兵の裏切りの結果、占領軍の軍法会議で死刑が確定したが、その後数奇な運命に導かれ、獄中でキリスト教の洗礼を受け、大統領恩赦で解放され、牧師になり、戦後帰国してその憲兵を探し出し、赦し、和解するというドラマです。( 詳しくは私のブログ1月10日 「死刑囚から牧師に」 参照 )

 私も、かつて「カトリック正義と平和協議会」の活動的メンバーであったことがあります。名古屋の相馬司教が担当司教の頃です。私は南ベトナムの政治囚釈放運動のほか(まだベトナム戦争の最中でした)、「国内問題委員会」と言うのを新たに立ち上げ、被差別部落の問題と憲法9条と靖国問題、公害問題などに取り組んでいました。まだ若く、気負った、懐かしい情熱的な活動の日々でした。

 敗戦後、昭和天皇はいわゆる「人間宣言」をしました。自ら「現人神」であることを放棄したのです。もともと鎖国とキリシタン迫害でユデオ・クリスチャン的一神教の超越神を忌避した日本には、天皇と言う神以外に「神」は存在しなかったわけですから、彼の人間宣言によって、日本の社会の世俗化(神不在化、又は超越的な神聖な価値の消失)は完成したわけです。

 この「世俗化」こそが日本の戦後の経済発展の秘訣でした。なぜなら、神不在の間隙を縫って、「お金の神様」マンモンの神が日本人の魂と社会を完全に支配したからです。

 しかし、ここに不気味な要素が覘いています。まだ誰も気がついていないかもしれません。また、話しても、誰も笑って取り合わないかもしれません。しかし、それは紛れも無い事実、日本の「神」の密かな復活です。昭和天皇が「ただの人」から「現人神」になるために通過した神道の全ての秘儀を、平成天皇はあらためて全て受けていると言う事実です。あの秘儀を通して昭和天皇が「神」になったのなら、同じ神道の伝統と教義によれば、実は平成天皇もすでに密かに平成の「現人神」になっているはずだと言うのが、神学的・論理的な帰結です。

 21世紀の国際社会の中で、もし不幸にも新たな激動の時代がやってくるとしたら、過去にそうであったように、再びこの「現人神」が悪しき政治指導者の錦の御旗、抗し難い神聖な権威として担ぎ出され、利用されないと言う保証は無いのではないかと、もと戦後の焼け跡の欠食児童は危惧するものであります。

 日本人を殺す軍隊、イージス艦の問題を、単なる偶発的な事故として片付けてはいけない。日本の社会はいま危険な道を暴走している。歯止めをかけられるものがあるとすれば、それは「悪に逆らわない」、「敵を愛する」、「7の70倍までも、ただひたすら赦す」キリスト教の福音以外にはないと思います。(aki) さんの「危惧」は決して考えすぎではないと思って、急遽このブログを書きました。

時代が変わり、社会の空気が変われば、平和憲法だって簡単に変えられてしまうかもしれない。家族のため!、祖国のため!に、「天皇のため!」が加えられれば、権力者にとって若者(兵士)を強いて死に追いやる動機付けは、きっとやりやすくなるに違いない。

 私は、グアムで、イラクに散った兵士の悲嘆に暮れる母、若い戦争未亡人たちに会ってきた。決して人事ではないと思った。近い将来、日本の自衛官の中から最初の犠牲者(英雄)が出て、世の中騒然となるに違いない。そして、二人目、三人目、すぐ社会はそれに慣れていくだろう。 

 平和のために真剣に祈りたいと思います。


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