:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」の総集編(3)

2021-08-24 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」の総集編(3)

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今回は(3)自然宗教発生のメカニズムです。

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

        a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) モンの神の登場 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

      (10)超自然宗教の復権

 

(3)自然宗教発生のメカニズム

 話を進めるためには、まず宗教というものがどのようにして発生し発展していったかを、もう一度ふり返ってみる必要があるだろう。

 138億年前に誕生した宇宙は進化を重ねて今日の姿になった。そのなかには、少なく見積もっても2兆個以の銀河がふくまれると推定される。そして、我々の太陽系が属する天の川銀河を例にとれば、一つの銀河の中に2000~4000億個もの恒星があり、各恒星は普通数個以上の惑星を伴っている。だから、ひとはあまりの数に幻惑されて、知的な生命体の住む星が地球のほかにも無数にあるだろうと空想するかもしれない。

 

一個の銀河の姿がこれだ。宇宙にはこんなのが2兆個もある。その一つの銀河の中に2000~4000億個の太陽があって・・・

 確かにそれは、科学者のナイーブなロマンとしてはいいかもしれない。しかし、私は、微生物に準ずるものや、ある種の生命体は多々あり得たとしても、芽生えた生命が系統的に進化し、その先端に理性と自由意思を備えた生命体、「わたし」という自我に目覚めた人格(ペルソナ)を備えた個体の集団である人類の出現にまで達し得たのは、無数の銀河系の中でも我々の天の川銀河の地球という惑星一つだけだとするのが正解だと考えている。確率論から言ってもそうだが、少なくとも神学的には確かにそういう結論になる。(しかし、その点について今は深入りしない。)

 なお、一言付け加えれば、従って、SFのスターウオーズというものは、知的異星人と地球人との戦いとしてではなく、宇宙に拡散した地球人同士の戦いとしていつか不可避的に起こり得るとしても、人類が十分広く宇宙に拡散するまでは、当分お預けになるだろうと言うことだ。

 さて、この宇宙全体を自然と呼べば、人間の営み=文化も宗教も=は自然の一部を構成する。

 自然は人間に恵みをもたらすが、一旦荒ぶれば恐ろしい災厄をもたらすものであることは経験的によく知られている。「Covid-19」や、「かつて経験したことのない大雨」などが卑近な例だ。しかも、高慢な金持ちや政治家たちがそれを甘く見れば、想定外に長引き、甚大な人災に発展することにもなりかねない。日本は今まさにその瀬戸際にある。

 その自然の圧倒的な力の背後に人間は、想像力を駆使して恐るべき力と意思を持った「神」を思い描き、その神に名前を与え、像を刻み、寺社を建て、専門職の祭司を任じてその神に祈祷と供え物を捧げさせ、より多くの恵みを引き出し、禍を遠ざけようと考えた。元はと言えば、これは、人間の力で自然を何とかしてコントロールしよういう素朴な試みだった。それはまた、禍や恵みが神によってもたらされるものであるのなら、祈りとお供えと礼拝で神に恭順を尽くす、うわべは身を低くして謙虚に神にお願いする形をとりながら、その裏には、何としてでも神を操作し支配しよう、最後には人間が神よりも偉いものになろうと言う無意識の下心がはじめから透けて見えていた。事実、自然科学の進歩と、技術革新の飛躍的成果とともに、人類は原始的な自然宗教を必要としなくなって、次第に片隅に追いやってきた歴史がある。

 ともあれ、この人間が生み出した宗教は、自らも自然の一部である人間の営みから始まり、自然の中で完結しているという意味において「自然宗教」と呼ばれるのが相応しい。

 私はインドを旅して、ヒンズー教の神々の像と神殿を数多く見て歩いた。サンガムの沐浴の一大ページェントの中にも身を置いてみた。ベトナムでは大乗仏教を、モンゴルでは原始的なシャーマニズムやチベット仏教の僧侶たちの生活にも接した。

 しかし、最近あらためて新鮮な衝撃を受けたのは、NHKスペシャルが放映した今年の東大寺二月堂の修二会(シュニエ=「お水取り」)の映像だった。それはまさに「コロナウイルス退散の祈願を込めた行事」そのものだった。(注―2) 

 

   

         奈良東大寺のお水取り              二月堂の廊下を走る松明の火

 

 幻想的な松明の炎の祭典の動画の中で、11人の練業衆が、

       「新型コロナウイルスをはじめとする

       疫癘(えきれい)の難を消除(しょうじょ)せしめ~~

       世界を安穏に持(たも)たしめんことを~~」

 と、熱心に唱和している姿が映しだされた。また、その錬業衆の一人、清水公仁さんはアナウンサーのインタビューに答えて、「念じて、感じて、思って、(身体を)打って、しびれて、もうろうとする意識の中で、一日も早く(コロナ禍が)何とかなってほしい気持ちで観音様にお願いするしかない」と熱く語っているのを見て、ああ、ここに純粋な自然宗教の典型的な姿が具現されているな、と感慨を深くした。特に、一歩間違えば骨折しかねないほど激しく飛び上がっては身体を打ち付けるしぐさと、寒い夜の静かな堂内に響き渡るその乾いた音には、自然宗教ならではの悲壮感が漂っていた。

 NHKスペシャルのコメントには、「中国大陸で生まれた大乗仏教の一つ、華厳宗は、日本に736年に伝わった。中国では消滅したが、『お水取り』は、南無観自在菩薩と八つの神を呼び込んで疫病退散を祈願する1300年の祈りを原初のままの姿でいまに伝えている」とあった。

 私は自然宗教をご利益主義としてただ全否定的にのみ捉える者ではない。他方では、ご利益を全く説かない、ご利益から限りなく縁遠い自然宗教があることも知っている。

 例えば、私の限られた経験から言えば、曹洞宗の「只管打坐」などがそれに近いのではないだろうか。

 私の師匠は今や伝説の名僧、「昭和の最後の雲水」と讃えられた澤木興道老師で、その高弟であり、ご自身も高僧の誉れ高い内山興正老師のことを生意気にも兄弟子ぐらいに思っている私だが、澤木老師が、只管打坐を指して、「ただひたすら座るだけ。座ったとて何にもならん。何にもならんけど、いや、何にもならんからこそ、座るのだ。」という意味のことを言われたとき、私は何となく、これこそ本物の禅だと納得したのを思い出す。潔癖にご利益を忌避する純粋な自然宗教の典型をそこに見たからだ。

 座禅を知りたいと、まだ手探りで右往左往していた頃、確か黄檗山万福寺で開かれた入門的参禅会に、会費を払って参加したことがあった。呼吸法に始まり、考案、禅問答、悟りの境地、などの説明を聞いて、私は、黄檗宗がどんなものかさっぱり分からなかったが、感覚的には臨済宗の考案禅に近いものかな?と思った。

 しかし、仏教と言っても一律ではない。私は、四国の高松のカトリック教会で主任司祭をしていた頃、有名な四国八十八か所の名刹の一つにX寺というのがあって、そこの若い住職と親しくなった。

 彼は、わたしとはべ平連(70年代のベトナム反戦運動)などの共通体験があり、自らは医者を生業とし、ずっと東京で暮らすつもりでいたようだが、住職である父上が早く亡くなられて、長男の彼以外に後を継ぐ者がいないと言うことで、親族の意向に押し切られて四国に帰ってきた。それでも、主義を貫いて境内にクリニックを開いて生計を立て、寺は荒れるに任せていたのだが、地域の期待や行政の後押しもあって、次第に整備せざるを得なくなっていったようだ。

 それはそうだろう、八十八ヶ所の他のお寺が、みなそろってお遍路さん相手に寺の経営に精出しているのに、お能の演目の舞台でもある名刹が、草ぼうぼうの荒れ放題と言うわけにもいくまい。彼の信念とは関係なく、世間の期待に押されて寺は次第に整備されていった。 

 彼は大変な読書家で、住まいには大書庫があった。彼はそれら広いジャンルの本を全部読んでいる様子だったから、私はただただ恐れ入ったものだ。

 その彼が、自分の寺で若い僧侶たちのために勉強会を開いていて、私にも聴きに来ないかと誘ってくれたことがあった。たまたま私が参加した日の講師は、通常の護摩行の10倍もの護摩木を焚く大荒行を成し遂げたお坊さんだった。

 

生ける不道明王になるために

 

 密教の荒行と言えば、比叡山の千日回峰行などが有名だが、真言宗の護摩焚きの行も半端ではない。何日も朝からぶっ続けに膨大な量の護摩木を焚く炎のま近に座ると、赤外線で顔や手は火ぶくれになる。俗に「火炙り地獄」といわれ、成し遂げると阿闍梨とか生身の不動明王と呼ばれ、常人にはない神通力を獲得したと見做される。講話の中で「床の間にかけられた梅の花が描かれた掛け軸に向かって、『えいッ!』と活を入れると、あら不思議、庭から鶯が舞い降りて掛け軸の梅の枝にとまって絵の一部に溶け込んでしまった。また『えいッ!』と活を入れると、絵の鶯が羽ばたいて庭に飛び去った」などという話をしてくれたので、わたしは、ウーン、と恐れ入ったのを思い出す。

 あのインテリの、読書家の、左翼の活動家で無神論者だった彼も、八十八か所の名刹の住職ともなると、立場上そういう奇譚に話を合わせなければならなくなるのかな、さぞ辛いだろうな、といささか同情を込めた醒めた思いに浸ったことを思い出す。

 真言密教の護摩焚きの行と言えば、仏教以前イラン高原に成立していたゾロアスター教(拝火教)に由来するものとされているが、空海(弘法大師)が遣唐使として中国に渡ったころの唐の都には、キリスト教の一派の景教(ネストリウス派)の寺院である大秦寺が盛えていたという。空海は大秦寺の僧「景浄」と親交があったようで、空海はそこで「灌頂」を受けている。この灌頂は頭に水をかける儀式で、元来の仏教にはなく、恐らくキリスト教の洗礼に起源を持つものではないかと言われている。

 私の友人の住職は、医院の他に老人ホームも経営しているが、個人的には「谷口神父。今の仏教ではうちの養老院のおばあちゃんたちは救えない。かまわないからキリスト教の話をしに来てくれないか」と誘ってきた。私はその後間もなく四国を離れたので、この招きは実現しなかったが、空海の教えをよく研究すれば、景教由来の救いの教えが真言宗の中にすでに内包されていたことも明らかになるかもしれないと思った。

 四国巡礼八十八か所と言えば、ある意味で今も仏教が日本人の生活の中に生きている貴重なケースだが、その教えの内容はパレスチナからローマ帝国、インド、中国、最後に日本へと伝搬されていく過程で、様々な要素を取り込んだ複雑な混交宗教の様相を呈していると思われる。

 その点、澤木興道老師は、単純明快、生涯純粋でブレることが無かった。

 京都の鷹ヶ峯の破れ寺、安泰寺で、冬の寒い朝4時頃に、老師の私室に内弟子だけが数人、許されてお茶をいただきに招き入れられる。この時間だけは一日の沈黙が破られ、老師と和やかに懇談することが許される。

 そんなある朝、老師はまだ学生だった私に、「おまえは耶蘇(カトリック信者)だったな。まあ、よろしい、そこに座っていなさい」と、ことさらに目をかけて下さった。

 座禅なんかしても何にもならない。だからひたすら座るだけ。「凡夫が凡夫で凡夫する」のみ。と教えた老師に私はこころから感謝している。

 座禅しても何にもならない、と言われたが、そんなことはない。私は今も(畳に坐布を敷いて座ることはないが)祈るときは腰から上は座禅の姿勢(禅定)に入る。相対するのは「無」でも「空」でもなく、「私はある」の神であり、「復活したキリスト」のみ前に鎮まるために最高の助けになっている。

私の二人の師 ヘルマンホイヴェルス神父と澤木興道老師 60年近く前の写真 古いネガフィルムの山から一か月前に発掘した貴重な一枚 老師の額のサロンパスが何とも可愛い

 澤木興道老師はもう居ない。最近、追憶の旅で、私が接心に通った安泰寺のあった京都の鷹が峰を訪ねてみたら、ボンネットバスが通った砂利の坂道は舗装され、うっそうとした竹林や松林は切り拓かれて広大な住宅地に変わり、昔日の面影は全くなかった。安泰寺があったと思われる場所は、今は小さな公園になり、真ん中に植えられた楠の根元には、「昔、安泰寺ここにありき。」の札とともに、「今は都会の喧騒を避けて兵庫県の丹波の山奥に移転し久しい。」という意味の言葉が記されていた。その現在の安泰寺の様子も、NHKのドキュメンタリーとして放映されたのを見たが、そこには、欧米から青い目の青年たちが何かを求めて集まっているようだった。番組では、ある外国人の若者が何も見つけず、虚しく途中で帰っていった。昔の破れ寺とは比べものにならない整った道場のように見受けたが、昔日の安泰寺の内実がどこまで受け継がれているのか、私には分からない。

 現代社会では、原始的で素朴な自然宗教は文明と自然科学の進歩につれて神秘のヴェールがはぎ取られ、一見するところあまり流行らなくなっているようだが、そうではない。すべての自然宗教は、それなりの進化を遂げながら、行きつくところ「お金の神様」、別の名を「マンモンの神」という、に収斂していったことは、すでに詳述したのでここでは繰り返さない。(注-2)

 それは、一言で言えば、すべての自然宗教に共通の神が「お金の神様」であり、それはあらゆる自然宗教の発生の最初から萌芽として含まれていたもので、文明の発展とともに次第にその本性が顕わになり、いまや世界中で人間の魂を奴隷化するこの世で最強の神として君臨している。自然宗教は、もとはと言えば人間が自然に潜むと考えた神を制御しようと試みた人間の営みだったが、皮肉なことに、科学技術の進歩とともに姿を現したものは、人間の欲望の化身、お金の神様、マンモンの神だった。そして、人間はその神を支配するどころか、逆に組み伏せられ、挙げてお金の神様の奴隷になってしまっている。

 その事を見事に言い当てたのは、ローマのヴェネチア宮殿の中のサンマルコ寺院の主任司祭で、私がパラサイト学生神父として世話になったドン・ロマーノ神父だった。彼は「人間がマンモンの神への奴隷状態からやっと解放されるのは、棺桶の蓋に最後の釘が打たれて約15分後だ」と言ったのが忘れられない。イタリアの棺桶は数日を待たずして斎場の焼却炉で燃やされる駅弁の折のようなペラペラの素材に布張りした日本のものとは異なり、錫で内張した堅い茶色の木のずっしりと重い棺桶だ。土中に埋葬されても、かなりの期間原型を保っている。

 ことほど左様に、自然宗教の「お金の神様」は、自称無神論者も含めて、すべての人類を奴隷とする恐るべき神様で、自然宗教から生まれたものではあるが、私には、はっきりとした意思と野望を抱いた生ける化け物のように思えてならない。

 このお金の神様に取りつかれると人間がどんなに変わるかの実例を私は国際金融業に携わっていた頃にしっかりと見てきたが、長くなるのでその話は次回に譲るとしよう。

******

注-2:ブログ「私の『インドの旅』と遠藤周作の『深い河』(3)」(2021年5月7日)参照。

  (つづく)

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★ 私の「インドの旅」の総集編(1)と(2)

2021-08-12 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」の総集編(1)と(2)

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(1)導入

 Covid-19 (新型コロナウイルス)のショックで一年遅れた「2020東京オリンピック」も終わった。

 実は、1964年の第一回東京オリンピックの開会式の夜、私は横浜から船でインドの旅に出た。だから、東京オリンピックを経験するのは今回が初めてになる。第1回のは、敗戦からの復興を象徴したオリンピックだったが、今回のは自然の猛威に対する人間の無力さを見せつけるものとなった。

 ともあれ、25歳の多感な目に映った旅の印象を、私はカトリックの布教誌「聖心の使徒」に連載したが、今回のブログ「インドの旅」シリーズは、57年前の記事を復刻したものに若干のコメントを添える形で進んだ。そして、最後から二番目の第19信「サンガムの沐浴」まで辿り着いたのは今年の3月だった。

 本来なら、続いて最後の第20信を書いてとっくに終わるはずの連載だったが、「ガンジス川の沐浴」とくれば、遠藤の最後の長編小説「深い河」が連想される。私は「深い河」とともに、彼の最初の長編小説「沈黙」に対して、日頃から物申すところがあったから、急遽予定を変えて、この機会に、遠藤批判に集中することにした。

 先ず、私は遠藤が洗礼を受けた経緯と、日本における彼の信仰形成をたどってみた。彼は母親と相前後して中学生のときトリックの洗礼を受けているが、当時日本中、いや世界中どこでもそうであったように、遠藤母子とも取り立てて言うほどの信仰入門教育を受けた気配がなかった。(注1)

 周作が「ヨーロッパで触れたキリスト教は、父性的原理を強調するあまり、母性的なものを求める日本人の霊性に合わない」とか、「日本人としてキリスト教徒であることは、ダブダブの洋服を着せられたように息苦しく、それを体に合うように仕立て直すことが自分の生涯の課題であった」とか言って、キリスト教を日本の精神風土に根付かせようと腐心したとか言われている。

 また、人はいとも簡単に「キリスト教的唯一神論と日本的汎神論の矛盾」が遠藤の生涯のテーマだったとか、遠藤が「深い河」で目指したものは「日本人のキリスト教」、別の言葉で言えば「世界に通じる普遍的なキリスト教」だったと言うが、それは一体どういう意味か?これらは批判的に検証されなければならない。

 それで、書き始めてみたら、アッと言う間にA4の下書きで20頁を越えてしまった。

 これは一回のブログには長すぎる。しかし、ただ小出しに分割してだらだらと書いても、誰も読んではくれない。それで、一計を案じて筋書きを目次風に前もって掲げて、それに沿って内容を推敲しながら数回のブログに分割してアップすることにした。

 その目次というのは以下の通りだ。

 

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー (ここまでは今回のブログでカバーする)

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神との出会い

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

        a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) マンモンの神の登場 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

     (10)超自然宗教の復権

 

 取り敢えず試しにこの目次に沿ってしばらく「私の『インドの旅』の総集編」を展開してみよう。実はいま書いているこの部分が既に(1)「導入」に相当する。

 今回は、多分(2)「インカルチュレーションのイデオロギー」までで一回分としては十分な長さになるだろう。私ももう81歳になった。このやり方で果たして読まれるだろうか、など気にしない。書きたいときに、書きたいことを、書きたいように書くことにしよう、と開き直っている。

 

(2)インカルチュレーションのイデオロギー

 「カトリック作家」を売りにして世に出た遠藤は、こと宗教に関しては、日本ではまわりが和服姿でいる中で、少年時代に洗礼を受けた自分ひとりだけ洋服を着ているような居心地の悪さを体験したようだが、その遠藤が、幸運にも戦後初めてのフランス行き留学生3人の中に選ばれたのは、フランス人宣教師ネラン神父の尽力のおかげであったが、初めてキリスト教的西欧社会に接して、自分はカトリックの洗礼を受けているのに、今度は洋服社会の中で自分一人だけ和服を着ているような強い違和感をおぼえたようである。

 それは、日本ではカトリックであるために日本の文化に溶け込めず、フランスではカトリック信者であるはずなのに西洋文化の中に溶け込めなかったことを意味しているのだろう。

 そこから、西欧のキリスト教をそのまま日本に移植しても根が腐るだけだ、キリスト教を日本の精神風土に合った形に改変しない限り、決して日本に根付くことはないと考え、さらに、日本の精神風土に抵抗なく溶け込めるものへの変容をなし遂げたキリスト教こそ、世界中のあらゆる精神的風土の中に根付くことのできる本当の普遍的なキリスト教になれるはずだ、という壮大なビジョンを持った、と「沈黙」と「深い河」を読んだ私は勝手に善意に理解した。

 他方、有名な井上洋治神父の「アッバ、アッバ、南無アッバ」節(ぶし)は、イエス・キリストの天のおん父なる神を親しみを込めて呼ぶ「アッバ」という言葉に、敢えて「南無」を冠したものであるが、それを「南無阿弥陀仏」の6文字が不可分の一語に結晶した形で慣用されている現実と重ねると、「南無」に続く「アッバ」を「阿弥陀仏」と等価的・互換的にイメージさせる絶妙な効果を発揮することを、十分承知の上でのことと思われる。要するに、井上の「南無アッバ」とは「南無阿弥陀仏」のことなのだ、という連想効果を生むのである。そこには、超自然宗教の神「私はある」を自然宗教の仏様と同等のもののごとくに拝ませるものがあり、行きつくところはキリスト教の信仰内容を日本の自然宗教の宗教心で置き換えようとするものではないか。「沈黙」や「深い河」で遠藤はこのイデオロギーを小説に託して展開していると言えよう。

 しかし、本物のインカルチュレーションはそんなものではない。

 たとえば、ヘルマン・ホイヴェルス神父が日本の伝統歌舞伎の様式を用いて「細川ガラシャ夫人」の殉教を、当代一の女形(おやま)歌右衛門を主役に、東京銀座の歌舞伎座で一か月の公演を打った、とか、宝生流の能の舞台で「復活のキリスト」を演じたなどの試みは、キリスト教の核心部分を日本の伝統文化・芸術様式を使って表現すると言うもので、本来のキリスト教の魂を日本文化へ受肉させる試みと言えるだろう。

 当時の宝生流17世宗家の法生九郎が、ホイヴェルス神父の才能と情熱に共鳴したことに加えて、翁面、尉面、女面、男面、鬼面、仏面など、物語の登場人物の役回りに応じて着ける面を伝統的に厳しく制限された類型の中から選ぶ慣例を破って、敢えて新たに「復活のキリストの面」を日本でただ一面だけ別格として能面師木戸久平に彫らせたホイヴェルス神父の力量は特筆に値する。

 ちなみに、バチカン宮殿で最近この「キリストの復活」能が演じられたと言うニュースを読んだが、原作者神父の没後40年目に日本にただ一面だけしかないキリストの面とともに能「復活のキリスト」がローマで蘇ったのだ。

 死者の「復活」はキリスト教信仰の神髄だが、これこそ、日本の伝統の中にキリスト教の本質を一ミリも妥協することなく受肉させた本当の意味での「インカルチュレーション」­=「キリスト教の土着化」というべきではないだろうか。

 もし遠藤・井上流インカルチュレーションのイデオロギーに従って「キリストの復活」が能の舞台で演じられたと仮定すれば、必然的に能の伝統としきたりに従って、キリストの役がつける能面も既存の面の類型の中から選ばれるわけで、その場合は中尉や男面ではなく仏面が充てられたにちがいないが、それはキリストの復活の意味を多分意図的にゆがめる結果になっていただろう。もちろん、遠藤には初めからキリスト教の教義を日本の伝統芸能で演じると言う発想そのものが欠落していただろうから、そう言う問題自体が生じ得ないのだが・・・。

 ホイヴェルス神父の「復活能」に遠藤とは180度真逆のベクトルが見て取れる。

 

バチカン宮殿で舞われた世界にたった一枚の復活のキリストの能面

 

 私は、この遠藤・井上流の「キリスト教のインカルチュレーション」という「イデオロギー」の中に明らかな誤謬と危険な毒素を撒き散らそうという巧妙な意図が潜んでいると感じてきた。それはここで正しく指摘され、きびしく排除されなければならない。

==========

注-1:「私の『インドの旅』と遠藤周作の『深い河』(そのー2)」(4月13日)参照。

 

(つづく)

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★ インドの旅から 〔改訂版〕田川建三の遠藤周作批判

2021-07-17 00:00:01 | ★ インドの旅から

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インドの旅から

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〔改訂版〕田川建三の遠藤周作批判

 私のブログの「インドの旅」シリーズは、あと1話を残してほとんど終わりかけていたのに、第19話「サンガムの沐浴」から大脱線して、遠藤周作の「深い河」に溺れそうになった。何とか早く遠藤批判にケリをつけて、先に進まなければならない。

 最近、田川建三の「宗教とは何か」という一冊を読んだ。そのなかに遠藤周作批判があって、読み進むうちに、私の若いころの直感が正しかったことを再確信させてくれて、胸のすく思いがした。

 私より4才年上の田川(ストラスブール大学に留学、1965年に宗教学博士、聖書学者)の遠藤批判は、私の厳しい遠藤評価に、実に論理的かつ聖書学的な裏付けを与えてくれた。

 田川は遠藤の「イエスの生涯」と、「キリストの誕生」を中心に遠藤批判を展開しているが、聖書学者の緻密な分析に基づいて、私の力ではとてもなし得ないほど深く、 的確に、遠藤の作品の問題点を明らかにしている。今回のブログが長くなりすぎないために、以下に、まず田川の主な論点だけを拾い出して簡潔に列記してみよう。私の考えは次回以降に譲りたい。

 

若き日の遠藤周作

 まず、田川は遠藤のイエス像を、「ずぶの素人がいわば出版資本の要請に応えて書き流したものに過ぎない」と切って捨てる。

 そして、「それにしては既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまったし、そこに含まれた実に数多い欠陥は、それぞれ、イエス伝を描くと言う行為にまつわる諸問題を典型的に示しているので、取り上げて論じる意味は十分にあろうかと思われる。」と付け加える。

 さらに、「作家が良く知らないことに関して知ったような顔をして口を出し、しかも、作家の書くことが不当に多く評価されすぎる今の日本においては、作家の書きなぐる無責任な著述が人々の『知識』の内容を形作ってしまう、という世相に対して、一つの警鐘をならしておく必要があろうかと思われ。」(P.171)(注)と続く。

 実際「イエスの生涯」は駄作である。「キリストの誕生」には例の遠藤周作特有の甘ったるい「弱者の論理」があちらこちらの頁に散りばめられている。(P.172)

 (人は)イエス像を描くときには、自分の期待する理想的な人間像を思い入れたり、無自覚のうちに自分の未熟な思いをそのまま投影してしまう。それは、自分の現在のあり様を何らかの意味で肯定してくれる権威で、直接的にお前はそのままでいいのだぞ、と肯定してくれる場合もあるし、お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、「だめ」な自分は「だめ」なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない。(内容のない自己卑下は、一般に日本人がやたらと好む奇妙な道徳である)。しかも、「自分はだめだ」と言い建てることによって、その「だめな自分」を肯定することができるのだから、二重の自己満悦に耽ることができる。遠藤の「弱者の論理」は、世のなかにはそういう自己満足に耽りたがる人間が大勢いるから、その分だけよく売れることになる。(P.274)

 イエスという歴史の現実に生きた人間のイメージを、うまく創作の世界に引きずり込むことは難しい。だからと言って、学問的な歴史記述は遠藤程度のメチャクチャな知識(もしくは知識の欠如)でなめてかかって手を出してよいものではない。その結果出てきた作品は、歴史記述のスタイルをとりながら、とても歴史記述とは言えず、かと言って初めから小説ではない、何の意味もないものとなった。こうなると目立つのは、イエスとは何の関係もない遠藤周作特有の甘ったるいイデオロギー、すなわち「弱者の論理」である。(P.178)

「イエスの生涯」は歴史記述の力量がまるでないのに歴史記述に手を出したから、イデオロギーのみがむき出しに露出してしまった。しかし、遠藤はイデオロギーで勝負できるような著者ではない。 遠藤周作はただ彼のセンチメンタルな「負け犬」の信条に原始キリスト教の歴史を引き付けて「解釈」することができればそれでよかった。 「犬のように」、「弱さ」「惨めさ」「ふかい自己嫌悪」、「生涯は無意味」、「恥ずかしさに震えんばかり」――遠藤ブシの得意の語り口である。(「キリストの生涯」27ページ) 

  ( 普通)「人は自己嫌悪していることにはふれたがらない。ところが、遠藤の書くものを読んでいると、『弱さ』『惨めさ』『空しさ』の『自己嫌悪』がやたらと大量にどの頁にも出てくる。こんなに嬉しそうに自慢げに語られる自己嫌悪が自己嫌悪であるはずがない。」(中略)「弟子たちは『イエスの受難の意味、その惨めな死の謎を解き明かそうと、もがき苦しんだ』あげく」、イエスの死の意味付けに到達したと言うのが遠藤の結論であるが、これも田川には「絵空事に思える」しかし、遠藤ブシが歴史記述に支えられない間違いだらけであることを知らずにこの本を通俗本として」読めば、(人は)遠藤ブシまでも歴史記述の一環なのではないかと思い違いしてしまう。」(P.198)

 遠藤は自分の遠藤ブシを学問的スタイルと歴史記述の体裁で展開し、「お前の『弱さ』はそのままでいいのだと現実における居直りをすすめてくれる宗教的愛の場を説く。そこには現代日本人の生活の、ゆがんではいるが執拗な、現実に居直りたい日本人の心に共鳴する心地よい響きがある。それは、ゆがんだ社会の現実に何の変更も加えさすまいとする現実の力にとって、大いに役立つ。」(P.201)

 遠藤は、「いかにも歴史的知識があるかの如くに学問的スタイルで、断言的に正反対の間違いを言い張」って、「知られている事実を正反対に捻じ曲げて」まで作り話をする。それを、「歴史記述のスタイル、しかも断定的な文体で書いている。」(P.202)知らないくせに、よく調べて知っているかの如き文体で書くのは正しくない。

 遠藤は福音書の文章を自分の気に入ったものだけは無批判にそのまま歴史の事実とみなして引用する。「しかし遠藤は、福音書の引用であると言いながら、全然正反対の意味に内容を変えたりする。これは、他人の文章に言及する著者の最小限のモラルに違反している。」「著作権によって保護されている現代の同業者であろうと、福音書の著者であろうと、同じことなのだ。」(P.204)

 田川は実例として「エリコの盲人の癒し」(マルコ10・64以下) を挙げて長々と遠藤の誤りを立証しているが、ここでは省く。(P.206-7参照)

 「何故遠藤がおよそ初歩的な文章の読み違いをやらかしたかというと、そもそも文章に書いてあることを読もうとしなかったからである。」(P.206)「遠藤にとって存在しているのは、、政治的民族主義(=「現実」と宗教的愛のあれかこれかだけなのだ。」「換骨脱胎というか、羊頭狗肉というか、下手な詐欺というか。(盲人の癒しの場面に限らずこの著作の全体がこの種の文章の読み違えというよりも、ほとんど読まずに読んだふりをしている思い入れ、に満ちているのだ。」(P.207)

 田川は続いてもう一つだけ、いかに遠藤が福音書の記述を平気で作り変えるか、という実例を挙げる。それはこう始まる。「『エマオの旅人』という話がある。レンブラントが絵にしたので、キリスト教徒でない日本の読者にもよく知られていよう。」(中略)「遠藤はこれをそのまま歴史的事実とみなす。ところが遠藤は素朴に史実として信じているかの如きスタイルで書きながら、肝心なところで、ルカ福音書のテクストとはおよそ異なる我田引水をやらかしている。」(P.210)「この話のどこにも、二人の弟子が『イエスを裏切り、自責の念と絶望とに苦しんでいた』(『生涯』P.39)などと言うことは書いていない。」(P.210)

 長い記述を要約すると、福音書によれば、「義人イエスをユダヤ教当局(とローマの官憲)が死刑に処した」のに、遠藤の描く弟子たちにとっては、イエスの十字架とは、「自分たちがイエスを裏切った『卑劣な』事件、ひたすら自責の念に駆れるばかりの事件」であり、「イエスの直弟子がイエスを殺したかのごとくである。」それはまさに、「事柄の責任者を追及することなく、一億総ざんげ的に自責の念に駆られる、まさに日本体制多数派の心情である。だからイエスの復活とは、お前たちは『卑劣』であっても赦してやるよ、というおなじみの遠藤ブシの宣言に収斂されてしまう。それは「自分たちの卑劣な裏切りに(イエスが)怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応える」(P.248)ことなのだそうだ。一億総懺悔は、責任の所在をあいまいにし、そして、懺悔したものがみな赦されて、元のもくあみに終わる。そういう「赦し」を受け容れず、なおも責任の所在を明らかにしようとする者は、懺悔の心を持たない傲慢な人間とみなされて、村八分的に排除される。遠藤の「弱者、の論理」は一見、弱い人間のための思想のようでありながら、実は日本ファシズムの体質を戦後にもそのまま保存した日本国民の思想体質が、そのままイエス記述に名を借りて表現されているのである。」(P.211)

 ルカの福音書のキリストは「苦難を受けたのち、栄光にはいる」が、それは決して遠藤の言う如く、イエスが永遠の「同伴者」としていつでも自分達の「卑劣さ」を「いいよ、いいよ」と言って赦してくれる、などというけち臭いことではない。近代日本人文学者好みの、ただじめじめと、「自分の卑劣さに対する自責の念」などにとじこもるのとわけが違う(本当は自責の念ではなく、それでいいのだよと自ら赦す居直りの念なのだが)。(P.212)

「『沈黙』の著者はくどいほどくり返して、裏切者キチジローを赦しつづける。しかし、福音記者マタイは情け容赦もなく、裏切者ユダを何か汚いゴミでも捨てるような感じで、自殺させてしまう。どちらが近代日本人の趣味あうかは別問題であるが、いずれにせよ遠藤の描く居直りと赦しの繰り返しの世界が福音書の世界から程遠いのは明らかであろう。(P.212)

 福音書はイエスによる奇跡的な病気治癒の物語に満ちている。しかし、遠藤周作の描くイエスはおよそ民衆が求める治癒奇跡を行うことのできない「無力」な人物である。しかも、遠藤の描くイエスの周囲の民衆は、病気を癒してくれないイエスに対して腹を立て、「激しく憤る」民衆である。遠藤は、福音書の記述とはまるで正反対のことを書きながら、福音書が遠藤ブシと同じことを書いているなどという嘘を並べたてるべきではなかった。(P.214-5)

 田川によれば、遠藤の描く「イエス」の本質は、次の文につきている。「イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。湖畔の村々で彼は人々に見捨てられた熱病患者に付き添いその汗をぬぐわれたが、奇跡などは出来なかった。そのため群衆は彼を〝無力な男〟とよび、湖畔から去ることを要求した。だが、これら不幸な人々に必要なのは〝愛〟であって、病気を癒す〝奇跡〟ではなかった」(112頁)。

 しかし、「全体としてマルコの描くイエスは、生き生きと自信に満ちて活動する一人の人間の姿であり、じめじめと『無力』に居直って、無力こそ本物の『愛』だ、などとうそぶく退廃した人間の姿ではない」。(P.220)

 田川は「これだけ正反対の像を提供しつつ、しかもそれを福音書を資料とした歴史記述であるかの如きスタイルで書くのは詐欺である。」と言い切っている。(P.220)

 「遠藤は『イエスが実際に奇跡を行ったか、否か』という疑問を軽蔑し、『無力な愛』こそ本物なのだ、という主張に話を持って行こうとしている。・・・病気治癒などは直接的な利益のみを求める欲望であるからイエスは病気治癒を行わなかった、というのが遠藤のイエス像の中心である。遠藤はこの疑問を通俗的とみなして馬鹿にしたから、よく考えてみることもせず、はじめから自分で決めた答えを前提して、『通俗的』な問いに与えた通俗的な答えをその著作の柱にしている。」(P.220)

「近代の、ミーハー知識人の信条からすれば、病気治癒の奇跡など、あほらしい迷信にしかすぎまい。『イエス』の高尚な宗教的『愛』を示すためには、あほくさい迷信など排除するに限る。これこそ、古代人の奇跡信仰に対して、近代人の通俗的心情からけりをつける視点に他ならない。」(P.221)

 残る問題は、どうして遠藤のこういう『愛の無力さ』のイデオロギーが現代日本では俗受けするか、ということである。こういう退廃した思想がはやるのは、現代日本の大衆社会の病的状態の一つの兆候であろう。

 どこが間違っているかというと、我々の毎日の生活も、一つ間違えば病気や飢えの危機に転落しかねないこと(コロナの騒ぎを観よ!)、また、我々の毎日の平穏な生活が、地球の半分の人々に常に病気と飢えの中に生きることを強いる抑圧の構造に支えられているという現実を捉えることができなくなっているということだ。食って寝る生活はけち臭い目先の『現実』として抽象化され、それとは別に『精神的』な側面が意味ありげに尊重される。そこに現代の日本人の精神生活の歪んだ病的な状態がある。そして、この状態は広く蔓延しているので、誰も自分は歪んで病的だとは思わない。こういう病的な精神状態にうまく乗って俗受けしたのが遠藤周作の『弱者の論理』なのだ。」(P.224)

 要約すると、[遠藤の書いていることは福音書の記述そのものとも、またその背景にある歴史的事実ともおよそ合致しない、しばしば正反対の無茶苦茶] (P.224)だということになる。

 田川建三が「遠藤周作のキリスト像によせて」の中で展開した遠藤批判は、私が若いころから遠藤の作品を本能的に嫌い、読むに値しないとして遠ざけてきたことの正当性を、極めて明快に、論理的に、証明してくれたように思う。

 これで、長かった「インドの旅」シリーズも、ようやく終わりを迎えられる目途が立ったのではないかと思う。

(つづく)

(注)(P.○○)は田川建三著「宗教とは何か」の引用ページを指す。

   文中の文字の色分けは、筆者(私)のランダムなアクセント付けです。

 なお、今回のブログは田川の引用ばっかりではないか、というご批判もあろうかとも思う。しかし、いま田川の「宗教とは何か」が絶版になっていて、ネットの古書販売のサイトでもほとんど手に入らない状況下では、田川の遠藤批判をより多く知っていただきたいという思いがある一方で、一回のブログは可能な限り短く切り上げないと誰もよんでくれなくなるという現実の前に、自分の言葉は極力控えた妥協の産物であったことをご理解いただければありがたい。欠けた部分は、次回以降にゆっくりと補うつもりです。

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★ インドの休日

2021-06-28 00:11:20 | ★ インドの旅から

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インドの休日

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 能の舞台の幕間に軽い狂言が挟まると、なぜか次の能に備えて心の準備が整う。

やや重いインドの旅の話の連続の間に、たまに軽い小話も息抜きにいいかと思って、パソコンに向かっている。

タイトルの「インドの休日」はもちろん「ローマの休日」を意識したものだ。 

 

ブラッドレーとアーニャ姫 最後の記者会見で

 

 「ローマの休日」は王女様と新聞記者の恋物語だが、確かオードリー・ヘップバーンのデビュー作だったかと思う。キュートな彼女の相手役のグレゴリー・ペックがこれまたなかなか良かった。ローマに通算15年ほども住んだ私は、何度も見たし、ロケ地も隈なく歩いて回ったものだ。

 わたしは1964年の第1回東京オリンピックの開会式を白黒のテレビで見て、その晩、横浜からラオス号と言うフランスの貨客船で日本を脱出した。

 

見送ってくれた仲間たち

 

 まだ海外旅行をする日本人が極めて少なかった時代で、10人ほどの友人が横浜港に見送りに来てくれた。ホイヴェルス神父がインドのムンバイ(当時はボンベイと呼ばれていた)で開催される国際聖体大会に参加すると言う。私は先に出かけて現地で合流する手筈となった。パウロ6世教教皇が、歴代ローマ教皇としては初めてヨーロッパの外に旅をすると言う時代だった。

 当時、私は25歳の大学院生で、貧乏だった。一計を案じてカトリック新聞社に乗り込み、「おたくはアジアで初めて開かれるカトリック教会の一大イベントに特派員を出すだけの実力がないだろう。私が行って臨時特派員として記事を書いてあげるから、お金を出せ!」とヤクザまがいの脅迫をして、船賃の一部をゆすり取った。挙句に、カトリック新聞社の特派員の証明書を英語で書いてもらったが、これが現地で驚異的効果を発揮した。

 それまでまともなところに泊まることのなかった私は、ムンバイ空港で無事にホイヴェルス神父様と合流してからは、一緒に郊外の聖スタニスラウ・ハイスクールのイエズス会修道院に投宿した。

 

ハイスクールの神父たちとホイヴェルス神父と運転手

 

 ハイスクールの隣には女子修道院があり、そこに聖体大会に参加するためにムンバイを訪れていたスペインの王女様のマリア・テレサが、護衛もつけず、侍女のカルメンと二人だけで泊まっていた。

 彼女は君主主義者でありながら、社会主義者でもあり「赤いプリンセス」の異名で呼ばれていた。しかし、熱心なカトリックでもあった彼女は、毎朝、私たちの宿舎のチャペルのミサにやってきて、朝食は私とホイヴェルス神父とお姫様たちの4人で、ハイスクールの応接間でとるのが日課になった。毎朝のことでもあり、たった4人の食卓だったから、たちまち親しくなった。とても聡明で好奇心の強い、話題豊かな活動的女性だった。一言で言えば、無鉄砲なお転婆娘でもあった。

ハイスクールの応接間で朝日を浴びる王女様

 

 私はジャーナリスト=日本のカトリック新聞の特派員=という触れ込みで彼女に接した。聖体大会のプレスセンターで発行される「記者証」には、どの扉も自由に開くまるでマスターキーのような魔法の力があった。これ一つで一般人の入れないところにほとんどフリーパス同然だった。

会場に着いて車から降りてくる教皇 (白いキャップ)

 教皇パウロ6世の到着のときも各国の記者団にまじって教皇の車の側にいた。聖体大会の壇上でも教皇を間近に見られる位置に居た。

 

 

大会会場のメインステージ中央で両腕を前に差し出しているのがパウロ6世教皇

 

VIP席に近づき、お友達になった王女様の側には、度々私がいた。

マリア・テレサ スペイン独特のべっ甲の高い櫛の上から黒いヴェールの盛装で

 ノートパソコンやインターネットが出回る25年も前の話だ。海外からの文書通信の最速手段は鑽孔リボンを使ったテレックスだった。無論、私も会場のプレスセンターのその設備を使える立場にはあった。しかし、私はテレックスを使いこなした経験がなく、東京のカトリック新聞にもそれを受信する設備が無かった。私にとって記事を送る最速の手段は航空便の手紙だったが、インドから東京まで1週間近くも要した。1本か2本原稿を送ったが、あとは週刊新聞の紙面を飾るには遅すぎて役に立たなかった。

 

昼も夜も、私は彼女の専属カメラマンのような顔をして近くをうろうろしていた。

 

いつの間にか、目があえばアイコンタクトでほほ笑みを交わし合うほどの仲になっていた。

 

 お別れの日、マリア・テレサと侍女のカルメンと仲良くスリーショットを撮ることを忘れなかった。

 

「日本に帰ったらプリンセス美智子にぜひよろしくね!」と、こともなげなことづてをもらった。彼女はどこかの留学先で美智子妃と深い交流があったようだった。

Yes, sure! Pprincess. とかなんとか威勢のいい返事をしたのだが、今もって美智子妃にお伝えする機会に恵まれていない。

* * * * *

 

 このブログを書くに際して、ふとマリア・テレサについて調べてみたら、昨年3月26日にパリで新型コロナウイルスに感染して亡くなっていた。86歳だった。世界の王族でコロナウイルス感染による死亡が確認されたのは彼女が初めてだった。

東京オリンピックといい、コロナウイルスといい、王女の最期といい、何とも物悲しい、

それでいてどこか甘酸っぱい、青春の追憶でした・・・

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★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(5)

2021-06-23 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(5)

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 弟子たちは、まず地中海の港、港、のユダヤ人コロニーに「ナザレのイエスは復活した」と言う報せを届けた。メシアの噂の高かったイエスは、ユダヤ人の指導者たちから偽メシアと断罪され、ローマ軍の手を借りて十字架の上で処刑され、死んで葬られた。

 人々を驚かせたのは、そのイエスが予言通り復活したと言う報せだった。

 繰り返しイエスの口から「私は復活する」と言う言葉を聞いていた弟子たちでさえ、イエスが実際に復活して見せるまで、誰も信じることも、理解することも、想像することすら出来なかった。

 それもそのはず、本当の意味での「復活」、すなわち、死者が蘇えると言うことは、超自然の「神の介入」なしには起こり得ないことで、自然宗教の範疇を凌駕し、人知の及ぶ範囲を超越した全く新しい概念だったからだ。 

 しかし、復活したイエスが弟子たちに現れたとき、「死者が復活する」とういう出来事がはじめて現実のものとなった。

 この全く信じがたい驚くべき「事実」を前にして、「回心して洗礼を受けてキリスト教を信じれば全ての罪を赦されて『永遠の命』が得られる」と告げられた人々、特に、自然宗教のもとではこの世的にも救われることのなかった貧しい人々は、こぞって超越神である「天の御父」と復活したキリストを信じて洗礼を受け、入信し、その数は日ごとに増えていった。

 それまで、ギリシャ・ローマの神々を拝み、民衆には自らを「生き神様」として拝ませてきた皇帝にとって、ローマ帝国の版図の最下層の貧民など、言わば、生かすも殺すも意のままの女奴隷のような存在だったが、その「女奴隷」が、自分を捨てて神の子キリストの「花嫁」となって去って行くのを見たとき、皇帝はナザレのイエスとか言う「色男」に自分の側女を寝取られた思いがして怒り狂ったことだろう。そして、そんな女は皆殺しにしてしまえと、キリスト教徒を片端から捕え、拷問し、円形競技場に引き出して、ライオンに食い殺される姿を観衆に見せてサディスティックな楽しみに耽った。

 しかし、信仰の光に照らされて神の前に自分の罪の深さを痛感して改宗したキリスト教徒は、神の無条件の愛と罪の全面的赦しを信じ、イエスの復活と永遠の命を確信して、迫害と死を恐れず、弾圧されればされるほど燎原の火のごとく広がり、貴族や上流階級からも帰依するものが現れた。

 話は飛躍するが、キリストから1600年下って、日本でも同じ現象が起きた。キリシタンは増え続け、それに手を焼いた幕府は支配体制の崩壊を恐れて禁教令を発し、キリスト教を迫害した。しかし、キリシタンは殉教を恐れず、信仰を捨てることを拒んで死を選び、なお増え続けた。

 日本の場合、幕府は、一方では、キリスト教徒に「転びなさい、形だけでも棄教したふりをしたら、命は助けてやろう」と甘く囁きかけながら、他方では、鎖国して海外からの干渉を断ち、国内で虱潰しの徹底的迫害に狂奔した。人が住めないほどの離島か、鉱山の地底か、遊郭の囲いの中以外は、取り調べの手の届かないところがないほどに、徹底した密告通報の網がかけられ、キリシタン狩りが断行された。その結果、日本だけで歴代ローマ皇帝下よりも多いと言われるほどの殉教者が出た。それは、どこまでも地続きのヨーロッパでは、気まぐれに迫害が起きても、運の悪いのろまな信者だけが殉教し、あとは蜘蛛の子を散らすように逃げ延びることが出来たのに、島国の日本ではそうはいかなかったからだ。

 自然宗教の世界に超自然宗教が闖入すると、時代と場所を越えて常に同じパターンの現象が起るものらしい。南米を舞台にした映画「ミッション」に描かれた悲劇とも、どこかで繋がっている。

 このように、自然宗教と超自然宗教は互いに水と油のように反発し合い、常に戦い合うしかなかったのだろうか。

 

 力ではねじ伏せられないと悟った支配者が考えることは、いつでも同じだ。「押して駄目なら、引いてみよう」とばかり、皇帝は手の平を返したようにキリスト教を体制の中に取り込み、優遇し、懐柔することに熱中する。

 迫害をやめ、皇帝が率先して改宗し、洗礼を受け、キリスト教の祭司を貴族並みに取り立てて、元老院議員の式服を祭服として着せ、元老院の建物(バジリカ)を教会堂として使用することを許し、皇帝の命令で偶像の神殿を壊し、その石材を再利用して教会堂を建て、人々には神々の像に替えて十字架を拝ませた。紀元312年ごろを境に、コンスタンチン大帝の時代に実際に起こったことだ。 

 迫害を恐れず従容として死を受け入れていたキリスト教徒も、この誘惑的な皇帝の策略の前には脆かった。ガリレアの貧しい田舎漁師の無学な息子たちとその弟子たちにとって、突然ローマの貴族並みのきらびやかな生活が許されると言うのは、現世的に見ればきわめて美味しい話だった。困窮と迫害に耐えながら、日々命がけで、ひたすら死後の永福を希求する厳しい生活より、いま、この世で、富とご馳走の上に安全を保障され、人々の上に立てる身分の方が人間的に見れば絶対いいに決まっているではないか。だから皇帝の誘惑の手には抗しがたい魅力があったのだ。

 皇帝にとっても、一旦は「キリストの花嫁」になって自分から去って行った「女奴隷」が、甘い口説きに応えて「娼婦」のようにすり寄って再び身をまかせてきたのを見て、きっと悪い気はしなかっただろう。皇帝はそのようなキリスト教を国教とし取り立て、保護し、ローマ軍によって護った。教会もその見返りとして皇帝に神のご加護を祈願する。ここに「政教一致」、「聖俗一体化」の目出度い新体制が成立した。「神聖ローマ帝国」などと言う歴史用語は、この状態をピッタリと言い当てた言葉だと言う他はない。

 

 皇帝が、今まで拝んできた神々を廃止し、迫害をやめ、キリスト教を国教として公認するという180度の転換を断行するのを見ていた風見鶏のような民衆は、「寄らば大樹の陰」とばかり、それまでの偶像を捨てて、われ先にと洗礼を受け、教会の中になだれ込んできた。こうして教会は見た目には大発展の時代に入るのだが、その結果、キリスト教が根底から大きく変質していくことは避けられなかった。 

 ユダヤ人が中心だった迫害下の初代教会では、異教徒の入信志願者に対して、自然宗教のご利益主義とお金の神様への隷属を脱ぎ捨て、超自然の神様に帰依するための回心の道程を時間をかけてしっかりと歩み、確かな回心の証しを立てたものにだけ洗礼と入信を許すという、極めて慎重で厳格な手続きがあった。しかし、コンスタンチン大帝の新しい体制下では、怒涛の如く教会になだれ込んできた異教徒たちに対して、それまで存在していた「回心の道程」があっさりと省かれ、形だけの洗礼を受けて即席の信者になることが一般化した。

 超自然宗教として誕生したはずのキリスト教は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」と言って、神を愛し富を軽んじることを求めたキリストの根本的な教えから完全に離反した。

 またキリストは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言って「神」とこの世の覇者である「皇帝」に兼ね仕えることを厳しく禁じたのに、その教えも踏みにじった。

 それだけではない。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもしないのに、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか。」「野の花がどのように育つかを見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」「なにを食べようか、何を飲もうかと思い悩むな。それらはこの世の『自然宗教』の信者が切に求めているものだ。回心して『超自然宗教』を信じて、ひたすら神の国だけを求めなさい。」そうすれば、あとのことはすべて神が計らって下さる、と言う神の摂理への絶対的委託の原点からも遥かに遠ざかった。

 今や、入信の動機は「洗礼を受けてキリスト教に改宗すれば自分も罪を赦されて永遠の命が得られるから」ではなく、「新しいご時世では、キリスト教徒でなければローマ市民として日の当たる身分にあり付いてうまい汁を吸うことができないから、とにかく洗礼だけは受けておいた方が得だ」という風潮が支配的となった。

 多くの改宗者は、「自然宗教」を信じていたときと全く同じメンタリティーを引きずりながら、「回心」の要件を満たすことなく、形だけキリスト教徒になった。いわば、キリスト教を名前に冠した巨大な新型「自然宗教」が生まれたというか、キリスト教の変異株としてキリスト教の自然宗教化が進んだと言うべきか・・・。

 すでに述べた通り、迫害の時代には自然宗教をきっぱりと捨てて「回心」の証しを立てたものにだけ洗礼と入信が許されたのだったが、今や、キリスト教の教えの心髄を全く理解しないものがキリスト教の服をまとって教会の要職を占領した。

 それは、悪貨が良貨を駆逐するように、また、現代風に言えば、より伝染力の強い変異株のウイルスが、あっという間に在来型を駆逐して置き換わっていくように、真正な「超自然宗教」としてのキリスト教は、俗っぽい「自然宗教的キリスト教」に置き換わってしまった。

 

 もちろん、まことの回心の意味を理解し、ナザレのイエスの教えの原点に忠実に生きることを望むキリスト者が全く居なくなったわけではない。しかし、あくまでも超自然宗教の本質に忠実であろうとする本物のキリスト者は、「自然宗教キリスト派」の大海のなかでは生きづらい時代になってしまった。

 それで、本物のキリスト教を追求しようとする者の多くは、砂漠の隠遁者になって世俗を捨てるか、塀をめぐらした大修道院の中に立てこもって理想を生きるか、の道を選んだ。

 しかし、修道院の中にも自然宗教化の誘惑は巧妙に忍び寄る。土地を所有しない農奴の生産を基盤とした中世の封建主義社会では、国王や封建領主たちは、自然宗教化したキリスト教を掲げる皇帝を頂点にした支配体制の中で、地位と権力に応じて領民の上に君臨し、富を築いていったように、大荘園を経営する宗教貴族、つまり教皇をはじめ、枢機卿、大司教たちだけではなく、囲いの中の修道院長らまでも、世俗の封建領主と同様に、農奴である領民の上に権力をふるい、収奪し、富を築いて堕落していった。

 こうなると、せっかく純粋に超自然宗教としてのキリスト教の原点を守ろうとして世俗から退いた修道者たちも、結局は自然宗教に変質したキリスト教の波に呑み込まれまれてしまうのだった。 

 とは言え、イエスの純粋な教えは、幸いにもごく早い時期(紀元1世紀の終わりまで) に聖書として文字に固定されて残った。そして、初代教会のキリストの弟子たちの生き様は、回心した信者たちの間で生きた伝承として脈々と語り継がれ、いわば、地下水脈のように密かに受け継がれていった。

 だから、自然宗教化したキリスト教体制の中にあっても、本物のキリスト者の生き方を証しする人々が時おり現れ、教会によって聖人として認められ、信者の模範として顕彰されてきた。聖女も、聖人の王様も、聖人の教皇、司教、大修道院長も稀に現われないわけでもなかった。また、その他にも、人目にとまって聖人として晴れがましく尊崇されることのないまま、ひっそりと生きて死んでいった無名の偉大な聖人たちが、実際にはたくさん市井に隠れていたに違いないと私は信じている。

 こうして、このコンスタンチン体制は長い時の流れを経て、形を変えながら、今日にまで及んでいる。

  ここで一区切りつけよう。

 私は一体何を書いているのか?

 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」の話は何処へ行ってしまったのか?

 「インカルチュレーション」というイデオロギーの徹底批判はいつになったら書かれるのか?

 実は、すでに複数の読者から疑問や、問い合わせや、催促が寄せられていて、私もいささか焦ってはいる。しかし、始めてしまったこの話は、行きつくところまでいかなければ終わりそうにない。どうか今しばらくお付き合い願いたい。

(つづく)

 

 

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★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(4)

2021-05-21 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(4)

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 では、宇宙の自然を超越したところに、人間の知らない神が存在しているとしたらどうだろう。

 自然の一部である人間の思考は自然の枠内にとどまるから、人知の届く範囲の外に何かがあるか、無いかについては何も知ることができない。科学的にも138億年前にビッグバンが生起したところまでは推論が及ぶが、それ以前に何かあったか、無かったか、そしてビッグバンの原因は何かについて、人類には知る術がない。

 自然界の埒外に、卓越した知性と自由意思を備えた「生きている神」が存在し、その神が自分の愛によって宇宙万物を無から創造し、その愛の力で慈しみを込めて今この瞬間にも万物を刻一刻と無から存在へと呼び出し続けておられると言うようなことは、神が自分の側から告げるまで、人間はその驚くべき事実を知ることも想像することもできなかった。

 人は人知の及ぶものには名をつけるが、知らない神に名を付けることはなかった。だから、人間が名をつけなかったのに存在していて、予期せぬ時に圧倒的な存在感をもって迫ってきた神にはじめて出会ったとき、人はまずその名を問うしかなかった。

  「あなたは一体どなたですか」と。すると相手は「私は在る、在ると言うものだ」と答えた。「私は在る」と名乗る神が自然界の外に存在するという否定できない事実を人類はその時はじめて知ることとなる。 

 以来、この神と人との関わりとして全く新しい「宗教」が生まれた。

 自然とのかかわりの中で人間が生み出し、人間が名前を割り振った神々との関係を「自然宗教」と呼ぶなら、それと明確に区別して、自然を超自した次元に人間の存在以前の永遠の昔から「実在する神」として自ら名乗り出た神との関係は、「超自然宗教」と呼ぶに相応しい。

 果論だが、実は、「私は在る」という名の神が自らの名を明かす決定的な出来事が起こる以前にも、その神から人に対して折にふれて働きかけがあった場面についての記述が、旧約聖書にはいろいろとあることが知られている。

 決定的な一例を挙げよう。イラク南部、ペルシャ湾にそそぐユーフラテス川を少し遡ったところに、ウルと言う町があった。今から3千700年ほど前にそこにアブラハムと言う裕福な老人がいた。彼は遊牧民の族長で多くの家畜と奴隷を抱えていたが、自分を葬ってもらう土地と自分の血を繋ぐ息子を持たないために決定的に不幸な老人だった。

 後に「私は在る」と言う名で知られることになる神が、初めて人間にはっきりと語りかけた事実について記録されているのは、このアブラハムに対してだった。神はこの不幸な老人に、もし自分に従えば永住の土地と命を繋ぐ息子を約束すると告げた。

 その言葉を信じたアブラハムは、神に従って行方も知らずに旅立った。そして、道すがら年老いていた不妊の妻から一人息子イザクを授かり、約束の地に入る。

 イザクの子ヤコブ=別名イスラエル=は12人の子をもうけ、イスラエル人の源流となった。

 12人の兄弟の末っ子のヨゼフは、父イスラエルの特別な寵愛を受けたために兄たちの妬みを買い、エジプトの隊商に奴隷として売られた。しかし、ヨゼフは幸運にもエジプトでファラオに取り立てられ、国のナンバー2である宰相の地位に上った。

 その頃、パレスチナに大飢饉が起きたが、イスラエルの一族は宰相ヨゼフの招きでエジプトに移住し、ファラオに厚遇され、そこで大いに繁栄し人口が増えた。その後、ファラオもヨゼフも死ぬと、エジプト人は増え続けるイスラエル人を警戒し、奴隷として酷使し、イスラエルの民はその苦しみに喘いでいた。

 そこへモーゼが現れ、民を引き連れてエジプトを脱出し、奇跡的に開いた紅海の底を渡り、追っ手の軍勢を逃れ、シナイ半島に渡った民は自由解放の身となる。イスラエル人はこの出来事を神の手に導かれた「過ぎ越し」(Pass Over)として記念し、今日でもそれを最大の祭りとして祝っている。

 道すがら、シナイ山に一人登ったモーゼに神が語りかけ、モーゼが「あなたの名は何ですか」と問うと、神は「私は在る、在ると言うものだ」と名を明かした。神の側から自らの名をはじめて人類に明かした決定的瞬間だ。

 それから40年間砂漠をさ迷った後、イスラエルの民はようやくパレスチナに入る。 

 神の約束の地に定住して自由を得たイスラエルの民ではあったが、エジプトやバビロニアなどの強大な国家に挟まれ、その存在は絶えず脅かされていた。そんな中でイスラエルの民を強大な国家として率いてくれる指導者「メシア」を待望する機運がうまれた。このメシアへの期待はイスラエルの国がローマ帝国の植民地支配下に入ったころ頂点に達し、そこへナザレのイエスが現れた。

 イエスは教えた。貧しい人は幸いだ。悪に逆らうな。右の頬を打たれたら左の頬も出しなさい・・・。互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。人は二人の主人に兼ね仕えることはできない、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に帰しなさい・・・。

 自然宗教の信者は、この世で最後の頼りになるのはお金だと知っているから、あくせく働いて蓄財に励む。現代人も財産と命を守るために様々な保険に入る。しかし、そのお金で寿命を一秒も延ばせないことは考えない。

 「私は在る」の神は、この世では「一切ご利益を約束しない」とぶっきら棒に言う。そのかわり、人間の死期を自由に司る神は、自分を信じる者には、死後に永遠の復活の命を与えると約束する。

 笑い話のようだが、金持ちの自然宗教の信者が、あらゆるサプリメントを飲んで99歳で死に、神さまに「お陰様で長寿を全うできました」とお礼を言うと、神様は「バカだね、お前は。私は105歳までの健康を恵むつもりだったのに、金にあかせて無益な薬をたくさん飲んで自分で寿命を縮めたね」と返すだろう。

「私は在る」と名乗る「超自然宗教」の神と、人間の歴史の中に入ったその神のひとり子イエスの新鮮な教えは、イエスの魅力的人格と数々の奇跡とともに民衆の心を捉え、彼こそメシアでは、との評判が立った。

 しかし、イエスの教えはユダヤ人の指導者たちの期待に合致せず、政治的、軍事的に強力なリーダーのイメージから程遠いものがあった。だから、イエスは本物のメシアであってはならないし、偽メシアは排除されなければならないとして、ローマ軍の手を借りてイエスを十字架に磔にして殺してしまった。

 こうして、弟子たちを友と呼んだイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言う言葉を身をもって実践し、その生涯の最後に、十字架の上の苦しみに満ちた死を自由に受け容れ、生前に予言した通り、葬られて三日目に蘇った

 死者が復活して永遠の命に生きると言う出来事は、旧約のイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から出て、死の象徴であった紅海の水を奇跡的に渡って自由な約束の地に「過ぎ越した」史実に因んで、教会によって「新約の過ぎ越し=復活祭」として今日も祝われている。

 キリストの復活の後、弟子たちが「回心して福音を信じなさい」と勧めると、この全く新しい教えの魅力に惹かれた人々―特に貧しい民衆―は、「自然宗教」を捨てて、相次いでイエスの教えを受け容れていった。こうして、「超自然宗教」はユダヤ人の間ばかりではなく、当時のローマ帝国の底辺の人々の間で急速に広まっていった。 

 の魅力の秘密は何か? それは、一言で言えば「超自然宗教」の教えが手垢に汚れた「自然宗教」のそれと真逆だったことだ。

 「自然宗教」の「神」は人間が名前をあたえた命の無い偶像にすぎなかったが、「超自然宗教」の「神」は人間の思いの届かなかった神、自分から名乗り出るまで知られることのなかった「すべての命の源」である生ける神だった。

 「自然宗教」の専らの「売り」は「現世利益」で、後のことは何も確かに約束できなかったが「超自然教」は「この世のご利益」は一切約束しないだけではなく「貧しいものは幸い」だと言い、おまけに、キリストのようにこの世では「必ず迫害される」ことを預言する。

 しかし同時に、貧しく生き、この世で迫害され殺される者には、死後に「復活の命」と生ける神の懐に憩う「永遠の幸福」を確約する。

 自然宗教については前回のブログでよく調べたとおりだ。行きつくところ人をお金の虜にし、その奴隷にするものだった。だが、超自然宗教は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに使えることはできない。」と言って、神を愛し富を軽んじることを教える。

 それだけではない。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか。」「野原の花がどのように育つかを考えて見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。草でさえ神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたはなおさらのことである。」「なにを食べようか、何を飲もうかと思い悩むな。それらはこの世の『自然宗教』の信者が切に求めているものだ。『超自然宗教』を信じて、ただ神の国を求めなさい。」そうすれば、あとのことはすべては神が計らって下さる。

 回心して初代教会に入信した信者たちは皆心を一つにし、すべてのものを共有し、財産や持ち物を売り、各々の必要に応じて皆がそれを分け合った。初代キリスト教徒はマルクスやエンゲルスの理論を待つまでもなく、1800年も前にすでに原始共産主義を実践して生きていた。

 自然宗教にとって確かなのはこの世の命だけ。死んだ後は無に還るか、輪廻の輪にからめとられて、この苦しみに満ちた生涯を無限に繰り返すか・・・、確かなことは何もない。

 超自然宗教においては、この世の命は仮のもので、神とともに生きる永遠の復活の命こそ確かなもの。すべてに優って希求すべきもの。

 繰り返しになるが、このように自然宗教と超自然宗教は、あらゆる点で価値観が180度反対である。

 「私は在る」と名乗る天の父なる神によって地上に送られた神の独り子イエス・キリストの十字架上の苦しみに満ちた死によって、人類の罪はすべて贖われ、そのキリストは3日目に死者のうちから復活して、人類に呪いのように纏わりついて逃れられなかった死を打ち砕き、我々に永遠の復活の命を勝ち取ってくださった。

 復活したキリストは弟子たちを派遣して人々に告げさせた。「さあ、回心して―つまり、自然宗教の神々を捨て、お金の神様を拝む奴隷状態から抜け出して―イエス・キリストの天の御父であるまことの神様を信じなさい。」

 これは、今から2000年前の地中海世界の特に貧しい人々にとって、驚天動地、目からウロコの魅惑的な話、新しい教え、よい報らせ「福音」だった。

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★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(3)

2021-05-07 00:00:03 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(3)

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 人間は自然の中に生きている。人間自身も自然の一部分であると言ってもよい。

 人間は長い歴史の中で自然界のあらゆる存在に名前を付けた。今でも、新しい存在―例えば新しい彗星や新種の生物などーを見つけると、必ずそれに名を付けずにはいられない。名前が付くと存在界にその「もの」の位置が定まる。

 神秘的で広大無辺の宇宙の片隅にある美しい地球に生きる太古の人間は、平時は恵みをもたらすが、ひとたび荒ぶると恐ろしい災厄をもたらす自然のはかり知れない力に畏怖の念をおぼえ、その力の背後に神を思った。思うだけにとどまらず、その神に名前を与えることで、あたかもその「神」が存在するかのように考えた。そして、名付けた神のために社を建て、神官・祭司を立て、供え物をし、祈りを捧げて、平穏な生活を祈願する。

 神道の場合、古くは、神とされたのは、自然のもの、つまり、岩であったり、巨木であったり、山そのものであった。それは、宗教としての素朴さを物語っている。現在の社殿を伴う「神社」の場合であっても、ご神体は神が仮に宿る足場とされた御幣や鏡であったり、あるいはまったくの空間であることもある。

 しかし、そもそもこれらの神は人間の心象に過ぎないから、「存在するもの」としての実在感がない。そこで、人間は見えない神に何らかの具象性を与えようと神々の像を刻んだ。

 ヒンズー教の場合は、人面のシバ神もあるが、象の頭のガネーシャ、猿やヘビの顔の神像もある。イスラエルの民が神としてつくった金の雄牛も同類だ。仏教の場合は好んで釈迦牟尼を像とした。

 しかし、木や、石や、ブロンズなどに細工して作った像には命がない。それらは足があっても歩けず、目があっても見えず、耳があっても音を聞分けることができない。のどがあっても声を発することもないただの物体、「偶像」に過ぎない。

 このように、宗教と言うものは、自然の一部である人間が生み出したもので、大自然の中で生起し、大自然の中で完結する。「自然宗教」と呼ばれるのはそのためだ。キリスト教の源流であるユダヤ教を生んだセム族も、もともとは「自然宗教」の神々を拝んでいた。

 自然宗教は、もともとは人間が自然の力に神を投影し、その神の像をつくり、供え物と祈祷でその神を制御し、恵みを引き出し、禍を遠ざけ、ご利益を得ることを目的とした。人々は神との交渉を神官・祭司に委ね、祭司らは日々の祭祀の報酬として人々の供え物を自分のものにする。ここに、神官・祭司が売るご利益を人々が買うと言う関係性が成立する。こうして、自然宗教は強大な集金マシーンと化していった。集まったお金で、壮麗な神社、仏閣、教会が建て、肥え太っていく。静岡県には国宝級の美術品を蔵する美術館が新宗教によって建てられたが、聖ペトロ寺院やバチカン博物館などはそのはるか上を行く究極の例だ。

 科学の進歩と共に大自然の脅威の仕組みが解き明かされ、予知や制御が可能になると、神々の神秘性は急速に色あせていく。地震、津波、台風などは未だに制御不能だが、人々はそこに得体の知れない恐ろしい神を思うことはもはやない。しかし、自然宗教から生まれたご利益への願望だけは人間のDNAの中にしっかり組み込まれた。今日、人間の不安や弱みに付け入って次々に新しい宗教が生まれ、ご利益を売りにして巧妙に金集めに走る。庶民は病気や貧困や心の悩みなどから逃れようと、現世のご利益を求めて宗教に金を注ぐ。宗教がご利益を売るのは金が目当てであるが、信者もあらゆる欲望を満たす万能・究極の御利益はお金であることに目覚める。こうして自然宗教は人類の歴史の中で進化し、変容し、いつの頃からか祭司も信者も挙げてお金を拝み、お金の神様の奴隷に身を落とすこととなった。 

 お金は一万円札や100ドル紙幣、金貨、銀貨とは限らない。今や預金通帳の残高や、仮想通貨の資産のように、偶像としての見える姿はなくても、人間の魂を支配し、奴隷にする現世最強の「神」としての確かな地位を確立した。現代社会の世俗化と拝金主義はお金の神様、別の名では「マンモン」の神様を、諸々の自然宗教の神さまを押しのけて別格のグローバルスタンダードとして拝む時代に突入した。

 無論、普段の生活の中で接する自然宗教は、荘厳で、崇高な、アリガタイ雰囲気を醸しだしている。仏教のお寺やキリスト教の教会には安らぎや神秘的静けささえも漂わせている。修練や修行を積めば高い精神的境地にも達することができる。芸術も文化も生み出した。

 しかし、原初の人類の間に芽生えた素朴で純粋な自然宗教心の奥には、最初から人間に自分を拝ませ、奴隷として跪くことを要求する意思を持った「お金の神様」が潜んでいたのだ。その神は集まったお金で建てられた壮麗な寺院、神殿、教会の中に巧妙にその本性を隠し、慈愛に満ちた有難い神仏の姿や抽象的偶像の背後に身を潜めている。

 意地悪い私は、四国の札所では、境内に賽銭箱が何個あるか、ヨーロッパの教会を訪れると、聖人像の足元に献金箱が幾つ置かれているかを数えるのを楽しみにしている。

 私の話は何処へ迷い込んでしまったのか。私は一体何のためにこんなことを書いているのか。方向感覚を失ったのか? 

 いや、そうではない!

 それは、私の「インドの旅」とのかかわりで、遠藤周作の「深い河」や「沈黙」の世界の背後にある「インカルチュレーション」のイデオロギーの危険性と指摘し、その誤りを正すためだ。

 ブログ2-3回分で簡単に片付けられるかと見くびって書き始めたが、そうは問屋が卸さなかった。あともう1-2回でケリをつけるつもりなので、もう少しだけ忍耐してお付き合い願いたい。

(つづく)

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★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(その-2)

2021-04-13 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(2)

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 人間は自然の中に生きている。人間自身もある意味で自然の一部分であると言ってもよい。

 自然の中で生活する人間は「絵に描いた餅」は食えないことを知っている。火の用心のポスターに描かれた火からくわえたばこに火をもらおうとする酔っぱらいの行為が愚かな錯誤であることも誰もが知っている。

 「火」という言葉は燃え盛る「火」にも、火の用心のポスターに印刷されたカラー写真の「火」にも当てはまるが、「実在」の火とその「イメージ」の間には区別がある。

 小鳥だって、自分と、鏡に映ったもう一羽の小鳥が同じものでないことぐらい、意外に早く理解するものだ。心をときめかせて相手に近づいていくが、嘴と嘴が冷たい鏡の表面で固く拒み合うのを体験すると、それが虚像であることを身に染みて学習する。そして、失望して遠ざかり、ちょっとすねたように寂しげに鳴く。

 ポスターの炎から煙草に火をもらえないことを学習しない人間に比べれば、小鳥のほうがよほど賢い。

 ところが、分別があると自認する良識者の中に、真面目顔の哲学者の中に、威張った宗教家、名僧、高僧の中にさえ、さらに、あろうことか、カトリックの高位聖職者の間にさえも、小鳥にさえもわかる道理が分からない人が少なくないのがいささか気になる。

 雄大な自然、荘厳な宇宙の一角に、地球と呼ばれる青く美しい星があって、その星のうえで人間が文化と文明を築いてきた。神はその人類の営みの中で自然に生まれ、宗教が誕生した。どのようにしてか? 

 自然は恵みをもたらす。海の幸、山の幸、野の幸・・・。しかし、自然には付き合いづらい一面がある。ひとたび自然が荒ぶると、人間などひとたまりもない。暴風、洪水、地震、津波、火山の爆発、病虫害、等々、枚挙にいとまがない。梅毒に効く薬を見つけたかと思えば、エイズが蔓延する。ペストを克服したかと思ったら、コロナウイルス、やっとワクチンが届いたと思ったら、その先を行く変異腫という具合に、自然の脅威は人間の対処能力を常に超えていく。

 人間はその自然の猛威の背後に意志を感じ取り、そこに神を思うようになる。そして、神を祀り、社を建て、祭司を通して供え物を捧げ、長い祈祷を唱えて、禍を遠ざけ恵みだけをもたらすように自然の神を鎮め、安穏な生活を得ようとする。

 期待する恵みと遠ざけて欲しい禍の種類に応じて、山の神、海の神、火の神、風の神、水の神、疫病神、ついでにお金の神様へと、と際限なく細分化し、やがて八百万の神々が誕生した。これが自然宗教起源だったと思われる。

 そこに、不老不死の願望や勧善懲悪のモラルが付加され、自分はなぜ存在するのか、生きる意味は何か、苦しみは何故あるのか、人はなぜ死ななければならないのか、などの哲学的な問いも加わって、より奥深い宗教心が生まれる。そして、歴史の中に現れた卓越し人物が悟りを得、霊感に満たされて様々な宗教の流れを開いて行った。 

 私たちのまわりの自然な社会には、恐山のイタコの口寄せや様々な民族のシャーマニズムをはじめとして、より複雑な仏教、儒教、道教、ヒンズー教など、あらゆる広義の宗教現象がうず巻いている。品位のある高尚な宗教がある一方で、人を食い物にし、金を巻き上げたあとはゴミのように捨てる悪徳宗教もあまた生じた。

 それらの宗教の間では、時には信条や風習の違いによる緊張や厳しい対立もあっただろう。また、ある地域で生まれた宗教を異なる文化圏に移植しようとしたら、しっくりと馴染まなかったという経験もたしかにあった。

 そういう中で、遠藤周作は少年時代に母につれられてたまたまカトリック教会で洗礼を受けた。社会に出てからは、カトリックの神父たちとの交流があり、教会のミサや冠婚葬祭にも顔を出していたに違いない。

 しかし、カトリック作家を語って日本で生活してみると、こと宗教に関しては、回りが和服姿でいるのに自分だけ洋服を着ているような居心地の悪さを遠藤は感じたのであろう。さらに、小説家志望の留学生としてフランスに住んでみると、キリスト教的西欧社会の中では、キリスト教徒であるはずの自分が一人和服を着ているような気がして、違和感を一層深くしたに違いない。そんな中で、このままでは西欧のキリスト教は日本の宗教風土にいつまでも馴染めないという思いが湧いてきたのは自然の成り行きだっただろう。

 仏教や神道に代表される日本の偉大な先輩たちが構成する宗教クラブに、キリスト教が新参者として加入を許され、仲良くお付き合い願うには、今のままの姿ではなんとも心もとない。

 歴史を振り返っても、フランシスコ・ザビエルが初めて日本にキリスト教をもたらしてからわずか38年ほどの間に、当時の日本の人口1,200万人に対して約50万人(恐らくそれ以上)の受洗者を数えたカトリック教会は、迫害と鎖国で歴史の表舞台からあっけなく姿を消してしまった。

 鎖国が解かれ、キリスト教の伝道が再開されて以来140年経った今日でも、宣教師たちの努力と日本人の聖職者たちの伝道の営みは目立った成果を生むこと無く、鎖国前の50万人に届くこともないまま、いまは急激に減少に向かっている。これはザビエルの頃の日本の人口1200万人の4%の信者を数えたのに対して、人口が10倍になった今日では、信者の数は人口の僅か0.4%と、ザビエルの時代に比べて1/10にまで比率を落としたことを意味する。

 この数字から見ても、キリスト教が日本の社会から受け入れられていないことは明らかで、西欧のキリスト教をそのまま移植しようとしても日本の土壌に根付かず、根が腐って枯れてしまうばかりだ、と言う遠藤の指摘は極めて当を得ているように思われる。そして、キリスト教を日本の風土に合うように変革しなければ、日本の伝統宗教の輪に正規のメンバーとして市民権を得ることは永久に出来ない、という想念が生まれた。

 これが、いわゆる「インカルチュレーション」、すなわち、「キリスト教の土着化」というイデオロギーの指摘するところではなかったか。

 遠藤周作の「沈黙」や「深い河」にはそのような夢想と悲願が込められているのだと思う。

「深い河」が出版され映画化された当時、私はそれ程には思わなかったが、4年前にスコッセッシ監督のハリウッド映画「沈黙」が話題を呼んだとき、たまたまローマに住んでいて、ローマ教皇のおひざ元でも、カトリックの教勢が衰えの一途をたどる現状にうろたえていた意識の高いカトリックの聖職者や文化人の間で、「沈黙」の映画が注目され幅広い支持を得るのを、私は見逃さなかった。

 地球規模で世俗化の波に呑まれて衰えていく教会の現状を憂い、キリスト教をどう改変すれば再び人々の心を掴むことができるのか、真面目に考えようとする良識派のキリスト教文化人や宗教家の間で、遠藤周作のインカルチュレーションのイデオロギーが魅惑的な光を放って注目を集め、評価されたのは理由のないことではなかった。

 「沈黙」では、黙して語らぬはずの神が踏み絵を前にしておののく弱い魂に、「踏んでもよい、踏みなさい、私はわかっている、赦してあげる」とささやきかけ、逆さ穴吊りの激しい苦痛にもだえるパードレには「転んでも良い、無駄に死ななくてもよい」と優しく寄り添う神を描き、「深い河」では、母なるガンジスの聖なる流れにおいて、「ただ沐浴し体を流れに浸せばすべての罪障は洗い浄められる」と言う、慈しみに満ちた赦しの神こそ真の神として礼拝しよう、と言うようにキリスト教を自由に書き換えることによって、宗教の土着化を実現できると遠藤は示唆しているのではないか。

 自然の偉大な包容力と、限りない慈愛と憐れみにあふれた神こそ、普遍的な神の姿に相応しい、また、掟の順守をもとめ違反すれば裁き罰する男性的神よりも、全てを赦して水に流し抱きかかえてくれる慈母のような神こそ、日本の宗教的土壌に馴染む神の姿であると結論付けたいのだろうか。

 小説家遠藤は、その自由な創作的営みが赴くまま、身の丈に合った着心地のいい衣服としての宗教を自由に描いていく。井上洋治神父の「風の家」で提唱された、キリスト教の神を「アッバ、アッバ、南無アッバ!」と唱える世界なども同根である。

 それこそ、2千年間の長きにわたって自分の殻に閉じこもり、何処へ行ってもなぜかその地の文化に溶け込めず、余計な摩擦を生み、争いの種にさえなってきた「空気の読めない」中東の砂漠生まれの不器用なキリスト教に磨きをかけ、ひと皮むいて一段高く昇華させ、如何なる土地の宗教文化サークルにも溶け込める、本当の意味の普遍的 (カトリック)なキリスト教を創出する道ではないか、という野心的な提言とも受け取れる。

 「土着化」、「インカルチュレーション」の必要性を痛感した真面目なカトリック思想家、指導者がまず日本に現れ、次いで欧米で、ローマ教皇の足元にさえも現れ始めているように見受けられる。

 そのような遠藤の思考回路を、次回では具体的に検証していきたいと思う。

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★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(そのー1)

2021-03-23 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(そのー1)

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 「カトリック作家」として著名な遠藤周作の最後の長編「深い河」も、代表作「沈黙」にも、カトリックの正統な信仰の立場からは、根本的に重大な欠陥があると私は言いたい。それは、彼の小説家としての資質の問題ではなく、また彼のキリスト教=カトリックに対する姿勢や知識の問題でもない。問題は彼自身も気付いていないどこか奥深いところにあるように思われる。

 

ガンジス川の沐浴風景

 

それをわかりやすく説明するには、私の経験に基づく一つの隠喩が助けになるかもしれない。

 

「年の瀬の寒い夜、コートの襟を立てた男が、薄暗い四つ辻の掲示板の前にゆらゆらと立って、しきりに何かしようとしていた。よく見ると、彼は煙草を一本くわえ、街灯にぼんやり照らされた「火の用心」のポスターに描かれた焚火の炎にしきりに煙草を押し付け、何とか火をつけようとしていたのである。足元もおぼつかない彼は、なぜ火がつかないの?と首をかしげながら、なおも一心に火をもらおうとしていた。」

 

 古くから「絵に描いた餅は食えない」という。それは食える「餅」があることを前提としている。人は、ポスターに描かれた火にも、燃えさかる火にも同じ「火」という言葉を充てる。

遠藤の悲劇は、彼がキリスト教に対して並み外れた関心を抱き、実際に多くを読み、多くを書き、かつ語っているにも関わらず、その生涯を通じて一度も生きているキリストに出会って触れる機会を持たなかったことに尽きるのではないか。そのことは、彼の生い立ちを辿れば≪さもありなん≫と納得がいく。

 

若き日の遠藤周作

 

1923年生まれの周作が私より16歳上だと言うことを別にすれば、互いに似たような人生の軌跡を辿っている。

1932年、遠藤の父は関東州大連で妻と離婚し、愛人と再婚したが、周作は母に連れられて帰国し、19338月、神戸市の六甲小学校の4年に転入した。

私の父は旧内務省の高級官僚だったが、戦後の1947129日に公職から追放され、翌年母は他界した。父は2年後に再婚するが、私も小学4年で遠藤の校区に隣接する高羽小学校に転入した。

周作は12歳のときトリック夙川教会で洗礼を受け、私も12歳のとき近くの六甲教会で洗礼を受けた。周作は灘中学に進み私は六甲中学へ、周作は上智大学の予科へ進み、私は六甲の高等部へ、周作は慶応大学へ進むと、私は同じ私学の上智大学へ、といった具合に、二人とも同じ年ごろに、同じような場所で、パラレルな歩み方をしてきたことになる。

 

違いは何か。

 

遠藤の母郁(いく)は、姉の通うカトリック夙川教会で19355月に洗礼を受けた。彼女が帰国後の短期間に受けた信仰教育は当時の慣例どおり、カトリックの教理を平易な問答集にまとめた「公教要理」という小冊子の説明をひと通り聞くだけの簡単なものであったと思われる。3ヵ月おくれて周作にも洗礼が授けられたが、周到な準備が施されたとは考えにくい。

周作の学校環境は宗教とは無縁の私立灘中だった。1939年に中学を終えた周作が、複数の旧制高校を受験して軒並み失敗した。19414月にようやく上智大学予科に入るが、翌19422月にはそこを退学している。1943年に慶応義塾大学文学部予科に入学し、まもなくカトリックの学生宿舎白鳩寮に入寮したが、そこは東京大空襲で焼失している。1945年に慶応の仏文科に進学してようやく大学生になったものの、勤労動員で勉強どころではなかっただろう。

こうしてみると、大連での幼少期にはじまり、母親の受洗の成り行きで洗礼を受けた少年時代にも、また中学、予科(今の高校相当)、大学までの期間を通じて、カトリックの信仰が芽生え、根付き、育ちゆくのに適した肥沃な宗教的環境にはなかったものと思われる。

私の場合は、母方の親戚がみなプロテスタントのクリスチャンで、母は際立って純粋な信仰の持ち主だった。私は物心ついた頃からいつも母に連れられて礼拝に与かり、日曜学校にも通った。灯火管制の下でもクリスマスには母とツリーの飾りつけをしながら讃美歌を歌う非国民だった。父が山形県の警察部長をしていたころ、家族は倉蔵村(今は天童市の一部)の白田弥右衛門という庄屋さんの離れに疎開していた。父は妻子がひもじい思いをしないようにと、地位にモノを言わせてたっぷり調達した食料を毎週疎開先へ届けに来た。駅で借りた自転車の荷台に特大のリュックをくくりつけると、前の車輪が浮き上がるほどだったと父は笑った。それは、妻子が一週間生き延びるために十分なはずのものだった。だが、母は近所の貧しい人たちを見ると貴重な食料の一部を分かち与えた。そのあげく、三人の子供たちにひもじい思いをさせないために、自分は十分に食べずに我慢したのだろう。終戦の頃には栄養失調で体を壊し、やがて肺結核で帰らぬ人となった。人は、内務官僚トップの奥方が栄養失調で死ぬなんて、と信じられない顔をしたそうだ。

 

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ513)

 

という聖句があるが、母はそれを地で行った。当時は幼すぎて分からなかったが、そんな母の背中を見て育った私の魂には、彼女の中に燃えていた愛が、生きた信仰の火種としてしっかりと蒔かれていたのだと今にして思う。母が命に代えて子に残した信仰の遺産だった。

周作が通った灘中学は、当時から受験校だったが、私は近隣の六甲中学に進んだ。スイスでカトリック青少年教育を学んだ初代校長の武宮隼人(はやと)神父は、父兄会の日、居並ぶ父兄を前にして、「我が六甲学院はキリスト教的人格教育を旨としております。お子さんを東大に入れたいとお考えの親御さんは、学校の選択を誤っておられますから、早々に灘高に転校させるようにお勧めいたします」と大見栄を切った。今どき、校長がそんなことを言おうものなら、その私学は即座に潰れてしまうことだろう。

その校長の方針で一人の外国人神父―大抵は英語の教師―が、学年担任として6年間ずっと同じ生徒たちに寄り添う。また、キャンパス内にある修道院には10人ほどの神父が住んでいて、放課後に生徒たちの多くは彼らの書斎でじっくり信仰の手引きを受けた。

その結果、中学一年が3クラス165人の生徒からはじまり、高校3年で130人ほどが巣立っていく頃には、卒業生の約三分の一が洗礼を受けていた。さらに、50年もすると、同窓会出席者の半数が信者になっていた。在学中に蒔かれた信仰の種は、時限爆弾よろしく卒業後あちこちで弾けて実を結んだのだ。

周作の少年期や青年期から、信仰を命がけで生きる人物に出会って師事したという事実は見えてこない。彼自身も「生ける神」との決定的な出会いについて信仰告白をしていない。

コルコタのマザー・テレサの「死を待つ人の家」では、回教とヒンズー教とを問わず、誰でも受け入れられ看取られる。一人一人の信条が尊重されて、臨終の洗礼が強いられることはない。また、私が師事した澤木興道老師は、昭和の最後の雲水と呼ばれ、娶らず、寺持たず、生涯を流浪の日々に甘んじた高僧であったが、時おり京都は鷹が峯の破れ寺に草鞋を脱ぐと、京大の哲学の書生などを集めて参禅会を開かれた。東京から馳せ参じる私には、「お前は耶蘇(キリスト教徒)だな。まあよろしい、そこで座っていなさい」と言って、内弟子として可愛がってくださった。

マザー・テレサも澤木老師も実に寛容な人たちだった。しかし、遠藤のこだわるキリスト教の難点は、ただの寛容さの問題だけではなさそうだ。

 

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。」(1コリント122-23)と言う聖パウロの聖句がある。

 

ユダヤ人は信じるために奇跡を要求するが、それは与えられない。異邦人は自分の知恵と努力で宗教を追求するが、決して生きた信仰に辿り着くことはない。人間とは、《ケリグマ》(福音を説く人の肉声)に導かれて信仰に辿り着くものなのだ。

安泰時では、毎朝の勤行のとき、達磨大師から弟子へ、その弟子から弟子の弟子へ・・・と仏法伝授の不断の系譜が澤木老師に至るまで、禅師たちの名前が綿々と唱えられた。これも、信仰の神髄と悟りが生きた信仰者の魂から弟子の魂へ途切れなく受け渡されていくものであることを物語っている。

遠藤の場合、命を託するほどの信仰の導師、霊的指導者に生涯めぐり合うことがなかったと言うことではないか。

母の膝をはなれた私には、6年間担任のクノール神父、六甲教会のブラウン主任司祭、上京してからはホイヴェルス神父のような優れた導師が常にいてくださった。50歳でローマに神学を学ぶころには自分と同じ1939年生まれで世界的に有名なカリスマ指導者、キコ・アルグエイオ氏に間近に接し、聖教皇ヨハネパウロ2世にも、マザー・テレサにも直接触れる幸せを得た。 

「カトリック作家」を売りにして、小説家としてのキャリアーを順調に歩んだ遠藤周作は、小説の素材を求めて聖書を読み返し、西洋のキリスト教文学も広く渉猟しただろう。しかし、生きて信仰を証しする生身の人間から、魂の触れ合いを通じて「信仰」を伝授された体験を語っていない。

 

ベナレスのガンジス川岸辺の火葬風景

 

周作が「ヨーロッパで触れたキリスト教は、父性的原理を強調するあまり、母性的なものを求める日本人の霊性に合わない」と不満を抱いた、とか、それを「日本人としてキリスト教信者であることが、ダブダブの西洋の洋服を着せられたように息苦しく、それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と言って、キリスト教を日本の精神風土に根付かせようと腐心したとされているが、これらはみな、インカルチュレーション(キリスト教信仰の土着化)というイデオロギーと深く関係している。

人はいとも簡単に「キリスト教的唯一神論と日本的汎神論の矛盾」が遠藤の生涯のテーマだったとか、遠藤が「深い河」で目指したものは「日本人のキリスト教」、別の言葉で言えば「世界に通じる普遍的なキリスト教」だったとか言うが、それは一体何を意味するのか?遠藤に深い影響を与えたジョン・ヒックの「宗教的多元主義」とはどういうものだろうか?は批判的に厳しく検証されなければならない。

 

 

しかし、今回もすでに長くなりすぎた。

遠藤の魅力と、危険性、彼の陥った誤りにつての考察は、次回のブログに譲るとしよう。

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第19信 サンガムの沐浴

2021-03-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から

19信 サンガムの沐浴

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何という偶然か。

 

私がアラハバードに着いた翌朝は、ちょうど祭の初日に当たっていた。

ジャムナ川とガンジス川の合流するこの地は、何千年もの昔からヒンズー教徒らにとって最も重要な聖地であった。

 

 

何百万とも知れぬ巡礼の群れが、ヒマラヤの森から、デカン高原の奥地から、ケープ・コモリンの椰子の木陰から、星の暦を頼りにこの日に向かって巡礼の杖を進める。

一年に一度の祭り、そして六年に一度廻ってくるこの大祭に、インド人は必ず一度はやってくる。

早朝宿を出て、サンガムと呼ばれる合流点の砂州に向かった。

 

 

 

日の出を期して沐浴すべく、たくさんの人々が、手に手に花と真鍮の手桶を持って川に向かう。

サンガムまで小舟で近づく。外国人観光客のためには別の小舟が用意され、盛んに客引きをやっていたが、私は巡礼の群れにまじって行くことにした。小さな舟に年寄り、女、子供、田舎者、都会っ子、みんなここでは同じ人間。ぎっしりと乗れるだけ乗るともう沈まんばかりだ。

朱墨をとかしたような朝日が河霧の中に差し入ると、累代の王が岸辺に築いた城塞の壁がバラ色に染まる。

 

 

どの舟もどの舟も巡礼者の語らいを満載して静かに進む。

サンガムが見えた。

何処までが砂州で、何処から河なのか全然見当がつかない。ぎっしりと集まった舟は互いに舟べりを接するほどで、身動きもならない。人びとの叫び声、船頭の怒鳴る声、子供の泣き声。騒然たる中に、水上警察の拡声器の声が加わる。

 

 

 

川の水が干上がったかと思うほどの人の波。自然のスケールの雄大さといい、そしてまた伝統の持つ重さといい、30万人を動員したカトリックの聖体大会も全く影が薄くなってしまうほどだ。かえって、聖体大会を成功させたものの背後には、無意識のうちにインド人の血の中で騒いでいるサンガムの祭りへの郷愁があったのではないかとさえ思った。

 

写真を撮るのも忘れて、タダ呆然と眺めていると、船頭が「お前も早く着物を脱いで入れ」という。

さあ困った。不信心者の私にはどうしてもこの汚い河に入る気がしない。しかし、よく見ると同じ船で入らぬものは私だけ。

 

さっきまでサリーをまとい、白い腰布を巻いて世間話をしていた善男善女は、いつの間にか薄いものに着替えて水の中に入っている。浅瀬に立って朝日を礼拝し、何度も頭まで水の没し、花をまき散らし、水を口に含み、川底の泥をすくって指で歯を磨き、・・・聖なる河にはバイ菌は住まぬものと見える。最後に真鍮の手桶に水をいっぱい汲み取ると、彼らは舟に上がってくる。男も、若い娘たちも巧みに濡れた着物を着換えていく。素晴らしい芸術だと思った。

 

すっかり清められた彼らは、高く上った陽の下を晴れ晴れとした顔で元来た岸へもどっていった。

彼らはこれから生命の水をシバ神の神殿へ捧げに行くのである。

ヨルダン川のヨハネの洗礼。日本人もみそぎをする。身体を清める時、心も浄められるのであろうか。

 

川岸のガート(木浴場)

 

(今回のブログに添付の写真はウイキペディアから借用したものです)

 

 

1964年の旅には、勿論カメラを持参していた。しかし、まだフイルムカメラの時代で、そのネガは未整理のまま膨大な数のネガの間に眠っていて、見つけ出すことはできない。中には失われたものもあるだろう。

 

改めて調べてみると、このサンガムの沐浴は世界最大の祭りで、1億人とも1億3000万人ともいわれる巡礼を集めるのだそうだ。日本の全人口に相当する数が巡礼すると言うのだから半端ではない。

 

最後の長編小説「深い河」を1993年の発表した遠藤周作は、1990年2月にその小説の下調べのためににインドに旅行、ガンジス川のほとりの町ベナレスを訪れているが、アラハバードまで足を延ばしたと言う記録はない。ベナレスには私もアラハバードのあとに訪れたが、そこまでは直線距離で110キロ、今なら車で2時間余りの距離だろう。

 

ベナレスを流れるガンジス川の岸辺にもガートと呼ばれる沐浴場が連なっている。

遠藤周作は彼の代表作でもある「沈黙」を1966年に発表して以来、「深い河」に至るまで、一貫してキリスト教と日本人の心との関係について独特の解釈を展開してきたように思う。

私は、遠藤の理解したキリスト教と日本の精神風土との関係性に、ある意味で誘惑的な、しかし、極めて危険な思想が隠れていることを以前から見て取っていた。

 

しかし、ここにそれを展開したら、長くなりすぎるので、次回のブログで私の考えを述べてみようと思う。乞う、ご期待。

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