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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ インドの旅から 第18信 月夜のドライヴ

2021-03-03 00:00:01 | ★ インドの旅から

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インドの旅から

18 月夜のドライブ

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十字架の丘の僧院に別れを告げて、ダグラス機でハイデラバードへ夜間飛行。見下ろすとただ黒い地面ばかり。夜間、電灯がつくのは大都市の中心部だけなのだ。

回教徒の手で建てられた古い都市、ハイデラバード。ここの博物館は外にも名高く、古代インドのものから、イスラム文化時代、そしてとくに植民地華やかなりし大英帝国の文化遺産には、目を見張らせるものがあった。

 

お正月にはボンベイ(ムンバイ)の日本総領事館の新年パーティーに出た。美しく着飾ったきもの姿の女性が印象的だった。

 

汽車でアーメダバードへ。私はそこでインドの宇宙線研究所を見た。若い科学者たちの学寮で3日間を過ごした。彼らは非常に幸せそうに生き生きと研究している。

 

ニューデリー。ガンディーの墓。ネルーの墓。どちらも古墳のように大きく、献花の絶える日が無いのだ。

 

 

アグラ。タージ・マハール、美姫の追憶は今もここにある。私は貴重な一日をここに費やし、世界の七不思議のひとつである月夜のタージを味わった。

 

 

 

カジュラホ。

アグラから少し下がった辺鄙なこの地に、人呼んでセクシーテンプルと言う寺院がある。雲一つない瑠璃色の空を突き上げる四基の大寺院。その黒褐色砂岩の屋根、壁、そして内部の至る所には、まるで開放的でギラギラとまぶしい男女の合歓像がならんでいる。この一面に目を閉じると、インド全体に対する理解が狂ってくる。

 

 

カジュラホ寺院の近くの国営ホテルで、私は気の良いインド人紳士と仲良くなった。彼は石油会社の外交員で、各地のスタンドの経営状況を視察して回っている。何日も、日に何百キロも自分の車で移動すると言うことだった。

 

すっかり意気投合した二人は、次の目的地が同じなのを知って、コップのビールをグイと飲み捨てて、早速出発することとなった。

 

インドの道路は概して非常に良い。4車線ほどの広さの道の真ん中が分厚く舗装されていて、舗装されていない側道部の外側には古い立派な並木がどこまでも続いて、濃い緑の陰を落としている。この高原の半乾燥地帯にこれだけの樹木を育て上げるのは並大抵のことではない。大名行列を護った東海道の松並木もこれには及ぶまい。今の日本には、これにくらべられるほどの巨大な並木はどこにもない。

 

道路は英国人に敷いてもらっただろうが、この並木はインド人の愛情なしには育つはずがない。1-2ヵ月で枯れる草花を街角にちょこちょこ植える予算の一部で、100年、200年先を考えて、郊外の街道に樹木を育てるほどの心が日本人にも欲しいものだと思った。

 

道はどこまでもまっすぐである。対向車はほとんどない。私は名神ハイウエイの話を彼にした。自分の経験では、道が適当にカーブしていることは居眠り運転防止のためによいことだと思うと言うと、彼は「インドではどんなに長いまっすぐな道を敷いても心配はないよ。ドライバーが仮に熟睡してしまっていても、目的地に着けばちゃんと車が止まるように出来ているんだからね」と言った。

 

怪訝そうな私の顔を見て、ニヤリとした彼は、向こうからぐんぐん近付いてくる2頭の水牛に引かれた荷車を顎で示した。すれ違いざまに見ると、なるほど、馭者は荷台の幌の陰で高いびきであった。インドの主要交通機関は今もなおこれであったのだ。水牛は明朝無事に目的地について、ご主人様のお目覚めを忍耐強く待つことだろう。

 

落日荘厳。

 

月が昇った。

 

時速70マイル(112キロ)も速いとは感じない。話はいつか独身論に及んだ。彼はまだ結婚していなかった。インド人としては例外的に遅いほうだ。彼はカトリックの聖職者の独身生活は自然に反すると言って反対した。私も早くいい人を見つけて身を固めるようにとおせっかいなアドバイスをしてくれた。そう言えば、ボンベイでもヒンズー教徒の篤信な婦人から同じ勧めをいただいたことがあった。神父になるなら五十を過ぎてからにしなさい。家庭生活を十二分に堪能したあとで・・・と言うわけだ。カジュラホのセクシーテンプルの精神である。

 

私も司祭職を一つの職業として見たとき、独身は絶対的条件ではあり得ないと思う。イエスは独身のまま十字架の上で果てた。しかし、十二使徒の中で、若いヨハネ以外の何人が童貞者であったかは興味深い問題だ。聖書には使徒の頭のペトロに姑がいたと記されている。と言うことは彼には妻も子もいたことを示唆している。

 

どの宗教にも独身の隠遁者はいる。しかし、キリストの浄配としての修道的孤独、あの限りなく豊かで奥深い孤独の真の価値に対する理解は、恐らく最も正統的で円満なキリスト教の中以外では見出すことは難しいのではないだろうか。

 

多くのカトリック者にとってさえ難解なこの理想は、召されたものにだけ啓き示される神秘であるのかもしれない。インド人の常識に合わないのは当然であろう。

 

我々は車を止めた。平原の一本道。夜の11時を回っていた。車外に出て降り注ぐ青白い満月の光にぬれていると、気がふれそうになる。

 

彼は隠し持っていたウイスキーの瓶を取り出した。インドの多くの町には禁酒令が敷かれている。私が一口付き合うと、彼は安心して楽しげに飲んだ。

 

すっかり良い気分になった彼に代わってハンドルを握った私は、月夜の道をアラハバードへ向かって疾走した。

 

 

 

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第17信 クリスマラ・アシュラム (十字架の丘の僧団)

2021-02-24 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ー インドの旅から ー

第17信 クリスマラ・アシュラム(十字架の丘の僧団) 

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 聖体大会の終わった後、エローラとアジャンタの巨大な石窟僧院を見に行った。これらは、仏教のほかヒンズー教やジャイナ教をも含む古代インドの修道者たちが、雨期に共同生活を営んだところである。

 

アジャンタの石窟壁画

 それから船でゴアへ下った。ゴアに来ると、人はインド洋と暗黒の大陸を越えて、遠い彼方のポルトガルに運び去られたような気がする。

 今は亡きネルー首相が、生涯にただ一度兵を進めたのはこのゴアに対してであったが、ポルトガルの植民地からインドに帰属した後も、そこは相変わらず全く異質な雰囲気を保っている。

 オールドゴアの中心にある古い聖堂では、聖フランシスコ・ザビエルの遺骸が教皇の訪印に合わせてか、巡礼のために開帳されていた。時期的に少し遅かったせいか、大聖堂の中はガランとして人気が少なかった。

ザビエルの遺骸のあるボム・ジェズス教会

 奇跡で名高い右腕を切り取られたままの聖人の体は、銀細工に縁どられたガラスの箱の中に横たわっていた。あちこちの博物館で見慣れたミイラにくらべれば、確かに非常に保存状態がいいと言わなければならない。しかし、ぼくはただこれが本物だと言う思いの外は、少しも感情の波立ちを覚えなかった。自分はたぶん、人並み外れて信心の薄い冷淡な人間なのかもしれない。

4、5日ゴアの若い家族のもとで体を休めさせてもらい、椰子の浜辺で水泳を楽しんだのち、空路マンガロールへ下り、さらに汽車でコーチンへ向かった。コーチンはこの旅で唯一二度訪れた場所だ。

 今回も、バスを3つも乗り継いで、丸一日かけて、ゾウやトラの棲む原始林を通った。客を乗せたままでは重すぎて渡れぬ木の橋へさしかかると、みんな降りてバナナをかじりながらのんびり歩いて渡った。

バスを降りて橋を渡る

 高原のを過ぎると、やがて急峻な山岳地帯に入る。よくもまあこんなところに道を、と思うような固い岩の断崖に、背筋の寒くなるような道が一本刻まれている。さすがはインドは大国だ。とんでもないところで意味を解しかねるような大工事に惜しげもなく金を注ぎ込んでいる。

 やがて、ヒマラヤ以南では一番高い山々の峰近くにたどり着く。そこには低い石の柱が二本ポツンと立っていて、クリスマラ・アシュラムと書いてあった。十字架の丘の僧団と言う意味である。

 丸坊主に真っ白の髭をのばし、黄衣の肩からズタ袋を下げた隠修士が一人、同じバスを降りた。クリゾストムというジャコバイ(ヤコブ教会ともいう古代教会以来の一宗派)に改宗し、この僧団に加わった人である。

クリゾストム修道士

 二人は夕暮れの丘をゆっくりと登って行った。灯がポツンと見える。老修士は其方へ道を外れて行った。僕もそれに従う。

 竹組みの上に椰子の葉を編んで置いただけの粗末な小屋と、そのそばには建築中のしゃれた山小屋風のものがあった。灯はその掘っ立て小屋の隙間から漏れていた。

 表からのぞき込むと、額の高いやせた紳士が現れた。英国人の牧師さんである。そして医者でインド人の夫人に2人の可愛いい子供たち。奥には牧師さんの老いた母親もいた。

 手作りのパンとジャムとしぼりたてのミルクで夕食を共にさせてもらった。

 老修士と牧師さんは親しげに話し合っている。一家は中印国境紛争の難をのがれて、ヒマラヤからここへ医療伝道の拠点を移してきたばかりであった。話のあいだ中、混血の姉弟がとても可愛く仲が良かった。

 楽しいひと時を終えて別れると、二人は道を急いだ。僧院ではちょうど聖務の晩の祈りが歌われていた。シリア的な神秘な美しいメロディーが僕の心をたちまちにして捕えた。

 次の日、朝霧が晴れてゆくと、広い僧院の全景が浮かび上がってきた。浅い谷ひとつへだてて青黒い岩山が高くそびえる。これがクリスマラ(十字架の丘)である。ずっと昔からこの山は霊山として土地の古いキリスト教徒をはじめ、ヒンズー教徒や回教徒にまでも巡礼の対象とされてきた。クリスマラの名の由来は、大昔、インドにやってきた無名の僧侶が、人跡まれなこの山の頂に、大きな十字架を押し立てて行ったことによるらしい。

クリスマラアシュラムのスケッチ

 数年前にローマ教皇の特別の赦しを得てここに全く新しいタイプの僧院が建てられたとき、修道士たちは自分たちを十字架の丘の僧団(クリスマラアシュラム)と呼んだ。元ベネディクト会系だった二人のヨーロッパ人の修道士が指導するこの僧院は、クリゾストム修士をはじめ何人ものインド人修道士と共に、ヴェーダ時代以来の古い隠遁者たちの生活を実践している。黄衣をまとい、床に座して瞑想し、精進もの以外を食せず、シリアの典礼に従い、きびしい修行に励んでいる。彼らは、インドの伝統的精神文化にキリスト教的生命を受肉させようとしているのである。彼らは、こうしたキリスト教の土着化の努力を通じて教会全体に独自の貢献をしようとしている。

 彼らはこの清らかな大自然の中で、荒野を開墾し、耕作し、牛を追い、そして神への賛美を歌い上げるかたわら、教会一致のためにも働いている。

 1世紀ごろから布教が始まり、孤立して次第に分離していった教会が、ラテン臭の強いローマに対して反発を感じるのは無理もない。このような新しい僧団の果実が、無用の抵抗なしに教会の一致融合を可能にする。

 典礼に関しても彼らはカトリックとして、東方典礼の価値を実践的に再評価している。

 唯一の隣家である牧師さん一家が、ほかならぬこの場所に引き付けられてきたのも、実は偶然ではなかったのである。

 やがてクリスマスの日がやってきた。夜中の3時、星空のもと、神秘な静けさのうちに主の降誕の祝いが始まった。いつの間にか、そしてどこからともなく、たくさんの貧しい山の住民たちが集まっていた。そのなかの多くは、普段は牧師夫人のところへ薬をもらいに来る人々に違いない。やがて、彼らは長い詩編を土地の言葉で美しく交唱しはじめた。

 降誕の物語を歌い終わると、みなは聖堂を出て、星を宿した夜露を踏んで、ひんやりとした大気の中へ行列を繰り出す。司祭のささげ持つ十字架の前後に、修道士や土地の男女がつき従う。

聖堂裏手の草原に集めた薪に火が入ると、輪を描いて立つ人々の顔が明るく浮かび上がる。牧師さん一家の顔も見える。

 やがて、みんなして火のまわりを廻りはじめる。十字架をかざした司祭がまわり、黄衣の修道士たちと会衆全体がまわる。みんな手に手に香の粒をもらい、それを火に投げ入れながら踊るようにしてまわる。影絵を見る思いがした。不思議な沈黙が、聖夜の清らかな空気に縁どられた夢の動きを一層神秘的にした。

 聖堂にもどって典礼が続けられる。アポロンの賛歌や、真言の声明(しょうみょう)と妙に通じるところのあるインド化されたシリアのメロディーは、即興的な装飾音に彩られてとても美しい。それは、ローマ的な合理的聖歌よりずっと親しく懐かしい響きであった。

 こうして、いつしか東の空が白み、クリスマスの夜は明けた。

 十字架の丘の僧団。それは最も伝統的、古典的で、しかもまた、最も現代的である。

 インドには、このほかにもいろいろな修道会が創立されている。中でも、バンガロール市に修練院を持つカルメル会の一派は、創立以来長い潜伏期を経て、今爆発的発展を遂げている。バンガロールでは修練者の数だけで200人を数え、聖体大会中、叙階された司祭の多くはこの会に属するものであった。マザーテレサの会をはじめ、女子の会もまた多く創立された。そしてこうした雰囲気の中から、多くの隠れた聖人が生まれ、人々の心に懐かしく記憶されていくのである。

 日本の教会は、プロテスタントを合わせても、100万に満たない。これではインドにおけるように民族的霊性の結晶としての新しい修道運動を醸成するには、母胎として不十分であるかもしれない。

 しかし、もし日本の教会がキリストの神秘体の全体に対して、真に個性的な貢献をしようとすれば、当然、その精神的運動の中核として、新しい理念に導かれた修道会も生まれてくるに違いない。僕たちは、今からその来るべき日のために道を整えておかねばならないのではあるまいか。

伝承によれば、キリスト教のインドへの伝道は1世紀、キリストの12使徒の一人聖トマに遡る。聖トマはインドの南西のマドラス(今のチェンナイ)で殉教している。私はその殉教の丘の教会にも詣でた。それに比べたら、日本の教会なんと歴史の浅い新しいものだろう。

あと2-3回でこのインドの旅もおしまいです。

 

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第16信 ローマ教皇がやってきた PART-3

2021-02-11 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ー インドの旅から ー

第16信 ローマの教皇がやってきた

PART-3 :2019年・日本)

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 PART―2 で止めておくのが無難だと言うことはよくわかっている。しかし、その後の反響を見るうちに、やはりもう一歩踏み込んで PART―3 を書くべきだと思うようになった。それほど今回のフランシスコ教皇の訪日が残した問題の根は深いと言うことだ。

 私はこの1年余りの間、いろいろ考え、またいろんな人と対話し、いろいろな声を聞いた。まず、直接ブログに戴いたコメントから始めよう。

Unknown (M.G.)

神父様
 ありがとうございます。私もあの日ドームにいて同じようなことを感じていました。正直なところ、教皇を直接見たという以外には何の感動もありませんでした。でも、東京ドームは大成功だったと自画自賛して悦に入ってる人が多い中、天邪鬼(あまのじゃく)に思われるのもいやなんで、聞かれれば「よかったです感動しました!」みたいに答えてました。ですので、こうして神父様が「真実」を語ってくださったのは大変ありがたいことです。

Unknown (一読者)

 最新の神父様のブログ拝読させて頂きました。一昨年の教皇様の東京ドームのごミサの件、よくぞあそこまでバッサリと電通を糾弾して下さり痛快です。ごミサ出席がかなわなかった多くの信者の方々は何かもやもやした気分を抱えていらしたと存じます。そのもやもやの原因を神父様がはっきり示してくださった良かったです。
遥か半世紀前のインド、ムンバイでの教皇様の世界聖体のごミサ出席は世界広しと言えども、日本人では神父様只お一方。その神父様がムンバイでのごミサと一昨年の東京ドームでのごミサを対比してお書きになったのは、とても迫力がおありになりました。お若い時代の神父様の貴重なご経験が長い年月を経て今回のブログに結実したのは、ある意味とても有意義と存じます。
(一読者)

ブログへの直接コメント以外にも、メールや SMS などで、いろいろな反響があった。たとえば、

谷口神父様

2回目のブログを拝読して…、思ったことは、フランチェスコ教皇の来日の希望は、長崎、広島の司教だけ「元々日本の多くの司教は、教皇を招きたくなかった」と言うことだと思います。

前回の聖ヨハネ・パウロ2世の時には、司教団を代表して「カトリック中央協議会」が主催したので、信徒は無料だったし、正常な歓迎…。

問題は、フランチェスコ教皇を歓迎しない<日本司教団の劣化…>だと思います。どうして、そんなにひどくなってしまったのか?

(K.O.)

また、

谷口神父様

お久しぶりにメール致します。PART-2 は息もつかずに(ちょいとオーヴァーだが)読みました。

さて、私達は素直に、抽選を申し込み、待っていました。もちろん外れました。

やはり、各教会の世話人(教会によって名前は違うようですが)クラスの人は当選したようです。私の親友は、娘さんがシスターになるくらいで、本人もイグナチオの聖体奉仕者なので、当選して、夫婦と次男が参列できたと、素直に喜んでいました。

今回の、谷口神父様の、解説を読んでさもありなんと、思いました。

ちょっと考えれば、日本の信徒数を、40万人としましょう。

うちの教会でも、名簿上の信徒は2500人以上いるらしい。主日の御ミサに来るのは、一番多い、10:30の御ミサでも、ベンチ席、10列×2(左右)×6人=120人+左右の臨時椅子席約20人+聖歌隊約20人+案内者他10人=160人です。ほぼ満員でした。

他に、夕方のミサも含めて3回ありますが、それを合わせても、250人(10%)で精一杯です。

その割合で行くと、日本中で40万人×0.1=4万人が主日の御ミサに出て来るのが精一杯でしょう。その中で、関東地区に限れば、東京ドームミサに出られる人は、何人くらいでしょうか?

但し韓国人ミサは、関口だけでしょうが、満員になるようですから、彼等が来れば、だいぶ増えます。イグナチオの英語ミサは、ほぼ満員でした(一回行った経験)。

日本の司教協議会は最後まで、消極的でした。殆ど、最後まで、少なくとも東京教区からは、我々に何のPRもなく、全く準備への協力要請(協力指示があっても不思議はないのに!)はありませんでした。むしろ、長崎の原爆関連の事が話題になるくらいでした。私達の教会でも、長崎行きの切符を買って、向こうで参列した人が居られました。感激していました。

それが、神父様の“電通関与”と言う情報で、全てが判りました。“人間万事金の世の中”と言われますが、確かにそうです。電通は、儲かると、踏んだのでしょう。電通に文句を言うべきではないかも知れません。電通が、世の中の事を知らない純真なシスターを騙すとしたら、非難されるでしょう。しかし、教皇様来日が嬉しくない(!?)司教協議会が、“これ幸い”と乗ったと考えれば、全てが理解できました。素晴らしい、情報、それの分析、有難うございました。

私の教会では、250人はいる御聖堂に、20人しか入れません。後は信徒会館のホールに20席です。それを、土曜日から日曜日にかけて、6回やってくれるのですから、関口が日曜日の昼ミサをやめてしまうのとは大違いで感謝しています。それにしても、窓は開けっぱなしなので、ズボン下は二重にはき、ホカロンを二個持って、明日も行く予定です。司祭もマスクをつけてやるし、信徒は、歌を歌わないばかりか、今度の二度目の非常事態宣言で、主の祈り迄、声を出してはいけないことになりました。それでも、明日も、2時間近くかけて、出掛けるつもりです。

長い、とりとめもない文章にお付き合いくださって、有難うございました。くれぐれもご自愛専一の程をお祈りいたします。

(M.O.)

また、プロテスタントの信者さんからは、

谷口神父様

 いつものように前回のブログは大変に力のこもったものでしたから最後まで読ませて頂きました。

 お伝えしたようにあの東京ドームでのフランシスコ教皇様のミサには、クリスチャンでない甥っ子が、お得意先からの招待で参加し、詳細を知らせてくれました。

 今回のオリンピックでも、またGo Toキャンペーンでも、コロナ対策のあれこれまで、電通が関与しては、中抜きをして人々の税金を掠め取っていることに、腹を立てています。

 電通関係者から、戦後大本営の生き残りが創設した会社なので人々の心をコントロールするのが上手なので、(人心を惑わすことに長けている)気をつけるようにと聞いたことがあります。

(C.M.)

そのほか、

神父様

神父様も書いていらっしゃいますが、私の印象に残ったのは、現今の日本のカトリック教会が教皇様ご来日のプログラムに何の力も発揮できず電通に丸投げした情けない姿です。教皇様ご来日は直前に決まったことではありません。私もずっと所属教会に通っておりましたが、教皇様ご来日の話は信者に対して公の席で直前まで話題に出たことはございません。その話題は教会の割り当ては40名、後は自分でインターネットで申し込めという冷たいものでした。今回のご来日も本当は日本の人口からすると数少ないカトリック信者の草の根運動のように信者の手でやるべきだったと思います。ご来日の費用は今はやりのクラウドフアンデングで信者ばかりか日本国民に広く呼び掛けて集めることもできたはずです。そういうことをしないのは、今の日本カトリック教会の秘密主義が災いしていると思います。新聞で大きく報道されておりましたが、長崎教区の一神父様が個人信者に何億円かを融資して焦げ付いているという話があります。多くの信者が今の日本のカトリック教会についてゆけないと離れていく人が多いです。私の周りの友人もそうです。いずれにしても今回の神父様のブログが日本のカトリック教会に大いなる反省を促す一石になることを希望しますが、それは残念ながら希望はもてないと憂慮いたします。

長くなりました。お許しくださいませ。(T.S.)

とか、

谷口神父様

ブログ・大変興味深く拝読・・・私は、とても参加できる状況ではない・・・主人が歩行障害者・義母が高齢のため、週に5日、義母宅に通う日々・・・経済的にも余裕はなく・・・最初からあきらめていました・・・裏にそのようなカラクリ(電通が働いていた)があったとは・・・!!!私の教会の友人にも、参加できた方・落選し与れなかった方、悲喜こもごもでしたが・・・

(K.T.)

とか、

神父様

いつも詳しいお便りをありがとうございます。私にとって、とても知りえない内容を読ませて頂きました。深い感動をありがとうございました。(T.Y.)

* * * * *

さらに、私はこの一年あまりの間に、教区司祭、修道会の司祭を問わず、いろいろな司祭たちの声もきいた。その中の主な証言を要約してみよう。

(A 神父)

「少なくとも私の小教区ではあのイベントはその後多くは語られていません。むしろ、しこりのようになったとも感じています。正直、教皇来日そのものがばかばかしいイベントでした。お膳立てされた通りのシナリオを披露して終わり・・・。その後に何を日本の教会はやったか、やれたか・・・はなはだ疑問です。」

(B神父)

 「私の尊敬する先輩の司祭なぞは最初っから、くだらないイベントだと言って見向きもしなかったのを覚えています。私も直前まで行く気はしていませんでしたが・・・結果、行ったと言う状況です。ほんとうにバチカンは何を考えているのかと言いたいです。」

私が特に関心を抱いたのは、ドームを埋めた群衆の「ご聖体」の拝領についての証言だった。じっさいに「ご聖体」を配る奉仕に参加した司祭たちの証言に共通した特徴をあげるとすれば、

 「東京ドームのミサに来ていた人の多くは未信者か信者でも教会には長く行っていない人たちだったと現場で聖体を配った人間として証言できる、と言う点です。」私はこの現場に立った司祭のメールの「証言」を重視している。それは、以下の証言とも符合し、一貫しているからだ。

 「スタンドやフィールドのゾーンにもよるかもしれないが、実際、聖体を拝領した人の数はそこそこ多かったのは確かだったようだ。しかし来る人の多く、半分くらいは関係ない顔をしていたか、拝領の仕方さえ分かっていなかった。」

 「多くは単に物見遊山、あるいはカトリック学校の関係者、あるいは観光会社に経費をはらって前売り券をもって参加できたということであり、多くの信者さんは参加したくてもできなかったという事実が奇しくも浮かび上がった。」

ユーチューブで確認すると、聖体拝領に費やされた時間は10分32秒前後だ。聖体拝領に先立つ<主の祈り>の頃には聖体奉仕の司祭たちがスタンドやフィールドに散ってスタンドバイしていたからこの10分余りの間に手際よく「ご聖体」が配られただろう。私の非常に大まかな計算では、一人の司祭が1分に10人から15人に聖体を授けたとして、司祭が仮に200人いたら、10分間で5万人の観衆のうちの2万人から3万人に配り終えることが出来た計算になる。しかし、実際にはぬかりない電通の緻密なシュミレーションによって、それ以上の拝領者にも対応できる何らかのもっと余裕のある手配をしていたに違いない。

 

 私は、国際金融業をやめて、神父になるために50歳からローマのグレゴリアーナ大学で神学の勉強をした。そして、カトリックのオーソドックスな秘跡論も学んだ。16世紀にプロテスタント改革が起こって以来、カトリックの教会は「聖体の秘跡」について厳格な解釈を堅持してきた。

 それは、叙階の秘跡を受けて司祭職に挙げられた神父が、ミサの中で典礼文通りにパンとぶどう酒を聖別すると、見た目には全く変わらなくても、そのパンは実体的に変化してキリストの肉と血になり、そこに神の子キリストが秘跡的に現存すると言う教えである。

 従って、聖別されたパンは「ご聖体」と呼ばれて尊ばれ、その事を信じる洗礼を受けたカトリック信者にのみ拝領が許されることになっている。カトリック教会の聖堂やチャペルでは、「ご聖体」は聖櫃と呼ばれる特別な鍵のかかった場所に保管され、その傍らには聖櫃の中に「ご聖体」が安置されていることを示す赤いランプが点される。信者は聖体訪問と称して、聖堂に安置されている「ご聖体」の前に跪いて秘跡的に現存されるイエス・キリストを礼拝し、賛美し、祈りを捧げることが勧められている。中には、「ご聖体」を金の顕示台に掲げ聖櫃の外に安置し、24時間365日、交代で礼拝する女子修道会もあるほどだ。

 このことと関連する一つの具体的な例をあげよう。

 何年か前から私は夏から秋にかけて、信州の北のはし、野尻湖のほとりの小さな家で少しの時間を過ごしている。そこは、NLA(Nojiri Lake Association)ー通称「国際村」ーと呼ばれていて、ちょうど100年前に、日本にキリスト教を伝えるために欧米からやってきて、札幌から阿蘇山の麓まで全国に展開して伝道に励んでいるブロテスタントの様々な教派の牧師家族が、年に一度、夏に休暇を楽しみ交流を深めるために、野尻湖畔に拓いた村だった。

 私はその村に住む唯一のカトリックの司祭だ。

ところで、NLAのオフィシャルシーズン中は日曜日ごとに多教派合同の礼拝がおこなわれ、いつも複数の教派の牧師が協力して司式する習慣になっている。私も、同じ村の住民の司祭として司式に招かれるが、いつも曖昧な返事をして辞退している。なぜか?

それは、合同礼拝の式次第が、聖公会の強い影響のもと、カトリックの典礼と酷似している部分があるから、私が付き合いよく招きに応えて共同司式をすれば、その日の礼拝のパンはカトリックの司祭である私の参加によって「ご聖体」となり、実体変化が生じて秘跡的にキリストの肉となり、イエス・キリストがそのパンに現存することになる。

無論、居並ぶ牧師さんたちや信者さんたちはプロテスタントの神学に基づくからそれを信じるわけではないが、一つだけ面倒な問題が残る。それは、NLAのメンバーの中に少数ながらカトリックの信者も混ざっていることだ。神父は私一人だが、その信者たちは私がカトリックの神父であることを知っている。そして、私が聖別した「ご聖体」を、秘跡を信じないプロテスタンドの信者さんたちに授けることは、カトリックの神学的には許されない不法行為であることも知っている。だから、もしそれが東京の大司教館にでも常習確信犯として垂れ込まれたら、私は最悪聖職停止の処分を受けても文句を言えないほどの不法行為を行ったことになる。だから、私はNLAの合同礼拝の共同司式の招きを丁重に断っているのだ。

 ところで、教皇訪日のハイライトの東京ドームでの教皇ミサでは何が起こったか。

 イエスの12使徒の頭、聖ペトロの後継者、<神の代理人>とも呼ばれるローマ教皇フランシスコ自身が司式するミサにおいて、教皇が聖別した無数の薄い小さな「ご聖体」が、百人単位のカトリック司祭の手によって手際よく5万人の群衆に対して配られた。

上のB神父の貴重な証言によれば、「ご聖体」を拝領した人の半数はカトリック信者でもなく、洗礼を受けたプロテスタントのクリスチャンでもなく、「ご聖体」の意味も分からず、拝領の作法も知らない異教徒に配られたと思われる。その事実にとっさに気が付いた司祭たちは、一体どう対処しただろうか。

聖体拝領の作法も何も知らぬ疑わしい人に、いちいち「あなたは洗礼を受けていますか?」、「あなたはカトリック信者ですか?」と聞いて確認をとり、「はい」と答えなかった人には、「あなたにはあげられません」と言って一々断っていたらどうなっただろう。会場の大混乱は避けられなかったに違いない。だから彼らは、不本意にも、とっさの判断として、相手が「ご聖体」を受ける資格のない人であることを知りながら、トータルでは恐らく数千、もしかしたら万を超える数の非カトリック信者に「ご聖体」を与えざるを得ないる羽目になってしまった。これはカトリックの世界では大スキャンダルでなくて何だろう。

あろうことか、この不祥事は教会の頭、ローマ教皇の面前で、教皇司式のミサの最中に、公然と起こったのだ。

この事件の責任はどうなるのだろう。NLAの合同礼拝で、「ご聖体」に対する信仰ゆえに襟を正して共同司式を辞退する私が、もし礼拝に参加したプロテスタントの信者さんに「ご聖体」を配った場合は教会当局から厳しい制裁を受ける恐れがあったのに、教皇の面前で、配下の数百人の司祭を使って、ひょっとして1万人を超えるほどの数の非キリスト者に「ご聖体」が配られることを赦したことは、聞くに堪えない酷い話だ。そのことは、十分予見できたのに、回避する手を打たず、放置した責任はどうなるのか。誰がとるのか。私は空恐ろしくなる。

平時に人をひとり殺せば殺人罪に問われるが、戦場で非戦闘員の女・こどもを何百人も殺しても咎められず、うっかりすれば英雄扱いの勲章ものだ。一人の未信者に故意に「ご聖体」を与えたらその神父は咎めら罰せられるのに、1万人なら教皇ミサのショーを盛り上げた大英断として不問に付されるのか。

コロナ自粛を人々に強いる政治家が、夜の銀座で飲食の梯子をしても牢屋に入ることはない。男女平等のスポーツの祭典オリンピックの責任のトップが、露骨な女性差別の言葉を吐いて、全世界から辞めろ辞めろの大合唱を受けても、薄笑いを浮かべながら<反省と謝罪>の空々しい一言で逃げ切ろうとするのは、老醜と言うか、犯罪とさえ言うべきか。

教皇の面前で「ご聖体」を大勢の司祭を使って未信者たちに大量にばらまいた信仰上の、また教義上の違反行為の責任を(それは数の問題ではない、一万人でなくたとえ千人であっても)、神様の前に、そして、まだ「ご聖体」に対する正統信仰を保っている善良なカトリック信者たちの前に、どう釈明するつもりか。知らん顔で闇に葬られて済む問題ではないだろう。

「電通には一応注意するようにと言ってありました」の一言で言い逃れは出来ない。電通は、はなからカトリックの教義には何の関心もない。あるのはイベントの興行収益だけだろう。そういう電通と手を組んだからには、当然予見できたことを未然に防がなかった責任は重い。知りながら放置し容認したのであれば未必の故意というべきではないか。

中世の教会は堕落していたと言う歴史の見方がある。中世の終末期にペスト(黒死病)が蔓延し、ヨーロッパの人口が激減した。住民の過半、三分の二が死んだ都市もあった。全員死滅し地図から消滅した町や村もたくさんあった。ようやくペストが終息したのと期を一にして、プロテスタント宗教改革が起こった。結果、カトリックはヨーロッパの地域の半分と信徒の半数を失った。

今コロナが全世界に蔓延している。すでに億の単位の人類が感染し、数百万人が死んだ。それがどこまで増え続けるのか、まだ終息の兆しは見えていない。あと1年かかるか、それ以上続くかも予断を許さない。

日本のカトリックの名目信者を40万人として、実際にはその4人に1人しか教会に来ていないとすれば (これは非常に楽観的な観測で、上の M.O. さんは自分の小教区の現実から10%と算出している)、信仰を守っているのはわずか10万人(M.O. さんの計算ではたった4万人)しかいないことになる。その信者たちに、教会はいまコロナを理由に率先してミサへの参加を制限している。その結果、多くの信者が、特に高齢者が、毎週日曜のミサに教会に入れてもらえていない。このまま2年、3年にわたり教会のミサに与からないことが信者の日常として定着したら、コロナが去った後も信者はもう以前のように教会に戻っては来ないに違いない。

カトリック教会の責任者が、「ご聖体」の秘跡に対する教えを公然と踏みにじった後で、どのようにして信者の信頼を回復し、どんな顔をして「ともに生きた信仰を守りつつ教会を盛り上げて行こう」と言うつもりなのだろうか。

中世末期のペストの後にプロテスタント改革が起こったように、コロナの後に日本のカトリック教会の中で大きな地滑り現象が起きて、構造的変化を余儀なくされるのは目に見えている。もしかしたら、世界中のカトリック教会全体が大きな改革の必要に迫られるのかもしれない。

半世紀以上前に行われたカトリック教会の大改革ー第2バチカン公会議ーは、未だ日本に届いていないと言われるが、その到達を待たずに、世界の教会はすでに 第3バチカン公会議」 を必要としているのではないかと思う。

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★ 友への手紙 インドの旅から 第16信 PART-2

2021-02-06 00:00:01 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~~~~~~~~~

友への手紙

ー インドの旅から ー

第16信 ローマの教皇がやってきた

(PART-2 :2019年・日本)

~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 私は、前回の一文を25歳の学生の時に書いて、カトリックの布教雑誌「聖心の使徒」に載せた。そしていま、81歳になってそれをブログに再録した。

 いろいろな反響があった半面、長すぎて途中までしか読まなかった読者がいたらしい印も見えてきた。読まれなかった後半には私の今の心境が書かれていて、単なる付け足し出はなかった。だから、その後半をしっかり読んでいただくために PART-2 として独立したブログにすることを思いついた。

 

ローマの教皇がやってきた

(PART-2 :2019年・日本)

 

 1964年11月のボンベイにおける教皇ミサに直接重なって思い出されるのが、2019年11月に東京ドームでフランシスコ教皇によって挙式された教皇ミサだ。

 サンタクルス空港から会場への沿道を満たした大群衆の熱狂ぶりと、水素エンジンを搭載したトヨタ製特別車のパパモビレに乗った教皇が東京ドームのフィールドに現れた瞬間に熱狂的な叫びをあげた群衆に、私は直感的に同質の空気を感じ取った。それは、毎週水曜日にローマの聖ペトロ大聖堂前の広場で行われる一般謁見の群衆の姿とはどこか一味違うものだった。

 飛行場から会場への沿道を満たした大群衆は確かに熱狂していた。しかし、彼らの多くはヒンズー教徒だった。東京ドームを満たした人々の多くは金を払ってでもアイドルの顔を見に行くタイプの群衆だったのではなかったか。確かに大熱狂の空気はあったが、そのエネルギーは、武道館や東京ドームで行われる他のアイドルやスターのイベントのような世俗的なお祭りの盛り上がりに共通するものであったように思う。

 半世紀前のインドのボンベイでは、教会の2000年の歴史を通して初めて教皇がヨーロッパの外へ旅した点においても、またカトリックが圧倒的にマイノリティーの異教の地への教皇の旅であったことにおいても画期的だった。

 この度の東京ドームの教皇ミサもカトリック信者が全人口のゼロ点数パーセントの絶対的マイノリティーの国への旅であったことは共通している。しかし、インドの場合は、アジア各国から、そしてヨーロッパからも、数多くのカトリック信者の巡礼が国際聖体大会に向けてボンベイに結集した。その中に信心深いがお転婆のスペインの王女様もいた。だから沿道の群衆とは違って、国際聖体大会の会場を埋めたのは、インド中から集まったカトリック信者に海外からの信者の巡礼を加えて、ほぼ100%カトリック信者の集いになったと思われる。その中に、日本からはホイヴェルス神父様と私の他には一般の巡礼者はほとんどいなかったのではないかと思う。

 それに対し、フランシスコ教皇の東京ドームに近隣のアジア諸国からのカトリック信者の巡礼団が多数参集した気配を私は感じなかった。それだけではない、長い待ち時間があって待ちわびた頃に、ようやくフランシスコ教皇がドームのフィールドにオープンカーに立って姿を現した時のどよめきは当然だが、大きなスクリーンに映し出された教皇が、身を乗り出して人々と握手し、シークレットサービスが抱き取って差し出した赤ん坊に教皇がキスするごとにキャー!キャー!と、歓声とも絶叫とも知れぬ大合唱がドーム全体に響き渡る。

 

東京ドームで赤ん坊にキスするフランシスコ教皇

 まるで、ビートルズやマイケルジャクソンや和製アイドルグループのパーフォーマンスに熱狂するファンのように、我を忘れて陶酔し絶叫する姿は、使徒の頭である聖ペトロの後継者、神の代理人であるローマ教皇を信仰を込めて見守る信仰者の反応にしては、あまりにも浅薄で品がないと思ったのは私だけだろうか。違和感無しには見ていられなかった。

 バチカンの1万人収容のパウロ6世謁見場や、聖ペトロ広場を埋め尽くす10万、20万の巡礼者たちにも、熱い歓喜はあるが、この理性が麻痺したような狂乱はない。私は、聖教皇ヨハネパウロ2世の1981年の日本訪問の時は、ちょうどローマに居て老神学生をやっていたので、現場の雰囲気は想像で推しはかるしかないが、最終日の長崎・殉教者記念ミサ(5万7千人)のイべントには全く違った信仰の雰囲気があったに違いないと信じている。

 

ドームの群衆の中を行く教皇

 東京ドームでは聖歌隊のシスターたちや制服姿の生徒たちが目立ったが、彼らは整然としていてキャー、ワーと騒ぎ立てることはなかった。私の知るカトリック信者たちは、どちらかと言えばよい意味で控えめでクールなタイプが多いように思う。むしろ、隣の人が悪乗りして叫び回ったら眉をひそめてたしなめるような人種だ。信者であると言う自負と慎みが、おのずからオーバーな表現を抑制するのだろう。

 では、あの大騒ぎの熱狂はどこから来たのか。まるでアイドルの演技に興奮して気絶する若い少女のような乗りだった。意味も分からずオウム返しに叫ぶ「ビーバー!パーパ―!(教皇様、万歳!)」の大合唱も、聖ペトロ大聖堂の広場の毎水曜日の大群衆の中から自然に湧きあがるものとは一味違った。信仰の父に対するこみ上げる愛からではなく、クラシックの音楽会で響くブラボー!の叫びや、歌舞伎座で聞くナリコマヤー!の掛け声のように聞こえた。わたしにはそこに、意図的に演出され、誰かに煽られた人為的なものを直感した。

 聞くところによれば、東京ドームの教皇ミサの現場の演出を一手に任されたのは名高い電通だったそうだ。電通は日本の大型イベントを仕切るプロ中のプロだと言うことは誰もが知っている。GO TO キャンペーンにしろ、オリンピックにしろ、裏で深く、深くかかわって、大儲けをしていることは世間の常識だろう。その電通が教皇の東京ドームでのミサを取り仕切ったのであれば、全ての疑問は消える。

 私はこの一文分を書く前に、念のためユーチューブで二時間余りの教皇ミサの全てをあらためて見た。最初の15分30秒ほどは、トヨタ特製の白いオープンカーに乗り、ローマから同行した大勢のシークレットサービスに囲まれて、ドームのフィールドを縫うように蛇行しながら、集まった群衆に笑顔をばらまいた。右に左に身を乗り出して、群衆に触れ、シークレットサービスのリーダーがパパモビレを止めると、警護の一人が抱き取って差し出す赤ん坊に教皇がキスをする。そして、それが大スクリーンに映し出されるたびに、スタンドからはあのキャー!ビーバーパーパ―!キャー!という絶叫の嵐が波のように沸き上がるのだった。私がそれを数えたら、15分ほどの移動中に教皇は少なくとも20人の赤ん坊を抱き取ってキスをした。教皇は群衆の強烈な反響に気をよくしたことだろう。現場では確かにそうだった。

 しかし、ユーチューブでは違っていた。最初の数秒間は会場の興奮したざわめきが聞こえたが、すぐその音源のチャンネルは絞られて、代わりに映像にかぶせて電通が用意したと思われるプロのコーラスによるミサには場違いに乗りのいい軽い音楽がパパモビレの入場ドラマの最期まで流れた。15分間ずっとあの狂乱のるつぼの騒音を聞くのは、現場にいなかった人にはさすがに白けて堪えられないと思ったのだろう。

 いずれにしろ、入道、退堂はカトリックの典礼では、特に司教司式ミサや、ましてや教皇司式では、ミサの構成部分に含まれる。それを典礼音楽に属さない信仰の香りが感じられない軽い乗りの歌でカバーしたことには一抹の違和感が尾を引いた。

 

また赤ん坊にキスする教皇 15分間に20人以上にキスした

 フランシスコ教皇には生来のスター性があるように思う。テレビのカメラを意識しているときは笑顔を絶やさず、ゼスチャーたっぷりに群衆の歓呼に応え、時折トランプのように親指を立てて見せたりもする。しかし、テレビのカメラを意識していない時の彼は、疲れ切った弱々しい老人の顔をしている。

 余談だが、その点、聖教皇ヨハネパウロ2世は違っていた。彼はテレビカメラに一切媚(こび)を売らない。人やカメラに見られていてもいなくても、彼の顔は常に静かな魂の輝きをたたえていた。彼こそ聖人、だからこそ世界1のスーパースターだった。

 

聖教皇ヨハネパウロ2世

 最初の15分の感動と熱狂でこの日の教皇ミサのハイライトは終わった。その後の1時間45分は、一般の会衆にとっては盛り上がりに欠けた退屈極まりない忍従の時間となった。この1時間半こそ、心が熱くなり魂が霊的に満たされたと言う人は、5万人の観衆の中でも特に信仰深いカトリック信者の、しかもそのなかでもほんの一握りの少数者に限られたのではなかったろうか。

 それは無理もない、教皇はミサの間、力無くつぶやくような小声でラテン語で祈っている。説教はスペイン語のテキストの棒読みだった。数名の信徒が朗読台から祈願を唱えたが、タガログ語、ハングル語、ベトナム語などで、意味が分かる日本語は式全体でもほんの付け足しのように見えた。ローマで観る教皇ミサでは、ポーイソプラノの清らかな合唱や、歴史と信仰に磨き抜かれたポリフォニーの聖歌が豊かに花をそえるが、それに比肩できるような芸術的盛り上がりにも乏しかった。日本のお坊さんが多数招かれていたが、祭壇の上で行われる所作の意味はなんのことやらさっぱり分からないまま、1時間45分を我慢されたことだろう。ドームのスタンドを埋め尽くした群衆も、最初の15分の熱狂の後はシンと静まり返っていた。

 フランシスコ教皇の訪日は、実は数年前から噂に出たり消えたりしていた。当時の総理が招待したとかしないとか・・・。教会の消息通に聞いたら、当初、教会当局はかなり腰が引けていたようだ。教皇が来て、その費用を日本のカトリック教会が負担するとしたら数億を下らない。聖職者たちの老後資金を考えたら、手元のお金はなるべく減らしたくない。

 お金もお金だが、それよりももっと深刻な問題は、数万の信徒を動員して恥ずかしくない盛り上がりを演出する自信が教会にはないらしいということだった。1981年の聖教皇ヨハネパウロ2世訪日の頃のカトリック教会にはまだ今よりは活力も実行力もあった。しかし、公表40万人の信者のうち実際に日曜のミサに与かる者はその4分の1とも5分の1とも言われる今日この頃、タダでもウイークデー(月曜日)の昼間に5万人収容の東京ドームを信者で満杯にするのは容易なことではない。かと言って日当を払って動員をかけるほどの資力もない。まして、数億円以上の経費を分担するために一人1万円ずつ持って参加しろと言ったら、果たして何千人の信者がそれに応じられるだろうか。ドームはがら空きで、教皇とマスコミの手まえ大恥をかくのは目に見えていた。

 そこに、この難問を奇跡的に解決する手品師のように現れたのが、日本一のイベントのプロ、「電通」と言う名の錬金術師だった。

 この度のイベントの目玉商品は芸能界のありふれたスターではない。世界の宗教界のトップに立つスーパースター、フランシスコ教皇だ。イベントの成功は最初から保証されているようなもので、電通にとっての興行リスクはゼロに等しい。1億2600万の日本人の中から金を出してでも一目教皇とやらの顔を見ておきたいと言う人間を発掘するのはお手のものだ。広く傘下の全国の旅行代理店を動員して、「ローマ法王に会いに行こう!ツアー参加費3万5千円。先着順○○名様。」とやったら、さて何万人が集まるか。イベントの直前まで売りまくって、席が余ったら、タダ券を待ちわびているカトリック信者の中から抽選で満席になるまで入れてやればいい。必ずドームは満杯になるという仕組みだ。

 旅行代理店を通じて入場券を手に入れた人はさまざまだったろう。抽選で入れる保証のない教会の正式窓口を嫌って、あえて世俗の旅行代理店にお金を払って座席を確保した信者さんたちがいたことも知っている。必要とあらばお金にものを言わせる割り切った考えの信者さんも多かったと思う。

 3万5千円のチケットをプレミアムを払って買った人がいたかどうか知らない。3万円よりも安いツアーがあったと言う話も聞いた。値段と付帯サービスは旅行代理店の裁量に任されていたのだろう。そして、イベントにつきもののフランシスコグッズは、飛ぶように売り切れたそうだ。それにインターネットで高値のプレミアムがついていたという話も耳にした。そこでも電通は抜かりなく儲けたに違いない。

 経費が何億円かかったか正確な数字を知る立場にはない。しかし、リーマンブラザーズにもいたことのある元国際金融マンの勘で言えば、数億円の経費を賄って、なお電通には億単位の利益があったことを疑わない。それに、普通のイベントなら出演者は契約通りガッポリとギャラを手にして行っただろう。しかし、フランシスコは芸能人ではないから、ギャラなど要求するはずがない。その分は丸々電通の追加ボーナスみたいなものだ。きっと笑いが止まらなかったに違いない。私が電通の人間なら、こんな美味しいイベントを競争入札もなしに発注してくれたカトリック教会様に、たっぷりお礼を包むことを忘れなかっただろう。

 だから、東京ドームの教皇イベントは関係者一同、ウイン、ウインの大成功。めでたし、めでたし、と言うことになったはずだ。

 

 しかし、大きな疑問が残った。教皇が東京ドームの熱気からどんな印象を受けてローマにかえったか 知らないが、教皇が去ったあと、私は東京の、また地方の、実に多くの信者さんから、教会から言われた通り事前にネットで申し込んだのに、間際まで待たされた挙句に、抽選漏れで参加できないことを知らされて実にがっかりした、悲しかった、と言う声を聞いたことだ。

 幸い私は同じ方法で申し込んで抽選に当たった。司祭だから、希望通り教皇ミサの共同司式もできた。おまけに教皇の式服に染め抜かれたマークと同じデザインの祭服(ローマ製)まで記念に戴いて帰った。

 しかし、その蔭で信者として正規のルートで申し込んだ者の多くが、抽選に当たらなかったと言う理由で東京ドームから閉め出されてしまった。ローマまで巡礼に行く余裕のない信者たちにとって、キリストの代理人の姿を目の当たりに見る生涯にただ一度のチャンスを奪われてしまったのだ。それは、電通がぼろ儲けをするために信者ではない一般人にも高値で座席をぎりぎりまで売りまくった結果だ。

 イべントの本質は教皇司式のカトリックのミサだった。ミサは、洗礼や告白と並んで教会の7つの秘跡の中でも中心的な儀式だ。以前には毎朝ミサに与かることが勧められ、主日(日曜)のミサは今も信者の義務だ。定められた大祝日にミサに与からないことは罪とされ、懺悔(告白)することが信者に求められている。その代り、ミサが執り行われるところでは、希望する信者は常に無償で与る当然の権利があった。教皇ミサはまさにその典型だ。

 教会の定めた様式に沿って事前にネットで申し込んだ全国の信者の数を教会当局は十分早くから把握していたはずだ。その人数を全員収容できる会場を用意するのは教会の責務だ。本来なら入場を希望した信者全員に優先的にもれなく席を解放するべきではなかったのか。もし座席が余ったらーそして必ず余っただろうーそれを買いたい人がいたら高値で売るのも一概に悪いとは言えないかもしれない。しかし、お金で一般に売られる席と、タダで入場を希望する信者の席の優先順序を逆にしてはいけない。それは秘跡としてのミサの本質からも、秘跡とお金の悪しき関係を断つ意味からも決して許されてはならないことだ。

 しかし、そこで暗躍したのが電通に姿を宿した「お金の神さま」ーマンモンとも呼ぶー の存在だった。そこには偶像(お金)に対する教会の屈服があったのではないか。この不条理を知りながら電通と手を組んだ教会は、「まことの神」、イエス・キリストの天の父なる神様の前でそれをどう説明するのだろう。教皇の司式するミサに与かる当然の資格と権利を不条理にも奪われた信者たちの嘆き、無念の思いは天に届いている。

 ローマに帰ったフランシスコがこのカラクリを知ったら、日本の教会に対する彼の考えは変わるのではないだろうか。

 

グラウンドスタッフをねぎらって日本を去る教皇

 私は最初に、インドの空港から会場までの沿道を埋めた群衆と、東京ドームの群衆との間に同質性を直感したと書いたが、それは前者がほとんどヒンズー教徒でカトリックが少なかったように、ドームでもお金で席を買った人々が多数を占めていたためではなかったかとわたしは思う。

この PART-2 を書いている間にもいろいろご意見を頂きましたので、その一部をここに収録しました。右下の →コメント をクリックしてご覧になってください。

 

 

コメント (3)
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★ 友への手紙 インドの旅から 第16話 ローマ教皇がやってきた (PART-1)

2021-02-03 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ー インドの旅から ー

第16信 ローマの教皇がやってきた 

(PART-1)

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 その日(1964年11月12日)、ボンベイのサンタクルス飛行場は人でごった返していた。

 教皇パウロ6世を乗せたアリタリアの特別機が空港に着くころには、混雑は最高潮に達し、ドイツ人のテレビ記者の中から死者を出すほどになった。聖体大会の会場までの沿道は数十万の人出を見た。アーチに次ぐアーチ、花で飾った教皇の大写真、旗、紙吹雪・・・・。

 

ボンベイ(ムンバイ)の国際聖体大会を主催したパウロ6世教皇

 歓呼の中を会場に着くと、そこにはたった今叙階されたばかりの300人に及ぶ若い新司祭たちが、感激に胸を高鳴らせながら、「見える教会の頭(かしら)」の掩祝を待ちわびていた。

 夕陽が落ちて、藍色を深くした空に無数のカラスの声がこだまするころ、若いヒンズー教徒の手になった清楚な祭壇は、聖ペトロの後継者を迎えて強烈なライトの焦点に青白く浮かび上がった。テレビカメラや無数の望遠レンズが、そして100万以上の瞳が見守る中に、意外なほど重く太い声がスピーカーから流れ出た。

 きら星のようだった紫の司教団、赤いカルディナール(枢機卿)たちも、白い満月のような教皇の前には輝きをひそめ、大地に跪いて祝福を待った。ぼくはこの大群集劇をじっと見守っていた。同じ弱い人間でありながら、「神の代理人」と言う重すぎる十字架を背負わされている人を目のあたりにして、ぼくは深い感慨に沈まずにはいられなかった。しかし、期待に反して、群衆の祈りの輪から湧き上がってくるような感動を共にすることは出来なかった。

 お祭り好きのインド人にとって、これは数多いお祭りの中の一つのイヴェントに過ぎないのではないか。沿道に迎えに出た者の大多数は非キリスト者(主にヒンズー教徒?)であり、ローマ教皇と言う異国のスターの姿を一目でも見たいという物見高い連中のはずである。彼らがどこからか習い覚えてきた「ヴィーヴァ―・パーパ―!」(教皇万歳!)の叫び声も、枝の主日に狂喜して主を迎えたエルサレムの市民たちのどよめき同様に、いつピラトの裁きの庭の「十字架に架けよ!」の大合唱に変わるかわからないものがある。

 会場に集まった群衆の中のカトリック信者たちも、聖体に対する素朴な信仰の告白にきたはずなのだが、無意識のうちに、お祭りがそこにあるから、この機会を逃しては一生ローマ法王の顔を見られないから、あるいはまた、大会をめぐって開かれる数多くの催しのどれかに結ばれているからと言うすり替えをやっている。しかし、これだって何もインドだから特にと言うことではあるまい。およそ、人間が集まってなにかを試みようとするときは、いつもこの通りなのである。そして、この転倒の中からも大いなる善はうまれてくる。

 インドには、ほとんど世界中のあらゆる宗教が雑居し、ボンベイのような大都会では、創価学会からバビロニアの密教まで、すべての出店がそろっている。だから、彼らの聖体大会に対する態度もいろいろで、寛容からか無関心まで、とにかく外国人の巡礼がやってきて沢山の外貨を落としていくのだから大いに歓迎しようではないか、と言うものもいれば、また、これはインドのキリスト教化促進の野望に燃えた布教的デモンストレーションであるとして、激しく反対する者もいた。だから、そう言う複雑な背景を思えば、大会中のボンベイの街は、非常に良く治安が保たれたと言わなければならない。

 では、なぜそのようなことが・・・?

 それはつまり、治安当局の多くが親カトリック的であったからだろう。彼らの多くは幼いころからカトリックミッションスクールで高い教育を受けた。彼らがかつて慈父のように慕った教師の多くは宣教師の神父たちだった。彼らが今日あるのはこの教育のたまものだった。だから、彼らが総力をかたむけてこの大会を支持したのは自然の成り行きだったのだ。おかげで、諸結社の不穏な過激分子たちは、大会の期間中を拘置所で過ごすことになった。

 しかし、かく言う政府の要人は、そのほとんどが信仰的にはカトリックと何のかかわりもない人たちだ。これは、ぼくが見てきたベトナムの状況とは大いに違うところだ。多くの場合ベトナムでは信仰は学問教養と同時的に受容された。根が仏教国だったからだ。ところが、インドは学問と教養だけを身につけて、信仰は拒み続けた。それは、一つにはヴェーダ以来の固有の伝統に対する誇りから、また他方では、冠婚葬祭はもとより、食事をするから手洗いを使うまで、日常生活の一切をがんじがらめに縛り付けるヒンズー教的迷信が、宗教としてのキリスト教を固く拒んできたからであろう。だから。長い歴史を持ったインドのミッション大学での目に見える布教成績は0%である。若いインド人学徒の改宗は、同時に彼の社会生活の基盤からの完全な追放を意味しているからだ。

 他方では、先にフランス占領下のベトナムにおける布教が、大きな失敗に終わったことを語った。それは、国民自らの手で転覆させられたカトリック政権と、憲兵の手で暁の銃殺刑に散ったカトリックの憂国少年の運命のうちに象徴的に語られている。これがベトナムのカトリック教会の数的増加の行きつく先だったのだ。

 インドでは数は増えない。しかしその間に聖体大会をあそこまで全面的に支持させるだけの隠れた力を養って生きた。これはむしろ大きな成功だったと言わなければならない。

 インドはインカ帝国のように文化的にキリスト教的西欧に征服されることなく、長かった植民地下の忍従の後にも、自分たちの伝統を守りつづけた。いち早くサリーを脱ぎ捨て、ヨーロッパの貴婦人をまねしたのは、主にゴアやボンベイのゲットー的カトリックだった。

 インドの教会の歴史はこれからである。彼らは伝統を生かすことによってはじめて、教会史の奔流に合流して、その流れを大きく左右することが出来るに違いない。 

 日本も仏教の国として、一度はベトナム同様にキリスト教的西欧を信仰と共に全面的に受け入れようとした。あのまま進んでいたら、今頃フィリッピンのように物心両面の植民地化の花を咲き誇っていたに違いない。しかし、鎖国があった。そして一度知った真理を拒み続けた後、300年近い空白とその後に尾を引く根強い偏見とは、日本の開国後100年の布教史の後にも、やっと40万の信者を数えるにとどまった。

 宣教師たちは日本の布教は難しいと言ってかこつかもしれない。しかし、ぼくは幸いにして難しいと言いたい。彼らが頭に描いているような、何処の国だか分からないような混ぜ物文化に広がられたのでは、せっかくの自然が台無しになってしまう。それでは日本の教会が、教会全体から期待されているような固有の貢献などありえなくなってします。

 大切なことは、カトリック性とともに各肢体の持つ豊かな個性に目を向け、それを生かすことだろう。神様の発明の中て最も驚くべきものの一つは、バラエティー、多様性だと思う。

 

(ここからは PART-2 として2月6日に別途採録しました)

 私は、上の一文を25歳の学生の時に書いて、カトリックの布教雑誌「聖心の使徒」に載せた。いま、81歳になってそれをブログに再録している。

 1964年11月のボンベイにおける教皇ミサに直接重なって思い出されるのが、2019年11月に東京ドームでフランシスコ教皇によって挙式された教皇ミサだ。

 サンタクルス空港から会場への沿道を満たした大群衆の熱狂ぶりと、水素エンジンを搭載したトヨタ製特別車のパパモビレに乗った教皇が東京ドームのフィールドに現れた瞬間に熱狂的な叫びをあげた群衆に直感的に同質の空気を感じた。それは、毎週水曜日にローマの聖ペトロ大聖堂前の広場で行われる一般謁見の群衆の姿とはどこか一味違うものだった。

 飛行場から会場への沿道を満たした大群衆は確かに熱狂していた。しかし、彼らの多くはヒンズー教徒だった。東京ドームを満たした人々の多くは金を払ってでもアイドルの顔を見に行くタイプの群衆だったのではなかったか。確かに大熱狂の空気はあったが、そのエネルギーは、武道館や東京ドームで行われる他のアイドルやスターのイベントのような世俗的なお祭りの盛り上がりに共通するものであったように思う。

 半世紀前のインドのボンベイでは、教会の2000年の歴史を通して初めて教皇がヨーロッパの外へ旅した点においても、またカトリックが圧倒的にマイノリティーの異教の地への教皇の旅であったことにおいても画期的だった。

 この度の東京ドームの教皇ミサもカトリック信者が全人口のゼロ点数パーセントの絶対的マイノリティーの国への旅であったことは共通している。しかし、インドの場合は、アジア各国から、そしてヨーロッパからも、数多くのカトリック信者の巡礼が国際聖体大会に向けてボンベイに結集した。その中に信心深いがお転婆のスペインの王女様もいた。だから沿道の群衆とは違って、国際聖体大会の会場を埋めたのは、インド中から集まったカトリック信者に海外からの信者の巡礼を加えて、ほぼ100%カトリック信者の集いになったと思われる。その中に、日本からはホイヴェルス神父様と私の他には一般の巡礼者はほとんどいなかったのではないかと思う。

 それに対し、フランシスコ教皇の東京ドームに近隣のアジア諸国からのカトリック信者の巡礼団が多数参集した気配を私は感じなかった。それだけではない、長い待ち時間があって待ちわびた頃に、ようやくフランシスコ教皇がドームのフィールドにオープンカーに立って姿を現した時のどよめきは当然だが、大きなスクリーンに映し出された教皇が、身を乗り出して人々と握手し、シークレットサービスが抱き取って差し出した赤ん坊に教皇がキスするごとにキャー!キャー!と、歓声とも絶叫とも知れぬ大合唱がドーム全体に響き渡る。

 

東京ドームで赤ん坊にキスするフランシスコ教皇

 まるで、ビートルズやマイケルジャクソンや和製アイドルグループのパーフォーマンスに熱狂するファンのように、我を忘れて陶酔し絶叫する姿は、使徒の頭である聖ペトロの後継者、神の代理人であるローマ教皇を信仰を込めて見守る信仰者の反応にしては、あまりにも浅薄で品がないと思ったのは私だけだろうか。違和感無しには見ていられなかった。

 バチカンの1万人収容のパウロ6世謁見場や、聖ペトロ広場を埋め尽くす10万、20万の巡礼者たちにも、熱い歓喜はあるが、この理性が麻痺したような狂乱はない。私は、聖教皇ヨハネパウロ2世の1981年の日本訪問の時は、ちょうどローマに居て老神学生をやっていたので、現場の雰囲気は想像で推しはかるしかないが、最終日の長崎・殉教者記念ミサ(5万7千人)のイヴェントには全く違った信仰の雰囲気があったに違いないと信じている。

 

ドームの群衆の中を行く教皇

 東京ドームでは聖歌隊のシスターたちや制服姿の生徒たちが目立ったが、彼らは整然としていてキャー、ワーと騒ぎ立てることはなかった。私の知るカトリック信者たちは、どちらかと言えばよい意味で控えめでクールなタイプが多いように思う。むしろ、隣の人が悪乗りして叫び回ったら眉をひそめてたしなめるような人種だ。信者であると言う自負と慎みが、おのずからオーバーな表現を抑制するのだろう。

 では、あの大騒ぎの熱狂はどこから来たのか。まるでアイドルの演技に興奮して気絶する若い少女のような乗りだった。オウム返しに叫ぶ「ビーバー!パーパ―!(教皇様、万歳!)」の大合唱も、聖ペトロ大聖堂の広場の毎水曜日の大群衆の中から自然に湧きあがるものとは一味違った。信仰の父に対するこみ上げる愛からではなく、クラシックの音楽会で響くブラボー!の叫びや、歌舞伎座で聞くナリコマヤー!の掛け声のように聞こえた。わたしにはそこに、意図的に演出され、誰かに煽られた人為的なものを直感した。

 聞くところによれば、東京ドームの教皇ミサの現場の演出を一手に任されたのは名高い電通だったそうだ。電通は日本の大型イベントを仕切るプロ中のプロだと言うことは誰もが知っている。GO TO キャンペーンにしろ、オリンピックにしろ、裏で深く、深くかかわって、大儲けをしていることは世間の常識だろう。その電通が教皇の東京ドームでのミサを取り仕切ったのであれば、全ての疑問は消える。

 私はこの一文分を書く前に、念のためユーチューブで二時間余りの教皇ミサの全てをあらためて見た。最初の15分30秒ほどは、トヨタ特製の白いオープンカーに乗り、ローマから同行した大勢のシークレットサービスに囲まれて、ドームのフィールドを縫うように蛇行しながら、集まった群衆に笑顔をばらまいた。右に左に身を乗り出して、群衆に触れ、シークレットサービスのリーダーがパパモビレを止めると、警護の一人が抱き取って差し出す赤ん坊に教皇がキスをする。そして、それが大スクリーンに映し出されるたびに、スタンドからはあのキャー!ビーバーパーパ―!キャー!という絶叫の嵐が波のように沸き上がるのだった。私がそれを数えたら、15分ほどの移動中に教皇は少なくとも20人の赤ん坊を抱き取ってキスをした。教皇は群衆の強烈な反響に気をよくしたことだろう。現場では確かにそうだった。

 しかし、ユーチューブでは違っていた。最初の数秒間は会場の興奮したざわめきが聞こえたが、すぐその音源のチャンネルは絞られて、代わりに映像にかぶせて電通が用意したと思われるプロのコーラスによるミサには場違いに乗りのいい軽い音楽がパパモビレの入場ドラマの最期まで流れた。15分間ずっとあの狂乱のるつぼの騒音を聞くのは、現場にいない人にはさすがに白けて堪えられないと思ったのだろう。

 いずれにしろ、入道、退堂はカトリックの典礼では、特に司教司式ミサや、ましてや教皇司式では、ミサの構成部分に含まれる。それを典礼音楽に属さない信仰の香りが感じられない乗りの歌でカバーしたことには一抹の違和感が尾を引いた。

 

また赤ん坊にキスする教皇 15分間に20人以上にキスした

 フランシスコ教皇には生来のスター性があるように思う。テレビのカメラを意識しているときは笑顔を絶やさず、ゼスチャーたっぷりに群衆の歓呼に応え、時折トランプのように親指を立てて見せたりもする。しかし、テレビのカメラを意識していない時の彼は、疲れ切った弱々しい老人の顔をしている。

 その点、聖教皇ヨハネパウロ2世は違っていた。彼はテレビカメラに一切媚(こび)を売らない。人やカメラに見られていてもいなくても、彼の顔は常に静かな魂の輝きをたたえていた。彼こそ聖人、だからこそ世界1のスーパースターだった。

 

聖教皇ヨハネパウロ2世

 最初の15分の感動と熱狂でこの日の教皇ミサのハイライトは終わった。その後の1時間45分は、一般の会衆にとっては盛り上がりのない退屈極まりない忍従の時間となった。この1時間半こそ、心が熱くなり魂が霊的に満たされたと言う人は、5万人の観衆の中でも信仰深いカトリック信者の、しかもそのなかほんの一握りの少数者に限られたのではなかったろうか。

 それは無理もない、教皇はミサの間、力無くつぶやくような小声でラテン語で祈っている。説教はスペイン語のテキストの棒読みだった。数名の信徒が朗読台から祈願を唱えたが、タガログ語、ハングル語、ベトナム語などで、意味が分かる日本語は式全体でもほんの付け足しのように見えた。ローマで観る教皇ミサでは、ポーイソプラノの清らかな合唱や、歴史と信仰に磨き抜かれたポリフォニーの合唱が豊かに花をそえるが、それに比肩できるような芸術的盛り上がりも乏しかった。日本のお坊さんが多数招かれていたが、祭壇の上で行われる所作の意味はなんのことやらさっぱり分からないまま、1時間45分を我慢されたことだろう。ドームのスタンドを埋め尽くした群衆も、最初の15分の熱狂の後はシンと静まり返っていた。

 フランシスコ教皇の訪日は、実は数年前から噂に出たり消えたりしていた。当時の総理が招待したとかしないとか・・・。教会の消息通に聞いたら、当初、教会当局はかなり腰が引けていたようだ。教皇が来て、その費用を日本のカトリック教会が負担するとしたら数億を下らない。聖職者たちの老後資金を考えたら、なるべくお金は使いたくない。

 お金もお金だが、それよりももっと深刻な問題は、数万の信徒を動員して恥ずかしくない盛り上がりを演出する自信が教会にはないらしいということだった。1981年の聖教皇ヨハネパウロ2世訪日の頃のカトリック教会にはまだ今よりは活力があった。しかし、公表40万人の信者のうち実際に日曜のミサに与かる者はその4分の1とも5分の1とも言われる今日この頃、タダでもウイークデー(月曜日)の昼間に5万人収容の東京ドームを信者で満杯にするのは容易なことではない。かと言って日当を払って動員をかけるほどの資力はない。まして、数億円以上の経費を分担するために一人1万円ずつ持って来いと言ったら、果たして何千人の信者がそれに応じられるだろうか。ドームはがら空きで、教皇とマスコミの手まえ大恥をかくのは目に見えていた。

 そこに、この難問を奇跡的に解決する手品師のように現れたのが、日本一のイベントのプロ、「電通」と言う名の錬金術師だった。

 この度のイベントの目玉商品は芸能界のありふれたスターではない。世界の宗教界のトップに立つスーパースター、フランシスコ教皇だ。イベントの成功は最初から保証されているようなもので、電通にとっての興行リスクはゼロに等しい。1億2600万の日本人の中から金を出してでも一目教皇とやらの顔を見ておきたいと言う人間を発掘するのはお手のものだ。傘下の全国の旅行代理店を動員して、「ローマ法王に会いに行こう!ツアー参加費3万5千円。先着順○○名様。」とやったら、さて何万人が集まるか。イベントの直前まで売りまくって、席が余ったら、タダ券を待ちわびているカトリック信者の中から抽選で満席になるまで入れてやればいい。必ずドームは満杯になるという仕組みだ。

 旅行代理店を通じて入場券を手に入れた人はさまざまだったろう。抽選で入れる保証のない教会の正式窓口を嫌って、あえて世俗の旅行代理店にお金を払って座席を確保した信者さんたちがいたことも知っている。必要とあらばお金にものを言わせる割り切った考えの信者さんも多かったと思う。 

 3万5千円のチケットをプレミアムを払って買った人がいたかどうか知らない。3万円よりも安いツアーがあったと言う話も聞いた。値段と付帯サービスは旅行代理店の裁量に任されていたのだろう。そして、イベントにつきもののフランシスコグッズは、飛ぶように売り切れたそうだ。それにインターネットで高値のプレミアムがついていたという話も耳にした。そこでも電通は抜かりなく儲けたに違いない。

 経費が何億円かかったか正確な数字を知る立場にはない。しかし、リーマンブラザーズにもいたことのある元国際金融マンの勘で言えば、数億円の経費を賄って、なお電通には億単位の利益があったことを疑わない。それに、普通のイベントなら出演者は契約通りガッポリとギャラを手にして行っただろう。しかし、フランシスコは芸能人ではないから、ギャラなど要求するはずがない。その分は丸々電通の追加ボーナスみたいなものだ。きっと笑いが止まらなかったに違いない。私が電通の人間なら、こんな美味しいイベントを競争入札もなしに発注してくれたカトリック教会様に、たっぷりお礼を包むことを忘れなかっただろう。

 だから、東京ドームの教皇イベントは関係者一同、ウイン、ウインの大成功。めでたし、めでたし、と言うことになったはずだ。

 

 しかし、大きな疑問が残った。教皇が東京ドームの熱気からどんな印象を受けてローマにかえったか 知らないが、教皇が去ったあと、私は東京の、また地方の、実に多くの信者さんから、教会から言われた通り事前にネットで申し込んだのに、間際まで待たされた挙句に、抽選漏れで参加できないことを知らされて実にがっかりした、悲しかった、と言う声を聞いたことだ。

 幸い私は同じ方法で申し込んで抽選に当たった。司祭だから、希望通り教皇ミサの共同司式もできた。おまけに教皇の式服に染め抜かれたマークと同じデザインの祭服(ローマ製)まで記念に戴いて帰った。

 しかし、その蔭で信者として正規のルートで申し込んだ者の多くが、抽選に当たらなかったと言う理由で東京ドームから閉め出されてしまった。ローマまで巡礼に行く余裕のない信者たちにとって、キリストの代理人の姿を目の当たりに見る生涯にただ一度のチャンスを奪われてしまったのだ。それは、電通がぼろ儲けをするために信者ではない一般人にも高値で座席をぎりぎりまで売りまくった結果だ。

 イべントの本質は教皇司式のカトリックのミサだった。ミサは、洗礼や告白と並んで教会の7つの秘跡の中でも中心的な儀式だ。以前には毎朝ミサに与かることが勧められ、主日(日曜)のミサは今も信者の義務だ。定められた大祝日にミサに与からないことは罪とされ、懺悔(告白)することが信者に求められている。その代り、ミサが執り行われるところでは、希望する信者は常に無償で与る当然の権利があった。教皇ミサはまさにその典型だ。

 教会の定めた様式に沿って事前にネットで申し込んだ全国の信者の数を教会当局は十分早くから把握していたはずだ。その人数を全員収容できる会場を用意するのは教会の責務だ。本来なら入場を希望した信者全員に優先的にもれなく席を解放するべきではなかったのか。もし座席が余ったらーそして必ず余っただろうーそれを買いたい人がいたら高値で売るのも一概に悪いとは言えないかもしれない。しかし、お金で一般に売られる席と、タダで入場を希望する信者の席の優先順序を逆にしてはいけない。それは秘跡としてのミサの本質からも、秘跡とお金の悪しき関係を断つ意味からも決して許されてはならないことだ。

 しかし、そこで暗躍したのが電通に姿を宿した「お金の神さま」ーマンモンとも呼ぶー の存在だった。そこには偶像(お金)に対する教会の屈服があったのではないか。この不条理を知りながら電通と手を組んだ教会は、「まことの神」、イエス・キリストの天の父なる神様の前でそれをどう説明するのだろう。教皇の司式するミサに与かる当然の資格と権利を不条理にも奪われた信者たちの嘆き、無念の思いは天に届いている。

 ローマに帰ったフランシスコがこのカラクリを知ったら、日本の教会に対する彼の考えは変わるのではないだろうか。

 

グラウンドスタッフをねぎらって日本を去る教皇

 私は最初に、インドの空港から会場までの沿道を埋めた群衆と、東京ドームの群衆との間に同質性を直感したと書いたが、それは前者がほとんどヒンズー教徒でカトリックが少なかったように、ドームでもお金で席を買った人々が多数を占めていたためではなかったかとわたしは思う。

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第15信 ボンベイの街角(b)カラスと乞食の子供たち

2021-01-16 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から

第15信 ボンベイの街角 

 (b)カラスと乞食の子供たち

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ボンベイの街角 ホイヴェルス神父と道端の三匹のやぎ

 

 ボンベイにはカラスが実に多い。カラスと言えば、人はすぐイソップ物語に出てくる真っ黒で大きなずるがしこい鳥を思い出すかもしれないが、ボンベイのカラスはその点ずっと愛すべき姿をしている。それは、日本のカラスより一回り半ぐらい小さくて、首や背中はむしろグレーに近い色をしているからだ。

 木の枝と言わず、屋根の上と言わず、道と言わず、畑と言わず、はては駅のレールの上までも、カー、カー、クロワ、クロワ、と飛び回る。それが朝からやってきて、窓の外の木の枝で、五羽も十羽も鳴きだすと、もうおちおち寝てはいられない。窓から寝ぼけ顔を突き出して、「うるさーい!」と怒鳴りつけると、さすがにドキンとしたらしく、二分か三分だけ黙っていた。

 しかし、あるインド人の若い神学生の告白によれば、彼がスペインで勉強していたころ、カラスの鳴き声が聞こえないのが寂しくて、ノイローゼになりかけたそうだから、慣れと言うものは恐ろしいものだ。

 そのカラス君、天上天下誰にも制約されず、勝手な時に勝手な所へ飛んで行って、何かしら見つけて食べている。そこにはフクロウ君のような哲学的な趣はなく、鶏の勤勉さもなく、また、白鳥のような気品にも欠けている。どう見ても生きてゆくことの深い真面目さが見あたらない。

 ところが、人間と言うものは憐れなもので、どうかするとこのカラスたちのように生きて見たがる。その模範的なたとえがボンベイの小さな乞食たちだ。

 十四、五歳にしてはえらく老(ふ)けて見える女乞食が、駅のホームで、まだ目も開いていない裸の嬰児(えいじ)をコンクリートの上に直(じか)に横たえて、物を乞うていた。見ていると、憐れを通り越して訳もなく腹立たしくなった。

 考えようによっては、か細い泣き声で存在を主張しているこの嬰児が、すでに最年少の乞食の仲間なのかもしれない。この子も運よく生き続ければ、五歳にして独立して稼ぎはじめるだろう。時には、人の哀れを買うために、親の手で目を潰されたり、手足をかたわにされることもあるという。彼らは寺院の門前に、市場に、街頭に、駅に、そして、電車の中にまで入ってくる。彼らのやることは決まっている。側ににじり寄ってきて、右手をまず自分の額へ持ってゆき、それからその手を差し伸べて「ジー・パイサ」と言う。「旦那さん、お金を」と言う意味だ。黙って知らん顔していると、人の足元にうずくまって、額を僕の靴に擦り付けて、また「ジー・パイサ」とやる。気味が悪くなるほどやさしく人の足を抱くこともある。そこでうっかり小銭をやると、腐肉に群がるカラスのように、他の子供までやってくる。知らん顔を続けると諦めて別の人をつかまえて、同じ事をはじめる。「シッ!」と言って足を鳴らせば、カラスのようにパッとさがる。今はまだどこかに可愛さを残しているこの子たちも、やがて「もらい」の一部で極端に質の悪いタバコを吸いはじめ、非行を覚える。そして、そこからまた、新しい不幸な子供たちが生まれる。大抵は早死にする。長く生き延びても早晩野垂れ死には免れない。それでも、三日やるとやめられないのがこの商売。仕事を与えても受け付けない。施設に入れても脱走する。カラスのように自由に生きたいからだ。

 では、どうしてこんなにたくさんの乞食たちがいるのだろう?それはインドが貧しいからだ。

 では、貧しい社会がどうしてこんなに多くの乞食を養えるのだろう?それはインドが富んでいるからだ。

 事実、ぼくが一番おどろいたのは、どれだけ多くのお金が施しとしてばら撒かれているかと言うことだった。これはカースト制度を裏付けている輪廻の思想を別にしては理解できないのではないか。

「回り回って、俺は今乞食に生まれついた。だから貰うのが当然」と言うものがいる。よい乞食に徹すれば来世では運よく高いカーストに生まれるかもしれない。社会秩序を乱すような向上心はむしろ罪でもあろう。

 そして他方では、「今余っているものを施して、それで来世で乞食に生まれずに済むのなら、こんないい話はない」と考えている者がいる。こうした思いが無意識のうちにこの酷い社会悪を支えているのだ。これは愛ではなく、利己主義のあらわれにしか過ぎない。金持ちも同じカラスの化身だ。乞食の一日のもらいが底辺労働者の一日の汗の値より多いことは何ら問題にはされない。乞食の長者もインドではあり得ない話ではないのかもしれない。

 さて、インドのカラスより、イソップのカラスより、もっと狡く欺瞞にみちたカラスの群れがいると言ったら、あなたはそれを信じますか。それが現代の資本主義社会の中でうごめいているぼくたち自身の姿であるとしたら・・・。

 ぼくたちが「ジー・パイサ!」と言って手を差し伸べる相手は、太った旦那さんでも、カメラを肩にした金持ちの観光客でもない。それは、自分の利益を追求してやまないブルジョワ社会それ自身だ。そのなかに住む人間の心は多かれ少なかれみんなカラスに成り下がっている。

 一方では、「運命に逆らってはいけない。向上心を持ち、社会変革を意図し行動するものは弾圧される。親に迷惑がかかる。家族を養っていけなくなる」と言う者がおり、他方では「要求されたときは気が進まなくても分けてやるのが身のためだ。うっかりするとあの世を待たず、この世で革命にひっくり返されてしまうから」と言うものもいる。彼らの輪廻はこの世の次元で親子の世代で展開される。しかし、誰もカーストの制度が、輪廻の思想が、虚妄であり悪である現実を見ようとはしない。愛のない盲目の利己主義者だからだ。

しかし、この現代のずるがしこいカラスたち、何と上手な弁明で自分を誤魔化していることか。キリスト者までがそんな社会を是認する。修道者までも聖なる従順をその弁明の盾とする。

 貧しいと自称する黒いカラスたち。富と言う粉をふりかけた白いカラスたち、羽に十字架を染め抜いた敬虔なカラスたち・・・。

 カラスは自由を欲しがる。それも放縦な自由を。彼らは真理と正義と愛の軛(くびき)からも自由になりたがっている。彼らは勝手な時に、望むところで、好きなだけ欲望を満たす以外には何一つしようとはしない。

 それでいて、彼らは自分たちが正しいものであると「信じている!」

 シャルル・ペギーであったか、フランス語で痛烈なことばを吐いた人がいた。

 Je crois.  Crois croire.   Crois!  Crois!  Crois!   Saro!

(ジュクロワ  クロワ クロワール  クロワ!  クロワ!  クロワ! サロー!)

  我は信ず。 信じていると信ず。 信ず!  クロワ!  カー!  馬鹿野郎!

 

ホイヴェルス神父とかつての同僚 インドでは、人は早く老けこむ

 

 上の一文は、半世紀以上前に上智大の中世哲学研究室の助手をしていた26歳の全共闘シンパの作文だ。今読み返すと、全く耳が赤くなるような何とも気負った生煮えの妄言に思える。今のインドの人がこれを読んだら怒るかもしれない。

 しかし、新型コロナウイルスのパンデミックを前にした日本人の対応、特に政治家たちの醜態を見れば、私が予感したことは見事に当たっていると言えるのではないだろうか。

 なぜすべての国民にPCR検査を徹底し(安倍のマスクに無駄なお金を捨てるくらいなら、これは安いものだ。)、そして陽性者の全員を必要期間ホテルに隔離し、陰性者には皆、安心して生産活動に精を出して経済を支えてもらう、と言うシナリオを選べないのか。これが一番早道で、一番安上がりで、一番効果的に経済を支える道だとどうして思わないのか。道行く人の誰が陽性者か分からない状態が放置されるから、疑心と恐れと混乱が生まれて、全てが麻痺してしまうのではないか。

 危機管理で決断を求められている立場の者が、全員優柔不断で、全員責任を回避している。みんな火事場泥棒的に目先の自分の利益だけを考えている。このままでは、日本もイギリスの破綻の二の舞に向かって転げ落ちていくことになるのではないか。

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★ 友への手紙 インドの旅から 第14信 ボンベイの街角

2021-01-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から

第14信 ボンベイの街角

a) 懐かしの学校

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 四谷の聖イグナチオ教会で数年にわたりホイヴェルス神父様の早朝ミサの祭壇奉仕者を毎日勤めてきたわたしは、東京から直線距離で7000キロ離れたインドのボンベイ(今の名をムンバイと言う)で再会して、孤独で緊張に満ちた初めての海外旅行の後に、まるで放蕩息子が父親に再会したような安堵感と幸福感に浸った。(以下、当時の記事)

ホイヴェルス神父様と昔の教え子たち

 

 お着きになった翌日、ホイヴェルス神父様は懐かしげにバンダラの町を散策された。

 まず、半世紀前に教鞭をとられた学校とセント・ピータース教会へ。外回りの塀と、一、二の建物がまだ昔のまま残っていた。教会の前の墓地も昔の面影をとどめている。昔のカトリックの習慣で、教会の入り口には有力者の信者の墓があり、地面に大理石の板がはめ込まれていて、教会を訪れる人はみなその上を踏んで通ることになる。神父様はこの習慣をお嫌いになった。

 聖堂の中の右手には、この教会で亡くなったイエズス会士の名が壁に刻まれていた。

 「この人を知っている。ああ、この人も良く知っている・・・」と、一人一人の名を読み上げながら、「私もインドの激しい気候のもとに働いていたら、この人達のように早く死んでいたでしょう」と、感慨深げであった。当時の人はもうほとんどここに残っていなかった。

 グラウンド。そこには昔、ココナツの林が良く茂り、水牛の群れが昼寝していたものだそうだ。今は広い芝生となり、朝夕、人夫が水を撒いている。人件費が高い日本では考えられないほどの労働が何の不思議もなく広い芝生の中に注ぎ込まれている。

 カトリックの学校では、カーストの身分差別はどう処理されているのだろうか。とにかく、大体は上流階級の子供達である。明るくて元気よく、実に屈託がない。神父様も、かつてはこんな良い子たちと一緒にクリケットやホッケーに打ち興じられていたに違いない。

 インドはホイヴェルス神父様の初恋の国である。

ホイヴェルス神父と再会を果たして

 布教雑誌「聖心の使徒」に載った第14信もたったこれだけの短いものだった。しかし、その背景には多くのことがあった。

 ホイヴェルス神父は1914年7月、24歳の神学生の頃、未来の宣教師の実習活動として、インドのバンダラの聖スタニスラオ・カレッジで教壇に立った。当時彼は黒い髭をたくわえていた。ある日、インド人の少年たちとグラウンドでスポーツに興じている間に、気候に慣れない北欧人の体は強い太陽を浴びて日射病にかかって倒れてしまい、実習を中断してドイツに送還されてしまった。

 イエズス会のドイツ管区長は、優秀で将来を嘱望されていたホイヴェルスが帰ってきたことを大いに喜び、管区の将来を担う逸材としてずっと国内の要職につけ、二度と宣教地に出さないことを決め、本人にもそう言い含めた。

 ところが、若いホイヴェルスは、いったん宣教地の味をしめた後では、もはやドイツ国内で会の上長、管理職で一生を終わるなどと言うことはとても考えられず、東洋の使徒フランシスコザビエルのようにアジアの宣教の夢を捨てることは出来なかった。

 1920年ハンブルグで司祭に叙階されたころ、日本の中国地方5県の宣教がドイツのイエズス会に委託されることが決まり、ホイヴェルス神父の修道院の掲示板にも宣教志願者の募集が張り出され、彼の同僚の若い神父が応募して採用された。

 ところが、出発の間際になって、その同僚が急に病気で倒れドクターストップがかかった。時あたかも、当時の管区長の任期が終了して新しい人が就任したばかりだった。ホイヴェルス神父は、彼の扱いに関する前任者からの引き継ぎが終わっていない間隙を縫って日本行きの代役を申し出、新任の管区長はホイヴェルス神父の言葉をあっさりと受理してしまった。こうして、まんまとドイツ脱出に成功したホイヴェルス神父は、1923年6月29日にハンブルグを発って8月25日に横浜に入港した。

 関東大震災が東京を襲ったのは、その一週間後のことだった。

 「日本は地震国」としっかり学習してきたホイヴェルス神父は、慌てず騒がず、片手で本箱の本を護り、もう一方の手でドイツからわざわざ持ってきた戸棚の上のトップハット(シルクハットとも言うが、要はタキシードを着た手品師がウサギをとり出して子供たちを喜ばせるあの黒い筒形の帽子)を後生大事に護っていたのだった。

 大地震でパニックになって外に飛び出して震えていた先輩の宣教師たちは、地震がおさまったのを見極めて自室から悠然と現れた神父の口から、皆さん、何をうろたえているのですか?日本は地震国ではありませんか?という言葉を聞いてショックを受けた、と言うのは有名な話だ。

 その後40年以上日本を離れず、頑として里帰りも拒んできたホイヴェルス師が、突然インドに行くと言い出されたのは、神学生時代1年余り教鞭をとったムンバイ(ボンベイ)のハイスクールが懐かしかったからだけではなかった。

 キリスト教2000年の歴史を大きく3分割する二つ目の重大な節目に際して、ホイヴェルス師はその大変革の印を直接肌で体験したかったからに違いない。

 一つ目の変革は、紀元312年前後に訪れた。

 生前イエスは弟子たちに「聖と俗」、「神の国と地上の帝国」を互いに相容れない世界として峻別し、教会が世俗の覇者と慣れ合い癒着することを厳しく禁じられた。聖書にはこう書かれている:

 人々はイエスに言った。「先生、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコ:13-17)

 このイエスの教えは、ローマ帝国の最底辺の貧しい庶民たちの間で急速に広まり、ひたすら神に寄り縋って生きはじめた。

 これは皇帝にとっては極めて面白くない現象だった。皇帝にとって帝国の底辺の庶民は生かすも殺すも皇帝の意のままの、いわば「奴隷女」のような存在だった。ところが、気がついたら、自分のものだと思っていた女奴隷たちが、キリストと言う色男の花嫁になって自分を捨てはじめた。プライドを痛く傷つけられて怒り狂った皇帝は、自分を裏切った女奴隷は皆殺しだとばかりに、キリスト教徒を迫害し、捕えた信者をライオンに食わせる見世物として楽しんだ。しかし、殺しても、殺しても、殉教者は聖者として崇められ、改宗者はあとを絶たず増えるばかりだった。

 そんな時、権力者はどうするか。戦術を180度転換し、迫害をやめて懐柔に転ずる。まず、皇帝自身がキリスト教を受け容れ、キリストが弟子にしたガリラヤの無学な漁師の後継者たちには、皇帝の庇護のもとに元老院の会堂のような豪壮な建物(バジリカ)で元老院の議員の華麗な式服を身にまとってミサや祭儀を行わせ、宮殿での優雅な生活と自由な宣教活動が許される。さらに、皇帝の軍隊が教会を護り、その見返りに、教会は皇帝に神のご加護を祈ることで手を打つことにした。

 キリストの弟子たちはこの誘惑的な処遇に、コロッと魂を売り渡した。その結果、ローマ帝国の版図はあっという間にキリスト教化していく。皇帝と教会の利害が見事に一致し、迫害は止み、パックス・ロマーナ(ローマの平和)が訪れた。

 こうして、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」というキリストの厳しい教えを守り、迫害にめげず、血の代償を払いながら永遠の命の源であるキリストに恋して、「キリストの浄配」、「キリストの花嫁」となった貧しいながら誇り高い帝国の最底辺の人々は、教会指導者たちの変節で、皇帝の女奴隷よりももっとひどい皇帝の「妾」、「娼婦」に成り下がってしまった。

 結果は地上的には大成功に見えた。しかし、皇帝の宗教になったキリスト教になだれ込んできた民衆は、それまで皇帝を神とし、皇帝が拝んできたギリシャローマの神々を信心していたときと全く同じレベルの宗教心のままキリスト教徒を名乗ることになった。

 キリストは「回心して福音を信じなさい」と言われたが、人々は「回心」とは何か、「福音」が何であるかを全く理解しないまま、ただ言われるままに洗礼を受けているにすぎなかった。それはそうだろう、昨日までキリスト教を信じるのは命がけだったが、いまやローマ帝国で出世したければ、急いでキリスト者にならざるべからずの時代に入ったのだから。

 イエスの「神のものは神へ、皇帝のものは皇帝へ」の教えは、僅か300年で反故(ほご)にされ、「神の民=キリスト教会」と「この世の覇者=皇帝」との政教一致の時代に突入した。そして神聖ローマ帝国に象徴されるような「皇帝」とその「娼婦(教会)」の蜜月時代は、中世を越え、宗教改革の時代も超えて、植民地支配者の船に乗って宣教師が日本に渡来した時代以降も、さらに、第二次世界大戦後まで綿々と続いた。「キリスト教民主同盟」などの保守政党はその名残と言うべきものであっただろう。

 しかし、1964年、第1回東京オリンピックの前後に、コンスタンチン体制の時代が終わろうとしていた。いや、実質的には既に終わっていた。そして、その事に気付いたのが第二バチカン公会議を提唱した教皇ヨハネス23世だった。その後を受けて公会議を主催中のパウロ6世教皇が、今インドのボンベイ(ムンバイ)にやって来ている。

 ホイヴェルス神父様は、キリスト教の歴史が第3期に入ったこの「時の印」を敏感に受け止め、教会の大変革の空気を肌で感じようとしてインドに旅されたのではなかったか。

 313年に皇帝の妾として囲われた「キリストの花嫁」(教会)は、すでに年老いて醜くなり、皇帝から疎まれていた現実にようやく目覚め、未練たらしく地上の覇者に縋りつくのをやめて、コンスタンチン体制ときっぱり決別して、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返す」と言うキリストの教えの原点に立ち返る大変革がまさに始まったばかりのときだった。

 だが、始まったばかりのキリスト教の第3期に、日本の教会はまだ十分に溶け込んでいるとは言えないのではないか。

 

聖スタニスラオ学校のスタッフとの遠足

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第13信 ホイヴェルス神父様との再会

2020-12-22 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ーインドの旅からー 

第13信 ホイヴェルス神父様との再会

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ボンベイにて。

 ぼくがバンガロールからコーチンへ向かおうとしたのは、ケララ州の山中深く存在する一風変わった新しいタイプの修道院を訊ねるためだった。

 しかし、ホイヴェルス神父様と約束の日にボンベイで無事合流するためには、コーチンを三日以内に発たねばならない。しかも、目指す修道院は遠く、なお悪いことには、コーチンからボンベイ行きの飛行機は予約しておいたにも拘らず、座席の保証を得られなかった。

 そこで、ぼくはコーチン行きをひとまず諦め、計画を変更してボンベイに着くことだけに専念することにした。もし飛行機がダメなら汽車かバスか船で行くしかないのだが、すべての汽車、すべてのバスと船は満員で蟻の割りこむ余地もない。みんな聖体大会のためボンベイに向かう巡礼者によって数週間前から予約されていたのだ。今買える切符は聖体大会の後にボンベイに着く汽車のばかりだ。

  幸い僕の場合、飛行場での直談判が功を奏して、結局は何とか飛ぶことに成功したが、この時はじめて、インドではなんでも賄賂で解決できることを実際に学んだ。

 ゴアの上空を通過するとき、スチュアデスがそのことに乗客の注意を促した。目の下の紺碧の海を白い渚で切り取ったゴアの街が、まるでおとぎ話の国の箱庭のように広がっていた。そこには、東洋の使徒聖フランシスコ・ザビエルの遺体が眠っている。ここもコーチンと共に帰りに寄ることになるだろう。

 さて、約束の日の夜、ぼくはボンベイ郊外のサンタ・クルス飛行場にホイヴェルス神父さまの到着を待った。

 ホイヴェルス神父様の飛行機は予定通り着いた。ちょうど満五十年の時間の流れをひとまたぎして、当時まだ紅顔の神学生だった神父様は、やがて、その長身を税関のカウンターに現した。

 「今晩は。」そう言って固く握手してくださる神父様の顔は、こんな時ことのほか優しくほころぶ。

 横合いから税関の役人が急き立てるように聞いた。「荷物は?」「はい、これだけです。」聖務日祷書とスータン(司祭の長衣)だけぐらいしか入らない黒いビニールの手提げが示される。「他にカメラとかトランジスターラジオとか、何か申告すべきものは?」「いえ、何も。」「現金は?」「10ドル。」「10ドル?!」役人はけげんそうな顔をする。いくら神父でも、10ドルぽっきりもってインドに乗り込んでくる人はまずいないからだ。すると神父様は思い出したように「いえ、日本のお金も少し」と言い添えて、帰り道羽田に着いてから四谷までの車代に足りるほどのお金を示された。まことに聖イグナチオの考えていた通りの清貧のイエズス会士を見る思いがした。

 まっすぐにバンダラの聖スタニスラウス・ハイスクールの宿舎へ向かった。ここは五十年前に神父様が教鞭をとられた学校だ。その夜は早く休んだ。

 半世紀前に布教雑誌「聖心の使徒」に書いた第13信はたったこれだけの短いものだった。何とも中身の乏しい、間の抜けた記事ではないか、と今わたしは思う

 しかし、この再会は私にとってはとても重要な出来事だった。横浜を船で出航して以来、糸の切れた凧のように全く行方知れずなっていた私が、一か月後のインドでホイヴェルス神父に無事再開できたということは、その間に起こっていたいろいろなハプニングや予定変更を思えば、ほとんど奇跡に近い幸運だったと言っても決して誇張ではなかった。いわば、スペースステーションと宇宙船がドッキングするぐらいスリルとリスクのある邂逅だったのだ。

 さて、神父様は、そもそも1964年11月12日から15日までボンベイ(今はムンバイと言う)で予定されている「第13回世界聖体大会」に参加するためにはるばる日本から来られたのだった。

 正直なところ、一年以上前にホイヴェルス神父様が、「私はインドに行く。一緒に行きたいものは連れて行ってあげる。」と言われたとき、なぜ神父はインドに行くのか、聖体大会とは何か、など私には一切関心が無かった。戦後の日本で、外国に旅することが若者にとってまだ叶わぬ夢でしかなかった時代に、それが可能かもしれないと思うと心が躍った。それだけで動機としては十分だったのだ。

 しかし、ホイヴェルス神父様にとってはそうではなかった。日本に宣教に来て、戦前・戦後を通して、40年間祖国への里帰りを頑なに拒んできた神父が、熟慮の末インドに行くことを決められた背景には重要な理由が有った。

 時あたかも、カトリック教会の歴史を画する大改革の「第2バチカン公会議」が既に始まっていた。その公会議の旗手パウロ六世が、ローマ教皇としては初めてヨーロッパの外に旅をする。それもヒンズー教と回教が主流でキリスト教が圧倒的少数派の地インドへ。ホイヴェルス神父様はそこに大きな意義を見出されたに違いなかった。

 そして、直接的には、そこに教皇主催の第38回「国際聖体大会」があった。

 正直なところ、わたしは神父と共に開会式に出るまで、それが何であるか全く理解していなかった、そして関心もなかった。それが分かったのはやっと今頃のことだ。

第51回国際聖体大会(マニラ)

 「国際聖体大会」(International Eucharistic Congress)は、ミサの中で司祭が聖別するパンとぶどう酒(聖体)の中に、キリストが実際に現存すると言うキリスト教の伝統的教義・信仰を深め広めることを目的としている。これはカトリックだけでなく、初代教会の頃からロシア正教、ギリシャ正教、聖公会、シリア典礼の教会など、実に広く深く信じられ、保たれている。

 しかし、私個人的には日本の今日のカトリック信者の間でどれほど深く、固く「ご聖体におけるキリストの現存」が信じられているか、心配している。それは、私たちカトリック司祭の司牧的責任だ。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」又、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡していわれた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が許されるように多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(マタイ26章26節ー28節)

 因みに、アドルフ・ヒットラーはそれを信じていなかった(というか、信じていたがゆえに、口で聖体をいただき、外に出て地面に吐き出し、靴でそれを踏みにじると言う涜聖の行為に出た)。 そして、欧米ではフリーメーソンがカトリック信者からこの信仰を奪うために、ミサで信者に配られた「聖体」を密かに買い取って穢していると言う話を聞いたことがある。実際にお金のために「神の子キリストの体」を売り渡す信者がいるということだろうか。私はそこに光と闇の戦いの最前線を見る。

 第1回「聖体大会」は1881年にフランスのリーユで開かれ、第52回は今年ハンガリーのブダペストで開かれる予定だったが、新型コロナウイルスの影響で、東京オリンピック同様に2021年に延期されることとなった。因みに4年前の2016年はフィリッピンのマニラだった。

 19世紀後半にフランスで始まったこの運動は、20世紀にはインドを皮切りに全世界に広まり、今もほぼ4年ごとに世界をめぐっている。

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★ 友への手紙 インドの旅から 第12信 E.P. メノン君の場合

2020-12-16 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から ー

12信 平和の友 E.P. メノン君の場合

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12信 平和の友 E.P. メノン君の場合

 

メノン君に会うためにバンガロールに立ち寄った。 

ぼくは、日本を発つ前に、インド大使館の図書室でめぐり合ったDと言う女子薬科生を通じて、彼のことを知るようになった。彼女によれば、メノン君はいわゆる平和主義者で、昨年の夏、広島の原爆記念日を期して、東京から広島まで数百キロのピース・マーチをやってのけている。彼の足はワシントンのホワイトハウスからモスクワに赤の広場の土まで踏んでいる。 

ぼくが訪れたとき、彼はたまたま講演旅行でケララ州へ出向いていた。しかし、他人の不幸が幸いして、急死した親友を弔うために彼は予定を変えて早く帰ってくることになった。

一両日待って、ぼくは彼の事務所で初めて彼に会った。痩せた中背のかれは、溢れるほどの親愛の情をこめて迎えてくれた。世界中を歩いてきただけあって、身辺には洗練された雰囲気を漂わせていた。

誘われるままにお茶を飲みに出た。二人は市内で一番清潔な新しいカフェーに入った。「東京の喫茶店のようでしょう」、こう言って彼は語り始めた。何気ない言葉だった。しかし、それは僕の頭の中で見えない波紋となって広がり、四壁に反射して複雑な画像を描き始めた。

長い英国での生活から帰ってきたネルー(ネール首相のことをインド人はこう呼ぶ)は。「愛する祖国を植民地支配者のような冷酷な嫌悪の情を持って見返した」と言った、とか。メノン君も一連の外国旅行の末、彼が幼いころ「これが世界だ、これで不通なのだ」と信じて疑わなかったインドの社会を、もはや同じ目で見ることが出来なくなっていたに違いない。

「東京のように・・・」という言葉の背後には、はだしで歩く男たち、カレーの味の沁みた駄菓子を噛んでいる子供たちを、また、表通りで牛糞と泥を練って乾かして、台所の燃料を作っている若い娘たちを見られるのを恥じているのが感じられた。

ネルーの嫌悪、メノン君の羞恥が、インドを近代化しつつある。

解決の希望もない、あまりにも多すぎる社会の悲惨と問題を前にして、人はヒマラヤの山中に逃れ、一人で禅定三昧の内に解脱を求めるか、さもなくば、バンヤンの木陰で昼寝をするしか道がないように見える中で、メノン君は一体何をしようとしているのか。

彼は、ピース・マーチの体験を本にまとめて発表し、ロシアに留学し、いつの日かこのバンガロールの街に、世界平和運動の一大センターを作ろうと夢見ている。

彼はまた、サルボダヤ・ムーブメントと言う一種の民間結社にも所属している。彼らは、全インドの無知な農民に、ガンジーの無抵抗の抵抗による平和を説き、大地主に呼びかけて、小作農に土地を分かたせるために働いている。

彼らは如何なる宗教にも組みしない。彼らにとって宗教は言語と同様に人々の相互不信と、争いと、因習と、迷信と、社会の分断の根源以外の何ものでもない。実に、ヒンズー教のカーストは、社会を横に細かく裂き、原語はそれを縦割りにし(インドは多言語国家だ)、さらに他の宗教はそこに流血の争いを持ち込んでいる。彼らにとって、ただ科学だけが一致と平和と繁栄の女神であり、唯一の共通言語なのである。

彼らはヒンズーの神々を否定し、アラーの神を拒み、ヤーヴェの神を知らない。ガンジーまでも「異郷の丘の上で気の毒な罪人が処刑されたとて、それが私に何かかわりがあろうか」と言って、ついにキリストの神たることを悟らなかったと言われる。

しかし、彼らの間でも仏陀の精神だけは尊ばれる。これは矛盾ではない。改革者たる彼らの目に映じた仏陀その人は、宗教家ではなくて、まさに理想の社会改革者だったからだ。

確かに、紀元前5世紀、6世紀といえば、インドではようやくヒンズー教が固定化し、身動きならぬカーストの枠が人々を重苦しく締め付け始めたときだったから、仏陀の起こした運動はこの社会の制約に対する反逆として、大いに人々の心を捉えたに違いない。従って、彼の教えは社会の変革に役立った限りにおいて栄え、それが仏教として宗教化するにつれて国内における存在意義を失い、逆にその宗教化が国外への伝搬の道を開く普遍性を身に付けていったと言えるのではないだろうか。

やがて二人は店を出て公園を散歩することになった。彼は途中でヴィジャヤと言う名の友達を誘った。彼女はもと彼の同志で、今はヒンドゥスタン航空会社(インドで一社国産航空機を造っている)で役員秘書をやっていた。アーリアン系の美しい女性だった。

封建的なインド社会では、良家の子女が職業に就き、男性に誘われてこうして散歩に出てくるなどということは、勇気が無くてはとても出来ないことなのだ。夕焼け空の下、黒い森のなかをそぞろ歩きながら、三人はいろんな話に夢中になった。

ぼくは二人に問うた。魂の不滅について、本当の幸福について、神の存在について、平和について・・・。ヴィジャヤは黙って僕の問題提起に耳を傾けていた。けれど、メノン君はいささか苛立たし気に僕の話をさえぎろうとした。

彼はインド人独特の雄弁をもって、神の非存在の証明を試み、たましいは不滅ではないと主張し、こうして平和主義者たる彼は、自らの言葉をもって本当の平和と本当の幸福の何たるかに答える可能性を自ら放棄してしまった。

彼にとって世界の始めは問題にならない。不滅のエネルギーは永遠に存在し、そこから物質が生起し、また消えていく。物質は進化し、その頂点は人間の脳で、精神はその所産であるという。彼は人格の自律性に対する理解を欠いている。恐らく彼の心は人格的愛の深みにまだ触れていないのではないか。

ヴィジャヤは終始一貫黙って二人の議論を聞いていた。

やがて三人はまた「東京にもありそうな」立派なレストランに入って夕食をとった。

翌朝僕はコーチンへ向かった。発つ前にヴィジャヤは勤め先から電話をくれた。私は彼女の言っている意味が良く汲み取れなかった。私の頭は睡眠不足でもうろうとしていたからだ。宿舎の部屋は土の床で、入り口は長い暖簾が一枚。土の壁。天井からは暗い裸電球が一個、夜も灯っていた。藁のマットを土の上に敷いたのが寝床で、夜中痒くて目が覚めた。眠い目を凝らすと、土壁を伝って南京虫がぞろぞろと這い下りて私を襲ってくる。恐怖に襲われて、脱いだ靴を片手に、そのかかとでパチン、パチンと叩いて敵を殺す。こうして一夜が明けたのだった。

電話の向こうでヴィジャヤは必死に早口に何かを訴えている。しかし霞のかかった頭ではよく意味が取れない。「イエス、イエス、ぼくは○○時の汽車でバンガロールを去る、サヨウナラ」、をただ機械的に繰り返していた。会話は完全にかみ合っていなかった。

絶望的に彼女は電話を切った。

駅のホームで汽車を待つ間に、ヴィジャヤは家の下僕に託して大きな宝貝を贈ってくれた。それにはローマ字でBAMESWARAMと刻まれていた。僕はまだその意味を調べていない。しかし、電話の向こうの彼女が、せめてあと数日でもいいからバンガロールに留まれないか、としきりに訴えていたのだということに、ハッ!と気がついた。

その時、汽車が入ってきた。

 

 

若気の至りの怖いもの知らず、とは恐ろしいものだ。今思えば、26才の私は身のほど知らずの哲学的命題の議論を見さかいなく吹きかけて、人を困惑させていたように思う。今日、たまたま81歳の誕生日を迎えて、そろそろそれらの問いに分別のある答えを見出さなければと、心焦る日々を過ごしている。

 

 

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第11信 「大嵐の便り」

2020-12-11 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ーインドの旅からー

第11信 大嵐の便り

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11信 大嵐の便り

 

マドラスから西へ約1日。ここはインドでも一番気候の良いバンガロール市です。

 マドラスには、合計4日いたことになりますか。とにかくその間にマドラス州の大学や、学生の家庭生活を見、口の中に消防自動車を百台も詰め込みたくなるようなタミール料理のカレーを試食し、イエスの12使徒のひとり、聖トマの遺跡など訪ねました。

 ぼくは、この偉大な、しかし「手の釘あとに自分の指を入れるまではキリストの復活など信じない」と言った疑い深い使徒のように、「紀元第1世紀のころ、キリストの12使徒の一人が、はるばる千里の波濤を越えて、所もあろうに南インドの東側までやってきていたなんて、とても信じられない、少なくとも、確かな証拠に触れるまでは」と思っていました。しかし、夕暮れの聖トマの海岸をそぞろ歩き、トマの殉教の丘を守る老司祭の物語に耳を傾け、古びたカテドラルの床下深く、聖人の墓に詣でるころには、聖トマのように疑い深かった僕の心も動かされ、たとえ嘘であっても信じたいと言う妙な気持になっていました。

 そして、今ここはバンガロール。

 ぼくはここで、E. P. メノン君と言う青年を訪ねることになっていました。

雨季は去ったと聞かされていたのに、はっきりしない天気だなと不審に思っていた僕の目に、今日アッと思わず息を呑むような記事が飛び込んできました。

 「史上空前の大サイクロン(サイクロンは台風のインド版)セ・印海峡を襲う。港湾施設、フェリーボート、半島部の接続鉄道、鉄橋らが一切が洗い去られ、数百の死体が海岸に打ち上げられた。なお、復旧の見通しは全く立たず」とある。

 僅か数日のことで、危なく死んでしまうところだった。或いは、数日長くセイロンに居たら、インドへ船で渡る計画は変更を迫られることになっていただろう。僕がつい先日乗ったフェリーボートも、今は魚のホテルになってしまったのか。あの中年の機関士さんはまだ生きているだろうか。ケララ州出身のカトリックで、幼い子供が二人いると言っていたが・・・。

 「難破」、それは何と暗示に飛んだ言葉だろう。その言葉には何かしら自分の身の上にかかわりのある響きがこもっている。

ぼくたち若い世代は、近代と言う船が難破した夜、みんな一緒に大海へ放り出されたんだと考えてみたらどうだろう。

 その時、みんな一斉に―それこそ死にもの狂いになって―岸らしき方向に嵐の海を泳ぎ始めたはずだった。けれども、やがて夜が明けて、大波と暴風が弱まると、みんな苦し紛れにしがみついた自分の信条と言う昔の船の破片につかまって、ゆらり、ゆらりと波に弄ばれる自由を楽しみ始めたのではなかったか。

 恐ろしい力の潮流が、知らぬ間に自分たちをとんでもない方向に押し流していることには全く気付かずにいるようだ。せめてその潮が身を切るように冷たかったらと思う・・・。だが、禍なことに海はひんやりと心地よく、波の戯れは人々を適当に退屈させない。彼らは、自分たちがそもそも岸辺に向かって泳ぎ始めたことさえも忘れて、波乗りを楽しんでいる間に、一体なぜ波の中に居るのかさえ忘れているのだろう。

 岸に上がって、船の残骸を集め、使えないものは捨てて、新しい資材を自然の森から伐り出して、前よりも大きなもっと頑丈な船を造って、永遠の港に向かって勇敢に荒海に乗り入れ、再び冒険に満ちた航海に挑まなければならないことを、本来そのように運命づけられているのだということを、思い出さなければならないのではないだろうか。

 遭難者の、そして漂流者の運命の悲劇性に、自虐的に甘えて見たところで、一体何の意味があるだろうか。それはむしろ否定されるべきセンチメンタリズムだと思う。

 例えば、プロテスタントとカトリックとの間の問題にしてもそうだ。一方が他方を併呑する形での一致が、現実には望まれないとしても、また、両者が集団とし歩み寄ることの、いかにも遠い現実ぶつかっても、だからと言って、開き直って現状を肯定してはなるまい。

 問題の解決は、一人一人が接点に立ち、自分の世界の限界を超えて、他者の豊かさを自分のものとしようとして、互いに小さな努力を始める時、初めて与えられるのではないだろうか。

 神の民としての教会が、ばらばらに散らされているのを憂い給うキリストの憂いが、ぼくたちひとり一人の目にも宿るようにならない限り、ぼくたちはまだ神の御子に似ているとは言えない。

 

 

 今思えば、インドのローカル新聞の紙面でふと目に止まった記事から、よくもまあこんな妄想めいたことを考えたものだと、今は思う。

 しかし、当時の私にとっては、キリスト教界の分裂は痛みを伴う自分自身の生傷だった。

 母はプロテスタントだった。母方の親戚の多くがプロテスタントだった。しかし、元をたどるとカトリックだったと言う話をちらりと聞いたことがあった。今はもうそれを糺す手がかりもないが・・・少年時代の不確かな記憶では、何代か前の祖先は、頼っていた神父の私生活に躓いてみんな一緒にプロテスタントの教会に移籍したと言うことではなかったろうか。

 姉は母と同じ神戸女学院に学んでプロテスタントの洗礼を受けた。一方、私は小学校の悪ガキたちとつるんでイエズス会の経営する近くの六甲学院に入ってカトリックの洗礼を受け、そのまま上智大学に進みイエズス会の志願者となったが、迷うところがあってイエズス会を辞め、市井の一学生として哲学の勉強を続けた。

 その後、学生運動の中で見染めた彼女は東洋英和を出たプロテスタントだったが、彼女は同じ教会のメンバーでプロテスタント系の私大の哲学の学生と結ばれていった。

 姉はその後、カトリックに改宗し、プロテスタントの恋人と別れ、修道院に入り、アフリカの極貧の世界に宣教女として旅立って行った。

 また、私より少し年若い友人のT君は、東大を出てカトリック新聞の記者になったが、銀座の教文館で働いていたS嬢と結婚した。当時のカトリックやプロテスタントの学生活動家の間では、エキュメニカルな―つまり、キリスト教の異宗派間の―結婚として、大いに話題になったものだった。しかし今、彼は病の床にある。

 彼の信仰上の主な支えは、奥さんの教会の牧師さんと教会員で、カトリックで今も彼らと友情を保っているのは、私の他はほんの数名ではないだろうか。今はコロナでお見舞いも思うに任せないが、S子さんとはメールで余命僅かな彼の消息を聞き、一緒に祈っている。

 私が、50年以上前にインドの旅でこのような文章を書いた背景には、私を取り巻くカトリックとプロテスタントの複雑な人間模様があったのだと思う。

 

学生時代に作った石膏のレリーフ(現物は失われた)

(つづく)

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