:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★【報告】第45回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」は無事盛会のうちに開催されました。

2022-06-12 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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【報告】第45回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」は

無事盛会のうちに開催されました。

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 去る6月9日(木)曜日は、雲の間から青空がのぞく爽やかなお天気に恵まれ、東京四谷のイグナチオ教会の前の主婦会館で、予想を上回る50名の出席希望者を迎え、温もりのある追悼ミサに始まり、つづく懇親会も和やかに予定の時間を越えて無事おわりました。

 第40回までは、生前のホイヴェルス神父様のお姿を記憶する世代の皆様が中心で、師を懐かしみ追憶する会だったと思いますが、あれから5年、今は「偲ぶ会」の出席者の過半数が、師を知らぬ若い世代になりました。師は決して過去の人ではない。今の時代にもその魂はひきつがれるべき人です。「偲ぶ会」は、師の存在を伝え知り、その遺徳に心惹かれ、師の宣教師としての働きに学び、自らの信仰のあり方を考え、宣教の使命を見出そうとする人々に受け継がれながら、これからも続いていくでしょう。

 コロナ禍に教会が過敏に反応し、信徒がミサに参加するのを厳しく制限してきた中で、ミサに与かれる喜びをかみしめられた方もおられました。

 大きい教会では集団の中に埋もれて孤独を感じ、小さい教会ではいつもの顔ぶれの閉塞感に陥りがちな中で、何か新しい風を共有する連帯感が感じられるミサではなかったでしょうか。

 ミサ後の集会では、全員が一言でも思いを分かち合えた連帯感に包まれ、つぎの展開への期待に満たされて、別れを惜しみながら解散しました。

 参加者一同をご自分の名のもとに呼び集め、見守って下さったホイヴェルス神父様に心から感謝したいと思います。

 信者も司祭も高齢化し、減少し、若い人々は教会に寄り付かず、日々生気を失いつつある教会の現状を打開することは急務です。しかし、福音宣教の明確な指針は示されず、行動への参加の呼びかけも聞こえて来ない現状を打開するために、底辺から、宣教とは何か、何ができるか、何を為すべきかを考え合う場としての「偲ぶ会」には大切な使命があると考えます。それこそホイヴェルス神父様が私たちに望み、期待しておられることではないでしょうか。

 今回の「偲ぶ会」では、初代の聖イグナチ教会を記憶する信者さんから、懐かしい写真や絵の数々が寄せられました。そのうちの2枚をご披露いたしましょう。

 

在りし日の聖イグナチオ教会 ホイヴェルス神父様が初代主任司祭になられた時に建てられた。今の楕円形の聖堂は旧聖堂の前のソテツの樹のある広い芝生のあたりにある。(これは写真ではなく絵です。)

 

聖イグナチオ教会の内部。私はこの祭壇で毎朝7時にホイヴェルス神父様のミサの侍者をするのが日課でした。

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★ 喜ばしいお知らせ(つづき)

2022-05-27 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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喜ばしいお知らせ(つづき)

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 先のブログ「喜ばしいお知らせ」はまことに舌足らずの半端な記事に終わってしまいました。それで、つい続きを書きたくなりました。

 神様は絶妙なおはからいで歪んだ定規を使ってまっすぐな線を引かれ、来るべきコロナに備えて「偲ぶ会」をあらかじめ安全地帯に移してくださいました。それは、偉大な宣教師であったホイヴェルス神父様を「偲ぶ会」には、まだ果たすべき役割があると神様が思われたからでしょう。それが日本の新しい福音宣教の始まりとなる小さな芽として護られ、育ち、やがて大きな樹に育つことが望まれているからに違いないと思います。 

 一口に「福音宣教」と言いますが、それがどういうものであるか、どうあるべきか、を正しく理解することは容易なことではありません。教会が言葉だけのスローガンとしてそれを掲げても、「福音宣教」の内実が深く理解されなければ、ただの空念仏に終わり、その結果として何事も起こりません。

 聖書には「回心して福音を信じなさい」とか「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16.15)とか、「信じて洗礼を受ける者は救われる」とかいうことばが散見されます。また、洗礼を受けたものに対しては、あなたがたは「地の塩」であるとか、「世の光」であると言われ(マタイ5章参照)る一方で、「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が着けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタイ5.13)という言葉もあります。

 とは言え、これらの言葉が具体的に何を意味しているかを深く理解している人がどれだけいるかは、実に心もとないかぎりです。

 一見すると、教会は単純素朴に、人は洗礼を受ければ救われる(受けなかった人は救われない)などと言って、ただ闇雲に洗礼を授けさえすれば、それでよしとしているかのようです。

 たとえば、初代教会から中世を経てごく最近まで、乳幼児の死亡率が非常に高かったため、洗礼を受けないうちに死んでしまったら救われないから大変とばかりに、生まれる子供にすぐ洗礼を授ける習慣が支配的でした。実際に、洗礼が間に合わなくて死んだ嬰児の魂は、はたして救われて天国に入れるか、それとも入れなかったか、などという議論が大真面目にされてきたのです。実に馬鹿馬鹿しい話だと思われるかもしれませんが、これらはほんの一例に過ぎません。

 また、教会人は気安く「福音宣教は大切だ」といいますが、成人した常識のある信仰者にとって「洗礼」とはなにか、「救い」とはなにか、洗礼と救いはどう関係しているかなどについて、正しく深い見識を持っている人が、信者の間でも、司祭でも、高位聖職者であってさえも、どれだけいるかを思うと、極めて心もとない話です。

 洗礼を授ける条件としては、「地の塩」、「世の光」として生涯を生きる準備のある成熟した大人の信仰を想定しています。では、まだ物心のついていない幼児に洗礼を授ける場合、その子が将来成熟した信仰を持つようになることをどのように担保するというのでしょうか。

 それは、子供の信仰養育に責任を負っている親たちの信仰と教会共同体の信仰がその子を大切に育て、信仰を十全に伝えていくことを前提としています。しかし、もし、その親たちと教会がその責任を果たさず、子供の信仰教育をないがしろにし、福音宣教に対しても曖昧な態度をとるならば、子供たちの洗礼は「塩味のしない塩」「光りを放たない灯」を粗製乱造する結果となり、その子の魂の救済のためにも、世の福音化のためにも役に立ちません。

 他方では、塩味のする真の塩として生きる信者に親しく接し、心で深く繋がっている人たちは、すでに塩味のついた人であり、彼らの灯に照らされてすでに闇から明るみに入っているので、洗礼を受ける前からすでに神の救いに与っています。

 教会で信仰入門の手ほどきを受けている求道者が亡くなると、教会はその人を洗礼を受けた信者と同等に扱い、キリスト者として教会の墓地に葬る古くからの習慣は、その事と呼応しています。求道者が地の塩としての責務と世の光となる使命を理解して洗礼を望むようになるとすれば、それこそ天において大きな喜びとなるでしょう。

 偉大な宣教師だったホイヴェルス神父を「偲ぶ会」に集い、祈り、ともにミサに与かる皆さんは、知らぬ間にホイヴェルス師の塩味によって味付けされ、師の宣教魂の灯に照らされて光の中を歩み始めているのです。 

 神の国は近づいています。十字架の苦しみの中で死に、葬られ、三日目に復活したイエス・キリストの救いの恵みと贖いの力は、信者だけではなく、まだ洗礼は受けてないがホイヴェルス師の魅力に引き寄せられて「偲ぶ会」に参加したお友達にも、すでに届きはじめていると確信します。

 もし幸い、その人たちの中から、この世を腐敗からまもり味をつける塩となり、この世の闇を照らす光りとなる招きを感じて洗礼を望む人が現れたら、天のホイヴェルス神父様はどれほど喜ばれることでしょう。このホイヴェルス神父を偲ぶ会が、宣教の使命に生きる真のキリスト者を育て、世に送り出す場として受け継がれていくことを、ホイヴェルス神父は望んでおられます。「偲ぶ会」にとって、これほどの「喜ばしい知らせ」がほかにあるでしょうか。

 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(マルコ9.40)と聖書にあるように、ホイヴェルス神父様の追悼ミサに反対しない人は、みな神父様の友であり、神の国はすでにその人たちに届いているのです。

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 ホイヴェルス師の 第45回 追悼ミサと懇親会

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日  時: 2022年6月9日(木) 午後3時から5時半ごろまで (ミサと懇親会)

場  所: JR四谷駅 麹町口1分 主婦会館プラザエフ (部屋は当日入り口に表示)

参加希望者はこのブログのコメント欄(右下の「谷口神父」のさらに下に小さな細い字で コメント とあるのをクリックして)に

  • お名前
  • ご住所とe-mailアドレス
  • 追悼ミサ参加します

とお書きください。プライバシーは護られます。コロナ対策を万全にし、ゆとりのある広さの部屋を確保するために、あらかじめ参加希望者のおよその数を把握したいと思います。

谷口幸紀神父

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★ 喜ばしいお知らせ

2022-05-22 00:04:39 | ★ ホイヴェルス師

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喜ばしいお知らせ

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 私は4年前の2018年5月29日に「悲しいお知らせ」という題のブログを書きました。

 今回は「喜ばしいお知らせ」という題で書きます。

 29日の「悲しいお知らせ」の内容と、それに深く関連した21日の「ごあいさつ」のブログがどのようなものであったかは、このブログの末尾にそれぞれの リンク を記しましたので、興味のおありの方はお読みください。

 今回の「喜ばしいお知らせ」は、一言で言えば第45回目の節目の追悼ミサを無事祝うことが出来ること、そして、この追悼ミサがこれからも祝い続けられる展望が立ち、また続けるべき意義がある、ということに尽きます。

 この「展望」と「意義」は様々な困難を克服する過程から生まれたものでした。それがどんなドラマに満ちた曲折であったかを少しふりかえってみましょう。

 すべては5年前、「ごあいさつ」のブログがアップされたことから始まりました。ブログが掲載された日と同じ21日付けで、一年前に前任者の主任司祭のもとで与えられていた正式の聖堂・ホールの使用許可証が、着任早々の新しい主任司祭から、突然一方的に取り消されたのです。

 それは、ホイヴェルス神父様の追悼式を不可能にしようする意図が見え透いた一撃で、長く国際金融業で仕事をしてきた人間の社会常識に反する、全くあり得ない手荒な仕打ちでした。

 困り果てた私は、ホイヴェルス神父様と神様に祈りました。「もしあなたのお心にかなうことなら、どうかこの難局を打開してください。奇跡を起こして代わりの場所をお与えください。もし、お望みでなければ、代わりの場所を決してお与えにならないでください。」と。

 スリルに満ちた数日間の格闘(詳細はブログ「悲しいお知らせ」に詳述) の末、イグナチオ教会の目と鼻の先の主婦会館に代わりの会場が見つかりました。私は、これはは神様ご自身が、追悼ミサの継続を望んでおられるしるしだと確信しました。

 九死に一生をえて、第41回目の追悼ミサは確か80人ほどの参加者を得て無事盛会のうちに行われましたが、それはまさに嵐の中の船出でした。42回目は同じ会場で平穏に行われました。                                   

 第43回目と第44回目は、コロナ禍にも拘わらず、緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置が一時解除されていた谷間を縫って、主婦会館側の万全のコロナ対策に支えられ、つつがなく行われたのも不思議と言えば不思議なことでした。

 この度、第45回目の節目の追悼ミサを祝う準備を進めながら、今までの経緯をふりかえって、パンデミックと神様の特別なおはからいの不思議な関係をあらためて深く思わずにはいられませんでした。

 この2-3年間、世界中はコロナ禍の影響で様相を一変しました。日本の教会も例外ではなく、私の目には過剰とも思われるほど神経質に反応したように映りました。

 高齢の信者さんには、重症化の危険があるとして、教会に来ないことが勧められたと言う話も聞きました。一般の信者さんたちを4組に分けて、毎週の日曜日に一つの組だけがミサに参加することが許され、結果的に月に一度しか主日のミサに与かれない、与っても聖歌は歌われないなどでした。そして、あらゆる教会活動が停止、または休眠状態になりました。一言で言うと、なるべく教会に来ないことが勧められているかのような不思議な空気が支配していました。

 第41回目の追悼ミサお引き受けしたときには、誰一人として2年後にコロナ禍が地球を覆うことを予見できませんでした。もし追悼ミサをイグナチを教会で行うことが出来ていたら、第42回目まではその流れで無事に行われたことでしょう。しかし、それ以降はコロナ自粛で聖堂の使用も、ましてや懇親会なども、確実に禁止されていたに違いありません。そして、もしコロナ対策の一環として教会での追悼ミサの中止の要請を受けたら、わたしたちもそれに素直に従うほかに手はなかったでしょう。それを不服として、手の平を返すように教会の外に開催場所を求めて出ていくなどと言うことはさすがに出来ない相談で、第一私自身もそんな手は思いつかなかったことでしょう。結果として42回を最後に一昨年も去年も開催出来ぬまま、今頃は師の追悼ミサは自然消滅の運命を辿っていたにちがいありません。

 しかし、神様の思し召しは別のところにありました。神様はコロナを地上に送ることはとっくにご存知で、師の追悼ミサがパンデミックから護られて存続できるように、あらかじめ手を打ってくださったのも神様でした。

 いま振り返ってみると、41回目の時にイグナチオ教会でできなかった事、そしてあらかじめ別の会場を確保できていたことは、全て神様のみ摂理の一環だったと言うほかはありません。「もし思し召しならば、相応しい会場をお与え下さい」という祈りに対して、ホイヴェルス神父様も神様ご自身も「私は望む、続けなさい」とお答えになりました。

 それだけではありません。教会の施設の使用禁止の背後にどのような人間的意図があったにせよ、神様はその思いを利用して、コロナ禍に耐えて追悼ミサを継続できる安全な場所をご自身であらかじめ備えてくださったのです。あのとき何事もなく船出していたら今頃コロナの嵐の中で沈没する運命にあった追悼ミサを救い、継続を可能にするために神様が敢えてあの妨害を許し、それを利用して、コロナを生き延びる手を打ってくださったのだということを思い知ったのでした。

 ホイヴェルス神父様はかつて、「神様は歪んだ定規を用いてまっすぐな線を引くことがお出来になる」と言われましたが、今回それを身に染みて実感した次第です。いま私は晴れやかな心で神様に深く感謝しています。

 では、神様はなぜそこまでしてこの追悼ミサの継続を護られたのでしょうか。それは私にとって新たな謎となりましたが、その謎の答えはきっと、私たちが追悼するホイヴェルス神父様の生涯の中に探しあてられるに違いありません。

 ホイヴェルス神父様は日本に初めてキリスト教をもたらした聖フランシスコ・ザビエルの流れを汲むイエズス会の宣教師です。師は日本人を愛し、日本の文化を愛して、日本に神様の救いの恵みをもたらすために生涯を捧げられました。

 わたしたちは、師のご遺志をついで、日本の福音化、宣教の使命を果たすために微力を尽くすことに招かれています。私たちは、師の追悼ミサに集い、宣教とは具体的にどういうことかをあらためて考え、実際に日本の福音宣教のために手を汚すべきです。そのために私たちは祈り、ともに考え、小さな一歩を踏み出さなければなりません。

 師の生前を知る世代は大いに師の遺徳を語り次いでください。若い世代は師の残された業績から宣教の使命を学び取り、具体的な行動に結び付けていきたいものです。

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 ホイヴェルス師の 第45回 追悼ミサと懇親会

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日  時: 2022年6月9日(木) 午後3時から5時半ごろまで (ミサと懇親会)

場  所: JR四谷駅 麹町口1分 主婦会館プラザエフ (部屋は当日入り口に表示)

 

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谷口幸紀神父

ブログ「悲しいお知らせ」は ここをクリック 

 2018年5月29日のブログ記事一覧-:〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)

ブログ「ごあいさつ」ーホイヴェルス師第41回追悼ミサー は ここをクリック

2018年5月21日のブログ記事一覧-:〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)

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★ ヘルマン・ホイヴェルス師の 第45回 追悼ミサ

2022-05-17 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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ヘルマン・ホイヴェルス師の 第45回 追悼ミサ

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 来たる6月9日(木)、ホイヴェルス師の没後 第45回目 の節目の追悼ミサが行われます。一人の宣教師の没後、追悼ミサが毎年行われ、45回も続いてなお人が集うという話は、日本の教会では前代未聞の特筆すべきことではないでしょうか。

 ホイヴェルス師は、日本人と日本の文化を深く愛された司祭、そして、多くの日本人から愛された司祭でした。

 このホイヴェルス神父をひとことで言えば、「現代日本に生きた偉大な宣教師」と言うことが出来るでしょう。

 ホイヴェルス師は、16世紀、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルと同じイエズス会の会員で、ドイツのウエストファーレン出身。師が日本に来て40数年ぶりに故郷のドライエルヴァルデ(訳せば「三ツ森村」)の生家に帰られた時、私は師の少年時代の勉強部屋で師と二人だけで師の姪のタンテ・アンナの手料理をいただきながら、歌舞伎「ガラシャ夫人」のドイツ公演の計画や日本の宣教について語り合いました。

 師は1923年9月1日の関東大震災の1週間前にキリスト教の宣教のために日本に来られました。

 上智大学の2代目学長になり、第2次世界大戦のときは軍部の圧力で学長を退くと、四谷の聖イグナチオ教会を開いて初代主任司祭を長く務め、その後も名誉主任司祭として1977年6月9日に帰天するまで、愛する日本人への宣教のために生涯をささげられました。

 宣教とは何か。それは、天地万物の創造主の神が存在すること、その神が長い進化の歴史の頂点に理性と自由意思を備えた人格を持つ人間を創造し、死後その人間は深い眠りに就くが、世の終わりの日には神の子キリストの十字架上の死からの復活の力によって、罪の贖いとからだの復活と永遠の命を人類に与え、終わりなく神の愛の中に憩うよう定められていると言う「よい知らせ」をすべての人に伝えることです。 

 師は宣教を通じて実に多くの日本人にキリスト教の真理を伝え、信仰へと導きました。

 ほんの一例をあげれば、田中耕太郎最高裁判所長官や、優秀な哲学者、科学者の大学教授らを育てる傍ら、多くの子供たちや無名の信者たちからも愛され慕われました。哲学者、詩人であり、劇作家であって、名女形歌右衛門を主役に細川ガラシャ夫人を歌舞伎座で一か月公演したり、宝生流の舞台で春ごとに復活のキリスト能を奉納したり、今のお金で数億円をかけて「日本二十六聖人」の映画を当時の松竹トップの俳優を動員して制作したり、国からは外国人が受けられる最高の勲章を与えられたりしました。それでいて、常に謙遜に子共たちや無名の貧しい人たちの友でありつづけ、一言で言えば、全ての人にすべてとなることができる方でした。

 わたしが最近のブログでホイヴェルス師の初期のエッセイを、今は絶版の「時間の流れに」から何篇か取って紹介したのは、生前の師の姿に接したことのない世代にも、師の面影と魅力を伝え、師について学び、その魂を受け継ぎ、師の生涯の使命であった福音宣教の情熱を分かち合いたいと思ったからです。

 話は飛躍しますが、アメリカの大富豪、スペースXでは宇宙開発をし、ツイッター社の買収話でも世を驚かせたイーロン・マスク氏は「日本消滅」というショッキングな予言をしました。それは日本の急激な人口減少に因んだものでしたが、その意味では、「日本の教会消滅」の危機はそれ以上の勢いで差し迫っていて、今日ほど福音宣教が喫緊の課題になった時代はかつてありません。

 コロナウイルスの蔓延を受けて、国が最初の緊急事態宣言を発出するや、全国のカトリック教会は過剰なまでに反応しました。

 重症化のリスクの高い高齢者は日曜のミサに参加しないように求められたり、信徒を4班にわけて、各日曜日一つの班だけがミサに招かれ、結果的に月に一度しか教会に行くことが許されなかったりで、要は、なるべく教会にいかないことが良いこととして勧められる結果となりました。数年にわたって教会にいかないことに馴れしまった信者たちは、コロナが下火になって社会に日常の活気が戻っても、海外旅行や娯楽やスポーツと同じように教会にも以前と同じ熱心さで人々が戻ってくるかは疑わしい。ひとたび楽な生き方に慣れてしまうと、人はなかなか負荷の高い元の生活には戻ろうとしないものです。

 もともと宣教に無関心であった教会に、コロナを機に信者が怠惰な方に流れたまま戻って来なければ、日本の「教会消滅」は一気に加速するばかりです。だから、今こそ心を引きしめて踏ん張るべきときでではないですか。

 それなのに、日本の教会では、司教団として、又は、どこかの司教区レベルで、あるいは、修道会の緊急のスローガンとして、さらにある奇特な主任司祭のイニシャティブとして、現在の教会の最優先課題として「宣教」を高く掲げる姿が見えてこないのはどうしたことでしょう。

 もし、誰も声をあげず、立って先頭を歩もうとしないのであれば、不肖の私が、ホイヴェルス神父様の生前のお姿を知る最後の世代の一人として、この記念すべき 第45回 の追悼ミサを機会として、新しい「宣教」の開始 を宣言したいと思います。

 一種のインスピレーションとして、ホイヴェルス神父様の声として、師の生前の姿に接したことのない世代にも、師の宣教の熱意を受け渡し、福音宣教の火を新たに燃え上がらせる運動を始めることの必要性を強く感じます。神様のお望みに応えるために、師の記念日に集い、ともに祈り、互いに自分たちの召命を語り合い、神様の愛を証しする使命のために立ち上がりたいものです。どうすればいいかは、集まって祈れば上から示されるでしょう。初めは小さな火であっても、ともに神様を賛美しながら、やがて大きく燃え広がっていきましょう。

 そもそも「宣教」とは何か。「宣教」を具体的にどう実践すればいいか。各自が自分の持ち場でなにをすることが出来るかなど、具体的に研究し、学んでいきましょう。

 このブログを読まれた方の中には、おなじ危機感を抱きながら孤立して動けなかった方も多いのではないでしょうか。連帯と継続は力です。この思いに共感される方は、繋がりを求めて多数お集まり下さい。お待ち申し上げます。

 

 ホイヴェルス師の 第45回 追悼ミサと懇親会

日  時: 2022年6月9日(木) 午後3時から5時半ごろまで (ミサと懇親会)

場  所: JR四谷駅 麹町口1分 主婦会館プラザエフ (部屋は当日入り口に表示)

 

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谷口幸紀神父

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★ 第44回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のご案内

2021-05-30 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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第44回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のご案内

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ヘルマン・ホイヴェルス神父

皆様! 早いもので、私が「偲ぶ会」のお世話役を引き継いで、はや4年が経ちました。「継続は力なり」と申しますが、こうして続けていけるのは神様のお恵みです。

 昨年の 第43回 はコロナ第一波のあとにも拘わらず、期待以上の参加者を得て無事に開催出来ました。今年は緊急事態宣言の再延長下で、より困難な状態にあります。しかし、東京の感染者数は減少に向かいつつあります。私は司祭ですから、いざとなれば一人でも「追悼ミサ」は出来るのですが、出来ることなら今年も同じ思いの皆様とご一緒に捧げたいと願っています。

 幸い、四谷の主婦会館は、昨年に続いてこれ以上は望めないほど完璧な予防対策を実施して迎えてくれます。

 最近では、どなたもミサに与かれる機会が少なくなっているのではないでしょうか。こんな時だからこそ、ホイヴェルス師を偲び、コロナ禍の早期収束を願いながら感謝の祭儀に心を合わせて参加するのはいいことかもしれません。

 生前の師のお姿を覚えておられる皆さまはすでにご高齢ですが、ご両親やご親戚から「ホイヴェルス師から洗礼を受けた」とか、「結婚式を司式していただいた」などの話を聞いたことを懐かしく思い出される世代はまだ多くおられます。また、書物などで教会がまだ輝いていた頃の秀でた宣教師のことを聞き知って、心魅かれておられる方もおられましょう。

 ホイヴェルス師の面影を懐かしむだけでなく、往時ほどの活気が感じられなくなった今日の教会の問題点を探り、明日の教会への課題を真剣に考えてみたいものです。それがミサ後の「分かち合い」のテーマです。

 このごミサにはどなたでも参加できます。どうぞお誘い合わせの上ご参加下さい。

  なお、会場「プラザフェ」にはズーム発信の設備があります。コロナのために出席を躊躇われる方、あるいは遠方で出席が困難な方で、ズームなら参加したいと希望される方が多ければ、検討も不可能ではありません。希望者は、このブログの「コメント欄」に住所、氏名、お電話番号、メールアドレス、とともに、「ズーム参加希望」とを書いてお早めに投稿してください。人数がまとまれば主婦会館と交渉してみます。コメントはこの記事の下の灰色のスペースの右端に小さく青字で コメント とあります。(分からなかったら私のメールアドレス宛てでもいいです。)

 また、当日の主婦会館の「ミサ」と「分かち合い」に直接ご出席を希望される方は、同様に「コメント欄」などを使ってその旨ご連絡下さい。ソーシャルディスタンスを守って席を配置するうえで、場合によってはより広い会場に変更するなどのため、あらかじめ人数を概略把握しておく必要がありますので・・・。

 はじめての方、老・若どの世代の方も歓迎されます。ブログ『〔続〕ウサギの日記』の書き手と直接会って話してみたいと思われる方にとっては、年に一度のチャンスです。

第44回ホイヴェルス師を偲ぶ会

    日 時:2021年6月9日 「追悼ミサ」午後3時から。引き続き「分かち合い」

    場 所:主婦会館《プラザフェ》 JR四谷駅 麴町口 徒歩1分 (双葉女学校の隣)

    連絡先:080-1330-1212;john.taniguchi@nifty.com  谷口幸紀 神父

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★ 「ホイヴェルス師を偲ぶ会」からのお知らせ

2021-04-28 10:59:21 | ★ ホイヴェルス師

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「ホイヴェルス師を偲ぶ会」からのお知らせ

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皆様、その後お変わりありませんか?

 心機一転、2018年に開催された第41回目の「ホイヴェルス師を偲ぶ会」は、会場をイグナチオ教会の向かいの「プラザフェ」に移し、まことに盛会でした。神様に感謝です。

 2019年には第42回、2020年に第43回と続き、今年は早くも4回目を迎えようとしています。時が経つのは実に早いものですね。

 さて、昨年の6月9日はコロナ下では初めての開催となりましたが、幸い第一回目の緊急事態宣言が解除され全国の感染者数も落ち着いた時期に当たり、平時に開催された41回目ほどではなかったにしても、予想よりもはるかに超えた参加者を迎え、無事に追悼ミサ・懇親会を開くことができました。

 今年は、感染者数の下げ止まりの中、第2回目の緊急事態宣言が一旦3月23日に一旦解除された一か月後、早くも3回目の緊急事態宣言発出となりました。全国の感染者数もこれまでとは比較にならぬほど多くなっていますので、宣言解除予定の5月11日までに劇的に抑え込めているかどうか全く予断を許しません。

 今後の展望がある程度見えてくるのを待って、今年の「ホイヴェルス師を偲ぶ会」をどのような形で行うべきかを判断したいと思います。5月中旬以降に再度ご報告、ご申案内し上げますのでしばらくお待ちください。

 「継続は力なり」と申します。私は司祭ですので、一人でも第44回の追悼ミサを執り行うことはできますが、もし状況が許せば、参加人数の多少を問わず、皆様とご一緒にホイヴェルス師を偲ぶ追悼ミサを捧げたいものだと願っています。

 幸い、四谷の会場「プラザフェ」のスタッフは、最も完備したコロナ対策を整え、開催を受け入れる準備が出来ていると申しています。

どうか、共に祈りながら、今後の推移を見守って参りましょう。

 44回目の追悼ミサと言うことは、師の晩年のお姿を記憶する世代がほぼ70歳以上と言うことで、生前のホイヴェルス師の形骸に接したことのある人は年を追うごとに少なくなっていくのは当然です。

 しかし、この追悼ミサは単に師の面影を懐かしむこと以上の意味があります。私たちには日本のカトリック教会の歴史には輝かしい時代があったこと、偉大な司祭や先輩信徒の皆さんが貴重な信仰の証を残されたことを忘れず、学び、受け渡していく必要性があります。

 世界規模で世俗化し、精神的価値、信仰の重要さが忘れられがちな今の時代に、ホイヴェルス師がどのような人であったのか、何を私たちに残されたか、何を受け継いでいくべきかを、ミサの後で皆様と話し合いたいと思います。

 生前のホイヴェルス師を知らない若い世代の皆様も是非お集まりいただいて、現在の教会が抱えている諸問題を共有し、明日の教会を発展させる展望を語り合いましょう。

2021年4月28日                     

「ホイヴェルス神父を偲ぶ会」

事務局 谷口幸紀神父  

080-1330-1212      

john.taniguchi@nifty,com 

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★ タイガーロック女史=ホイヴェルス師から洗礼を授かった人の証言

2020-07-01 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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タイガー・ロック女史

ホイヴェルス師から洗礼を授かった人の証言

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ある日、携帯が鳴った。わたくし、トライワと申します。タイガー・ロックでございます。

初めての電話で開口一番、自分の名前を名乗り、漢字で何と書くかを英語で言ってのけたこのご婦人に特別な興味を抱いた。

彼女の名前は、ホイヴェルス師の追悼ミサの参加者名簿にあって、今年の追悼ミサの案内には私の携帯番号があったのを見て、電話してこられたのだ。

 

 

94歳。清瀬の老人ホームに入っている。以前は時々ホームから片道1万円以上かけてタクシーを飛ばして目白のカテドラルまでミサに与かりに行っていたそうだが、最近は施設の職員が一人外出を制限して、出してくれなくなった。訪ねてくれる司祭もいなくて孤立していた。

ホイヴェルス神父様の追悼ミサには是非とも出席したいが、一人では出してもらえないと言うので、往き帰りは私が車で同伴するからと言えば許可が下りるかもしれませんね、と言ったが、それでもやはりだめだった。

69日の第43回追悼ミサは、万全なコロナ対策のもとで、四谷の主婦会館の広い会場を使ってつつがなく行われた。

ミサ後の懇親会では、94歳の虎岩さんと言うご婦人が強く出席を望まれたが、施設側の許可が得られなくて断念されました。皆さんによろしくとのことでした、と報告すると、あら、虎岩さん?まだお元気かしら?と、彼女のことを知っている人がおられた。

数日後、私は追悼ミサの様子を伝え、彼女の告白を聴き、ミサの時に聖別しておいたご聖体を届けるために彼女をホームに訪れた。

 

聖家族ホームの入り口わきの聖母子像

 

コロナ対策で私はホームの玄関から中へは一歩も入れてもらえなかった。

外の車寄せで待つほどに、虎岩女史は職員に導かれて私の前に現れた。広場のベンチに並んで腰をおろすと、問わず語りに彼女は自分の歴史を語り始めた。

 

ベンチの後ろの植え込みの紫陽花

 

大正15年、虎岩冨美子は京橋に8人兄弟の末から二人目として生まれた。帝国海軍の軍艦の電気系統の艤装に特化した虎岩電機は、当時は新橋に大きな店を構えていたが、彼女が10歳のころに倒産。母親の衣装箪笥にまで差し押さえの札が貼られたことを子供心におぼえていた。

大崎の島津山で空襲に遭い、足を怪我した。友達がホイヴェルス神父さまに引き合わせてくれた。神父様は「こんな時代、何があるか分からないから貴女も洗礼を受けなさい」と言われてその気になった。イエズス会の建物(上智大キャンパスの中に今もある木造洋館のクルトゥールハイム)二階のチャペルの薄暗い香部屋で、長身のホイヴェルス神父様から洗礼を受けた。「私の他にもう一人大学の先生の男性が一緒だった。その先生が洗礼を受けるとき滂沱の涙を流しておられたのを見て、私も何もわからないまま、生まれ変わるような気がして思わず泣いた」と言った。

空襲警報が鳴るとホイヴェルス神父様は二階の部屋に逃げなさいと言われた。犬飼道子さんがいつも一緒で二人して机の下にもぐりこんだ。5.15事件で青年将校に殺された昭和の宰相犬養毅の孫でカトリック作家になった犬飼道子は冨美子さんの友達だった。

空襲の後、聖路加病院に入院していた兄を見舞いに行くときは、そこここに転がる死骸を跨ぐようにして行った。

当時冨美子は東大の地震研究所に勤めていたが、ホイヴェルス神父様は東大生を相手にカトリック研究会を開いていて、彼女も参加した。

終戦の日、皇居前の広場で玉音を聴いて泣いた。割腹自殺をした将校もいた。終戦の日彼女は20歳だった。

兄たちは優秀な一中、一高、東大生で、長兄は朝鮮の三菱製鋼に、次男は地質学者に、三男は化学者に、四男は哲学者に、だが5男は健康に恵まれず一高を落ちて水戸の高校に進んだ。兄たちはみな病弱で、当時流行っていた結核で、若くして相次いで病死し、冨美子は彼らの看病に青春を捧げた。 

30台で修道女になった。ホイヴェルス神父様に修道院に入ることになりましたと報告に行くと、どの修道会に入るのかね、と問われたので、「藤沢のみその」の修道会に入りますと答えると、神父様はひと言「有難う」と言われた。

「御園の聖心愛子会」と言えば、ホイヴェルス神父様と同郷のウエストファーレン出身の女性、御園のテレジアが創立した修道会で、神父とテレジアは特別に親密な関係だったから、彼女がその会に入ることを知って、神父は自分のことのように喜ばれたのだろう。

 

タイガーロックこと虎岩冨美子さん

 

御園の会のシスターになった冨美子は、藤沢の本部から広島の呉に、また秋田に宣教に派遣されるが、1964年に豊島区関口に東京カテドラル・マリア大聖堂が丹下健三の設計で建てられると、そこの香部屋係(聖堂の祭壇世話係)に選ばれ、以来45年間そこで働く。

宮様か誰かの葬儀がカテドラルであった時、テレビのカメラが入って、私は嫌だったのに、隅っこに映ってしまったとか、脇祭壇のところには美智子妃殿下の実家の正田家の皆さんの姿がしばしばあったとか、同世代の白柳枢機卿とは一緒に食事に行くなど、親しく付き合わせてもらったなどの思い出を、懐かし気に話してくれた。

カテドラルでの奉仕を終えたとき、彼女はみそのの修道会を退会して今の清瀬市の聖家族ホームに入ったということだった。

さらに、冨美子さんはまだ人に話したことはないが、と断って、私にホイヴェルス神父様に関わる秘密のエピソードを語ってくれた。

ある日、彼女が上智のクルトゥールハイムの二階の聖堂の窓から、イエズス会の修道院の中庭を見るともなく見下ろしていると、ホイヴェルス神父様がひと気のない庭に入って来られた。庭の中ほどまで進んだ時、何かに躓いてばったりと倒れられた。よっぽど打ちどころが悪かったか、しばらく立ち上がれず、ようやく身を起こして、自分をいたわりながらゆっくりと庭の別の方角に姿を消された。

翌日、ホイちゃん(と皆に親しみを込めてそう呼ばれていた)は彼女に会ったが、怪我のことは何も話されなかった。彼女も転んだのを見てしまったことをホイちゃんに言えなかった。

そして、心の中で思った。ああ、ホイちゃんも日本での長い宣教生活の間に、時には仕事の上で、あるいは信仰生活の中で、また人間関係で、人知れず孤独に躓き、ばったり倒れることもあっただろうに、いつも一人で立ち上がり、誰にも告げず、再び黙々と今日まで歩み続けてこられたのだな、と思うと、その後ろ姿が何とも神々しく有難かった。

 

冨美子さんに洗礼を授けてホイちゃん

 

彼女の最期の望みは自叙伝を書くことだが、私の見立てでは、もうそれだけのエネルギーと時間は彼女に残されていないように思われる。

 

 

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★ ヘルマン・ホイヴェルス師を偲ぶ第43回追悼ミサ

2020-05-29 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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ヘルマン・ホイヴェルス師を偲ぶ

第43回追悼ミサ

(6月9日午後3時より、四谷主婦会館)

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聖イグナチオ教会主任司祭時代のホイヴェルス師

 

ホイヴェルス師を偲ぶ会は、40回の節目のミサの後、懇親会の出席者の圧倒的期待を背負って、私が責任者を引き継いで継続することが決まりました。

 

40回目の追悼ミサを私と共同司式した元イグナチオ教会主任司祭カンガス師

 

第41回目と、42回目はイグナチオ教会の向かいの主婦会館で、50人以上の出席者を迎えてミサと懇談会をおこなうことが出来ました。

 

今年は新型コロナウイルスの問題で、一時は中止も検討しましたが、全国の緊急事態宣言が解かれ、開催の希望が生まれました。

 

主婦会館の万全の対応で、広目の会場にソーシャルディスタンスを十分取った席の配置はもとより、会館入り口及び各階ロビーにはOXシャワーの除菌、換気、消毒など、至れり尽くせりの対応がとられていますので、安心してお集まりいただけます。

 

 

 

ひとりの宣教師が没後43年にもわたって記憶され、毎年記念ミサが続けられているというのは、他に類例を見ません。時の流れと共に師の生前を知る人々は高齢化し、「師の面影を偲ぶ会」は「師を知って学ぶ会」へと自然的に移行していく時期に入った感があります。

 

コロナウイルスは私たちを苦しめる得体の知れない理不尽な災厄ではありません。これは神様がハッキリした意図を込めて人類に贈られた大切な印です。厳しい面がありますが、その背後には人類への愛と深いご配慮があってのことです。惰眠をむさぼってきた私たちは、信仰の目でそれを正しく読み解き、神様のメッセージをへりくだって受け止めなければならないでしょう。

 

私たちはこの出来事でハッと我に返り、キリスト者としてこの新しい時代にどのように宣教の使命を果たしていくべきかについて、深く思いを馳せなければなりません。

 

日本の宣教史にはホイヴェルス師を始め、数々の偉大な宣教者たちがいました。私たちは今、その先人たちを慕い偲ぶだけでなく、彼らに学ぶ時だと思います。その意味で、ミサの後にしばし師が残された教訓に学ぶ機会を持てれば幸いです。

 

カトリックの教会でミサが行われなくなって数カ月に及んで魂は渇いています。本番のミサに直接与かり、久々にご聖体を拝領するのは素晴らしいことです。ご希望の方にはミサの前後に赦しの秘跡(告解)の機会も設けます(多分二人の聴罪司祭がお待ちします)。

 

 今年はコロナの影響もあって、昨年の半数もお見えになれば神に感謝の非常事態ですが、継続は力なり、を信じて続けましょう。

 

このブログを見てふと心が動いたなら、それは神様とホイヴェルス師のお招きです。どなたでも「追悼ミサ」と「偲ぶ会」に自由にご参加ください。 

 

 

第43回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」(ミサと懇親会)

 

日 時:202069日(火)1500~16:00 ミサ。16:00~17時 偲ぶ会。

 

場 所:主婦会館「プラザフェ」8階「スイセン」 03-3265-8111

    (聖イグナチオ教会の真向かい。双葉女学校の右隣り。) 

 

交 通:「四谷駅」JR線・丸ノ内線:徒歩1分; 南北線:徒歩3分

 

司 式:カトリック司祭 谷口幸紀   携帯:08013301212

                     メール:john.taniguchi@nifty.com

 

 

なお、このブログを見て直接出席される方は、当日会場の席の配置の都合もありますので、司式者の谷口までお電話かメールでお知らせください。大勢の新しい参加をお待ちします。

 

主婦会館8階 スイセン 仮のレイアウトです

(必要に応じてソーシャルディスタンスを保ちながら10席以上増やせます)

 

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★ ホイヴェルス師の43回目の追悼ミサ = 6月9日(火)=

2020-05-05 00:00:05 | ★ ホイヴェルス師

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ホイヴェルス師の43回目の追悼ミサ

69()

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みなさん、ヘルマン・ホイヴェルス師の命日、69日まであとひと月ほどです。

 

 

新型コロナウイルスの緊急事態宣言が5月末まで延期になって、事態は不透明になってきました。

昨年は50人以上の参加を頂きましたが、今年の異常な環境のもとでは、半分以下の20人、いや、たとえ10人でも、やることに意義を見出して決行するか、あるいは、無理しないで世間の趨勢に従って自粛するか、悩ましいところです。

私は、しばらく前から、ズームというアプリで、毎週2回、信者さんたちのケアーを始めました。土曜日の晩には「主日(日曜日)のミサの典礼」を、水曜日の晩には「み言葉の祭儀」と称して聖書の分かち合いを、というリズムです。参加者全員の顔が見え、音声も相互に交せます。

今まで遠い人は1時間以上かけて私のミサに集まってきた人々が、5分前に自宅でパソコンかスマホを立ち上げれば参加できる手軽さはなかなかなものです。

同じ要領で、ホイヴェルス師の追悼ミサも、69日の晩にズームでできないものかと思案しています。

難点は一つ、生前のホイヴェルス師を知っている世代が高齢化して、必ずしも皆さんが手軽にズームに参加できる柔軟さを持っておられるとは限らない、という点です。

でも、スマホを見事に使いこなしている高齢者も大勢おられるようです。

それに、私は最近ホイヴェルス師がらみのブログをたくさん書いています。それに触発されて、生前の師に会ったことのない世代の皆さんの中にも、ホイヴェルス神父様に興味を抱かれた方も増えているかもしれません。

そういう方の参加も期待して、69日の午後、四谷の会場に集って15人―20人の方と本当にミサを一緒にするか、あるいは同じぐらいの人数以上の参加を期待してズームで集うか、近いうちに判断をしなければなりません。

 

或いは、欲張って、9日午後3時、四ツ谷で追悼記念ミサ、つづいて茶話会、そして晩8時ごろを期して、仕切り直して、ズーム参加の記念ミサの二本立て、も考えられなくはありません。

 

こんな時期だからこそ、負けずにライブミサに参加しましょう!!

ご聖体拝領に飢えている方もおられましょう?!

 

もちろん、席は1メートル以上離し、アルコール消毒し、平和の挨拶もハグなしで・・・

さらに、安倍さんが6月頃、少人数の飲食を伴わない集会を容認していることが前提ですが。

 

今後、この問題に関して、適宜発信していきますので、よろしくご注目下さい。お願いいたします。 

 

また、ご意見や、いいアイディア、アドバイスなどがあれば、コメント欄に投稿してください。

参考にして企画します。

 

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★ 哲学はひと休み 「ホイヴェルス師と女性」

2020-02-18 00:00:08 | ★ ホイヴェルス師

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哲学はひと休み

ホイヴェルス師と女性

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能の舞台の間に狂言が挟まれるように、「哲学」の話しの間に、ちょっと一休みして、

軽い話題を挟むのは、適切な対応ではないかと思います。

 

 

ポケットのiPhoneが鳴った! ディスプレイには「須賀」(仮名)とあるが、思い当たらない。なのに、ここに名前が現れるのは何故??・・・あり得ない・・・

不審に思いつつ出てみると、聞こえてきたのは決して若くはない女性の声だった。

電話の主は私から封書を受けとったと主張する。

私から封書を? だが、須賀と言う名の女性に手紙を出した覚えはない!

私の戸惑いをよそに「須賀」さんは、お構いなしに続ける。

せっかくお誘い頂いたのに、出かけられなくて残念でした。 だが、神父さんに一度お会いしたい! 是非! それで、いつお会いできますか? と畳みかけてくる・・・

 

 

落ち着いて話しを聞くうちに分かってきたことを要約する。

彼女(須賀女史、94才)は、私からホイヴェルス師の42回目の追悼ミサの案内を受けとったのだそうだ。

それは、昨年の69日の命日の記念ミサへの出席をうながす印刷物だったから、恐らく、昨年の4-5月頃のものだったろうと思われるのだが、それを彼女は、あたかもほんの数日前のことのように話される。

彼女の住所・氏名は、追悼ミサの世話役を長くされた森田氏から引き継いだ239人分の名簿にあったのだろうが、わたしには彼女との面識がなかった。携帯に名前が現れたのは、欠席通知の電話を受けたとき、無意識に iPhone の電話帳に登録したからだと思われる。

求めに押されて訪問の日を約束し、「では、11時にお伺いします」と私は言った。

彼女は、「29日、日曜日の11時ですね」と念を押し、「楽しみにお待ちします」という言葉で電話は終わった。

 

 

約束の日のちょうど11時にわたしは清瀬市の老人ホームに着いた。だが、彼女はこの日が私と約束した日であることをきれいに忘れ、私を待ってはいなかった。

職員に案内されて2階の彼女の居室に入ると、初めて会う品のいい老婦人は、私の出現に一瞬けげんそうな顔をされたが、やがてのほどに記憶が繋がり、大歓迎に変わった。

職員が去ると、堰を切ったように古い昔話を延々と始められた。どれもこれも興味深い話だった。

ところが、さて、その続きは、と募る興味に身を乗り出したまさにその時、話は突然一時間前に始まったあの一連の話の最初に戻った。そして、さっきと同じ一連の物語がまた延々と続いた。それはまるでエンドレステープのように、同じメロディーが繰り返された。その間にも、11時半ごろには、昼食の用意が出来ましたと職員が知らせに来たが、彼女は、今日はお客様だから後で外食する。ここの食事はキャンセルしてほしい、と言って、話はさらに続いた。

繰り返しが第3ラウンドに入ったころ、時計の針は2時半を回っていた。

私に促されて、須賀さんはホームの受付の許可を取り、私の車に乗り込んで施設に近いとある和風レストランに入った。

彼女は、「わたしお寿司が食べたかったのよ」と言って、にぎり寿司を頼んだ。

 

 

須賀さんはホイヴェルス師から洗礼を受けたのだった。それは薄暗い香部屋(ミサの準備をする部屋)の中だった、と彼女は記憶する。見知らぬ背の高い大学教授の男性と二人で洗礼を受けた。その男性は洗礼の時滂沱の涙を流された。それを見て、彼女も思わず涙が込み上げて、一緒に泣いた。

終戦の日、皇居前広場の砂利の上に土下座し、ひれ伏して玉音を聴きながらむせび泣いた。近くに割腹自殺をした人がいた。

戦後まもなく、四谷のイグナチオ教会のベンチに跪いて祈っていたら、隣で祈っていたアメリカ人の男性が話しかけてきて、どうかこのロザリオで祈ってくださいと言って自分のロザリオを彼女にくれた。そのロザリオがこれです、と彼女の部屋の天井の蛍光灯から下がっている目立って大きめの黒いロザリオを指した。広島に原爆を落としたアメリカ人だが、彼の息子も戦死したのかもしれない、と彼女は思っていた。

終戦後の混乱の中、上野の地下道にはいつも30人以上の浮浪児たちがたむろしていた。進駐軍アメリカ兵からの差し回しの大量のお赤飯を子供たちに配っていた。すると、そのご飯の中からたばこの吸い殻が出てきた。一瞬手が止まった。その時、彼女は敗戦国民の惨めさをしみじみと噛み締めた。しかし、気を取り直して吸い殻をそっと捨てて、お腹のすいた子供たちに残りの赤飯を全部配り終えた。

修道院に入る決心をして、ホイヴェルス師にその意向を報告した。師がどこの修道院に入るのかねと聞かれるので、藤沢の聖心愛子会に入りますと答えたら、神父は「ありがとう」と言われた。その時彼女は師が何故「ありがとう」と言われたのかわからなかったが、入ってみてなるほどと思った。聖心愛子会の総長のシスター御園(みその)テレジアはホイヴェルス師の故郷ウエストファーレンの出身で、もしかしたら師の幼馴染みだったのかもしれない。「自分の愛する人の会に入ってくれて有り難う」と言う意味だったと須賀さんは理解した。私にも、思い当たるふしがあった。

 

 

ホイヴェルス師は何かにつけ、当時学生だった私をお供に連れて、あちらこちらに出かけられた。病人の訪問、信者の小グループの遠足、友人に会いに行くときなども、度々呼ばれて師のお側にいた。師が歌舞伎座でご自分の新作歌舞伎「細川ガラシャ夫人」を中村歌右衛門の女形で一か月通しで打たれたときも、私は師の右隣りの席で初日、中の日、落の日も常に一緒だった。そして師は私にカトリック新聞の半ページに亙る演劇評を書かせた。また、私も師を座禅道場にお誘いしたりしたものだった。

私は、師が以前からしばしば藤沢の聖心愛子会に行かれるのを知っていた。しかし、師が私をそこへ連れていかれたことは一度もなかった。いま、御園のテレジアのそばにいた須賀さんの証言を聞いて、ハット思い当るものがあった。ああ、そういうことだったのだ。これは師にとって特別な二人だけの濃密な時間だったのだ。そこでは私など、お邪魔虫でしかない。私は深く納得した。

 

 

世の聖者の陰にはほとんど常に聖女がいた。いない方が稀で、不自然でさえある。アシジの聖フランシスコの陰に聖女クララがいた。聖ベネディクトの陰には聖スコラスティカがいた。そもそも、ナザレのイエスのそばにはマグダラのマリアがいたではないか。

新求道共同体の創始者キコのパートナーは年上の女性カルメンだった。キコとカルメンとマリオ神父は新求道共同体の最高指導者チームを構成し、三位一体のごとく常に起居を共にしていた。そして、誰かその一人が欠けるときは、速やかにその後継者を選ぶことが、キコ自身が作成した「規約」の中に定められていた。しかし、カルメンを愛していたキコは、「規約」の定めにもかかわらずカルメンの後継者選びを先延ばしにしていたふしがある。ベネディクト16世教皇に、教皇が認可した「規約」は順守されなければならないと指摘されて、キコはようやく若いスペイン美人のアセンシオンを選んだ。

私はかねがねホイヴェルス師の傍に女性の匂いがしないことを不自然に思い、またほとんど不満にも思っていた。いま、御園のテレジアの下で薫陶を受け長くその身近にいた須賀さんの証言の中に、ウエストファーレンの同郷のドイツ人女性テレジアが、はるばる日本まで追って来て、ホイヴェルス師の傍らに寄り添っていたのは、単なる偶然ではなかろうと想像し、納得し、ほっと心温もる思いを抱いた。

 

 

ホイヴェルス師は、彼の初期の単行本「時間の流れに」(1969年、ユニヴァーサル文庫・絶版)の中で、男女の心の機微について「恋の石段」と言う戯曲を書いている。

登場人物は「隠者」「男(実存哲学者)」「女(深層心理学者)」「禅師」に加えて、四谷の土手に「恋の石段」を築いた「親方」と「ニコヨン(労働者)」の6人だ。

【第一幕】と【第二幕】の実存哲学者と深層心理学者(和子)の恋の展開も洞察に富んでいて面白いが、それは省略。戯曲の【第三幕】で和子が禅の老師にその恋の悩みを打ち明ける場面は圧巻だ。

和子の悩みとは、若い助教授の実存哲学者と恋に落ちたが、実存哲学者がその恋で自分の自由を縛られたくない、とためらっていることだった。

それに対して老師は、「人間は例外なしに罠にかかる」がその罠を逃れることによってこそ人は幸福になれると言った。和子から見れば、老師は愛を我慢して心の自由を守っている。老師から見れば、和子は煩悩のかせに縛られて魂の自由を失おうとしている。和子が男なら、自分の老師の座を譲りたいのに、と思うほど彼女を愛しているのだが・・・。

老師と和子のやり取りのすべてを再現することはとても出来ないが、老師が辿り着いた境地、つまり老師の「悟り」とは「孝順」(まごころをこめて仕えること)だった。

しかし、和子に「老師様は誰に孝順を尽くすのですか」と問われて、老師は絶句し、答えに窮する。

和子はひるまず、低い声で「私が老師様に孝順を尽くしてもよろしいですか」と問う。

老師は珍しく声を荒げて「私を神にするのか、偶像にするのか」と叫ぶ。

和子「愛の心で仕えてもよろしいでしょう?」

老師「仮象の世界では心が乱れる。束縛されない心、それがわしの道じゃ。」

和子「老師様、その道はあなたをどこへ連れて行くのです?」

老師「・・・・・・」

やりとりはさらに続くが、省く。和子は最後に許された「孝順」のささやかな印として、老師に一服のお茶を差し上げ、去って行く。

ドラマはさらに、【第四幕】、【第五幕】へと劇的に発展していくが、これも省略する。

ホイヴェルス師はここで愛の問題に対する仏教的、禅的悟りの限界を描き出しているが、同時に、自分をモデルにした隠遁者の役柄中に秘められた男女の愛の問題を隠して語ろうとしていない。

わたしは、須賀さんから聞いた御園のテレジアとホイヴェルス師の特別な親密さの中に、その秘密が隠されていたことに気がついた。

 

御園のテレジアと言えば、軽いエピソードが思い出される。ホイヴェルス師の霊的パートナーだったテレジアは、修道会の創立者としてたいへん有能な女性であったらしい。30代の私がコメルツバンクのデュッセルドルフ本店で働いていた頃、お隣のケルンの町にはすでに御園のテレジアの創立した日本の会の支部修道院があった。

ドイツでは、毎年カーニバルが盛大に行われる。普段真面目で無口なドイツ人が、こんな時、陽気に羽目をはずして、街は仮想姿の男女で沸き返る。

その年のカーニバルの日、ケルンの大聖堂の近くで、酔っ払った逞しい青い目の青年が、修道服で仮装した若い娘を抱き上げ、肩車して一日ケルンの町を練り歩いたそうだ。

困ったことに、そのシスターの仮装をした娘とは、実は、お使いで街に出た本物の日本人修道女だった。それ以来、ケルンの同修道院では、カーニバルの間は厳しく外出が禁止されることになった、とさ!

思い出すだけでも、思わす笑いたくなる微笑ましい光景ではないですか?

 

 

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