:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 明日はホイヴェルス神父様の42回目の追悼ミサに行こう!

2019-06-08 11:14:00 | ★ ホイヴェルス師

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明日 9日(日)

ホイヴェルス神父様の42回目の追悼ミサ

四谷に行ってみよう、そこには何かがある!

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主任司祭室に座る在りし日のホイヴェルス神父様

ミサは午後3時半に始まります。

場所は四谷のイグナチオ教会の前、

双葉女学校右隣の主婦会館「プラザフェ」3階「コスモスの間」

3時15分を過ぎたら開場します。

生前のホイヴェルス神父様を記憶する人も、

日本の宣教の歴史を築いた偉大な人を知り、

そこから学ぼうとする人も、

共に集って、

ホイヴェルス神父様なら今の教会をどう思われるだろうか、を

心を澄ませて思い巡らしてみよう!

聖霊降臨の祝日のミサも兼ねて

明日は四谷に行ってみよう!

40回目の追悼ミサのあと語られるカンガス神父

 

 

 

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★ ホイヴェルス神父様42回目の追悼ミサに行ってみよう

2019-05-14 00:01:00 | ★ ホイヴェルス師

 

ホイヴェルス神父様42回目の追悼ミサに行ってみよう

【テーマ】 ホイヴェルス神父様と第2バチカン公会議

 

 

 

 ヘルマン・ホイヴェルス神父さまが帰天されて42年の時が流れました。

ホイヴェルス師は1947年から四谷イグナチオ教会の主任司祭、1966年からは同教会の名誉主任司祭になり、1977年6月9日に死去されるまで、その前のテレジア教会時代も入れれば、37年の長きにわたって、牧者として実に数多くの日本人に深い影響を与えられました。師から生涯忘れえぬ薫陶を受けた人の数はおびただしいものがあったとおもわれます。そうした人たちの有志が師の遺徳を偲んで、没後40年以上にわたってその追悼ミサを続けてきました。日本で個人の遺徳を偲んで追悼ミサが続けられたケースとしては他に類例を見ない記念碑的な出来事です。

今まで師から洗礼を受け、結婚式を挙げていただき、人生の危機から救われた人の数は数えきれないほどだと思われますが、師を忍んで毎年追悼式が行われてきた事実を知らずに今日に至った人も、また少なくないのではないでしょうか。

そのような人々に対しては、40年以上の時の流れを越えて、あらためて感謝と追悼のミサに参加するようにこのブログを通して呼び掛けたいと思います。

また、師の生前の姿に接する機会に恵まれなかったより若い世代にも、日本の教会史にこのような傑出した人物がいたことを知っていただき、師の姿を発見し、その教えに学ぶ機会を是非持っていただきたいと思います。

ホイヴェルス師がイグナチオ教会の名誉主任司祭になられたのと同時に同教会の助任司祭になられ、その後1982年から1998年までは主任司祭を務められたカンガス神父様は、師の40回目の追悼ミサを司式され、私も共同司式をさせていただきましたが、イグナチオ教会の最新の教会報に一文を寄せられ

「第二次世界大戦が終わった時に沢山の日本人が生きる目標を失い大変苦しんでいました。そのような時代にイグナチオ教会は生まれました。(中略)その教会の魂はホイヴェルス神父様でありました。(中略)ホイヴェルス神父が40年間教会に与えて下さった魂は生き生きして・・・」

とつづられました。

第40回追悼ミサ後の茶話会でくつろいでホイヴェルス神父の思い出を語るカンガス神父様

わたしはカンガス神父様とはイエズス会の修練院以来のお付き合いで、一昨年わたしがホイヴェルス師の41回目の追悼式以降のお世話役を引き受けたとき、カンガス師は目を細めて賛同され、出席者の皆様の暖かい拍手でむかえられ、その大役を引き継ぎました。

今年は私がお世話することになってから2回目の追悼式です。ホイヴェルス神父様が今の教会の危機的な姿を見られたら何と思われただろうか、そしてご自分なら何をなさっただろうかを、皆さんとともに心を澄まし想像力を逞しくして思い巡らしたいと思います。そしてそれをわたしたちの生き方で証しして行きたいものです。

はじめての方もどうぞ多数ご参加下さい。

6月9日のホイヴェルス神父様の御命日は、今年はたまたま聖霊降臨の祝日と重なっています。聖イグナチオ教会では新聖堂献堂20周年の記念行事が盛大に行われるようですが、その蔭でホイヴェルス神父様のことは忘れ去られたかのようです。師の記念は今後は教会としては一切行わないという決定が主任司祭によってなされているからです。

多くの人が追悼ミサの継続を望まれ、続けられることを喜ばれました。その証として昨年は70名を超える盛会でした。わたしたちは神父様の思い出の地、四谷で、今年も第42回のホイヴェルス神父様の追悼ミサを粛々と行いたいと思います。昨年同様の盛会をお祈りください。

今の日本の教会の現状に深く思いを致し、師の追悼ミサの機会に、わたしたちに何が出来るかを真剣に話し合いたいと思います。初めての方もどうか多数ご参加ください。 

  

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ホイヴェルス神父様42回目の追悼ミサ

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      日 時: 6月9日(日曜日)     3時30分~4時30分

           4時35分~5時35分ごろ (ささやかな茶話会)

      場 所: 四谷主婦会館 《プラサフェ》  3階 《コスモス》  

           (イグナチオ教会の向かえ、双葉女学校の隣、四ツ谷駅から徒歩1分)

      司 式: 谷口 幸紀 神父

      お返事・お問い合わせ:  e‐メールで〈john.taniguchi@nifty.com〉 まで。                       

                 お電話は  080 1330 1212 (谷口携帯) 

 

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★ 故ヘルマン・ホイヴェルス師42回目の追悼ミサへの御招待

2019-04-23 09:44:32 | ★ ホイヴェルス師

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故ヘルマン・ホイヴェルス師42回目の追悼ミサへの御招待

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主のご復活、おめでとうございます。

 

主イエスはまことに蘇られた!アレルヤ!

 

主の平安

桜の花も散り、今はハナミズキが満開を迎えているようですが、皆さまお変わりありませんか?早いもので、6月9日のホイヴェルス師の42回目の追悼の日が間近に迫ってまいりました。

昨年に続いて今年も四谷で追悼ミサを執り行いたいと思っています。

昨年、思いがけず大勢のご参加を得ましたことは、ホイヴェルス師の思い出が今日も私たちの心の中に生き続けている確かな印だと確信いたしました。

ホイヴェルス師の生前のお姿を記憶する世代は、すでに高齢に達し、その遺徳を次の世代に語り継ぐ使命を重く感じています。

師が今の日本の教会の現状をご覧になったら、何を想い、何をなさったであろうかを静かに思いめぐらし、私たちも教会への最後の奉仕として、それを身をもって証ししていきたいものだと思います。

教皇パウロ六世が1964年秋(東京オリンピックの年)、ヨーロッパの外に出た最初の教皇としてインドのボンベイ(ムンバイ)を訪れ、国際聖体大会を開かれました。師はそれへの参加を決意され、私を同行者として連れて行ってくださいました。

今にして思えば、師は当時休会中であった第二バチカン公会議に強い関心を抱いておられたようでした。

2度目の東京オリンピック目前にして、この11月にはフランシスコ教皇の日本訪問が決まっています。新天皇にもお会いになるでしょう。

したがって、今年の追悼ミサでは、

「ホイヴェルス師のインド訪問と第二バチカン公会議」

をテーマに分かち合いたいと思っています。

なお、ホイヴェルス師については、私のブログ《〔続〕ウサギの日記 》に10編の記事を連載していますので、ご一覧ください。

下のURLをクリックすると、一瞬に切り替わって、このページがもう一度繰り返されたあとに、続いて10編のブログを見ることができます。

どうか、生前の師を知らない若い世代のお友達もお誘いあわせの上、今年も是非ご参加くださいますようお招き申し上げます。初めての方もどうぞご遠慮なくご参加ください

 

カトリック司祭 谷口幸紀拝

https://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/6a9f5b0d1edab1c2cba7a170f5ed3a8b

 

 

 

 

 

 

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★ 鐘の声 -ヘルマン・ホイヴェルスー

2019-03-17 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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鐘 の 声

ーヘルマン・ホイヴェルスー

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イグナチオ教会では、このあいだも、鐘を鳴らして荘厳な式をはじめました。鐘の音を聞くと、子供の頃のなつかしい故郷のことが私の胸に浮かんで来ます。鐘の音は何と不思議な力を持っているのでしょう。

 鐘の音を一番楽しく聞いたのは――それは中学生の頃でしたが――土曜日の午後、とくにお祝いの日の前の午後でありました。学校が終わってから町の広場に行きました。そこには中世の昔から残っているゴシック式の聖堂がそびえていました。その高い塔からあしたの日曜日を告げる鐘が鳴り始めました。四つの鐘です。まず高い音のがなると、段々に一番低い音のまでが鳴りだします。四つの鐘は仲よく調和的に鳴りました。腹わたにしみ通るような重い鐘の声、その振動で町中の空気はふるえました。高い声の鐘はこの重いどっしりした響の上におどり上がるようでした。また、この音は天からの声、神の声のように響きました。六日間の労苦と勉強が終わって明日は喜びの日、日曜日なのです。私はじっと広場に立って、このやわらかい暖かい音の波を浴びながら、永遠の喜びが確かなものであることを感じました。

 私の兄もこの鐘の音を聞きます。しかし兄は機械に深い興味をもっていましたから、鐘の音よりも鐘そのものを見たかったのです。まもなく私たち二人は塔に登る許しをもらいました。条件としては今度の土曜日に少し鐘を鳴らす手伝いをしなければなりません。むろん私たちは喜んで約束しました。土曜日を一生けんめい待っていました。その日が来て、私たちは案内され、塔の中のほの暗い高い階段を登って行きました。てっぺんに着くととても広い「鐘の部屋」に入りました。まず目の前にある大きな鐘を眺めました。普通の教会でしたら、長い綱を下から引いて鐘を鳴らします。しかし、この鐘は大きくて違う方法で動かします。まだ電力のないときでしたから、鐘の上に丸太をつけて、その片方を足で踏みます。それにはまず梯子で鐘の上に登り、そのそばの台の上に立って両手で鉄の棒の手すりにつかまり、左の足は台の上においたまま、右の足で鐘の上の丸太を力いっぱい踏みおろします。すると段々に鐘は調子づいて動き出します。兄と私は一番大きい鐘には体力が足りませんでしたから、そのほかの方をうけもちました。そして小さい方は早く鳴りだし、大きくて重い方はあとからおくれてそれについてきました。これは鐘を鳴らすことの一つのわざであり美しさであります。このひびきをきく人は必ず町のあちこちに立ちどまってじっと耳をかたむけます。こうして私は一生けんめい鐘の音をつくり出して、塔の窓から四方に送りました。町の上をこえて、森までも、遠くの山までも。

 この聖堂の鐘は風に運ばれますと、五、六時間はなれたところまでもよくきこえました。こうして鐘のことを実際に経験しましたから学校でドイツ文学の時間に鐘をたたえる詩や場面は前よりずっとよくわかったのです。たとえばゲーテの「ファウスト」の中で、聖週間すなわち教会の鐘がならない期間のあと復活祭の始めに鐘が鳴るとき、絶望するファウストはそれをきいてふたたび生命に対して希望がわいてきますが、これは何と実感のこもった場面となったことでしょう。あるいはシラーの「鐘の歌」。これは長い詩ですが、始めから終わりまでとても面白くよみました。これは人生のよろこびと悲しみにともなう聖堂の鐘のひびきをきくようでした。

 私が若いとき聞いた鐘と日本で聞いた鐘とどちらがよいかなどきくのは、困った質問です。どちらもよいものでありますから。

 ハンザの都市リューベックにいたときのことでした。やはり土曜日の午後、どの教会からも無数の鐘がひびき、町中はそのメロディーにひたされました。私はうれしくてたまらず、そこに来ていたハンブルグ領事館の日本人の友だちに「これはとてもいいではありませんか」といいました。その方はただ「まあ、やかましい」とこたえました。

 またこれと反対に、私は最近ヨーロッパから来た友だちにお寺の鐘を紹介したいと思いました。するとその人はつまらなさそうな顔つきで「たいしたことじゃない、短調すぎる」といいました。

 でも、私は日本こそ西と東から世界のもっともよいものが集まって来るところだと思います。ふしぎにも鐘についてもそうなるらしいのです。

 三年前の八月六日、原爆の記念日に、広島で行われた大きな平和教会の献堂式に参列しました。そのとき高い塔から四つの鐘が鳴り始めました。全く夢のような気もちでした。完全な調和のひびき、深い平安の感じをおぼえました。人類が、これから先あゆむ道に対して新しい希望が湧いてきました。ところで私のそばに立ってこの鐘のメロディーをきいていた人は誰でしょう。むかしふるさとの町で鐘のところに一緒にのぼったほかならぬ私の兄でありました。そして、この平和の鐘を作った者も、実は同じ兄だったのです。

* * * * *

私が青春時代を過ごした四谷の聖イグナチオ教会は、敷地に入って右側にあった長方形の教会で、正面には上にステンドグラスの丸い大きなバラ窓があり、その下に尖塔アーチ型の三つの入り口があり、左側に高い鐘楼がありました。聖堂の入り口の反対側には藤棚があり、敷地の奥には米軍払い下げのカマボコ兵舎を使った司祭館がありました。

上智大学の最初の2年間はキャンパスの中にあった上智会館と言う学生寮の一室で、ともにイエズス会の志願者であった一学年上の森一弘神学生(彼は後にイエズス会を去ってカルメル会に入り、司祭になった後、東京教区の補佐司教になった)と同室で、毎朝同じ目覚まし時計で目覚め、一緒にホイヴェルス師の7時のミサ答えをしました。たまに、ホイヴェルス神父様が6時半のミサをたてられる朝は、代わりに7時のミサをたてるアルーペ管区長さまー後に世界のイエズス会のトップの総長になられたーにお仕えするのでした。

塔からは、朝、昼、晩にアンジェラスの鐘が鳴り響き、日曜、教会の祝祭日、結婚式、お葬式のときも、イグナチオ教会の鐘は高らかに鳴り響き四谷界隈の生活に溶け込んだ風物詩となっていました。時おり、NHKや民放の録音技師が、放送に使う音源として、イグナチオ教会の鐘の音をせっせと録音しているのを見かけたものです。

月日の移り変わりの中で、ホイヴェルス師は帰天され、木骨モルタル造りの聖イグナチオ教会の建物も老朽化し、いまのモダンな楕円形の聖堂に建て替わった後は、中世ヨーロッパの教会にあったような鐘は取り払われ、古き良き時代の四谷の風物詩も「時間の流れ」のなかに消えて行きました。

私も、いつか昔を懐かしむ年になり、あの頃輝いていた全国の教会も、久しい以前に船底が錆びて穴のあいた豪華客船のように浸水が始まり、静かに沈没の運命をたどっているかのようです。地方の末端の小さな教会では、豪華客船の最下等船室のように、膝まで海水につかり、牧者の司祭は不在、毎週日曜日のミサさえも途絶えがち、求道者は訪れず、お葬式ばかり増えて、その度に信者の数は減り、減ると閉じられて統廃合され、それでも信者の減少と高齢化に歯止めはかからず、・・・

それでいて、各司教区の例外的に活発な1-2の教会だけは、今も結構往時の賑わいを見せ、まるで豪華客船の特等室、一等室のように華やいだ装いを保ち、内装をあらためていっそう賑わっている感じさえあります。しかし、その間にも船底からの浸水は容赦なく続き、緩やかな沈没の運命はひたひたと忍び寄っています。

それにもかかわらず、抜本的な内部改革は行われず、助言には耳を貸さず、助けも求めず、新しい希望のある動きは締め出して、「誰にも迷惑をかけることなく、静かに店をたたんで、そっと歴史からフェードアウトするのが最高の美学」であるかのように、古き良き時代の習慣を墨守しながら無為に時間を潰している感じです。これは、何もカトリック教会だけではない、由緒あるプロテスタントの教派も、仏教も、神道も、およそ、まじめで歴史と伝統のある品のいい宗教が一律に直面している恐ろしい死にいたる病です。

流行っているのは品のない、なりふり構わぬご利益宗教だけです。それは、宗教の皮をかぶった、偶像崇拝に過ぎません。

なぜこんなことになっているのか?それは、言わずと知れた、世俗化と拝金主義です。文明から精神的は価値、超越的な崇高な価値へ向かう人間精神の高貴な部分が、この世で一番強烈な「神」ーお金の神様ーによって破壊され骨抜きにされてしまった結果です。

ホイヴェルス師が今帰ってこられたら、よい知らせを告げる鐘、世の世俗化に対して警鐘を鳴らすはずの鐘が沈黙してしまった教会をどう思われるだろうか、と思わずにはいられません。こんなことを言っている間にも、豪華老朽客船の最下層客室では、浸水は膝から腰へ、腰から胸へとじわじわ増え続けているのです。 

私はいま、もしホイヴェルス師がいま生きておられたら、一体どういう対応をされただろうかを心を澄ませて思い巡らせ、師がなさるであろう行動を自分も取ってみたいと思います。

 

 

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★ シュロの木に登った私 ーヘルマン・ホイヴェルスー

2019-03-08 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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シュロの木に登った私

ヘルマン・ホイヴェルス

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ホイヴェルス家の納屋の前のこどもたち。まるで、ありし日のヘルマン少年とそのお兄さんのよう

シュロの木に登った私

 12歳の時でした。お母さんが「ヘルマンや、ピアノをならいたくはないかね」、とおっしゃいました。私は、ピアノってとてもなんぶつだし、それに毎日おけいこ、おけいことめんどうくさくてしょうがない、と考えましたから「ぼく、やりたくありません。でも笛なら吹いてみたいのです」と答えました。お母さんはそれならそうなさいとおっしゃいました。

 それからすこしたって、町へ買い物に出たとき、お母さんは私をある店につれていって、笛を一丁買って下さいました。

 さあ、私はうれしくてたまりません。家へかえってからピーピープープーと毎日のように練習しました。そして、しばらくすると、自分の知っているいろいろなふしを上手に吹きこなせるようになりました。

 ところで、私はまえから木登りがすきでした。家のまわりにある木でまずだいすきになったのは東側にあるリンゴの木でした。(クリスマスにはこのリンゴをどっさりいただいたものです)それからすぐ隣の梨の木、南側にあった桜の木、子供部屋の窓の栗の木、それから西側にあった菩提樹でした。いつか学校で図画の時間に菩提樹をかきました。そのほか西側には広い牧場のまわりに大きなかしの木がたくさんありました。このかしの木にひそんでいる意味と美しさがほんとうのわかったのは、私がふるさとのあのウエストファリアの歌をならってからでした。その歌の文句に

    庭の番人さながらに

    いかめしくぞそびゆるかしの木

とありました。

 あるとき、私はかしのなみ木にそってあゆみ、中でもあまり太くない木をさがしました。ちょうど良さそうなのをみつけると、私はおのを革帯にさしてよじのぼっていきました。てっぺんのこんもりしたところへくると、あたりの枝をきりはらい。腰かけるのにぐあいよくしました。

 それからやがておとずれる五月六月の明るい静かな、日永の宵をまっていたのです。そのような夕方がやってきました。私はだいすきな笛をもってかしの木にのぼり、四方をみまわしながら、じっと耳をそばだてました。

 なんとしずかな夕べでしょう、それはちょうど

   おちこちの峰にいこいあり

   なべての梢には

   そよとの風もなく

   小鳥は森にしずもりて

   ・・・・・・ 

の詩そっくりの気分でした。遠くから水車のめぐる音だけがきこえてきました。

 このしずけさを乱してよいものでしょうか。――私はおそるおそる笛を口に当ててそっとあの「よなきうぐいすのふし」をふきはじめました。こんな美しい宵にまだ足りないものがあるとすれば、それはこの笛の音だけだという気さえしたのです。そこでいよいよ力をこめて吹きました。

 その笛の音は水のせせらぐ川のかなたまでひびいていきました。すると、その音にさそわれてか、あちらこちらでうぐいすが目をさまし、私と、きそってうたい始めました。人びとにも気にいったのでしょう。やがて水車小屋から幾人かでて来てやはり夜なきうぐいすの歌を四部にわかれて合唱しました。こうして、私は知っている歌を次々にふきました。

 アイヒエンドルフの「水車の歌」「美しきライン」の歌、故郷ウエストファリアの「かしの木をたたえる歌」シューベルトの「菩提樹」など。うぐいすはちっともつかれを知りませんでした。私はもうじゅうぶんにふいたので木から降りてしまったときにも、うぐいすはあいかわらずさえずりつづけていました。――夜通しあくる朝までも。

 お母さんは「どこにいたの。まるで天からきこえてきたようだったよ」とたずねました。

 「ええ天に近いかしの木のてっぺんです」と私はこたえました。次の日ふとしたとき、近所の人がはなしているのを聞きました。「きのうの晩はあれは何です。だれだかとてもきれいな音楽をやっていたようです。どこから聞こえてきたのでしょう」

 こうして、私は毎年五月と六月には夕方になるとかしの木にのぼって笛をふいていました。かれこれ十八歳の頃までつづいたでしょうか。

 一九〇九年四月十九日、いまでもよくおぼえていますが、あけがたの三時に私は故郷に別れをつげました。荷物のなかに笛をしのばせて、かしの木には最後のあいさつをして――。どこもみなひっそりとしていました。はるか遠い川岸から水車をまわす水音だけが聞こえていました。

x    x    x

それから六年たって、私はインドで学校の先生をしていました。そこでは生徒たちがたいこや笛の楽団を作っていました。私たちは、ある日遠足をして小高い山にのぼり、そこでとてもめずらしい、しゅろの木をみつけたのです。これはおそらく世界に二つとないもので、おもしろいかっこうで弓なりにまがって生えていました。

 「この木の写真をとろう。みんな木の前にあつまりなさい」と友達の英語の先生が言いました。「だれか生徒がのぼったら、もっとよい写真になります」と私が言いました。ところが生徒はだれもシャツやズボンのことを心配してのぼろうとしないのです。「みんなどうしたのですか」と叫んで私は自分からのぼりはじめました。丘の上のしゅろの木からは、インド洋をみはるかすすばらしい眺めでした。そのとき、私が故郷のあのかしの木を思い出したことはいうまでもありません。

 

 このさり気ない文章の上品さ、格調の高さ、味わい深さにまず皆さんの注意を喚起したい。これが成人してから渡来したドイツ人宣教師の日本語だということに驚かれないだろうか。 

 私はホイヴェルス神父様が里帰りで北ドイツはウエストファリアのドライエルヴァルデ(三ツ森村)に滞在されたときに、コメルツバンクの任地デュッセルドルフから愛車を駆って師の生家にお会いしにいったことがあります。

 師のふるさとはその頃もこの随筆に描かれた通りのたたずまいでした。師の姪ごさんのタンテ・アンナがまだ健在で、師と私のために昼食を用意していてくだいました。お部屋はなんと、ヘルマン少年とお兄さんの思い出の勉強部屋でした。

 師はとてもくつろいで語られ、来年には歌右衛門主演の「細川ガラシャ夫人」の歌舞伎一座を引き連れてドイツに戻るから、その時の現地マネジャーはお前に任せよう、とご自分の夢を語られました。しかし、この計画はついに実現することなく終わったのでした。 

 私は以前に師から一枚しかないと思われる希少な写真を預かっていました。それは、この短編の最後に記されたインドのボンベイ(ムンバイ)の海を見遥かす丘の上の世界に一本しかない面白い形のしゅろの木に登ったホイヴェルス神学生(当時まだ司祭に叙階される前だった)とその生徒たちの写真です。師の自筆の日付こそないが、間違いありません。服が汚れるのを嫌ってしゅろの木に登ろうとしなかったインドの良家の子どもたちも写っています。

ドライエルヴァルデの森とアア川(「アア」は川と言う意味だから「川川」となる)の水車小屋の小麦を挽く音。6月の宵、かしの木の頂きでホイヴェルス少年の幻がうぐいすの鳴き声をまねて笛を吹くと、ナイチンゲールはきっと夜を徹して歌い続けるに違いないと、ふと思ったことでした。

 

(つづく)

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★ はねていく小娘

2019-03-01 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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はねていく小娘

ヘルマン・ホイヴェルス

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ヘルマン・ホイヴェルス師の思い出に戻りましょう。1950年代、60年代は、日本のカトリック教会が最も輝いていた時代ではなかったと私は追想します。下の集合写真には、貴重な師の署名と、自筆で記された日付が見られます。場所は昔の聖イグナチオ教会前の広場でした。

私は、師の左側の黒い手提げを持った和服のご婦人のうしろに一つ頭が飛び出した若者です。当時25歳、この写真に写っている人たちは、もうおそらく全員他界されていることでしょう。

この写真の5年前に刊行された師の「時間の流れに」と言う単行本には、次のような短編が載っていました。ゆっくり味わってください。

 ========

 はねてゆく小娘

========

都会の屋根の上は春の空です。朝六時、夜の雨で清らかに洗われた小路を、私は歩いてゆきました。

向こうから一人の小娘が飛んできます。一足一足飛び上がり、ぴょんぴょんはねはねくるのです。飛び上がるごとに、髪の毛も、左右にさしのべた可愛い手も、春風のなかに快げに、ふり動いています。ほんとに巣立ったばかりの小鳥のよう――黒い髪、明るい顔、生き生きした真顔で飛んでくるのです。

五歩ばかり近づいたとき、小娘は急に私を見つめました。と、子供の顔に美しい朝のほおえみが浮かびました。はねながらのご挨拶です。とても愛らしくひらひらする頭をさげて、はねながら通り過ぎました。

私も急いでお辞儀をしてほおえみました。このお辞儀もほおえみも子供が受けとっていけるように――すると心の中に、四方山の望みが湧き出てきて、これも急いで子供の方におくるのでした。幸福に暮らしなさい! 私のこの望みを受けとって、子供は嬉しげに道を飛んでいきました。足音も、ずっと元気になって――。私も前より嬉しくなり、朝のさなかに歩んでいくのでありました。

とびはねなさい、ほおえみなさい、小さい者よ。お前が挨拶してほおえんだことを感謝します。また私のほおえみも挨拶もいっしょに受けとってくれたのは有難いことです。お前は私を知らない。私もお前を知らないのに。また知らない人には挨拶する習慣もないのでしょう。いま私は自分が悪い人でないことがわかりましたよ。なぜなら、お前が先に笑いかけたのですから。で、私は心の底からお前の上に望みをかけています。

ほおえみなさい、とび上がりなさい、いつまでも。

お父さんとお母さんを喜ばせてあげなさい。また年がたつにつれてお前の歩き方が重々しくなっても、心の喜びは減らないように。今快く髪の毛をふり上げる頭を、人生の軛(くびき)の下にかがめなければならない時、今春風の中に、あんなに自由にはばたいているその手がたくさんの退屈な仕事でいっぱいで、他人から受けとるより他人にたくさん与えねばならない時に、足もまた毎日の生活のたまらない用事のために走り回らねばならない時にでも――それもやはりしかたのないことですが――その時に、なつかしい創造主 der liebe Gott が、お前に豊かなみ光りを下さるように。それによってお前の子供の中の一人が十歳ともなれば、今朝ほどお前がしていた通り、はねたり、ほおえんだりするように!

 

俳句のように短いこの一編の随筆。私は、まず第一にその日本語の美しさに感動します。これが成人してから日本に移り住んだドイツ人の文章かとおもうと、私は唸ってしまいます。日本人の私もこの年まで無数の文章を書いてきました。しかし、日本語としてこれほどの研ぎすまされた簡潔さ、美しさ、優しさ、暖かさ、ふくらみ、深さに満ちた―ひとことで言えば、愛を感じる―文章の境地にはとてもとどいていません。

ホイヴェルス師は、自然を、動物を、子供を、人間をあたたかい愛の眼差しで見つめ、あらゆる存在の本質を究め、それらの深い意味を総合的、統一的にとらえる「哲学するこころ」を持っておられました。かれは「哲学することの楽しみ」を知っている真の「哲学者」でした。

かれは、まことの「哲学者」と「教壇の哲学の先生」とをはっきりと区別しておられました。哲学者が人間の理性の力で、物事の根本原理を探求するものであるとすれば、哲学の先生・教授は歴史に登場した著名な哲学者の教説を人よりも詳しく知っていて、それを人に説き聞かせることを職業とする人のことであり、その人自身は哲学者であるとは限りません。大学の哲学科の教授たちは、たいがいは、哲学史を講釈する歴史の先生にすぎません。哲学の教授は世に五万といるが、本物の哲学者はごく稀にしかいないのです。

師は私に哲学することの喜びを伝授してくださいましたが、哲学の先生になることはお薦めになりませんでした。ホイヴェルス師は教会、すなわち「ペトロの船」の行く末を深く洞察しておられ、わたしにも行くべき方向を示し、教会の進むべき方向を察知する感性を授けて下さったと思っています。わたしが今日このような司祭になったのは、ひとえに師の薫陶のおかげだったとしみじみ有難く思っています。

(つづく)

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★ 私は何になりたかったか = ヘルマン・ホイヴェルス(3)

2018-12-01 00:16:51 | ★ ホイヴェルス師

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 私は何になりたかったか

  ヘルマン・ホイヴェルス(3)

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 〔本文つづき〕

 或る日曜日の午後、父と母は庭のベンチに腰かけて私たち二人を呼び寄せました。そしてしばらくは、彼らの長男と次男をかわるがわる黙って眺めていました。

 「この二人は将来、何になったらいいのでしょうか?」

 「ギムナジウムに行くべきか、畑に行くべきものか?」

と、父は母にいま一度はっきりとたずねました。

 父は農業に興味を感じていませんでした。むしろ自分の弟のように、自分も勉強することが望みだったのです。その叔父は、のちに小学校の校長をつとめました。

 母の生家はライネの町の近くにありました。娘時代の母はときどき母親とともにライネの町のギムナジウムの聖堂で、9時の歌ミサにあずかるのをたのしみにしていました。そしてこの若い娘にとって、聖堂に跪くギムナジウムの学生は、あこがれの的となっていたのです。そして今や若い母親にとって、「成人したなら、自分の息子たちの頭も、あの帽子で飾ってやりたい」という若き日のあこがれは、現実に近づいてきたのでした。

 こうして両親の結論は、息子たちは畑にではなく勉強するほうがいいということになりました。それは大きな決心でした。なぜならそれは9年間にわたる勉強であり、しかもまったく基礎的な勉強で、卒業しても何になったらいいのでしょうか、べつに決まっていません。そこでまず兄は、村の叙任司祭についてギムナジウムの受験勉強をしました。いつも私は兄といっしょでしたから、自然私もそんな勉強をするようになりました。そして幸い兄は3年をとびこえて4年に入学しました。兄はライネの町に下宿して通いました。その翌年、兄は5年に進み、私も幸いに3年に編入することができました。

 ちょうどその年、村からライネの町へ通じる国道が出来ました。父は、そのころ出はじめたばかりの自転車を二台私たちのために買ってくれました。こうして私たち二人は新しい自転車にのって、10キロの国道をゆっくり踏んでギムナジウムへかよいました。この、ゆっくり踏んで通ったのには理由がありました。というのは当時の村びとのあいだでは、「自転車にのるものはみんな肺病になる」と恐れられ、反対されていたからです。それに私の足では、まだペダルが下までとどきませんでした。幸い私たちは健康に恵まれ、やがて二人の友人も自転車の仲間に加わってきました。

 ギムナジウム時代、将来の希望は絵をかくことか、あるいはギリシャ語の教授になることでした。兄といっしょに、絵の先生からは特別の時間を与えられて勉強もしました。私はおもに花や風景を、生家を写生しました。兄の性質は私とまったく違っていました。小さいときから機械に興味を示し、生家の家宝的存在であった老いた掛け時計の修理に年に一度やって来る時計屋の仕事を、そばで熱心に見入っていました。そしていつか、自分でその時計の修理を引き受けるようになったのです。

 1906年の夏、神は私の将来を決めました。兄のアロイスは卒業を控え、いま一度自分の将来について決心すべく、オランダにあるイエズス会の修道院で黙想会にあずかるために、他の級友とともに出かけていきました。数日後の土曜日の昼一時に、兄はまったく違った人間になって帰ってきました。広間に立つなり母に向かって、まっすぐに、イエズス会の賛美をはじめました。彼らは、どんなに厚い本を書くか! どんなに遠い世界までも布教に行くか!・・・と。

 私は黙ってこれを聞いていました。そしてそのとき、「これこそ私のなりたいものだ!」と心に決めました。しかし私の卒業までには、まだ二年以上もあり、この秘密は誰にも打ち明けませんでした。一方、兄の熱心さは伸びるワラビのようでした。あれほど志願を望んでいたイエズス会には入りません。かわりにミュンスター大学の神学部哲学科に入りました。ここには、今は有名なカール・ラーナー教授がいます。しかし、機械は兄を引っぱって、ついにハノーバー工業大学へ行き、後日りっぱな技師になり天寿をまっとうしました。

 私は自分の秘密をずっと守りとおし、卒業式に、はじめて友人に打ち明けました。式のあとの宴会の席上、私はこっけいなテーブル・スピーチの指名をされました。私はビールを賛美する話をして喝采で報いられましたが、そのあと、大きな声で「ジェスイットになるぞ!」とさけびました。するとおどろいた友だちはみんな叫びました。「われわれも君といっしょに行こうぞ」と。そしてつぎの即席のうたをみんなでうたいました。

          Ins Kloster moecht’ ich gehen,

           Da liegt ein kuehler Wein!

               修道院に行こうよ、

            そこにはおいしいブドー酒がある!

 1909年3月5日卒業式、4月19日イエズス会入会。その間に生家との別れの記念として、家の東側のいちばんよい土に12本のカシの木を植えました。今は4本がそうとう大きな木になって残っています。そのカシの木は、私がもっと小さかったとき、森のなかの空地に父といっしょに蒔いた実が成長したもので、かれこれ70年の樹齢を刻んでいます。

ホイヴェルス兄弟のような羊たち

 * * * * * * *

ホイヴェルス神父様 は幼年時代から、羊飼いに、次いで木こりに、そして左官屋になるのだと、幼い夢を語り、それを母親は微笑みながら、反対もせず受け止めていました。そして、時が来ると、父親は叶わなかった自分の夢を、母親は乙女時代のあこがれの夢を息子たちに託すことなったのです。

 私は、ホイヴェルス神父のように絵が好きでしたが、彼のお兄さんのように機械も好きでした。模型飛行機も、船も電気機関車も何でも精密に作りました。

 私の父は東大法学部に在学中に高等文官試験に合格し、卒業とともに勅任官として内務省に入り、官僚から政治家への道を辿ろうと出世街道を駆け上がっていたやさきに日本が戦争に負け、占領軍の下で公職追放に遭い、無位無官の極貧生活に転落した辛酸をなめました。彼はその経験から、学歴も身分も社会の激変の前には何の役にも立たないことが骨身に応えていたので、息子には手に技術を持たせて社会の変動に強い人間に育てようとして、理工系の大学への進学を勧めました。神戸の六甲に住んでいた私は、親の経済的負担を考えて、東京の大学は諦め、家から通える学費の安い国立大学を念頭に受験勉強に励んでいました。

 ホイヴェルス神父が通ったギムナジウムに相当するのが、中・高一貫校のカトリックのミッションスクール六甲学院でした。大学受験を目前にした高3の正月休みに、広島のイエズス会の黙想の家で生徒に進路を考えさせる黙想会があって、私も担任の神父から勧められて参加しました。

 黙想会が終わると、私もホイヴェルス神父のお兄さんのようにまったく違う人間になって帰ってきました。父の前立つなり、「私は阪大や京大の理工学部には行かない。東京の上智大学に入ってイエズス会の神父になる!」と宣言して、父を完全に打ちのめした。カール・マルクスの資本論を読破した筋金入りの無神論者は、その後、プロレタリアートを抑圧する官僚になった自分のことは棚に上げて、私の決心を覆そうと血眼になりました。そのおかげで、私の決意は鉄のように固く鍛え上げられていったのです。

以来、何事にも反目しあってきた父と息子が和解したのは、父の死の数カ月前、私が神父になったのは、父の死の2か月後のことでした。彼は私が司祭になる叙階式に出席することを楽しみにしていたのに。

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★ 私は何になりたかったか = ヘルマン・ホイヴェルス(2)

2018-11-09 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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私は何になりたかったか(2)

ヘルマン・ホイヴェルス

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米軍払い下げの聖イグナチオ教会旧司祭館の前をパナマ帽を片手に颯爽と歩くホイヴェルス主任司祭。執務室はカマボコの左端の粗末な小さな平屋建ての中にあった。

 

早速「私は何になりたかったか」の続きを読もう。

二番目のあこがれは木樵になることでした。

ある日のこと、森にかこまれた生家に船会社の人がやってきました。カバンからはピカピカ光る長い斧、のこぎり、ロープなどがとり出されました。大木の運命は決められたのです。

木樵はまず、生家の西側にそびえる一本のカシの大木の根もとを掘りました。やがて大きな斧が打ちこまれ。のこが引かれると、一人はロープをもってハシゴをのぼり、梢の冠のなかの大枝にロープを結びつけます。そこで、手をもっているすべての人がよびあつめられました。ちょうどそこに一人の乞食が通りかかりました。もちろんその乞食も大歓迎です。問題はこの大木を生家の屋根の上に倒さないように、指揮者は、決められた方向に引き倒すよう一生けんめいです。木ははじめ少しだけふるえます。掛け声がだんだん大きくなるにつれて、木はますます大きく一方に傾き、戻る力が弱まったとき、ようやく引き手には逃げることが命じられました。私はまだ小さくて、この引き手の名誉にあずかることができませんでした。ただ倒れる大木の運命を、恐れをもって見守るだけでした。大木は大音響を森じゅうにとどろかせてうち倒れ、もはやじっと大地にねむりこんでいます。

そばに立っていた父は、私につぎのことわざを教えてくれました。

Wie der Baum fällt, so bleibt er liegen.

これに似たことわざは日本にはないようです。これには少しきびしい意味が含まれています。―――人間の運命は死ぬときに決まる(もし木が屋根の上に倒れたら大罪です)と。

三番目のあこがれは左官屋でした。生家の壁は、トイトブルゲルワルトの山から切り出された石でできていました。しかし、ちょうどそのころ建て替えられたパン焼き小屋には、初めてレンガが使われました。このレンガ積みには大工の息子も手伝っています。錘をつけた糸をたらして、まっすぐに積み上げられていく赤い壁に、わたしはたまらない魅力をおぼえたのです。

私は母のところに行って、自分も大きくなったら左官屋になるのだと主張しました。母はそのときにも、べつに反対はしませんでした。

しかし、六、七歳になったときです。父母は、私たちが将来どんな方向に向かうかを決めるべき、まじめな問題にぶつかりました。(つづく)

これは、実に短い一節で、一見するところ、彼の将来を決定づける最後の部分へのただのつなぎのように見受けられます。しかし、実際はそうではない。毎週の「紀尾井会」に集まる学生たち(当時は東大生も早稲田も中央も・・・実にいろいろな大学から来ていた)には、ちょうどイエスが弟子たちにはたとえ話の意味を説き聞かせたように、この短いドイツごのことわざを丁寧に説明してくださった。

Wie der Baum fällt, so bleibt er liegen.

ヴィ―  デア バウム  フェルト、ゾ―  ブライプト エア  リーゲン。

人間の運命は死ぬときに決まる(直訳:木は倒れたときの状態で、横たわったままに残る)

私は、師のことわざの解説を、今も明快に記憶しています。師が鋭く指摘している通り、これに似たことわざは日本にはないようです。」と言う師の指摘は実に正しい。

日本人の意識の根底には、いつの頃からか一般的に広がった人生観、つまり、前世があって、現世があって、来世があると言うメンタリティーがあります。ところが、上のことわざは、それには全く馴染まない、まさに水と油の世界観、つまり、神は森羅万象を「無」から創造し、人間には誕生から死までの一回限りの人生を与え、神だけが知っている死の時まで、一方通行の時の流れのなかを生き、死の瞬間にその魂の状態がそのまま固定され、その状態によって、その人間の復活後の永遠の命のありかたが決まる、という全く妥協も融通もきかない厳粛な事実を告げているのです。

死んでから、三途の川を渡って閻魔さんに会って、そこであれこれ弁解し、駆け引きをして、何とか後生・来世の良い条件を引き出そう、なんていういい加減な交渉の余地は全くない。「人間の運命は死の瞬間の状態に固定される」、一瞬にして取り返しのきかない形で確定されるのです。

(もし木が屋根の上に倒れたら大罪です)という師の添え書きの意味は、「もし棄教、殺人、姦淫、などの大罪を犯し、回心して神と人と和解しない状態のまま死んだら、自ら地獄の業火の中に飛び込み、そこに永遠に留まるという、取り返しのつかない愚かな選択をすることになる、という厳しい警告でもあります。

だから、人間はいつ「死」に追いつかれてもいいように、日ごろから心して「神を愛し、隣人を己のごとく愛し」ながら、清い良心を保って生きていなさい、と師は教えられました。

まだ足元の明るいうちに、日のあるうちに、回心して福音を信じなさい、と言う招きです。

そして、次回は、少年ホイヴェルスはどのような進路を選んだか、でこの短編は終わります。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

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★ 私は何になりたかったか = ヘルマン・ホイヴェルス (1)

2018-11-03 00:01:00 | ★ ホイヴェルス師

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私は何になりたかったか

ヘルマン・ホイヴェルス

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私は、前回ホイヴェルス神父を偲ぶ会の準備として =「紀尾井会」再開の夢 = について書いた。その最良の準備として、前回の「美しき生家」同様、ホイヴェルス師の書かれた文章を絶版になった著書から短編を拾い出して、紹介しようとおもった。

 

私は何になりたかったか

ヘルマン・ホイヴェルス

随筆集「人生の秋に」(春秋社)より

 私は聖書に語られるよき牧者のたとえ話をきく以前に、よき牧者であった大伯父の羊飼いを見て成人しました。というのは、私の幼いころ、北ドイツのそこかしこには、まだ羊の群れが群がっており、大伯父も百頭くらいの羊の群れをもっていました。彼は、毎朝早く群れをつれて遠い野原へ出かけて行き、夕方には家につれ戻り、小屋の中へ追い込みました。朝、出かけて行くときには、いつも近所からほかの羊が三々五々やってきて、大伯父の群れに合流してしまいます。夕方になると、近所の人たちが出て来て、大伯父の羊の間から自分たちの羊をおびき出します。羊は、主人のなじみの声を聞くと、すぐ喜んでついて行くのでした。

この写真はホイヴェルス神父様の故郷のものではなく、ローマ郊外のものですがヨーロッパならどこでも似たような風景が見られます。特に春には沢山の子羊が生まれどこも生命に溢れています。

 春はとくに賑やかで、おもしろおかしいものです。若い子羊たちが現われて、まじめ顔の年とった親羊のまわりをとび跳ねたり、はしゃいで悪ふざけをしたりします。羊はときどき足を折ったりします。すると大伯父はこれをいたわり、二本の棒きれを足に当て、紐でぐるぐる巻いて、癒してやります。夏になると、大伯父は食料品を詰めたリュックをひょいと肩にかけ、愛犬のカローとともに、オランダの国境まで羊を追って一か月半も旅に出かけて行きました。ある夕方、カローの懐かしい声が聞こえると、兄と私は大よろこびで彼らを迎えに飛び出していきました。カローもうれしそうに私たちの方へとんできました。そしていつの間にか、子羊が見違えるほど大きくなっているのを見て、私たちはびっくりしました。晩には大伯父の旅の話も熱心に聞きました。

 翌朝、大伯父がまたいつものように羊の群れをつれて出て行こうとしているとき、兄と私は、自分たちも羊飼いになろうと決心し、母に願いました。母はすぐに賛成してくれました。そして新しいハンケチを頭にむすんでくれました。私たちは手に長い棒をもち、大伯父とカローといっしょに一人前の羊飼い気どりで明るい朝のなかへ出かけて行きました。ポケットには母の仕度してくれた、おいしいサンドイッチがつめられています。すこしはなれた羊小屋につくと、大伯父が門を開くのを待ちかねて、羊はわれさきに外に飛び出して行きます。

 大伯父は、聖書のよき牧者のように群れの先には行きません、むしろ群れのうしろについて歩きました。それは砂漠ではありませんから、他人の畑が近くにあり、もし一匹でもよその家の草を食べに行くようなら大伯父は牧杖の先についている小さなシャベルで土を掘りおこし、その土の塊を迷える羊になげつけるのです。もしそれが遠すぎるならば、カローをよび、その羊を指さすと。カローはただちに命令をさとって、とんで行きます。しかしカローには羊の足を噛むことは許されていません。このようにして羊は生涯を導かれており、迷う羊はほとんどありませんでした。ただ、子羊はときどきいたずらをします。一時間ぐらいもゆっくり歩いて、広い野原の先にある共同牧場につくと、そうとうに沈黙の人であった大伯父は、草の上に腰をおろしポケットの本をとり出してよみます。それはきっと好きな聖書か信心書であったことでしょう。そのあと大伯父はまた黙って、今度は毛糸の玉をとり出します。こうして私たち孫の靴下は、たいてい大伯父の手によって編まれました。その間、愛犬カローは群れを見守らねばなりません。しかし兄と私には、それはずいぶん退屈なものになってしまいました。翌日には、もう羊飼いに対する熱心は消えてしまいました。もちろん母は、前もってそうなることを知っていたことでしょう。

 こうして四歳の羊飼いの夢はあえなく破れてしまったのです。

(つづく)

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ホイヴェルス神父を偲ぶ会 =「紀尾井会」再開の夢 =

2018-10-23 00:01:00 | ★ ホイヴェルス師

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ホイヴェルス神父を偲ぶ会

=「紀尾井会」再開の夢 =

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6月9日のホイヴェルス神父の41回目の追悼ミサの記念日が半年先に見えてきた。そろそろ準備に着手しなければならない。

生前のホイヴェルス神父を記憶するものは、今70歳台の世代がほとんど最後に近い。師の思い出を次の世代に受け継ぐ努力がなされなければならない時期に入ってきた。それで、手始めにホイヴェルス師の面影を綴るシリーズのブログをアップすることにした。

改築前の四谷聖イグナチオ教会でホイヴェルス師から洗礼を受ける持田梅子さん。代母の右後ろは上智大学の臨床心理学の霜山徳爾教授の姿があった

ホイヴェルス師とはいかなる人物か?それを知るよすがとして最も重要なのは、師が残された文章ではないだろうか。数多くの随筆は詩的にも哲学的にも深く、日本語としての完成度も、文学的香りも、外国人宣教師のものとしては秀逸の輝きを放っている。

論より証拠。まずは読んで味わってみよう。

 

「美しき生家」

1967年の夏の3か月のあいだ、私は44年ぶり、故郷のドライエルワルデを訪ねました。そのとき、土地の新聞は「美しきホイヴェルス家に大いなるよろこび!と言う見出しの記事をかきました。これを見て、どうして美しい生家となったのかと考えてみました。勿論学生時代には自分の生家を懐かしく思っていましたし、いくどか生家を写生したことおありましたが、それが、よその人にも美しく見えるものでしょうか・・・。

そこである日、アア川の橋の上まで行って、そこから国道を歩きながら右の方の生家を眺めてみました。なるほど景色のなかのきれいなその場面は、代表的なミュンスターラントの農家ではないでしょうか。程よく人と隣家からはなれ、ひじょうに明るい印象を与えます。

どうしてそのような感じのよい家ができたのか?と考えてみて、やはりそれは父母のおかげだと分かりました。私の少年時代のふるさとは、カシの木の森のなかに、まだ中世のねむりをひっそりとねむっておりました。今でも、秋の森で聞いた嵐のざわめきを思いうかべると恐ろしくなります。

父と母は1886年に結婚しました。この二人は将来の進歩に対するよい組合せでありました。かれらはグリムの昔話に出てくるように、そのいちばん人間らしい年ごろ(新婚時代)この生家について計画したのです。まず家のまわりにもっと光を入れたい。そこで森の一部を伐り開き、大木は船会社(造船)に売り出され、そのあとには新しい果樹が植えられました。家の東側と西側には一本の菩提樹、北には一本のブナ――これは避雷針の役目をつとめます。次の段階は家にかんするものでした。両親は、非情に心の合った一人の大工と、家の改造についてゆっくり相談をしたのでした。母の希望は、屋根をもっと高く上げ、壁の窓はもっと明るくすること。パン(焼き)小屋を西から東へ移すことでした。この生家の屋根は後年、わらぶきから赤い瓦ぶきにとり替えられました。しかし北の方は今も昔のままの作りを残しています。

随想集 「人生の秋に」 ヘルマン・ホイヴェルス著(春秋社)、1969年より。

 

1969年12月にドイツのコメルツバンクに入社した私は、確か1973年にデュッセルドルフの本店に転勤し、1975年の夏の世界一周旅行の途中に東京に1か月いて、ホイヴェルス神父様にお会いしました。すると師は、来年は2度目の帰郷をするからウエストファーレンの故郷のドライエルワルデ(三森村)の生家で会おうと言われた。

翌年私は車でドライエルワルデにホイヴェルス師を訪ねた。

少年ホイヴェルスが革の半ズボンをはいて登ったカシの木や、大きな農家のたたずまいは昔と同じだっただろうと思った。生家の二階にはホイヴェルス少年とお兄さんの勉強部屋があった。私は、懐かしいその部屋で、タンテ・アンナ(アンナおばさん)と呼ばれる姪ごさんが私たちのために用意してくださった昼食をふたり差し向かいでいただいた。

師はその席で、来年は細川ガラシャ夫人の歌舞伎をもって来るから、ドイツ公演の現地マネジャーはお前に任せる、と言われた。

しかし、その計画は実現しなかった。

師が1977年3月3日に教会内で転倒し、後頭部に外傷を負って聖母病院に入院し、退院後は上智大学内のSJハウスで療養生活を送っていたが、同年6月9日のミサに車椅子で与っている最中に容態が急変、急性心不全で死去されていたことは、その翌年にドイツ勤務を終えて東京に戻った時に初めて知った。師と私の親密な関係を知っていた人たちは、私に訃報を知らせることを思いつかなかったのだろうか。当時の世相では、仮に知ったとしても、葬儀に間に合って一時帰国が可能だったかどうかはわからないが・・・。

話は最初に戻って、今の若い世代に、ホイヴェルス師を紹介し興味を喚起するにはどうしたらいいかを思案している。

私が外資系の銀行に勤めるようになるまでは、上智大学の大学院から中世哲学研究室の助手をしていた頃まで、ホイヴェルス師とは毎朝のイグナチオ教会のミサで侍者としてお仕えしていたし、師が何十年も続けておられた大学生向けのキリスト教入門講座、通称「紀尾井会」にはほとんど毎週欠かさず出席していた。場所は、当時まだ米軍払い下げのカマボコ兵舎の司祭館の主任司祭室だった。昨年の追悼ミサに出席された斎藤恵子さんや、元春秋社の林幹雄氏などは、長く「紀尾井会」でご一緒だった。毎週火曜の午後3時ごろからだったろうか。

今また四谷界隈で往年の「紀尾井会」を復活できないものかと思案している。

米軍払い下げのカマボコ型兵舎で出来ていた司祭館の一室。紀尾井会のメンバーと楽しくクリスマスパーティーを祝うホイヴェルス師。興が乗ると師は幾つも懐かしい故郷の歌をドイツ語で歌ってくださったものだ。師の右には石炭ストーブの煙突。煙突のそばにはアルミの薬缶が写っている。右手前の横顔は若き日の私。

私は中学生の頃からカメラ小僧で、最初はパカンと開くと黒い蛇腹が飛び出す骨董カメラから始めたが、ドライエルヴァルデの写真も捨てずに取っている膨大なネガフィルムのどれかにあるのだろうが、整理が悪く、見つけ出してブログを飾ることができないのはまことに残念だ。

 

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