:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 懐かしのベルリンは今・昔 (その-5)

2015-02-24 21:32:35 | ★ 日記 ・ 小話

 

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懐かしのベルリン、今・昔 (その-5)

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「懐かしのベルリン、今・昔」と言いながら、のことばかり4回書いて、のことを一度も書かないままでは片手落ちではないか。

25年と言えば四半世紀、そろそろ歴史の物差しで測れるほどの時の流れだ。当時のベルリンはドイツ統一直後で、東西の格差が歴然としていたが、今はその違いがすっかり目立たなくなっていた。

1月下旬のベルリンは日中の気温が0度。厳しい冬のベルリンの佇まいは、私の記憶を一気に最初のベルリン訪問にまで引き戻した。40年前、私がまだ若い盛りだった。愛車を駆ってデュッセルドルフから北東のハノーヴァーで真東に進路を変えると、やがて国境を越えて東ドイツに入る。ヒットラーが発明したアウトバーンは厚い鉄筋コンクリート製で、重戦車の高速走行に耐えた。(東京の高速道路は重戦車が何台も疾走すれば、アスファルトは割れ、高架は落ちるだろう。)

当時、東ドイツから西ベルリンへの国境の検問は厳しさを極めた。貧しい共産圏の中の孤島のような西ベルリンは、資本主義文明のショーウインドーとしての華やかさを誇っていた。

 

さて、後はストーリーも難しい考察も省いて、「今」のベルリンの散策に皆さんをお誘いしよう。

 

1989年11月10日にベルリンの壁が崩壊した その少し前に私がローマに来たことは前に触れた

 

 

統一ドイツの象徴ブランデンブルグ門 は壁の跡形もないが・・・ 

壁を越えて西ベルリンに逃れようとして射殺された人たちの記念の白い十字架は残っていた

 

ドイツ帝国議会議事堂は西ベルリンに残ったが 爆撃で破壊されたまま廃墟のごとく放置されていた

それが東西ドイツ統一を機に 内部の装いも新たに連邦議会議事堂として蘇えった

新たに設けられた屋上の巨大なガラスドームには上り下り二重の緩やかな螺旋回廊がもうけられ

その回廊から議会の議場内部が見下ろせる 日本の国会の古めかしさとは対照的なモダンな議席

議員さんたちの気分も一新されたに違いない 日本も何とかならないものか

 

 

日暮れは早い ショーウインドウの飾り付けは パリとはまた一味違って ベルリンらしく垢抜けしている

 

古いレストランに入った どの壁も俳優たちのポートレートでぎっしり埋まっていた

ビールとシュニッツェルの簡単な食事が懐かしい

 

私が25年前のある朝 夜汽車を降りたツォー駅の近く カイザー・ヴィルヘルム記念教会の夜景

崩れたままの鐘楼は 広島の原爆ドームのように 戦争破壊のシンボルとして残された

 

  

ベルリンには4つのフローマルクト(蚤の市)がある  6月17日通りの市をひやかしてきた

 

ヒットラーのナチスに対するドイツレジスタンスの記念センターにも足を運んだ

貴族出身の将校フォン・シュタウフェンベルグらが計画したヒットラー暗殺の計画は周到なものだった(1944年7月20日)。それなのに悪運の強いヒットラーはほんの僅かな時間のずれで一命を取りとめた。首謀者たちは計画を練るために使った建物(この記念センター)の中庭で直ちに処刑された。その中庭に立つ記念の銅像。 

 

白バラグループ の ゾフィー・ショル と ヴィリー・グラーフ

 白いバラDie Weiße Roseは第二次世界大戦中のドイツにおいて行われた非暴力主義の反ナチ運動。ミュンヘンの大学生であったメンバーは1942年から1943年にかけて6種類のビラを作成した。その後グループはゲシュタポにより逮捕され、首謀者とされる5名がギロチンで処刑された。彼らの活動を描いた映画が戦後ドイツで作られ、反ナチ抵抗運動として、国際的に知られている。日本では「白バラは死なず」の題で上映された。学生時代新左翼シンパだった私はそれを見てどれだけ涙を流したことか。

  

同じく抵抗運動に散って行ったカトリックの活動家たち // ナチスに忠誠を誓ったカトリックの高位聖職者たち

       信徒も司祭も司教も修道女もいた

 

この夜の駐車場の空き地の下には一体何が埋まっているのか

 

 そこに立っていた掲示板には 「総統のブンカ―(地下防空壕)」神話と歴史の証言 とあった

厚さ11メートルのコンクリートの壁に守られ、ここでヒットラーは愛人のエヴァ・ブラウンと愛犬とわずかな側近とともに熾烈を極めた爆撃に耐えた。ソ連軍が500メートルに迫った最期の日、ヒットラーとエヴァは結婚した。彼女は妊娠していた。彼は青酸カリのカプセルを噛んだ瞬間にピストルで自殺。エヴァは服毒自殺を遂げた。二人の遺体は総統官邸中庭で焼却されたが、爆撃が激しく完全に灰になるまで焼かれることはなかった。戦後このブンカ―(壕)は破壊されたが、残骸の大部分は今も地下に残ったまま、その上は駐車場になっている。ネオナチの聖地になることを恐れて、ヒットラーの遺体は灰にしてエルベ川に流された。墓はない。

 

 ベルリンのコンツェルトハウスに行った。キコのシンフォニーを東京のサントリーホール 他で演奏するので

どんなホールか興味があった。

演目はモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンと豪華なものだった

 

ホール喫茶室の花

 

     

たまたま「日本フェスティヴァル」ベルリン に出くわした。若い男性が日本の連凧を上げていた。和弓を手にしたご主人と和服を見事に着こなした奥さんが仲良く会場に吸い込まれていった。秋葉原のように、だが金髪は本物の、コスプレドイツ娘たちも大勢集まっていた。

 

 

  

私が10年余り勤めたコメルツバンクは、今や合併を重ねてドイツでナンバーワンの大銀行にのし上がった。

右は、昼間のカイザー・ヴィルヘルム記念教会の前で。

おまえ、髭はどうする?

  日本に帰る前には剃らなくちゃ・・・

 (おわり)

 

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★ 懐かしのベルリン、今・昔 (その-4)

2015-02-13 19:57:27 | ★ 日記 ・ 小話

 

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懐かしのベルリン、今・昔 (その-4)

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写真のないベタ文字のブログが敬遠されることは、経験からよく知っている。それで、いつも恐る恐るアクセス解析を見るのだが、驚いたことに今回は逆に続伸している。それで、調子に乗るわけでもないが、もう一回だけ運を試してみようという気になった。

 

 

これからする話は、我ながら出来すぎていると言うか、芝居がかっているというか・・・。だから、現実に起こったこととして信じられない人がいて、谷口の作り話だろうと言うなら、私は敢えてそれに抗弁はしない。しかし、「事実は小説よりも奇なり」なのだ。

 

 

振り返れば、この1週間の修練のあいだ、一日として安楽な日はなかった。とは言え、雨でも降らない限り日中は何とかなった。ただ、夜を過ごすのはつらいことが多かった。しかし、それも明日無事に汽車に乗れたら、あとは誰かが何か食べさせてくれるかもしれない。有終の美を飾るために、今日もう一日元気を出そう、と自分を奮い立たせた。

夕闇が迫るころ、都心に帰るにはもう遠くまで来すぎていた。次の教会を最後に、あとは橋の下の風の当たらない場所でも探そう。そう心に決めて、戸を叩いた(呼び鈴がなかったからだ)。薄暗がりのなかでも、手入れの行き届かない小さな貧しい教会であることは歴然としていた。 

待つことしばし、疲れた顔をした初老の司祭が、物憂げに現れ「・・・・・」と、彼は無言だった。

だが、こちらはもう慣れたものだったから、お構いなしに、「主の平和が貴方とともにありますように!」「神父さん!神の国は近づきました。回心して福音を信じてください!」と一気にまくし立てた。

すると、その神父はガックリと膝を折って、我々の前に黙って跪き、目に涙を浮かべ、わなわな震える声で言った。

「ああ、やっと来てくれましたね。私は貴方たちが来るのを何年待ったことか!ありがとう。ありがとう、神様・・・。」後はもう言葉にならなかった。彼はさめざめと泣いていた。

この思いがけない展開に、私はただ呆気にとられた。

その夜、遅くまでかかった彼の告白を写実的に展開すれば、興味をそそるブログが3つも4つも書けただろう。だがそれはしない。

 

 

神父になって以来、彼の人生はずっとついていなかった。任された教会はもともと小さく貧しかった。説教が下手で人を惹きつけることに成功しなかった。世間の景気が良くなればなるほど、信者は教会を離れ、献金も減って、やり繰りがつかなくなった。神父の身分に強いられた独身生活の淋しさに耐えかねて、愛人をつくり、密かに肉欲に溺れる自分を恥じながら、やめられなかった。酒で良心を麻痺させようとしてアル中になり、わずかなお手当も殆んど酒代に消えるようになった。しらふの時には努めて善人を装ってみても、仮面の下の醜い素顔が魂を苛んだ。神などとっくに信じられなくなっていた。引き裂かれた魂のまま生きているのが辛く、死んだら楽になれると思ったが、いつも未遂に終わった。

そして、信じてもいない神に向かって叫んだ。「神様、もしあなたがいるのなら、人を送って私に回心を勧めさせてください。その印を見たら、もう一度人生をやり直せるかもしれませんから・・・。」

そして、何年も待ったが、誰も来なかった。私は完全に見捨てられたと思って人生を諦めていた。

だが、私は今、神様を再び信じる。彼は私を見捨てなかった。その憐れみと赦しと愛の印を見たからだ。

あなたたちがその印だ。

 

 

全てを語り終えて、彼の顔に微笑みが浮かんだ。私たちは抱き合った。私たちも泣いた。甘美な涙だった。彼の家にあったものを一緒に分け合って食べ、飲んだ。それはどんな豪華な食卓よりも素晴らしかった。

彼はもう大丈夫だ。きっと立ち直って再び生きはじめるだろう。

 

 

聖書という書物は実に不思議な書物だ。世の中には古典と呼ばれるものが無数にある。しかし、この一冊は全くの例外だ。他をすべて引き離して、ダントツ1位の超ベストセラーだから、だけではない。

それは、聖書に書かれた言葉に-聖書に書かれた言葉だけに-生命が宿っているからだ。聖書に書かれた言葉が死んだ言葉ではなく生きている言葉だというのはどういうことか。それは、その言葉に命があり、その命が活動し、その言葉が生き物として動き、働き、作用して結果を生まずにはおかない、ということだ。聖書のある場面と同等の状況で同じ言葉が告げられると、時間と場所を超えて同じことが起こり、同じ結果を生む、そういう不思議な言葉だと言ってもいい。

人間が(年齢も人種も異なっていても)、同じ状況で(たとえば見知らぬ土地で二人が連れ立って一銭も持たずに)、聖書に書いてある言葉と同じ言葉(たとえば、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。」)を吐くと、2000年前にガリレア地方でイエスの弟子たちの身に起こったことと全く同じことが、現代のベルリンの秋の空の下で、私たちにも起こる、ということだ。私にとっては、自分の身に起こったことであり、見て触れたことだから、当然信じて生涯忘れないが、たった4編の私のブログを読んだ読者の皆様も、「ふーん、そうなんだ。そんなこと実際にありなんだ!」という気分になって納得されるのではないだろうか。生きている神の言葉だから、命あるものに固有の働きをして、その作用に見合った反作用を引き出す、と言ってもいいだろうか。

聖書には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6章24節)という言葉がある。

今回の正味1週間の修練は、一人の主人(神様)だけに100%仕えたらどうなるかの人体実験だった。実験室の中でもう一人の主人(マンモンの神=お金)を完全に排除した時空を人工的に作って、その中で人間はどうなるか、神様はどう働くかを検証した、と言ってもいい。

ローマから1200キロ離れた人口300万人のドイツ最大の都市で、一銭も持たず、頼るべき知人もなく、ただ聖書の言葉を告げるだけで1週間過ごすとどうなるか。まるで広大な砂漠のど真ん中に放り出されたような状態に身を置くと、ふだんはどこに居るのか、居るのか居ないのか、雲をつかむような不確かな存在だった神様が、目にこそ見えないが、ピッタリ寄り添って、まるで召使のように衣食住必要なものすべての面倒を見て下さった、という実体験は、一度それを経験すると生涯決して忘れられるものではない。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6章25-31節)

という言葉は、命のある生きた「神の言葉」だった。言われた通り「回心して福音を信じなさい!」と言ったら、目の前であの神父が回心した。まさに奇跡が起きた。こんなわかりやすい事実はかつて経験したことがなかった。

 

(つづく)

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★ 懐かしのベルリン、今・昔 (その-3)

2015-02-10 16:45:13 | ★ 日記 ・ 小話

 

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懐かしのベルリン、今・昔 (その-3)

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何時間寝たか。日の出と共に目覚めたときには、野ウサギたちはもう穴に帰っていた。

二人とも冷静さを取り戻していた。どちらからともなく謝って和解すると、関係はそれまでよりずっと親密になった。人の気配が始まる前に朝の冷気をついて学校を後にした。公園の水道の水を腹いっぱい飲んで朝食に代えた。

臨機応変にヴァリエーションが加わるにせよ、平和のあいさつに始まって、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい!」と告げるのがこのミッション(宣教)の核心になる。毎日それ以外にすることがない。

相手は一律にカトリック教会を預かる主任司祭たちだが、反応はまちまち。嫌悪の情をあらわにして我々を拒む神父から、適当にあしらってバイバイの人、生真面目に対応して受け入れる司祭まで、10人十色だった。ひもじい日もあれば、お腹いっぱいの日もある。夜は何とか工夫して寒さをしのぐが、まともにベッドに寝られることはなかなか期しがたい。

その日の午後も足を棒にしたが、まだ夕闇には届かない中途半端な時間だった。町の周辺の教会は互いに離れている。疲れは溜まってきたし、今日はもうこの辺でおしまいにしたいのだが・・・と期待しつつ教会の呼び鈴を押した。

紋切り型の「平和の挨拶」は無事パスした。玄関のやや長い立ち話もスムースだった。修行のためとは言え、いまどきバカ正直に聖書に書いてある通り「福音を告知」をするために、一銭も持たずに遠路はるばるイタリアからやってくるなんて実に奇特な話だ。まあ、冷たいものでも一杯飲んで休憩していきなさい、と応接間に通してくれた。期待したビールではなく、ジュースとビスケットが出た。

通訳に徹し、光男君を話の輪に加え、3人で対話する形に持っていくほどに私も成長していた。相手の神父がいい人だということはよくわかったが、さりとて話が盛り上がり熱が入るというわけでもなかった。何となくこの辺が潮時かと察して、暇乞いをして教会を出た。

二人で顔を見合わせて、さて、これからどうしよう?時計は6時頃を指していた。市の中心に戻って、浮浪者向けの炊き出しの列に並ぼうか、もう一軒教会を訪ねて運を試そうか。地図を見ると一番近い教会は4キロほど離れていた。7時前には着くかな?という感じだった。光男君も逞しくなっていて、もう一軒試すほうに同意した。

二人の関係はもうささくれ立ってはいなかった。行くほどに日はとっぷりと暮れ、郊外の集落の窓々には団欒の灯がともりはじめた。マッチ売りの少女も、寒さに凍えながら、あの明かるい窓の中を切ない思いで覗いたにちがいないと、ロマンチックな気分に浸るころには、遠くに司祭館の灯が私たちを招いていた。

ピンポーン♪!すぐに中から戸が開いて、笑みを湛えた赤ら顔の神父さんが迎えてくれた。

「主の平和が神父さんと共に・・・」と言い終わらないうちに、「いいから、いいから、さあ入んなさい。外は寒いから早くドアを閉めて。」「遅かったね、待っていたんだよ。もう温かい食事の準備はできている。手を洗うかい?トイレはあっちだ!」

「????!」これは一体何の冗談だ?!思わず光男君と顔を見合わせた。神父は満面に笑みをたたえて、手を揉みしだきながら我々を眺めている。

「神様!サプライズもいいけれど、あんた、これちょっとやりすぎじゃないの?」と心の中でつぶやいた。

暖炉の前のソファーに落ち着いた。平和の挨拶も、神の国は近づいた・・・、も省略。とにかくまずは乾杯!晩秋のベルリンでも、温かい部屋の中では、最初の一杯は冷たいビールがいい。

「私は日本人のジョン、こちらは光男君。イタリアから列車に揺られ、マルコ福音書の6章にある通り、イエスが弟子たちを二人ずつ、パンもお金も持たせずに町や村に宣教に派遣した故事に習って派遣されてきました。まず平和の挨拶をして、それから・・・。」 

「うんうん、それはわかっているよ。ところで今日で何日目?ほう、それで、あんたたちの勧めを聞いて改心した神父が一人でもいたかね?」

「ん?」と一瞬返事に詰まった。「さあ、それはまだ何とも・・・・。」

「それがいたんだよ、一人!」

「ん?」とまた詰まった。

「いや、実はね。一時間ほど前に電話が鳴って、友達の神父が言うには、『一風変わった二人のアジア人がやってきて、これこれ、こういうことだった。真面目な連中だとは思ったが、深く関わったら面倒なことになりそうだと思ったものものだから、努めて距離を置いて応対していたら、そのうちあっさり辞してどこかへ行っちまったのさ。ところが、送り出した後で急に気が咎め、もしかしたらあれは神様から送られてきた天使たちで、大切なメッセージを持ってきたのかもしれなかったのに・・・と、何とも後味が悪くて考えたんだが、この日暮れの寒空に、まだ行くところがあるとしたら、多分君のところかもしれないと思ったわけさ。だから、もしも来たら車に乗せて送り返してくれ。後は自分が何とかするから』と・・・。」「それで言ったんだ。『わかった。だが、もし来たら私が面倒を見よう。いま時、良い知らせを持って天使がやってくるなんて話、めったにあるものじゃないからね』と返事したわけさ。」

「神様、あんたなかなか粋なことをするじゃない?!それにしても短足にジーパンをはいた肌の黄色い天使なんて絵にならない」と、また独りごと。

さっきの神父は別れたあとで回心した。そして、この赤ら顔さんは会う前にもう回心していたなんて・・・。

その夜はベルリンに来て以来の人間らしいひと時になった。暖炉に燃える火は私の野尻湖の隠れ家のそれといずれ甲乙つけ難かった。美味しいドイツワインは白と相場が決まっている。炙(あぶ)った豚肉にはポテトサラダが似合う。

話は極めて真面目なものだった。

もともと日本は「人格神」不在の自然宗教の世界で、戦後天皇が人間宣言をして以来、日本には「生ける神」への信仰は完全に消滅した。日本列島に生息するエコノミックアニマルが跪(ひざまず)き額を地に擦り付けて拝んでいる唯一絶対の神は「お金の神様」だ。古代オリエントの言葉ではこの世で最も力ある、「マンモンの神様」、別の名を「悪魔」という。

おかげで、日本はドイツを抜いて奇跡の経済成長を遂げた。それに驚いた西欧社会は、追いつき、追い越せとばかり、日本の模倣に走った。それは、生ける神を殺すこと、キリスト教の信仰を脱ぎ捨てて、マンモンの神様を拝むこと、だった。親はもう教会に行かない。生まれた子供には洗礼を授けない。それが劇的に進んだのは「壁」崩壊後の東ベルリンだったが、無神論の共産圏にいた間は信仰を守り続けていた東欧諸国の善良な市民たちも、今は皆それに倣っている。

そのような世俗化とグローバル化に敢然と立ち向かっているのが「キコ」と呼ばれるスペイン人のカリスマ的一信徒と、それに従う集団だ。私たちはその中からベルリンまでやってきた。ここ半世紀、歴代のローマ教皇はカトリック信仰の復権を託することのできるほとんど唯一の懐刀として、この運動を大切に庇護してきた。云々。

神父はじっと聞いていたが、自分もその運動に是非触れてみたいものだと真剣に言った。私はそのとき自分のベルリンでのミッションは具体的な成果を見た、と思った。

その夜は、ツォー駅に降り立って以来、初めてシャワーを浴びた。着の身着のままではあったが、体に染みついた浮浪者特有の饐(す)えたようなあの独特の臭いは消えたように思えた。

清潔なシーツの柔らかいベッドに入って天井を見ながら思った。もし、光男君が街に帰って炊き出しに並ぼう、と言っていたら、僕はきっと彼の言う通りにしていただろう。そして、二人の神父の好意は空しくなっていたにちがいない・・・などと考えるうちに、安らかな眠りに落ちた。

(つづく)

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★ 懐かしのベルリン、今・昔 (その-2)

2015-02-08 16:38:28 | ★ 日記 ・ 小話

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懐かしのベルリン、今・昔 (その-2)

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1990年9月末のベルリンは秋の盛りだった。紅葉と落ち葉は素晴らしかった。しかし、日暮れからは寒さが身に染みる。さっそく「神様寒いよ!」と文句をたれた。親切な神父さんが恵んでくれた上着がなかったら本当に凍えるところだった。

(その夜をどうしのいだかは省略するが)、翌朝は柔らかい日差しの温かい日和だった。「神様ありがとう!」

お金がないからバスにもトラムにも乗らない。教会から教会へ、地図を頼りに一日平均20キロほど歩き、神父を呼び出しては「神の国は近づいた。改心して福音を信じなさい!」を告げて歩く。

神父から問答無用の無情な門前払いを喰うことがある一方で、こちらが正気だとわかると、誰か、彼か、話を聞いてくれるものだ。午後には歩き疲れて、額に汗がにじみ、つい「神様、暑いよ。あなた、少しやりすぎじゃない?喉が渇いた、ビール飲みたい!」もう文句は言いたい放題だ。だが、いくら悪態をついても、たいがい誰かが神様に代わって、たらふくビールを飲ませてくれる、と言った具合だった。

別の日の夕暮、今日はこの教会で最後かな、と思う刻限になった。幸い主任司祭は留守ではなかった。

「主の平和が貴方と共に。」という挨拶に「また貴方たちと共に。」とすらすら型通りの挨拶を返すことを知っている神父は期待が持てる。ダメな神父はまずこの挨拶が癇に障るらしい。石で野良犬を追い払うような扱いを受ける時は、心に大きな喜びがあふれる。そんなとき、相手の上に願った平和が自分に返ってくる、と聖書に書いてあるのは嘘ではなかった(マタイ10章13節)。

打ち解けた会話は、地球規模の世俗化の圧倒的な潮流と、世界の教会の危機的な凋落に及ぶ。飽食の西ベルリンではとっくの昔に教会離れが進んで、神不在の日本の社会と大差なくなっていた。ベルリンの壁が崩壊するまで貧しい東側の教会を満たしていた民衆も、今はパッタリと教会に来なくなったという。たった1年の間の劇的な変化だった。

そんな中で、我々の運動が教会の刷新を担う希望の星として教皇(当時はヨハネパウロ二世)に大切にされていること、世界中で新しい宣教活動が進んでいることなど熱く語っているうちに、秋の日はとっぷり暮れてくる。我々がお腹を空かしていると察した人のいい神父は、ビールばかりか香りのいい白ワインも、チーズも、ソーセージも、黒パンも、たっぷりふるまってくれる。温かいスープにもありついた。

問題はそこからだ。このふたり、ひょっとして今夜の宿がないのかな?という思いが神父の脳裏をよぎった瞬間から、事態は急変する。

神父は突然ソワソワし始める。時計をちらりと見て、実は何時から〇〇夫人の家で家庭集会がある。帰りは遅くなるだろう。今朝まで人を泊めていた客室はまだそのままで準備ができていない。50マルクずつあげるから、これで近くのペンションに泊まりなさい。外で野宿なんてとんでもない。病気にでもなられたら寝覚めが悪いからと、彼はお金で問題を片付けようと必死になる。

それはそうだろう。家庭集会が本当の話かどうかはとにかく、我々が札付きの悪(わる)で、さっきまでの話はみんな信用させるための嘘でないとどうして言い切れる?教会の司祭館は、外からの侵入者に対しては金庫のように厳重な戸締りがなされているが、一旦中に入り込んだら、神父が寝静まるのを見計らって、窓の掛け金をはずし鎧戸を開けて外に出るのは造作もないことだ。

教会の祭壇脇の香部屋(ミサの準備室)には銀の燭台や宝石をちりばめた十字架、金の盃など金目の物が山ほどある。廊下のさりげない油絵だって十何世紀の値段の付けられない逸品かもしれない。司祭館は信徒の財産で、神父はよき管理者に過ぎない。だから、素性の知れぬ二人のアジア人を泊めるなんてリスクは誰も取りたくないのは当たり前だ。レ・ミゼラブルのジャンバルジャンが官憲に捕まった時のように、「あの銀器は私が彼に贈ったものだ」、なんて嘘をついて庇ってくれるような粋な神父はまずいない。

「さあ、これを受け取って行きなさい。一日歩いて疲れてもいるだろう。遠慮しないで!さあ!」と親切そうに言うが、さっきまでと違って、「私はあなたたちが信用できないから」と顔にはっきり書いてあるのを私は見逃さない。

それまで一人占めで神父と楽しそうにしゃべり続け、話の中身を一言も通訳してくれなかった私に対してストレスを極限までつのらせていた光男君が、おおよそ察して「一体どうなってるの?」と日本語で聞いた。ひそひそとかいつまんで事情を説明すると、彼は暗く寒い外に目をやって、「受け取ろうよ!」と言う。「だけど、出発する前に、食べ物も、飲み物も、一夜のベッドも、提供されるものは何でもありがたく受けなさい。ただしお金だけはダメ、ときつく言い渡されているではないか。」「それだったら、なぜもっと早くおしゃべりを切り上げて、駅の待合室に行くなり、浮浪者救済施設のベッドに申し込むなり、手を打とうとしなかったのか。こんな街はずれで遅くなって、雨でも降ったらどうするのさ」と私の段取りの悪さを責めてくる。それに「せっかくの親切を無にするのは悪くないか?」とも言う。

俺一人なら断固辞退するところだが、光男君にはちょっとひ弱なところがあるし、まだ半分以上の日程が残っている。風邪でもひかれたらそれこそ厄介なことになる。それに、神父は苛立って急き立ててくる。納得いくまで彼と議論している時間はとてもなさそうだ。結局、こういう時は意思の弱いほうが勝つことに相場は決まっている。心ならずも大枚100マルクを受け取ってしまった。

さて、神父に礼を言って、外へ出てからが大変だった。

「お金はダメだとはっきり言われてきたではないか。どうして受け取ることにしつこく固執したのだ。」

「最後はお前が受け取る決断をしたくせに。」

「それはお前があきらめなかったからだ。それに、時間をせいている神父の手前もあったし・・・」と責任のなすり合いと弁解が延々と続く。

そんなところへ泣きっ面に蜂とはこのことか。冷たい霧雨が降り始めた。喧嘩は一時休戦。雨宿りの場所を求めて夜道を急ぐうち、小学校風の建物の前に出た。門をくぐって敷地内に入ると、グランドに面して広い庇(ひさし)の張り出した場所を見つけた。下のコンクリートは乾いていた。並んで壁にもたれて座ると、気まずい沈黙が流れた。

雨に濡れてまで、宿を探しに行こうとは光男君も言い出さない。寒くはあるが、幸い体温を奪い去るほどの風はなく、お腹もいっぱいになっていた。そこへ歩き疲れから眠気が襲ってきた。

気が付いたら、いつの間にか眠っていたらしい。光男君は、そばで大きな寝息を立てている。

ふと目をやると、向こうの植込みの下に何やら不思議な光の点がたくさん見える。時々点滅したり、動いたりする。何だろう?と瞳を凝らすと、それはどうやら穴から出てきた野ウサギたちのようだった。少し離れた街灯の淡い光を、私たちを見つめる好奇の目が反射しているのだった。

そうだ、あの100マルクに決着をつけなければ、と考えて、神父宛てに手紙を書いた。「ありがたく気持ちだけは頂戴しました。しかし、お金はお返しします。私たちはお金を受け取ることをゆるされていませんので、・・・。」その紙でお金を包むと、寝ている光男君を起こさぬように、そっと忍び足でその場を離れた。暗い道をたどるうち教会に着いた。ポストに投げ入れて最短コースで学校に戻った。

光男君は目を覚ましていた。そして腹の底から絶望していた。てっきり私に捨てられたと思ったらしい。言葉のわからない外国で、パスポートも切符も、それに「お金までも」私に持ち去られ、もう私とは永久に巡り合えないと悲観したのだろう。(「情けない!俺がそんなことするはずがないだろうが。1週間お互いに命を預け合った相棒ではないか。」という言葉は呑み込んだ。)私の顔を見て安心したか、彼の絶望はわけのわからぬ怒りに変わった。

だが待てよ!彼がパニクッて、焦って私を探しに当てもなくこの場から彷徨い出ていたら、一瞬のすれ違いで「生き別れ」も現実にあり得たかもしれなかったのだ。本当は紙一重の実に危険な場面だった。闇と孤独の中、不安と恐怖に打ちのめされて動くことすらできずにいてくれたことが幸いした。 

(つづく)

 

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★ 懐かしのベルリン、今・昔 (そのー1)

2015-02-04 23:59:10 | ★ 日記 ・ 小話

 

薄曇りのローマ空港を飛び立った

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懐かしのベルリン、今・昔 (そのー1)

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スイスアルプスの上は晴れていた

最近、思いがけずベルリンを訪れる機会に恵まれた。テーゲル空港からバスで市内のツォー駅の前で降りた。その途端、懐かしい思い出がワーッとよみがえってきた。かれこれ25年ぶりのことだ。 気温0度。細かい砂粒のような雪が微かに降ってくる。

当時、取り敢えずやくざな銀行稼業からは足を洗ったものの、50歳の誕生日を目前にして、教会のどの門を叩いても扉は固く閉ざされていた。齢を取りすぎて神父への道はもう完全に断たれたか、と一旦はすっかり観念したそのあとのことだった。やっと道が開け、私が神父を志してローマに来たのは1989年の10月だった。

まだ神学校には入れてもらえず、取り敢えず寡(やもめ)のアンジェラおばさんの家に下宿してグレゴリアーナ大学の神学部で勉強を始めたその数日後、目抜き通りで警官が整理するほどの大変な人だかりがしていた。見ると発泡スチロールの塊が山と積まれて道を塞いでいた。それを若い男たちが壊しにかかっていたのだ。それがベルリンの壁崩壊のニュースに呼応して行われた大がかりなストリートパーフォーマンスであったことが理解できるまでには、なおいささかの時間を要した。それほどイタリア語がまだよくわからなかったのだ。

 

1989年11月10日 ベルリンの壁崩壊の日 ブランデンブルク門の前の壁 上には東ベルリンの市民、下には西ベルリンの市民が

明けて1990年の9月末、アドリア海に面した漁村、ポルト・サンジオルジオの丘にある合宿所で開かれた神学生志願者たちの集いに私も招かれた。500人ほどの若者が世界中から集まっていた。一人ひとり皆の前で吟味され、世界中どこへ送られても、生涯そこで宣教に身を奉げる覚悟があるかを問われる。そして世界中の神学校にくじ引きで割り振られるのだが、その前に大事な試練が待っていた。聖書には、こうある。

「イエスは十二人を呼び集め、・・・神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。・・・。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。・・・(ルカ9章1-6節)

これをキコは500人の神学生志願者に文字通りやらせるというのだ。交通費などでざっと2千万円はくだらないな、と元銀行マンは踏んだ。事故保険にも入らないこのプロジェクトは、まさに現代の狂気だ。足かけ9日間。正味7日間。イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、それ以遠のイギリスや東欧も含めて、あらゆる都市に二人一組で一銭も持たせず送り出す。そして、「神の国は近づいた。改心して福音を信じなさい。」という決まり文句を、バカの一つ覚えのように告げて歩かせる。鉄道か飛行機の、往復切符とパスポートだけ持たされて、250組の若者たちが決められた町や村に送り出されるのだ。

組み合わせはくじ引きで決められた。ルールは、二人の間に意思疎通ができる共通言語があること。二人のうち少なくとも一人は送られた先の国の言葉が話せること。各人は皆自分の名前と所属、使える言葉を書いた紙きれをたたんで、言語別の籠に入れる。

老獪な私は考えた。自分の場合、英語かドイツ語か日本語だが、さて、英語だと相手が誰になるか皆目予想が立たない。ドイツ語なら、相方は若い優秀なドイツ人かオーストリア人の青年と相場が決まっている。その若者にくっついていけば楽ができる。そう読んで自分の紙きれをドイツ語の籠に入れた。

いよいよ組み合わせが始まった。キコは籠の一つを取って、大げさにガサガサと揺すって見せ、やおら一枚の紙を拾い上げた。マッテオ君。君はイタリア人で英語がわかのるだね?では相手は英語の籠から選ぼう。ランランラン、ホイ!フィリッピンのロピート君。君はマッテオとパレルモ(シチリア)に行きなさい。拍手がわいた。

次は、ランランラン、ホレ!ジュゼッペ。君はフランス語ができる?それではこの籠から、ランランラン、エイヤッ!オー、ギヨーム君。では、二人はマルセイユに行きたまえ。拍手。

イタリア語の籠がまず空になって、スペイン語の籠もほぼ空になって、いよいよドイツ語の籠になった。順調に組み合わせが進んで自分のカードが出た。誰であれ相手は流暢にドイツ語を話す優秀な若者と決まっているさ。楽勝、楽勝!とあさってのほうを向いて油断していたら、キコがどうも変なことを言っているらしいことにハッと気が付いた。ジョン!(私はここではそう呼ばれている)君は日本人だがドイツ語ができるのか?フム、フム!・・・ここに日本語しかできないのが一人いる。ちょうどいい、彼と一緒にベルリンに行きなさい。

しまった!英語にしておけばよかった、と思ったが後の祭り。この愛情飢餓症で服装もだらしなく、歯もちゃんと磨いてない光男お坊っちゃまと一週間も一文無しでベルリンの町をほっつき歩くなんてゾッとしない、と思ったが、こいつをクリアーしないと神学校に入れてもらえないとあっては観念するほかはなかった。

一夜明けて、二人はベルリン往復の鉄道の切符と一人2000円ほどの現金を渡されて、車中の人となった。しかし、これから1週間、一文無しで生き延びる二人の運命を一人で背負わなければならない恐ろしい日々を思うと、気が滅入って車窓の景色も目に入らず、光男君と口をきく気にもならなかった。

夕方にミュンヘンに着いた。先に連絡が入っていたと見えて、共同体の兄弟たちに優しく迎えられ、一緒にミサにあずかり、温かい食事にありついた。そのあと、まるで出征兵士のような歓呼の見送りを受け、夜行列車に乗り込み、いよいよベルリンへ。

同じコンパートメントに乗り合わせたイタリア人の紳士が我々に興味を持って話しかけてきた。ベルリンに事務所を持つ商人で、一週間ほど買い付けに行くという話だった。真面目な信者で、我々が聖書にあるとおり一銭も持たずに福音を告げて歩くのだと聞いて、いたく感心したらしい。ご親切にも1マルクと電話番号を書いた紙を、もし困ったことがあったらいつでも電話するようにと言って渡してくれて。私は深く考えもせず、有難くその紙で1マルクを包んで尻のポケットに入れた。

翌朝早く、同じツォー駅に降り立った。(その景色は今回もあまり変わっていなかった。)最初に持たされたお金でしっかり朝ごはんを食べた。残りのお金で詳しいベルリンの地図を一枚買った。それから、職業別電話帳のカトリック教会のページをコピーして、残った小銭は出発する前に指示された通り、最初に出会った乞食に一銭残らず施した。これで準備万端整った。

見まわして一番高い建物は、メルセデスベンツの巨大な輪を載せたビルだった。エレベーターで最上階までのぼり、そこからベルリンを見渡して、十字を切って厳かに街を祝福した。次に電話帳の住所と地図を頼りに司教座聖堂に向かい、司教様に面会を求め、宣教を始める許可と祝福を願った。

武者震いをして、いよいよ戦闘-いや宣教-開始。まず旧西ベルリンの中心の教会に向かった。イタリアを発つ前に、「目的地に着いたら、よそへは行かず教会を回りなさい。主任司祭を呼び出して福音を告げなさい」と指示されていた。

大きくて繁盛している教会と見受けられた。受付で申し入れると、やがて主任司祭が出てきた。

「汝(なんじ)と共に平和がありますように。」と聖書にある通り紋切り型の挨拶をした。すると、相手はキョトンとしてじろじろと私たち二人を見下した。私はジーパンにTシャツ姿だった。後ろでもじもじしている相棒も似たような恰好だった。ここで一発決めようと焦るのだが、どうしてもセリフがすらすらと口をついて出てこない。(ドイツ語が話せないわけではない。)「えーと、そのー、か、カ、神の国は近づいた。カ、か、回心して、ふー、福音を信じなさい。」とやっとの思いでいうと、神父はキッとなって、「お前たちは誰に向かってものを言っているのか分かっているのか?私は神父だぞ!それは私がお前たちに言うセリフだ。私は忙しいのだ。さあ、とっとと消え失せろ!」みたいな調子で追い立てられた。ケンモホロロ、とはこのことだ。短足のアジア人の我々は、多分「ムーン」(韓国統一教会)の一派かなにかと見間違えられたにちがいなかった。

次の教会でも結果は同じだった。なんで言えない?言うべきドイツ語は分かっているのに。と落ち込んだ。光男君は、「この先大丈夫?本当にドイツ語できるの?」みたいな顔をするし・・・。

追い詰められてハタと気が付いた。そうか、まだお金を捨てきっていなかった。そのためかも知れない。駅前の乞食に持ってきた金の残りは全部くれてやった。しかし、尻のポケットには万一の安全のために、あの商人の事務所の電話番号とコインがまだ残っていたのを思い出したのだ。

慌ててお乞食さんを探した。ベルリンの壁が崩れてまだ1年も経っていなかった。東から流れてきた貧しい失業者が、そこ此処で物乞いをしていた。最後の1マルクを帽子に投げ入れ、電話番号も破り捨てると、急に心が軽くなって勇気が湧くのを感じた。

次はやや中心を外れたそれほど流行っていないような教会だった。出てきた主任司祭に、「貴方に主の平和がありますように!」と切り出すと、「また貴方たちと共に!」ときれいに型通りの挨拶が返ってきた。「神父さん。私たちは今日あなたに良い知らせを持ってきました。神の国は近づいています。神様は貴方の隠された罪をすべてお見通しです。どうか改心して福音を信じてください!」実にまあすらすらと出てきたものだ。(これ全部ドイツ語のアドリブでやったんですよ!)まず光男君がびっくりして私の顔を見つめた。神父さんはもっとびっくりしたに違いない。韓国人か中国人かわからない中年のジーパン男の言葉が、グサッと神父の胸に刺さった確かな手ごたえを感じた。彼がそんな言葉を面と向かって吐く男に出会ったのは生まれて初めてのことだったろう。 

応接間に案内された。修行のため、イタリアから夜汽車で今朝ベルリンに着いたこと。聖書にある通り、一文無しで福音を告げるためにやってきたこと。神父志願の神学生の卵であることなどを話すと、主任司祭は真剣に耳を傾けた。時計を見ると昼をまわっていた。「お腹が空いているだろう。昼はどうするの?」と聞かれた。「神様任せです。」と答えると、女中さんに命じて三人で昼食ということになった。内心、「やったー!神様ありがとう!」と叫んだ。

無意識のうちにとは言え、たった1マルクであれ、お金を身につけて、それを最後のよりどころとしていた限り、神様は遠くの天の果てで手をこまねいて居られた。それが、最後の1マルクも捨てて、神様以外により頼むものが全くなくなるやいなや、神様は私のすぐそばまで降りてきて、跪いて給仕して下さることが身に染みてよくわかった。

(つづく)

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★ 「日ソ円卓会議」 の 「想い出」 その2

2015-02-01 21:04:53 | ★ 日記 ・ 小話

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「日ソ円卓会議」の「想い出」その2

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偽装恋人たちのモスクワ郊外の「逢い引き」は兵士に阻止されて残念にも未遂に終わった。しかし、官制のお祭りにはオマケの接待旅行がつきものだ。

「円卓会議」の公式行事の後には幾つかオプションツアーがあったが、俗っぽい気晴らしには目もくれず、 M. I. 嬢と私は迷わずザゴルスクへの日帰り遠足に連れ立って参加した。

さて、今回ブログを書くに際して、念のためザゴルスクの場所をグーグルマップで確認しようと思った。だが、くまなく探したのに見つからなかった。なんで?そんな馬鹿な?!?!?狐につままれた思いで、ウイキペディアに飛んだ。そして、なーんだ!そういうこと?!と納得した。

セルギエフ・ポサードは、モスクワの東北70kmの地点に位置し、1340年代に創建された聖セルギイ大修道院の周辺にできた門前町(ポサード)を起源として成長してきた。セルギエフの地名であったが、ソ連時代に宗教的な市名を理由にザゴルスクと改称し、ソ連崩壊後、現名称にもどったのだった。レニングラードが元のサンクト・ペテルブルグに戻ったのと同じだ。

古くからのミニアチュールと木製玩具の製作が盛んで、多くの観光客が訪れる。ロシア正教会の中心地のひとつでモスクワ神学大学が設置されている。なお、ソ連政府はセルギエフ・ポサードの郊外に天然痘を化学兵器化するため、国内で最初に工場を建設した。

 

 

ザゴルスク、名をあらためセルギエフ・ポサードの遠景

 

修道院の案内にはカテリーナとタマラという二人の若い通訳が付いた。カテリーナは目立つほどの美人だった。一方、タマラは、知的な感じがした。

外国人に特有の訛りが全くない流暢で気品のある日本語に驚いて、どこで勉強したのかと訊ねたら、ハバロフスク大学の日本語学科で、日本にはまだ一度も行ったことがないと答えた。タマラはカテリーナのことを、親しみをこめてカーチャと呼んでいた。(この二人のことはまた書こう。)

カーチャの説明では、この大修道院には聖人の修道士の遺体が腐敗しないまま多数保存されているという。彼女はそれを特筆すべきこととして強調した。我々はそれを実際に見ることはなかったが、ロシア正教会の信者たちにとっては大切な信心の対象なのだそうだ。カーチャはその遺体のことをちょっとぎこちなくフキュウタイ」(不朽体)という日本語で呼んだ。日本では聞かない言葉だから、ハバロフスク大学の日本語教授があてた訳語だろう。(日本には仏教の修行僧のミイラはあるが「フキュウタイ」はない。)

「不朽体」ならカトリックにもあるぞ、と対抗意識が湧いてきた。ロシア正教会では圧倒的に男子の修道士かもしれないが、カトリックで私が知るのはほとんどが女性だ。

ローマのトラステベレにサンタ・チェチリア(セシリアともいう)の教会がある。私の大好きな教会の一つだ。

2世紀頃の殉教者、聖セシリアの遺体は、ローマ郊外のサンカリストのカタコンベ(地下墓所)に葬られていたが、紀元821年、彼女の柩は彼女の生家の上に建てられたこの教会に移された。その後すっかり忘れられていたが、1599年の教会の改修工事の際に発見され、棺を開けてみると、驚くべきことに、中の遺体は腐敗も損傷もなく、当時のまま白い衣装に包まれて、1400年以上もの間、眠るように横たわっていたそうだ。

そこで、著名な彫刻家にその姿を忠実に再現させたものが、このサンタ・チェチリアの大理石像というわけだ。

 

 

もっと新しいのもある。1800年代の半ば、南仏、ピレネー山脈の麓の寒村に、貧しく無学で病弱なベルナデッタという少女がいた。その少女に聖母マリアが出現し、私は「無原罪」のまま生まれたものだ、と告げた。聖母に促されて彼女が手で土を掘った川岸からは泉が湧き出し、今も豊かに流れていて、その水で数々の奇跡的治癒があることで有名になった。

カトリック教会の教義、「ドグマ」は5世紀ごろにはほぼ固まっていたが、例外的に、19世紀半ばに教皇ピオ9世が「聖母マリアはアダムとエヴァの犯した《原罪》の穢れから免れてこの世に生まれた」という教義を新たに定めた。

出現した見知らぬご婦人にお名前を聞いたら、「私は無原罪の御宿りだ」と答えられた、という小学校もろくに出ていない田舎娘の報告に、教会は仰天した。少女は婦人のことばをオウム返しに伝えたが、本人はその言葉の意味すら理解していなかった。まして、教会が新たにそのような教義を制定したなど、知る由もなかったのに。無学な少女へのマリア様の出現と、泉の水の治癒の奇跡の数々は、新しい「教義」制定に対する天からの批准だったと理解されている。

そのベルナデッタは、成長して修道院に入り、闘病生活の末1875年4月16日に35歳の若さで息を引き取り、棺は44日後に地下に葬られた。

30年後の1909年に宣誓した医師たちの手で第一回目の遺体鑑定が行われた。棺を開けると如何なる匂いもしなかった。顔は白くつやはなかった。目はくぼみ、鼻は痩せていたが、皮膚も筋肉もしっかりしていた。腹部は落ち込んでいたが皮膚には張りがあり、打診すると厚紙をたたく時のような音がした。遺体は数時間外気にさらされただけで黒っぽく変色したが、亜鉛で内貼りした新しい棺に入れて葬られた。検視の後、それぞれ別室で書かれ署名された医師たちの報告書は、これらの点で完全に一致していた。

10年後、列聖調査のために1919年に再び鑑定が行われた。一回目の時に遺体を洗ったためか、ところどころにカビのコロニーが現れていた。さらに6年後、1925年に3回目の鑑定が行われ、一部切開された。筋肉は良好な状態で弾力性を保ち、一番腐敗しやすい肝臓はやわらかでほとんど普通の状態だった。検視後、全体を包帯で巻き、着衣後も露出する顔と手には薄い蝋で化粧が施され、ガラスの棺に納められ、ヌベールの修道院のチャペルに安置された。私は、何度も訪れてその端正で美しい姿を見ている。

 

 

 

宇宙の秩序の支配者である神様は、もう一方では人間以上に繊細な感情の持ち主で、ご自分が特別に愛し、使命を託した貧しい少女の遺体が、土中で蛆虫に残酷に食い荒らされ、醜く滅んでいくことに耐えられなかったのだろうと私は思う。後世の人間の手で乱暴にいじり回され、切り刻まれたのを引き金に、彼女の遺体も自然の法則に従ってやがては緩やかに劣化して、最後には塵に戻るとしても、私はこれを明らかに神様が介入した一種の奇跡的現象と思って、厳かな気持ちで受け止めている。

アシジにも聖フランシスコの愛した聖女クララの遺体が地下聖堂に同じような状態であるのを今も見ることができるが、他方では、長く所在不明だった聖フランシスコの遺体は、棺が発見されて検証された時には、すでにただの一揃いの骸骨になっていた。そして、二度目に開いたときには、骨は乾燥して粉々になりかけていた。罪深いプレイボーイと清らかな乙女の生き方の差が、死後の肉体の保存状態に反映されたように私は理解して納得している。

「日ソ円卓会議」が思いわぬ「不朽体論」に脱線したが、次はまたもとのレールに戻ろうと思う。

(つづく)

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★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その2

2015-01-29 17:11:26 | ★ 日記 ・ 小話

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知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その2

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このブログは 2009-03-17 23:34:53 に一旦アップして、その後ずっと封印されていたものです

懐古趣味で一時公開して、2-3日したら元の場所に戻しましょう

 

えぞ鹿さんは、僕をまずウトロから知床五湖へ案内してくれました。ウトロの絶壁の下には岩の上に海鵜が羽を休め、海はあくまでもコバルトブルーに輝いていました。もうここから知床半島の先までは船でしか近寄ることが出来ません。



遊覧船の航跡を目で追いながら、大自然の美にすっかり心を魅了されて、思わずえぞ鹿君に訊ねました。



〔ウサギ〕 世界遺産にもなったこの美しい自然は、どうしてあるの?
〔シカ〕 それは創造主の神が作られたからだろう。
〔ウサギ〕 どうやって?
〔シカ〕 はじめに神がいた。神だけがいて、神のほかには何もなかった。神のほかに絶対的虚無だけがあったという言い方は、人間の言葉の形容矛盾と言うべきか。
〔ウサギ〕 それでは、この世界は神が無から呼び出したもの?
〔シカ〕 そうさ、何の素材も使わずにね。
時計作りの職人の話を知っているかい?昔、あるドイツ人の詩人から聞いた話だが・・・。一人の職人がいた。薄い真鍮の板から大小の歯車を切り出し、細い鉄棒を短く切って軸を作り、設計図どおり懐中時計の枠の中に組み立てていく。発条(ゼンマイ)を入れ、文字盤と針を付け、最後に発条をしっかり巻くと、出来上がり。コチ、コチと正確に時を刻み始めるのを確かめると、爺さんは鼻眼鏡をはずし、その時計を仕事台の上に残し、通りのカフェに入ってコーヒーを注文して、店のマスターと世間話を始めた。作ったばかりの時計のことはひとまず忘れて・・・。それでも、時計は忠実に時を刻み続けているだろう。
〔ウサギ〕 それで、神様も世界を創造したあと、何処かへ行って休んで、新聞読みながらコーヒーを飲んでいるの。だって、この世に神なんていないもの。誰もまじめに信じてなんかいないよ。
〔シカ〕 そんなことあるものか。神が自分の創った世界のことを一瞬でも意識の外において忘れたりしたら、その瞬間、この世界はもとの無に帰ってしまうもの。この世界は、神が一瞬一瞬その意識の中に保ち、愛をもって存在の世界に呼び出し続けていなければ、つまり、絶え間なく創造し続けていなければ、神を離れて自分だけで存在することはあり得ないんだから。
〔ウサギ〕 ふーん?!なんだか分かったような、分からないような・・・。日本人は普通、世界はずっと昔からあって、いつまでも続くと考えているみたい。せいぜい、神は混沌を材料にして、それに秩序を与えると、それを措いて、何処か遠くに行ってしまったと考えているのじゃないかな。科学者は、エントロピーが増大して、混沌に向かい、最後は冷たく無秩序の中に停止してしまう、或いは無限に輪廻を繰り返す?
〔シカ〕 それは違うだろう。見えない神が、見える世界を自分に象って創り、ご自分の見えない美で、見える世界を包んだに違いない。そうでないとしたら、この美しく輝く海をどう説明すればいい?
(二人は知床五湖をめぐりながら、さらに「愛について」、「死について」、「悪について」など、延々と語り継いでいくでしょう) 

(つづく)

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★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その1

2015-01-27 23:00:34 | ★ 日記 ・ 小話

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知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話ーその1

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このブログは 2009-03-11 23:24:59 に一旦アップして、その後ずっと封印されていたものです

懐古趣味で一時公開して、2-3日したら元の場所に戻しましょう

 

今年のごく早いころ、知床の鹿さんからお誘いがありました。日程は10月の初めごろからと決まりました。ところが、その後だいぶしてから、ほぼ同じ日程で別の大切な集まりがあることが分かりました。しかし、散々迷った末、結局は最初の約束を果たすほうを選びました。
女満別(めまんべつ)に飛んで、レンタカーに乗って、町を出ると、カーナビをつけて見てびっくり。何?これは!?一本の線だけ?これで無事鹿さんのところまで行けるの?と不思議に思いました。



知床半島に入ると、鹿さんは約束の場所に迎えに出てくれました。初対面の彼は、立派な角を生やした蝦夷鹿君でした。




彼はお友達の雌鹿を僕に紹介してくれました。彼にお似合いの美人さんでした。どうです?あなたを見つめるこの潤んだ瞳!



彼らは、知床の自然の中で、神様の偉大さを賛美し、人の世の小さな善意を見つけては喜び、戦争などの大きな醜さに心を痛めていました。これからの3日間、彼らと一緒に旅しながら、どんな対話をすることになるのでしょうね。楽しみです。(つづく)



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★ 「日ソ円卓会議」 の 「想い出」

2015-01-25 21:02:42 | ★ 日記 ・ 小話

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「日ソ円卓会議」「想い出」

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齢を重ねると、ふと思い出したことを、何となく書き留めておきたいと思うものらしい。



ローマの昼下がり、平山司教様のお部屋で午後のお茶を二人で楽しんでいたとき、話題が旅の思い出に及んだ。司教様も地位相応にあちこち世界を旅されたようだが、世俗の生活の長かった私は、公私にわたってそれ以上の旅を経験している。

1980年の秋、まだコメルツバンクにいた頃かすでにリーマンブラザーズにスカウトされた後だったか、ある日、「日ソ円卓会議」という組織から封書が届いた。中には、同会議への招待状が入っていた。

鳩が豆鉄砲を食らった思いがしたが、若くて好奇心が旺盛だった私は、一体何の話かはあとでゆっくり調べることにして、取り敢えず「喜んで招待をお受けする」旨の返事を書いた。

数日を経ずして、アエロフロートのファーストクラスのモスクワ往復切符と共に日程表が届いた。いつのまにか私は「日ソ円卓会議」の宗教部会の「カトリック日本代表」ということになっていた。だんだん謎が解けてきたぞ。

北方領土問題が未解決であるため、日ソ間に平和条約が存在しないことは幅広い分野における両国関係の進展にとって大きな支障になっている。(それは今も変わりない。)その不都合を少しでも補うために、1979年12月に第1回「日ソ円卓会議」がホテルニューオータニで開かれていたことなど、そのとき私はまだ全く知らなかった。

政界、財界はもちろんのこと、科学も、スポーツも、音楽も、映画も、あらゆる分野の交流が相乗りしていた。日本側は一応民間を装ってはいたが、代表団の団長は与党の桜内幹事長だったし、窓口には社会党の関係者が多数名を連ねていた。また、ソ連側は露骨に共産党の要人が前面に出ていた。

翌1980年には第2回「日ソ円卓会議がモスクワで開かれることになった。日本からは130名の代表団が大挙参加した。新たに加えられた宗教交流部会も、ロシア側はもちろんモスクワ総主教以下のロシア正教会がホスト役。日本からは伝統仏教各宗派や神道の他、天理教、創価学会、立正佼成会、などの新宗教にプロテスタント各派もこぞって参加したのだが、カトリックの代表がいないのは画龍点睛を欠くということになったらしい。

では何故一介の国際金融マンの私に一本釣りの的を絞ってきたのだろう。それは当時、日本のカトリック教会がロシア革命を逃れてアメリカに亡命したロシア正教会と外交関係にあり、モスクワの正教会とは断絶状態にあったためのようだ。だから、モスクワは東京のカトリック司教協議会にではなく、社会党に近いプロテスタント教会にカトリック代表の人選を求めたのだろう。私はベトナム反戦運動以来、同和問題や反公害運動などでプロテスタント左派にお友達が多く、その線からの推薦で選ばれたに違いなかった。


共産圏初のオリンピックのために国威をかけて新築されたホテルコスモスの威容


同年7月に開催されたオリンピックに向けて大改修をしたモスクワ空港は、もう粉雪の舞う季節だった。降る雪の彼方の白樺林は灰色で憂鬱な感じがした。円卓会議の会場のホテルコスモスは、オリンピックに合わせて開業したソ連で最もモダンな欧米式の巨大ホテルで、中は快適そのものだった。どの部門も友好ムード一色に華やいでいて、ロビーでテレビニュースのカメラのインタビューなど受けると、偉い人になったような錯覚にも誘われた。

何もかも申し分なくみんな満足していると思われたのだが・・・、最初の夕食の席で、自民党の田舎代議士と思しき男が、タダワインを飲みすぎたか、突然大声で騒ぎだした。

「なんだ、こんな萎(しな)びたリンゴを出しやがって!日本人をバカにする気か!」と、赤く上気した顔でいきり立っている。思わず私は自分のテーブルに目をやったが、そこには形の整わない小さな赤いリンゴが食後の果物として盛り付けてあった。


ホテルコスモスの大食堂 私たちの時は丸テーブルの点在だったような気がするのだが・・・


ドイツで何度も冬を過ごした私は、それが冬の北欧では特上のもてなしであることを知っていたので、酔っぱらいの罵声に身の竦(すく)むような恥ずかしさを覚えた。

次の日、銀座の千疋屋で一個何千円もしそうな大きく艶やかな林檎がどのテーブルにも山と盛り上げられたのは言うまでもない。その日のうちに狸穴のソ連大使館に電信が入り、東京中で買い占めたものを、次のアエロフロート便が急送したものに違いない。つまり、あのテーブルの給仕はただのホテルマンではなかったということではないのか。日本人同士の気を許した会話をスパイできる日本語のわかる人材が給仕姿で各テーブルに張り付いていたのかもしれないのだ。

別の日、午後から自由時間だった。戦後日本の社会党委員長を務めた川上丈太郎の長男、当時社会党の国際局長をしていた川上民雄の秘書の M. I. 嬢(皆さんプロテスタント)と仲睦まじく、モスクワの庶民の長距離乗合バスに乗って、できるだけ遠く郊外までいって、庶民の生活に直接触れようと冒険に出かけた。バスの乗客は見慣れぬ日本人の若いカップルを黙って観察していた。モスクワ市街を抜けると、すぐ灰色の貧しい雪景色に変わった。開放感と好奇心から、二人は車窓の景色を眺めながら仲睦まじくおしゃべりに夢中になっていたが、1時間余りも走った頃か、後部座席に居た制服に自動小銃の若い兵士が近づいてきて、きれいな英語で、「お客様、どうぞ次の停車場からモスクワにお戻りください」と言った。言い方はあくまでも慇懃だったが、それは任務を帯びた者の冷たい響きがあった。従わなければ即逮捕もありえた。当時のソ連では、許可なく都心から60キロ以上離れることは許されていないことを、ホテルに帰ってから知った。この一見「恋人」たちはホテルを出たときからあの兵士に尾行されていたのだった。

鉄のカーテンの向こう側、共産圏ソ連の緊張した社会を思い出させるエピソードだった。今のロシアはそんなことはなかろうと思うが、逆に、日本の社会はいま、戦前、戦時中を思わせるような「物言えばくちびる寒し」の世界に変わりつつあるような、嫌な予感がする。

* * * * *

35年まえ、お金持ちの国際金融マンだったわたしは、ニコンのボディーを複数個、長短のレンズを何本か持って写真を撮ることを趣味にしていたが、今のデジカメと違って、どんどん溜まっていくネガの整理が追いつかず、神父になった今、当時の写真はすべて失われてしまった。このブログをたくさん撮った自分の写真で飾れないのはまことに残念だ。 

(続く)

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★ 〔2013年〕 クリスマスイブの 「夢」

2013-12-24 07:33:37 | ★ 日記 ・ 小話

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クリスマスイブの 「夢」

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 ナザレのイエス・キリストの誕生日とされる12月25日向けて、お祝いの挨拶を贈ります。

ローマ時間の24日午前3時ごろ、長い(と感じられた)浅い眠りとも深い夢とも言える思考の時間の後、誰一人居ない(普段は100人ほど住んでいる)静まりかえったローマの神学校の自室の電気スタンドだけつけて、パジャマのまま机に向かいました。

 

夢はなかなか捕えがたく、今までに一度だけブログで取り上げたままです。


 今夜の夢は、大天使ガブリエルが処女マリアに受胎告知した場面と、もう一つ、ヨゼフが婚約者のマリアの妊娠を知って悩んでいた時に、天使が夢に現に現れて、マリアは悪い男に強姦されたのでも、浮気して他の男と関係したのでもなく、聖霊(神の霊)の力で懐妊したのだと告げられて、納得して妻としたと言うくだりを、行きつ、戻りつ、していたようです。

 マリアの場合は白昼夢というか、昼間に天使が現れて、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」「あなたは身ごもって男の子を産む。」「神には出来ないことは何一つない。」と言った。そこでマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」と言ったことになっている。

 私は夢うつつの中で、一つの重大なことに気付いていた。それは、13歳の時に洗礼を受けて以来、ずっと重大な思い違いをしていたらしいということだ。私はずっと、受胎告知のとき天使はマリアに「神様はあなたを処女のまま妊娠させようとお考えだが、あなたは同意しますか?」と質問したように錯覚していた。そして、マリアが自由に「はい、同意します。私はいいですよ。」と答え、その答えの瞬間妊娠した、と考えていた。しかし、今夜の夢のなかの私は、いや、待てよ、天使は同意を求めていない。マリアが、「はい!フィアット!同意します。」と言っても言わなくても、お構いなく天使はマリアに「妊娠」するという事実を一方的に告知したのではないか。

 と言うより、そもそも、背中に大きな羽を生やした中性っぽい若い人間の姿をした天使が目に見える姿で現れて、マリアに解るアラマイ語(?)で話しかけたという芝居がかった話は、実は全部キリスト教の聖書に描かれた宗教寓話にすぎないのではないか。現実に起こった史実は、15-6歳か13-4歳の少女がある日、男とセックスした事実が無いのに妊娠しているという、なんともぶっきらぼうで全くあり得ないような現実に気付かざるを得なかった、と言うだけのことではなかったのか。

 神を信じない現代のそこそこインテリの人にも なるべくわかりやすいように説明をすれば、2000年ちょっと前のパレスチナの一人の少女の子宮の中で、彼女の卵子の一つが無精卵のまま細胞分裂を開始し、しかも彼女のDNAの女性の性決定因子が突然変異で男性の組み合わせに転換して胚になり胎児になり、彼女のお腹は大きくなっていったということだろう。無神論者でも、キリスト教を生理的に嫌悪する人であっても、自然放射線のいたずらか、はたまた宇宙飛来の素粒子に叩かれてか、その少女の胎内の卵細胞でそのような生物学的、生理的突然変異が起こったのが事実であったとしたら、あり得ないと言って頭から否定することは出来ないだろう。

 これらの事は、全て私の今夜の夢の中の話だ。

 しかし、もしそれが歴史上起こった事実だとすれば、前例がない、とか、実験で再現できないとか、要するに科学的にその可能性が証明できる、出来ない、を議論しても始まらないではないか。もし、あくまで「もしも」の話だが、そういう事実があったとしたら、それを受け止めようではないか、と合理主義者の私は言う。

 興味があるのは、そんなありえないような事実の当事者になった少女は、その事実とどう向き合ったかという問題だ。

 当時のパレスチナのユダヤ教社会の律法によれば、婚約中に密通して妊娠したふしだらな女は石殺しの刑を受ける事になっている。広場で真ん中に立たされ、ばらばらと飛んでくるこぶし大の石をよけて無意識に両手で頭をかばうが、ついに一発が後頭部を直撃し、くずおれうずくまった。しかし、息絶えて死ぬまで群衆から石つぶてを投げつけられる、と言う実に残酷な刑罰に処せられることになっていた。

 婚約者のヨゼフは、義しい人なら、彼女を会堂に突出し、その石殺しの処刑を求めなければならなかっただろう。

 身に全く覚えがないのに、あっと気が付いたら、自分のお腹が膨らんでいく。世に言う妊娠兆候が顕著になってきた。どうしたらいい?進退窮まった彼女は、自殺するか、堕胎するか(もし当時そんな可能性があったらの話だが)、或いは、身元の分からない村に逃れて娼婦にでも身を落とすほかはなかっただろう。またそうしても、乳飲み子を抱えて生き延びられる可能性は限りなく低かっただろう。両親にこっそり打ち明けても、父ヨアキムも、母アンナも信仰篤い律法主義者で、下手をすれば石殺しに突きだされるか、憐れに思い律法をまげて家族の中でかくまっても、家族ぐるみの苦難の道が待っている。狂人を装って、或いはあまりの苦しさに本当に心が壊れて、当てもなく彷徨い出る恐れもあっただろう。

 しかし、マリアは毅然として自分の身に起こったことは神の意志だと信じ、死を覚悟して真実を-と言うか起こったありのままの事実を-婚約者のヨゼフに告げる決心を固めたのだ、と私は思う。その事実を指して、新約聖書は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と天使に言った、と寓話化したのだと考えると、すんなり理解できるのではないか。

 困ったのはヨゼフだ。そんなありえない馬鹿げた話を誰が信じられるか。自分と一度も関係していない婚約者のマリアから、私は神の霊の力で妊娠しました、これは神の意志、神の働きです、と言われて、はいそうですか、と信じられるだろうか。それは無理だ。

 ヨゼフに常識と理性があるならば、言うだろう。マリア、お前は嘘をついている。妊娠しているなら、強姦されたか、密通したか、どちらかしかないではないか。どうしてその真実を告白しない。嘘をついた上に、妊娠の事実を神の所為にするとは、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と怒鳴りたくもなるだろう。義しい人、律法を重んじる人であっても、強姦された事実を告白し、または密通の裏切りに対して心から後悔して赦しと憐れみを乞うというのならば、考えてもみようが、お前が嘘をつき通し、それを恐れ多くも神の所為にして白を切り通すというのであれば、石殺しもやむを得ない、お前の神をも畏れぬ強情の報いとしてそれも仕方のないことだ。真実を告白しないお前が悪いのだ。と、これが、普通の男と女の行き着くところだろう。

 ところが、ヨゼフは違った。聖書によれば、ヨゼフは正しい人であったので、マリアの事を表ざたにするのを望まなかった。思い悩んでいる彼に主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨゼフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 何で聖書はこんなことを書くのかねェ?と夢の中の私は呆れている。これも、キリスト教的宗教寓話ではないのか。ポストフロイドの現代に生きる、キリスト教をとっくに卒業してしまったヨーロッパのインテリに、そんな夢の話、そのまま文字通り信じられるわけがないだろう。日本の高校を出た常識人だって、夢に天使が現れて問題が解決するなら、世話無いや、と言って笑って相手にしないだろう。天使がもっとどんどん現れて、世の中のややこしい問題を片端から解決してくれるというのなら、キリスト教の人気は回復するかもしれないし、何なら私も入ろうか、と彼らは思うだろう。

 夢の中の私は考えている。そうではない。ヨゼフはアブラハムの正統な子孫だ。アブラハムはユダヤ教的、キリスト教的、(ひょっとして回教もかな?)の信仰の父、信仰の太祖だ。アブラハムとその子孫には「神様にはお出来にならないことはない!」と言う確固たる信仰がある。ヨゼフにもこの信仰が機能した。

 マリアの純真な、純粋な、真剣な眼差しを見ながら、「私は嘘を言っていません、私は真実を告白しています。私は強姦もされませんでした、不倫もしませんでした。だのに、不思議なことに事実私は身ごもってしまったのです。これは神様の意志であるとしか思えません。私はそう信じます。あなたもどうか信じて下さい。」と言う命がけの真剣な訴えを前にして、アブラハムの信仰、「神様にはお出来にならないことが無い」がヨゼフの心に甦った。それなら、私もお前マリアの言葉を信じよう。世間に対しては私の子だということで押し通そう。私は神の子の父親になろう。そう決心して、心が平和になったヨゼフの内面的展開を、聖書は寓話化して、夢の中の天使の現れとしたに違いない。

 私が夢うつつの中で思弁したことは、2000年以上前のパレスチナの迷信深い文盲の一般大衆の理解を越えていたので、解りやすく、手っ取り早く宗教的真実を寓話化して記録に残したのだと思って、夢の中で納得した。

 下等動物では日常茶飯事の単性生殖が、最も高等な人間の女性の胎内で再現されたという、極端に稀な突然変異的な自然現象に対して、2000年前のパレスチナの処女マリアが、類まれな天才的理性の推論と、ユダヤ社会の深い信仰とが結びついて、冷静に事実を受け入れたことと、ヨゼフの「神様には不可能はない」として常識では有り得ないマリアの話を真実として受け止めたアブラハム的信仰のお蔭で、イエス・キリストは危ういところで闇に葬られることなく誕生することが出来た。

 その年、その日が現代の科学的歴史観ではいつであったにしろ(12月25日である可能性は限りなく低いが)、クリスマスおめでとうございます!

 ここまで書いてローマ時間では朝の6時25分。これから読み直して、ローマ字入力の誤変換などチェックして、適当な写真を一枚貼り付けてアップするまで、まだ1時間やそこらはかかるだろう。

 前に「夢」というテーマで東山魁夷の絵の夢を題材にしたブログ(2011年11月7日)を書いたが、今回の夢は本当にはっきりしていて、論理的で、覚めてもすぐに消えていかないで、文字にして書き留めることが出来た。


断っておくが、これはあくまで「夢」のメモであって、信仰告白でもなければ、まして神学の論文でもない。

あらためて、


Merry Christmas and a Happy New Year!


(つづく)

コメント (3)
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