:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 森鴎外=即興詩人

2013-06-24 06:47:30 | ★ 日記 ・ 小話

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森鴎外=即興詩人

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森鴎外 (ウイキペディアから)


亡き父の書斎には鴎外全集の初版本があった

森鴎外と言う名の文豪のことを今の50代以下の人々がどれぐらい知っているだろうか?

「舞姫」? 「うたかたの記」?? それってなーに ???

と言う時代になったのだろう

ちょっとわかった人でも、「即興詩人」が鴎外の作だと思い込んでいる人が結構いるらしい

現代のデンマークの若者にハンス・クリスチャン・アンデルセンと言う人を知っているかと聞いたら

殆どの人が、それは誰? と聞き返してくるという話を聞いたことがある

日本では有名な童話作家だが本国ではとっくに忘れ去られているのだろうか

そのアンデルセンが「即興詩人」と言う自伝的小説を残したことを、現代のデンマーク人は完全に忘れている

ならば、日本人が「即興詩人」を鴎外の作たど思い違いしても咎めるわけにはいかない

ではなぜ「即興詩人」が鴎外の作として日本では生き延びたのか

それは、その訳の日本語としての格調の高さの所為だという人もいる

その書き出しはlこうだ


 羅馬ロオマに往きしことある人はピアツツア・バルベリイニを知りたるべし。

こは貝殻持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井ある、大なる廣こうぢの名なり。

貝殻よりは水湧き出でてその高さ數尺に及べり。・・・


 私がリーマンブラザーズなどの国際金融業を辞めて、カトリックの司祭を志して、ローマで神学を学ぶことになった時、小豆島の主任司祭の岩永神父は私にこういった。

 ローマに行くのなら、鴎外の即興詩人を読んでから行きなさい。私も、初めてローマに留学した時、先輩からそう薦められたことがあった、と。

 アンデルセン原作の作品の主人公である即興詩人が、イタリアを旅するうちに嵐に遭って、「青の洞窟」に流れ着く場面がある。

 私はこの夏で6度目のカプリ島で、3度目の青の洞窟訪問が叶った。毎度試みたのだが、3度は天候に阻まれて、中に入ることが出来なかったのだ。何しろ、千鳥ヶ淵の貸ボートよりもやや幅の狭い小舟に乗り換え、船底にお尻を付けて身を低くし、波が下がって口が開いた瞬間を見計らって船頭が鎖を手繰ってスルリと滑り込む以外に中に入る手だてはない。少し波が高かったり、うねりがあったりすると、もう入れない、運よく入れても出られなくなる恐れがあるからだ。

 生涯に一度だけカプリを訪れ、夢に見た青の洞窟に振られ泣く泣く島を後にした経験のある人もきっといるはずだと思う。私は過去5回の内3回は泣きを見たのだった。

 それが今回はどうだ。元ベテランのガイドさんで、今はマル5つの最高評価の日本レストランで女将(おかみ)をしている千香子さんが島一周の約束でチャーターしたモーターボートの船長は彼女の顔見知りでその道50年のベテラン。雲一つない快晴の太陽を遮るものは無く、気温は30度には達していた。波にも恵まれ、無事スルリと青の洞窟の中に入れた。これで勝率は5割にアップした。

 それだけではない、勧められて船に乗る前に10ユーロで買って身に着けていた海水パンツは、アナカプリの海水浴場で泳ぐためだと思っていたのに、この青の洞窟で、小舟の船頭が、「本当は違法で警察に見つかれば罰金ものだが、俺が目をつぶるから、かまわないから入れ」としきりに勧める。

 怖いもの見たさと言うか、無鉄砲と言うか、売られた喧嘩は買わなきゃ男が廃ると思ったか、元々Tシャツとズボンを脱げば準備は出来ていた。海水パンツ一つになって足からスルリと一気に首まで海水に浸かった。洞窟の水温は低かった。強い日差しに晒されて開き切っていた全身の毛孔がギュッと収縮するのが感じられた。心臓にもバクッとひとつ衝撃が来た。アリャ、このままご昇天かと一瞬覚悟したが、幸い無事だった。あとはボートから手を離し、全身がコバルトブルーに染まり、透明になっていく感覚に身を委ねるだけだった。


洞窟の入り口は小舟一艘がすり抜けるのがぎりぎり


泳いでいるのは私


体の芯まで青色に染まっていくような錯覚に捕らわれる


染まるだけでなく溶けてしまうのではないかと思った


ブルブルッ! もう上がらせてェ ~


 満ち足りて再び小舟の人となると、船頭はいい声でカンツォーネを洞窟の天井にこだまさせながらゆっくり中を二周して、また眩しいい日差しの外海へ針の耳を通る糸の要領で海面が下がって洞門が開いた瞬間に鎖を手繰ってスルリと外に出た。みんな、身を平らにしてボートの船底にへばりついたのは言うまでもなかった。

 小舟の船頭が、法律を犯してまで泳がせてやったのだから、泳がなかったものもみんな一人あたま10ユーロ出せ、と言ってきた。これさえなかったら最高の気分だったのに、とややつや消しの結末だったが、5人分で15ユーロに値切って手を打った。

 では、そもそもなぜカプリ島に行くことになったのか、今日のブログでは全く姿を見せなかった同行者は一体誰だったのか、などの疑問には、次のブログでお答えすることになるだろう。

(つづく)

 

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★ ローマでの老老介護

2013-01-04 20:58:43 | ★ 日記 ・ 小話

                                                                   

 ローマでの老老介護 

                                        

 

コンコン! とドアをノックして

「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」 院長平山司教様の部屋に入り

どっかと腰を下ろし エヘン と一つ咳払いをしてから おもむろに口を開いた

司教様 次のブログに 「ローマでの老老介護」 と言う題で司教様のことを書きたいと思うのですが

プライバシーと肖像権の問題もありますので アップする前に一応お目にかけますね

ダメならダメと遠慮なく仰って下さい ボツにしても一向構いませんから

と申し上げたら

アハハ どうせ八方破れだからね 今さらどうってことはないよ と おおらかなものだ


* * * * * * *

 

普段 出かけると疲れるからと バチカンのお役所などに用のあるほかは ほとんどお出かけにならない司教様が

 珍しくご自分から 「たまには街中を散歩したいな」 と言われてうれしくなりました

12月30日は幸い日曜日で 歴史的中心街の車乗り入れ規制が解除されている 暖かい晴天にも恵まれた

サンピエトロ広場の今年の馬小屋をぜひ見たいと言われたので 広場に至近距離の秘密の駐車スペースに車を駐めた

馬小屋まで150メートル だが馬小屋の前には案の定長い行列があった 

  

せっかちな私は今まで遠くから人の頭越しに眺めてお茶を濁していたが 司教様は 並ぶ! と言われ 覚悟を決めた

列に並ぶことしばし やはり柵のかぶり付きからの景色は格別だった 司教様はすっかりご満悦

 

 大きさ比較の対照になるものを画面に入れるのを忘れたが 巨大屋根付き箱庭の幅は 優に10数メートルはあろうか

 

端っこの 司教様の右側に見えるのがベトレヘムの馬小屋の場面だ

ブログに貼り付けるために画素数を大胆に落としているからここではそうでもないが

原版の拡大写真では人形の顔の表情までわかると お褒めを頂いた

 

まだお歩きになれますか? うん 今日はまだ行けそうだ と期待していた答えを引き出して

通行自由の市の中心へ車を乗り入れて ナボーナ広場に向かった

ローマの道はほとんどすべて路駐可能 しかし ほとんどすべての隙間が常に車でぎっしり埋まっている

あらかじめ見当をつけていた袋小路の脇道を覗き込むと

思った通り 車一台分のスペースを見つけた 考え得る広場に最も近い場所だった

 

広場に入って まず美人の魔法使いのおばあさんと サンタさんと トナカイの橇の前で パチリ

司教さま いつもながら 優しい いい笑顔をしている

 

すると すかさず 本物の魔女から アリャ偽物だ 魔女に美人は似合わないんだからね!と 突っ込みが入る

 

  

大道芸人のマル見えの舞台裏も一応カメラに収めておこう この分だと 芸が始まるのはだいぶ先のようだ

 

これをブレークダンスと言うのかな? くるくると目まぐるしく回る

 

  

ピタッと止まる                           片手で回る  

背中で回る 速い激しい動きが売りのダンス

残念! 私のカメラと腕には 動画を撮って貼り付けるスキルがないのだ 4枚の静止画でどこまで伝わるか

 

軽快な音楽とともに回る このメリーゴーラウンドも もうみなさんご存知ですね

 

この優しそうなおじさんと 無邪気そうな坊や 見つめ合って いったい何をして遊んでいる?

真ん中の看板には

「あなたの瞳の奥に書かれている詩を 私が読み取って進ぜましょう!」

とある こんなデリケートな こころ優しい大道芸 はたして日本で考えられるだろうか と ふと私は思った・・・

 

 

アンデスのインディオ達のテントは今日も笛と太鼓で大勢の客を集めていた

 

 ナボーナ広場をほぼ端まで行ったところで 坐ってコーヒーとアイスクリームを頼んで たっぷり小休止

車までの帰りの距離を目算すると これが司教様の散歩距離の限界だ

先ほどまで甘いメロディーを奏でていたヴァイオリン弾きが 頼んだら司教様の側でポーズをしてくれた

これもいい思い出になるかな 何しろ もう一度司教様をここにご案内する日がある事を願うが それも神様次第で・・・

司教さまはこの3月に89歳に 私は去年の12月に73歳になった

これがローマの老老介護の記録です

(この日の司教様の万歩計は約4000歩を指していた ここしばらくでは最高記録とのこと!)

 

(お終い)

 

 

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★ 〔一部補足〕 バチカン市国の飛び地に友達を訪ねて

2012-12-31 11:18:03 | ★ 日記 ・ 小話

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バチカン市国の 「飛び地」 にお友達を訪ねて

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バチカンはれっきとした国家だ しかもカトリックの総本山という政教一致の宗教国家だ

ユタ州のソルトレークシティーはモルモン教の町 天理市は天理教で持っているかもしれない

しかし 国連にもオブザーバーを出して 世界中の国と大使・公使を交換している宗教国家は

バチカン市国 を措いて他にはない

(それが宗教としていいか、悪いか、の議論は別にあろうが)

イタリア半島は ベネチアや フィレンツェや ナポリ王国や 諸侯領や にばらばらに分割されていて

中世にはカトリック教会(と言うか、キリスト教)はそこに広大な法王領を展開していた

近代国家らしい体裁を整えるのは1929年にムッソリーニが教皇庁とラテラノ条約を結んで以来で

特に第二次世界大戦後の1946年に国民投票で王政が廃止され 共和国に移行して以来の

イタリアはいわば新興国だ

バチカンはテベレ川の対岸のディズニーランドよりも小さいバチカン市国に退いたが

ローマ市内 イタリア国内に 点としての多数の領地を今も保持している

スペイン広場の一角にも バチカンの重要なお役所が収まる治外法権の教皇領の建物がある

知人にちょっとした用があって朝からそこへ出かけた

 

スペイン広場の東側にスペイン大使館があり 広場の名前の由来はそれから来る

国旗の翻る大使館の前はイタリア軍の兵士が警備にあたる

 

山岳兵の帽子のようなのをかぶった警備兵

 

大使館の南隣がバチカンの飛び地のお役所で そこに知り合いを訪ねた

訪問客の控室のインテリアは結構気品がある

 

    

部屋の外にはピオ12世と ヨハネス23世の胸像が並んでいる

左のピオ12世は第2次世界大戦中ナチスドイツのアウシュヴィッツなどにおける

ユダヤ人のホロコースト 民族絶滅計画による殺人工場の犯罪行為に関する情報を

世界中で一番豊かに正確に知り得る立場にありながら

それを阻止するために その絶大な影響力を有効に行使しなかったのではないか

という疑惑をかけられた

右のヨハネス23世は 戦後ピオ12世が世を去ったのちの教皇選挙が二派に分かれて紛糾し

教皇がなかなか決まらなかったとき 一時休戦とばかりに

温厚で敵がいない 何もしそうにないお人よしで しかもすぐに死にそうな高齢者 として選ばれた

彼は 貴族の家系に生まれた前任者のピオ12世とは対照的に

ベルガモ郊外のソット・イル・モンテで小作農の家に生まれた

そのお爺ちゃんの彼が あろうことか 第2バチカン公会議の実施を指示して世界を驚かせ

実際に開会までこぎつけたが 案の定 彼は会期途中で世を去った

 これは 神様のみ業でなくて なんだったろうか?


用件を済ませて ほっとして 明るい外に出た

 

スペイン広場の噴水の向こうに 陰で暗くなっているが 映画ローマの休日でも有名な

スペイン階段がある 階段の中段に円錐型の緑の樹をかたどったクリスマスの飾りが置かれていた

下のブルーの帯には

LUCE PER LA LIBERTA', LIBERTA' DALLA FAME

自由のための光を 飢餓からの自由を!

と言うスローガンが書かれていた

 噴水と階段を背にして ローマで一番ファッショナブルなコンドッティ通りを20メートルほど進むと

左にブルガリのお店 その向かいに カフェ・グレコ がある

 

  

創業250年と言えば  日本では桃園天皇が没し 第117代後桜町天皇が即位したころ

 ロシアでは女帝エカチェリーナ2世が即位したころ と言ってもピンと来ないか

要するに 江戸時代中期 8代将軍 徳川吉宗の時代からここにこうして店を構えていた

と考えて頂きたい

 

中は古い絵画が壁を飾り 洗練された物腰のウエイターが注文を聞きに来る

ちょっとしゃれて 赤ワインをグラスで頼むと オリーブやミニサンドイッチが黙って付いてくる

 

 私の目の前には

カフェ・グレコを訪れた バファロー・ヒルズ と 赤い肌の男

の古めかしい写真があった 彼らが使ったテーブルと椅子を私も使っているのだ

 

たっぷりタイムスリップを堪能してから外に出ると 軽やかなリズムが流れてきた

 

一本脇の静かな道に入ると ミドリ一杯のヴェランダが優しく迎えてくれる

 

路地の車の屋根の上にはカモメが一羽 一羽ならきれいな置物の風情だが・・・・

 

  そのカモメの群れが日暮れの空を数百羽群舞すると 「凄い」というか 「不気味」な感じさえする

(前晩 聖ペトロ広場の上を舞うカモメの群れ 奴ら鳥目 ではなかったのか?

 

カフェグレコからかなり行くと 朝のカンポ・デイ・フィオリ(花の広場)の一角は文字通り花で一杯

(手前 一番左の影が この写真を撮っている私の影ですよ~!)

 

  

広場の他の一角は 香辛料 スパイス屋さん

 

  

野菜屋さんなどがいっぱい店を出している ただしこの市 昼の13時まで その時かっきりに市は店じまいに入り

1時間ほどで すべて煙のように消え失せる その後を市の清掃車が掃き清めると 先の師走風景に紹介した

夜のカンポ・デイ・フィオーリの広場に変身するのだ

 

* * * * * *

 

私は 軽く  〔風景〕 ローマの師走 を2度に分けて書いた後

「ローマの老老介護」

「急速に進むカトリックのプロテスタント化」(その-①)「否定的側面」

「急速に進むカトリックのプロテスタント化」(その-②)「肯定的側面」

の3本のブログを書くつもりで 頭の中ではほぼ出来上がっている しかし

年が明ければまた忙しくなる 呑気に毎日1時間も2時間もブログを書いて遊んでいる暇はなくなる

また 1週間 10日と沈黙する日々が来るだろう 

それまでの 冬休み休暇のお遊びに付き合ってくださって有り難う 先取りして

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明けましておめでとうございます 新年もよろしくご贔屓に!

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★ 〔風景〕 ローマの師走-② パンテオンからカンポ・デイ・フィオーリへ

2012-12-29 06:10:26 | ★ 日記 ・ 小話

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〔風景〕 ローマの師走-② 

パンテオンからカンポ・デイ・フィオーリへ

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まだここはナボーナ広場 

 

様々な大道芸人に交じって ペルーのインディアンの踊りもあった

強い太鼓の響きに乗って左の男はコンドルの舞を舞う 

 

輪投げに真剣なまなざしで挑む男

胸にも腹にも背中にも刺青 冬の夜 気温16度C

 

パンテオン前の広場は意外と人出が少なかった

ギリシャ神殿を思わせるファッサードの後ろは

約2000年前に建てられたローマの誇る煉瓦積みの建物

今は教会として使われているが ローマ時代の建造物で現役のままはここだけ

 

そのパンテオンの陰でもの悲しいジプシー風のメロディーを奏でる若者

 

彼は本物のジプシーだと思うが まれにコンセルバトーレを出たプロが

趣味で大道芸人をまねることがある 道行く人はたいてい気が付かないのだ

 

 天津甘栗より大粒で自然な味がする 焼き栗はローマの冬の風物詩

 

見上げると 4時半ちょっと前 空はそろそろ暗くなる

 

 

 コミカルな3人組 カンツォーネ 民謡に さらに語りが入る

  

 ローマの街には大道芸人があふれ返っている 自由な雰囲気がある

日本ではすぐお巡りさんや さもなければヤクザの干渉が入るが ローマには全くそれがない

その点は成熟した社会の落ち着きみたいなものがある

 

 

 緯度は津軽海峡ほどか 夜が長いので イルミネーションが映える

 

ジェラートの本場 銀座でもなかなか真似が出来ない


ファンは若い娘とは限らない 子供も おばさんも 全く目がない


 12月 1月 2月 は結構雨も降るのだが イタリア人は冬でも外で飲み食いするのがお好きなようだ

   

 年中流しっぱなしの飲み水 人も 動物も 飲み放題

 

 この水 ローマ時代に建設された水道橋で今も60キロほど南東の山から引かれている

当時のローマ人の土木技術のレベルの高さには脱帽

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

                      

   

古い建物の壁にモダンなウルトラ・インターネット回線の広告

            その光の先には熱い雰囲気の二人が

 

 

 

 

 

 

  

足を伸ばしてバチカンは聖ペトロ広場に 

オベリスク(エジプトから運んできた石の柱)の右にはイルミネーションを施した大きなモミの木が

オベリスクの前の囲いの中には青い光の空間が広がる

 

 

その空間の中には巨大なミニアチュア―のベトレヘムの街が広がる

右手前の見物の人のシルエットの間にイエスの誕生の馬小屋が見える


ローマの歳末風景 おわり

 

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★ 〔風景〕 ローマの師走-① ナボーナ広場

2012-12-27 23:43:29 | ★ 日記 ・ 小話

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〔風景〕 ローマの師走-①

ナボーナ広場

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しまった カトリックの内輪のお宅っぽい話のドツボにはまっていたのに気が付いた

これでは「ウサギの日記」の多くの読者を突き放してしまう

何とかしなければ! ではどうすればいい?

? ? ? ? ? ?

 ふと一人になりたくって 車を出して神学校を抜け出した

今は一年で一番日が短い季節 4時半にはとっぷり暮れはじめるだろう

定番のスポットはローマで一番美しい広場と言われるナボーナ広場

クリスマスの飾りを売る店や 射的や 食べ物屋が並ぶ

日本の縁日や羽子板市のような雰囲気だ



広場に入ると風船屋がいた 見ると 広場の隅の あそこにも あっちにも 華やかないろどりを添えている


風船の糸をしっかり握った女の子の写真を撮ろうとしたら お父ちゃんがしっかりポーズした


広場の中ほどにはメリーゴーラウンドが アコーディオンの軽やかな音楽に乗って回っていた


メリーゴーラウンドは幼いころの夢の乗り物

私のように第二次世界大戦後の欠食児童にとっては おとぎの世界の乗り物だった


まわれ まわれ しっかり幼い日の夢を刻め  まわれ まわれ

 

サンタのおじさんと 魔法使いのおばさんと 両親と一緒に はいパチリ

この橇は二頭のトナカイに引かれているのだ

 

私に言わせりゃ ありゃ魔法使いじゃないね 魔法使いは美人にゃ似合わないんだよ

 

私だってね あのくらいの年ごろには ここにこうして書いてもらったものだよ

と 後ろのお婆ちゃん

 

わたし 描いてもらっちゃった

 

あたしもよ

 

あたしも いま 画いてもらってるところよ (すごく上手だった 陰の声)

 

射的やのお姉さん いま何か月? ピストルなんか持っちゃって

 

バンビーノ・ジェズ(幼子イエス)はいかが? おまけつきで安くしとくよ 買っていきな

 

 

買うなら 断然こっちだな ポルケッタ(豚の丸焼き) 薄切りを挟んだパニーノは実においしい

悪いけど バンビーノでは お腹膨れないものね

 

いいえ 心の糧に 妖精の音楽は如何?

大小 色んな形の クリスタルガラスのコップに水を少々いれて 音程を整え

水で濡らした両手の指先で軽くこすると 澄んだ音色の和音が響き出す

クラシックのメロディーから クリスマスソングまでを 達人の業でつむいでいく

ここにも1ユーロ気前よくはずんだ

 

私には何の芸もありませんが (そうなんですこの人 と 膝の上のワンちゃんが独り言)

内気そうな物乞いのおじさん 大きな空の容器に

写真撮らせてくれたお礼の1ユーロコインが コロンと音をたてた

*******

このあと 裏通りを抜けて カンポ・デイ・フィオーリ(花の広場)へ

(それは次回のお楽しみに)

 


 

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★ ローマの結婚式 -「終末論」はちょっと中休み-

2012-12-12 10:58:07 | ★ 日記 ・ 小話

結婚式の披露宴は ローマ市内から車で30分のこんな牧歌的な場所であった


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ローマの結婚式

-「終末論」はちょっと中休み-

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福島の仮設住宅でカウンセリングをしている若いお友達からメールをいただきました。 

 先日また宮城県地震が発生して、忌々しい過去を思い出したこと、カウンセリングにセラピー犬の力を借りて、現在2匹の相棒と一緒にお仕事をしていること、などが淡々と綴られていました。

 動物には癒しの力があるのでしょう。そして、「こんな相棒に恵まれお仕事が一緒にでき感謝しています。」とメールは結ばれていました。

 メールをくれた彼女自身が、心優しい、感謝(神に対する?)愛に満ちた人柄なのがしっかりと伝わってきて、こちらの心も温かくなりました。

早速返事を書きました。

 ブログを読んで下さって有り難う。

 一見ふざけて書いているように読めるかもしれませんが、ぼくはぼくなりに結構真面目に考えて書いています。(中略)生きているうちに、ぼくが神様をどんなふうにとらえているかを(貴女にも)伝えたいと思っています。

 相棒のセラピー犬ってどんな犬かな? 僕も犬が大好きで、犬たちにもそれがわかるようです。

 犬と言えば、先週土曜日、ぼくも犬と出会いました。


不審者の検分に ノシノシ やってくる牧羊犬


  

私を取り囲んだ5匹の犬たちのうち2匹


 私の可愛がっていたイタリア人の女の子が、この20年の間に立派に成長して、教会で結婚式を挙げました。頼まれてぼくも共同司式をしました。

 郊外のレストランで披露宴があったのですが、会場の手前100メートルほどの道端に羊の群れがいました。思わず車を降りて羊の写真を取っていてハッと気が付いたら、牧羊犬が5匹も、落ち着いた足取りでのそりのそり寄ってきて5方向から私を取り囲み、そのうちの3頭が私のオーバーコートの胸や肩や背中に足をかけてじゃれてきたのです。結構大きな白い犬で、一匹の顔が私の顔の前にあり、前足にずっしり体重をかけてくるではありませんか。とっさの出来事で、カメラをかばって両手で高く上げるのがせいぜい。近すぎて写真も取れませんでした。

 ワンちゃんたち、表面はあくまで紳士的、友好的でしたが、職務に忠実な顔をしていて、羊に害を加えるような素振りを見せたらただでは済まないぞ、という決意が目に宿っていました。こんなデカい犬、一匹でもかないそうにありません。身を固くして 「大丈夫!」 「大丈夫だから!」 と言って必死に宥めたら、日本語がわかったのか足を下ろして、来た時と同じ足取りで、羊の方に帰っていきました。

 

羊のところに帰っていく三頭の犬たち

 

 エリカ(26歳)のことは、小学生のお転婆の頃からよく知っています。彼女の母のパトリチアは私の共同体のメンバーで、ブラジルからの移民。露出過度のサンバが似合いそうな情熱的でむら気な人妻でした。


エリカちゃん


 そのパトリチアが、こともあろうに別の共同体のジュゼッペとデキてしまい、エリカを生んだのでした。

 さあ大変。われわれの共同体はそう言うことにはことのほか厳格な集団で、大騒ぎになりました。パトリチアと本来の夫との間にはすでに男の子がいたのですが、その夫婦仲は事実上壊れていたようでした。 さあ、どうする?

 カトリック教会は神の前(「神道」の神様ではない)で誓われた信者同志の結婚の解消(離婚)は認めません。有り得るとすれば、結婚した時点で、双方または一方に、真剣に結婚する自覚と自由な決意が欠けていたとの証言が認められるかどうかです。(手を握ってキスをしたら、もう結婚しなければならない、なんて言う強迫観念は、自由な決意とは言えません)自由な決意が欠けていたと認められれば、そもそも結婚が成立していなかったとして、「婚姻の無効宣言」を取り付けることができます。(なんだか、都合のいい詭弁だ、などと言わないでください。)

 ただ、バチカンの教会裁判所で、その「無効」判決を勝ち取るためには、馬鹿にならないほどの弁護士費用がかかります。パトリチアにはそんなお金がありません。そこで「共同体」の出番です。はじめは、なんで身持ちの悪い外国人女の尻拭いのために、長期間(2-3年に及んだかな?)大金を支弁しなければならないのか、とブースカ陰口をたたく者もいたけれど、それでも皆でがんばってなんとか結審までこぎつけました。

 ついに、パトリチアが息子の親権を得て前の結婚は解消され、晴れてジュゼッペと結婚することになりました。この結婚式も、共同体が費用を負担して、みんなで盛大に祝ってやったのは言うまでもありません。

 

 しかし、パトリチアの連れ子の男の子は新婚家庭に馴染めませんでした。家を飛び出して、グレてしまったのです。そんなこともあってか、一緒に住むまではラブラブに見えたジュゼッペとパトリチアの仲も、諍いが絶えず、せっかくみんなで苦労して一緒にして祝ってやったのに、今度は彼らが離婚寸前の騒ぎになりました。犬も食わない話ではありますが、私は心配してよくその新家庭に食事をしに行ったものです。

 

 思いがけず長い話になりましたが、これが事の顛末。


 言いたかったのは、そんな複雑な家庭の中にあって、エリカの存在は常に救いだったということです。泥田に咲く蓮の花と言うか、ごみ溜めに舞い降りた一位の天使と言うか、エリカの穢れなさ、明るさ、純真さは、みんなの慰めと救いでした。私にもよくなついていました。そして、そのまま大学の医学部を出て立派な研究者になったのです。

 エリカの結婚式は共同体の大きな喜びになりました。ここまで何とかみんなで支え切った達成感の喜びだったのです。ジュゼッペとパトリチアもこの日ばかりは立派な親の姿に納まっていました。

 

式中私は祭服を着ていたので写真が撮れませんでした。

結婚式のミサのあと 関係者が祭壇を囲んで踊ります ユダヤ教の過ぎ越しの祭りの踊りに似ています

白いドレスがエリカ 手前左のピンクのスカートがパトリチア

エンゲージリングを運んだ小さな女の子の向こう パトリチアの頭のうえの左端の男がジュゼッペ


  

婚姻証書にサインするエリカと新郎のステファノ              二人の写真を撮る女の子      

 

  

     剣のトンネルをくぐって お米のシャワーを浴びて・・・      僕は左の写真では剣だけしか写らなかった  

 

幸せそうなエリカとステファノ


 結婚式にエリカの父親の違うお兄さんの姿はなかったけれど、今はどこかで落ち着いて暮らしているらしいと聞いて、少しはほっとしたことでした。


ケーキカットはどこの国も同じ景色


 めでたし、めでたし。

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警告:へんなメールが来ていたら開かないで削除してください。

2012-01-30 14:31:44 | ★ 日記 ・ 小話

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警告:へんなメールが来ていたら開かないで削除してください。

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今日、中国在住の友人J.K.君から珍しく:

Click here to see attached video.

という英文 行だけのメールが届きました。

親しい間柄なので、何気なくクリックしたら、メールアドレスをIDにして、パスワードを入れろと要求する変な画面に変わりました。これかな?と思うパスワードを入れたけど幸い(結果的に)開かなくて一旦閉じました。そして、も一度クリックしたらアバスタのセキュリティーにブロックされて「トロイの木馬」とかいうヴィールスとわかりました。

わたしの場合は開いたことになっていないはずなので、ここからさらに広がることはないと思いますが、同様のことは他からも起こっているかもしれません。現に、一部の限られた友人サークルに伝えたら、早速そのうちのY君から:

 

谷口神父様 有り難う 私の所にも来ていました HPで警告削除を伝えました

 

というメールが返ってきました。

用心に越したことはないと思って、念のために私のブログでも事実をお知らせする次第です。

.K.君は中国というネット界ではいろいろ問題のある地域に住んでいて、日本人として目立っているのでターゲットにされたのかもしれません・・・。

尚、上の英文の裏にはURLがついていないので、クリックしても何も起きません。ご安心ください。

 

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★ スペインで日本への宣教師誕生 -元高松の神学生ー

2011-12-30 03:43:41 | ★ 日記 ・ 小話

ヴァレンシア大司教区のインターネット公式サイトのロゴ

 

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  スペインで日本への宣教師誕生 

  -元高松の神学生ー

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 この出来事は、ヴァレンシアのカトリックック教会にとっても特筆すべきものだったのでしょう、教区のインターネットのサイトでも、カトリック新聞でも、いずれも一面トップの扱いでした。

 ヴァレンシア出身のマヌエル君、通称 「マヌ」 はファゴットの名手。キコのオーケストラのメンバーでもあります。彼は高松の神学校が閉鎖になったとき、もうほとんど神学の勉強を終えていて、日本語も申し分ないほど習熟していました。突然、日本で司祭に叙階される道が閉ざされ、やむなく苦労の多い彷徨う人の生活に出ることになりました。数年間をベトナムで過ごし、現地の言葉で宣教が出来るまでに成長しました。 

 

左のひげ面がマヌエル君。こちらに背を向けている右側の男はジャネス。

ジャネスはローマのレデンプトーリスマーテル神学院の一期生で、わたしの2年先輩。

元ユーゴスラヴィア国立放送管弦楽団のコンサートマスターとしてヴァイオリンを弾いていたプロ中のプロ。

神学校の夕食にバチカンの枢機卿が賓客として同席した時など、デザートのタイミングでジャネスが静かに現れる。

かれがサンサースやベートーベンの小品を奏で始めると、食堂は水を打ったように静まりかえって聞き惚れたものだ。

真ん中、ファゴットの筒先の位置に顔が見えるのが、ギターを弾くキコ。

彼も私と同じ72歳で今年(2011年)は年男。

彼の深い信仰と、あらゆる分野に秀でた天才的大きさに、男として羨望や嫉妬を超越して、ひたすら神を賛美する思いだ。


 神様はご自分の召し出しに忠実なものに対しては、ご自分も忠実でらっしゃる。マヌの故郷ヴァレンシアの大司教様が、彼の不屈の精神に目を止め、日本で司祭に叙階される機会を奪われたのなら、自分の教区の司祭として彼を叙階した上で、直ちに本人の望むところへ宣教師として派遣すると約束されました。

 12月16日、ローマの「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の院長である平山司教様と秘書の私は、ヴァレンシアに飛び、ひとまずマヌの両親の家に落ち着きました。そして翌17日、彼を叙階してくださる大司教様に表敬訪問に伺い、その寛大な計らいに感謝の言葉を申し上げました。

 

右端の紫のキャップをかぶったのがヴァレンシアの大司教。大司教館の入り口ホールで。


 12月18日(日)の朝、11時からマヌの家の食堂で家族がそろって「教会の祈り」の読書課と朝課を一緒に唱えました。マヌの兄弟も姉妹も一緒でした。祈りの中で共同祈願を唱える箇所があります。一人ひとり、胸に湧き上がる祈りを声にして唱えます。母親が、愛する息子をはぐくみ育てた日々の苦楽、司祭として捧げることの出来る喜び、自分の手を離れて神の道具として遠く宣教地に離れていく離別の悲しみ・・・、こもごもの思いが彼女の胸から長い祈りとして溢れ、目からは涙が流れていました。続いて父親も、賛美と感謝と、そして息子を神への捧げものとして捧げる決意、喜び、賛美を祈るうちに、彼の眼にも涙が光るのを私は見落としませんでした。そして、マヌもまた祈りました。ここまで育ててくれた両親への感謝、神への賛美、そして宣教への固い決意・・・、彼の眼にもこらえきれない涙が・・・。嫁ぐ日の花嫁が両親への別れを告げる場面と同じ感動がそこにありました。ある意味で、マヌの司祭叙階の日の一番感動的な時間ではなかったかと思います。

 

マヌの右側に両親が。父親は医者で看護大学の教授でもある。新求道共同体の第1世代の夫婦。

スペインのインテリ家庭としては6人の子どもは多い方。その娘も乳飲み子を育てながら、すでに次を妊娠している。

新求道共同体の若い夫婦はいずれも子沢山。6人はおろか、10人も13人も例外ではない。そういう信仰の家庭の

 中から、マヌのような司祭、そして修道女や宣教家族が輩出するのだ。

 

 マヌの両親は、すでに上の娘を宣教家族の一員として、チェルノブイリからも遠くないウクライナの地に送り出しました。二番目の娘も、やはり宣教家族の妻として、中国の北京の北の太原に献身しています。そして、今長男のマヌエルまでも、宣教師として遠くアジアに、日本に送り出すのです。親として淋しくないと言ったら嘘になるでしょう。それでも、神のみ国の栄光のために、誇りとしてそれに耐えているのです。

 巨大な司教座大聖堂をぎっしりと埋め尽くした会衆の見守る中、多数の共同司式司祭に囲まれて、叙階式は厳かに始まりました。日本からはマヌの里親や共同体の姉妹たち、日本になお留まっている司祭、ローマの日本のための神学校の神学生全員、そして養成担当者や先輩の司祭たちも多数参列しました。


古い荘重な司教座大聖堂の夜の佇まい。街路樹はたわわに実を付けたオレンジの木。

 

      

     ヴァレンシアの大司教から叙階の按手を受けるマヌ                            手のひらに聖香油を塗られるマヌ



叙階式を終えて控えの香部屋で平山司教らと記念の一枚


 叙階式の後は、ヴァレンシア市内の一流レストランの大広間で、大変なご馳走のパーティーが開かれました。そして翌朝、ローマから参集した「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の神学生たちと、院長の平山司教様の一行は、ヴァレンシア観光の一環として、市内から30キロ余り離れたカルトゥージオ会の修道院を訪れました。カルトゥージオ会というのは、隠遁修道士たちが祈りと日曜祝祭日のミサ以外は一人ひとり祈りと苦行の全く孤独な一人住まいの生活をするという、きわめて古い形式の修道院です。

  

カルトゥージオ会の修道僧たちの姿。中世の僧院の面影がある。

 

 修道院や旧市街の史跡を訪ね、一休みして、夜の9時からマヌの初ミサが彼の所属する教会で行われました。彼の共同体と彼の両親の共同体の合同の初ミサには約100人余りが参加した。

 


新司祭としての初説教はベテラン説教師も顔負けの落ち着いた味わい深いものだった。

 

自分で聖別したパンを捧げて、朗々と栄唱を歌い上げるマヌ

 

ミサの後には、参列者一同喜びにあふれて祭壇を囲んで輪になって踊る

 

祭服姿のマヌを囲んで、駆けつけた旧高松の神学校出身の司祭たち、左端は私。

 

初ミサのあと、余韻に酔うパーティーは夜更けまで続いたが、私は翌朝早くヴァレンシアを後にした。

市の上空に舞い上がったところで朝日が昇り始めた。

 

 マヌの今後の身の振り方ですか?おそらく3カ月の観光ビザでヴェトナムに入り、現地の宣教チームを助けることになるのではないでしょうか。ビザが切れる度に一時国外(例えば日本)へ出て、そこで旅行者として共同体の兄弟を励まして回るのもいいのではないでしょうかね(笑)。 

                                  (終わり)

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★ 中秋の名月

2011-09-27 22:45:50 | ★ 日記 ・ 小話

 

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中秋の名月

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 今年の中秋の名月は9月13日でした。月見について何か書こうと思ったのですが、残念なことにあの満月を信州で見る機会を失してしまいました。

 しかし、別の年には月見をすることができて、その時のことをしっかりと書き留めていました。それで、この機会にお届けしようと思います。

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  今日は満月。十五夜は一昨日でしたが、月が本当にまん丸になるのは実は今夜なのです。野尻湖から長野の少し南まで車を飛ばし、「田毎の月」で有名な姨捨まで月見に出かけました。よく耕された棚田は、すでに刈り入れが終わり、稲架の下には稲の切り株が整然と並んでいます。

陽が沈み、月の出を待つ間、真ん中の木の赤い柘榴の実で戯れました。

             中央の木は熟れた実をたわわにつけた柘榴の木

ようやく夕闇か濃くなってきました。あっ!月が出た!!しかし、これがバカチョン(失礼、これは差別用語だそうで・・・)デジカメの限界でした。




朧の満月に照らされたススキの穂のつもりなんだけど、ちょっと暗すぎますよね。
しかし、涙が出そうになるほど寂しい写真、とコメントしてくれた人がいました。




姨捨伝説の老婆像は、岩の上でじっと黙って満月を見つめていました。



信州の魅力は尽きません。

私の住む野尻湖畔は静寂に包まれています・・・・。

                                     (終わり)

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★ 教皇ヨハネ・パウロ2世の列福式

2011-05-02 00:06:52 | ★ 日記 ・ 小話

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教皇ヨハネ・パウロ2世の列福式

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復活祭明けから1週間は、聖地イスラエルに行って、一昨日の夜にローマに帰ってきました。一夜あけて昨日の日曜日は、故ヨハネ・パウロ2世教皇が福者(聖人になる前の称号)に挙げられる記念すべき日でした。世界中から100万人以上の人が集まり、若者たちはローマ時代のチルコ・マッシモの競技場で前夜祭を開いて盛り上がっていました。

この朝早く、聖ペトロ広場からテベレ川の川岸の天使城までを50万人以上が埋め尽くし、近づけなかった人たちは、ローマ市内の各広場で巨大スクリーンを見守るか、ホテルやローマ市民の家庭のテレビの前に陣取ったのでした。テレビ組を加えれば、ローマ市内だけで300万人以上が式の一部始終を見守ったものと思われます。

私も、神学生や司祭達の多くが朝早くから出掛けたにも関わらず、イスラエルの旅の疲れを理由に、怠けてテレビの前に陣取ったのでした。9時にテレビの前に行ったらもう中継は始まっていました。皆さんには、テレビの画面を自分のカメラで撮ったものから実況中継をしたいと思います。下は聖ペトロ広場の上空から。


 

10時ごろ教皇ベネディクト16世が待ちかねた広場の群衆の中にジープの上に立って現れると大きな歓声が上がりました。ジープはベンツの特別仕様。教皇はドイツ人ですから。

     

 

私が以前から拘っているセキュリティーの男たちは、この写真で切り取った範囲だけで14~15人、実はその前にも後にも数名ずつが付き、まさに物々しい警備振りでした。

そうかと思うと、天使の声のような高い澄んだ歌声を生み出す少年合唱団の姿もテレビ画面にちらりと映し出されました。

 

 

その歌声のあと、ローマ教区の教皇代理司教のバリーニ枢機卿が、教皇に向かって、列福されるべき前教皇の出生から教皇に選ばれるまでの生い立ち、経歴、教皇としての資質と業績など、やがて福者から聖人の位に挙げられるに相応しい人物であることを告げ、教皇の決断を求めました。教皇はそれを受けて、教皇の椅子に座ったまま、荘厳に故ヨハネ・パウロ2世教皇を福者として宣言しました。この、「教皇の椅子に座って」と言うところに深い意味があります。カトリック教会は、教皇が一定の形式のもとに、信仰と道徳に関わる事柄について公に宣言する時は、神の護りによって間違えることがない、と教義で定めているからです。その形式の部分として、この教皇の椅子に座って、つまり「聖座」から宣言することが不謬性の条件になるからです。

     

聖座から不謬権のもとに列福の宣言をする教皇          教皇に列福される前に教皇の生涯を述べる枢機卿


そして、その宣言が終わるやいなや、オーケストラと大コーラスの響きの中、聖ペトロ大聖堂の正面の幕が除かれ、教皇ヨハネ・パウロ2世の写真が現れました。

     

 

 

 

私は、自分の本「バンカー、そして神父」の中で、自分の生涯に3人の生きている聖人と握手し言葉を交わした、と書きましたが、一人目はカルカッタ(コルコタ)のマザー・テレサ、そして二人目がこのパパ・ボイティワでした。(3人目はまだ存命中なので名を伏せましょう。)

前教皇が列福されるためには、少なくとも一つの奇跡が必要でした。その奇跡の人がこの白い修道服のシスターです。彼女は最先端の現代医学が不治として見放した重篤な病から、ヨハネ・パウロ2世の執り成しで、瞬時に完全に回復したのだそうです。それは真面目な医学的検証と慎重な神学的考察の結果、超自然的な力の介入抜きにしては説明がつかないと結論づけられたものです。黒い修道服のシスターは、私の見間違えでなければ、前教皇の身辺を最後までお世話したシスターのはずです。そして、二人が運んでいるのは、今後聖遺物として崇敬を集める福者パパ・ボイティワの体から採取された血液をおさめた器です。

 

     

 

この後、教皇ベネチクト16世司式の荘厳ミサが、数10人の枢機卿、数100人の司教、そして数えきれない数の司祭達の共同司式で行われ、祭壇の奉仕のために、ローマのレデンプトーリスマーテル神学院から二人の助祭と、日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院(私が直接関与)からはベトナム人のヨーゼフ助祭が晴れの祭壇に仕えましました。尚、ヨーゼフ君は、先の田中裕人司祭とイタリア人のサムエル司祭のあとを受けて、元高松のレデンプトーリスマーテル神学院がローマに移転して以来3人目の司祭叙階をこの6月16日に受けることが決まっています。日本に派遣される宣教師が、こうしてローマで確実に増えていきつつあります。

なお、この列福式の参列者の中には、各国の代表や、イタリアのベルルスコーニ首相、前教皇の秘書だったスタニスラオ枢機卿、ポーランドの連帯労組のワレサ議長もすっかり白髪頭になって参列しているのがテレビに映っていました。ミサは12時半過ぎに無事に終わりましたが、その後晩遅くまで、聖ペトロ大聖堂の中では、この列福式に合わせて同聖堂の地下の土中に埋葬されていたパパ・ボイティワの棺が掘り出され、一般の崇敬を受けるために聖ペトロの墓に最も近い床に静かに安置されていました。今日午後だけで数10万人の巡礼者たちがその傍を祈りと執り成しを求めて静かに巡って行ったのでした。

   

教皇のものとしては、何とも質素な棺                 引きも切らさぬ長蛇の列

 

   

     スイス兵に守られて静かに眠る前教皇              7年ほどの時の流れで隅の木組みが緩んでいるのが分かる

 

2005年4月2日午後9時37分に、敗血性ショックにより死去したヨハネ・パウロ2世の最後の言葉はポーランド語で「父なる神のもとに行きたい」だったと報道されています。4月8日の葬儀の時棺を見送ったのが、当時のラッツィンガ-枢機卿(今の教皇ベネディクト16世)でした。下の右の写真は、史上空前の人出で埋め尽くされたその日の聖ペトロ広場周辺の景色。

 

    

 

今回はただ写真を並べるだけになってしまいました。パパ・ボイティワが史上稀な如何に偉大な人物であったか。彼の暗殺未遂事件の考察もまだ最後まで行っていません。近いうちにそれらのことをブログに書きたいと思っています。また、その前に、この度のイスラエルの旅の報告もいたしましょう。夜が更けました。では今夜はこの辺で・・・

 

 

 

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